目覚め
バルドルが遂に自覚しました。
ヴォルトライン領大森林での戦闘から一週間が経過した。それはつまり、フレイヤとバルドルが分かれてから同じだけの時間が経った事になる。
ナンナやバルドル、そして僅かに生き残った避難民と三番隊の団員達は、十数時間後に駆けつけた一番隊と四番隊の隊員達によって救助された。百名からいた三番隊で生き残ったのは僅かに八名、その他の仲間達は魔獣との戦闘で命を落としてしまったようだ。それでも、彼女らによって救われた避難民達は怪我人こそいたものの、一人の犠牲者も出ていない事が唯一の救いである。
だが、今もってバルドルの意識は戻っていない。
ナンナとバルドルの傷は決して浅いものではなかったが、戻ってすぐにスカディが治療に当たってくれた為、命に別条なく済んだのは幸運だったと言えるだろう。何しろ、つい先日までエッダ領に溢れていた、怪我や病気の回復力が格段に上昇していた現象が失われてしまっていたのだから。ただ、バルドルが目を覚まさないのは、肉体についての傷よりも魂そのものを大きく傷つけられた事によるものだと、スカディは語った。
窓越しに、しとしとと降り続く雨を眺めつつ、ウルは静かにバルドルの目覚めを待っている。その隣にいるのはナンナとフォルセティだ。怪我の具合で言えば、ナンナの方がバルドルよりも重傷だったせいか、彼女の怪我は一週間では完治せずフォルセティが生活を手伝っている状態だ。フォルセティも二番隊の活動から外れる事になってしまっているが、実は三番隊が壊滅した事で、エッダ騎士団は部隊の再編が余儀なくされてしまった。その為、各団員達は待機状態となっている。ある意味、不幸中の幸いと言ってもいいだろう。
コンコンとドアをノックする音がして、それから程なくして入ってきたのはバルドルの親友ヴァーリであった。ヴァーリも父オーディを手伝って、ヴォルトライン領壊滅の後始末に奔走していたので、この一週間バルドルの見舞いどころではなかったのだ。しかし今日ようやく、バルドルの元を訪れる事ができたのだった。
「……そうか。それで、その黒服の男はフレイヤ嬢を狙っていたと。そういう事か?」
「はい、奴はそう言っていました。私は団長が来てくれた時に、意識を失ってしまったのでその後何が起きたのかは解りません……」
ヴァーリが来たのは、単にバルドルの見舞いというだけではなかったらしい。眠っているバルドルを少しだけ心配そうに一瞥したあと、ヴァーリはナンナに事情を聴き始めた。そして、一頻りナンナから話を聞くと、ヴァーリは天を仰いで溜息を吐いた。
「やっぱ、詳しい事はコイツに聞かねーとだな……」
「スカディちゃん……あ、いや、治療してくれてる魔術師の子っスけど。その子によると、団長の怪我はもうほとんど完治してるらしいっス。……後は本人次第だって」
「待つしかねーって事か。もどかしいな」
ヴァーリはバルドルの親友である為、ウル達とも顔見知りではあるが、貴族としての地位はバルドルより高い公爵令息である。バルドルが起きて傍にいるのならともかく、今の状況だと、ウル達は下手に出る事しかできない。まぁ、ウルの話し方は誰に対してもこうなので、あまりへりくだっているようには見えないのだが。
そんなヴァーリは特にウル達の態度を気にすることなく、バルドルを見つめていた。ウル達とは違い、ヴァーリは黒衣の男が誰なのかを知っている。以前の騒動からずっと教団の影を追い続けているヴァーリにとって、ローゲの情報は喉から手が出る程に欲しい。もちろんバルドルやフレイヤの心配はしているが、それも含めた上で話を聞きたい。そう思っているのだ。
「しかし、フレイヤちゃんまでいなくなっちまってるなんて、何があったんだ。……バルドル、お前、いいのかよ?こんな時に寝たまんまで」
ヴァーリがボソリと呟いたそれは、長く友人として傍にいたからこその台詞である。バルドルがフレイヤの事をどう思っていたのかは、ヴァーリにはよく解っていた。金がなく、女心を読むのが苦手だと言っても、バルドルは女性を嫌っている訳ではない。これまではただ、バルドルに合う女性と出会っていなかっただけだ。惚れた女の危機を寝過ごすほど、バルドルは甲斐性なしではないとヴァーリは信じているのだった。
(フレイヤ……)
闇の底に沈んだ意識の中で、バルドルがフレイヤの名を呼んでいる。ロプトの策略によって、フレイヤの魂が離れていった時、バルドルはかつてないほどの喪失感を味わっていた。フレイヤと共に暮らすようになってから四カ月ほどが経ち、バルドルの中でフレイヤは魂で繋がっている稀有な存在だったのだ。そんな彼女が離れていったことに、バルドルは身を切るよりも辛い感覚を味わっていた。
(あの時、フレイヤは俺を助けようとして、自分から手を離したんだ。…情けない、俺にもっと力があれば……)
淀んだ泥のような暗闇に囚われたバルドルの中で、後悔だけが募っていく。どこへ行けばこの暗闇から抜け出せるのか?そもそも、今、自分の身体がどうなっているのかも解らない。まるで、鋼鉄の鎖で幾重にも縛られているような重さがバルドルを抑えつけていた。
(放せ…!俺は、俺は……フレイヤを、助けに行くんだ!このまま、こんな所で終わる訳には……っ!)
いつの間にか、闇は無数の手となってバルドルの身体を掴み、握っていた。どんなに暴れもがいても、その手は決して緩まない。何故ならそれは、バルドル自身の心が生み出した恐怖と諦めの形だからだ。成す術もなく敗れフレイヤを失った無力感が、バルドルの心を苛み、闇に捉えている。
そうして、気づけばバルドルの目の前に、もう一人のバルドルが現れ邪悪な笑みを浮かべていた。
「お……お前は!?俺、なのか?」
『いつまで無駄な努力を続けるつもりだ?どうせあんな女を助けに行った所で無駄だと、お前自身が解っているだろう。アイツはとっくに死んだ人間だ。お前がどれだけ血を流し、恐怖に立ち向かって救った所で、その先には何もない。死者と生者の間には、何も生まれない。抱き締める事すらできない女にすがって何になる?』
「うるさい!そんな事の為に……見返りが欲しくて俺はフレイヤを欲しているんじゃない!」
『いいや、違うね。お前は求めているんだよ、生きた人間の女はお前を認めようとしない。どれほどお前が高潔であろうとしても、金のあるなしでしか判断しない。そんな満たされない想いを、お前は死者の魂で誤魔化そうとしているだけさ』
「そんなもの、俺は……!」
『なら、どうしてお前の足は動こうとしない?何故お前は目覚めて立ち上がらないんだ?解っているだろう。ここはお前の心の中だと。お前が動けないのはお前自身が恐れているからだ。認めろよ、そして諦めてしまえ。そうすれば楽になれるぞ』
「くっ……!」
やるべき事は見えているのに、動く事が出来ない。それは誰にでもある葛藤だ。魂を引き裂かれる苦痛に恐れを感じるのは仕方のないことだと、目の前の自分はそう言っている。人は皆、そんな苦しみの中で生きている。バルドルはもがくのを止め、俯いてしまった。
『諦めたか。それでいいんだ、それで……なに!?』
「……諦める、ものか。絶対に、俺は行く!例えその先に、地獄の苦しみが待っているとしてもだっ!」
ゆっくりと一歩ずつ、バルドルは足を踏み出した。全身を覆う重さが、一歩進む度に重さを増してもそれでもなお、バルドルの足は止まらない。
『バカな!?何故だ?今度こそ死ぬかもしれないんだぞ!?仮にアイツを助けた所で、なにも……』
「そんなもの、構うものか!……惚れた女を助ける為に、命を懸けて何が悪い?そうだろう、お前だってそれを望んでいるはずだ。俺達は、同じ人間なんだからな」
バルドルがそう言い放つと、もう一人のバルドルは困ったような顔をして、少しだけ笑った。すると、あれだけ重く圧し掛かっていた圧力がほどけて消えていく。そして、闇が晴れた。他でもない自分自身が、それを望んでいたのだと気付いたのはそのすぐ後の事だった。
「それじゃ、俺は帰るぜ。バルドルが起きたらすぐに……っ!?」
ヴァーリがバルドルの寝室を出ようとしたちょうどその時、降り続いていた雨は止み、窓の向こうに広がる空から晴れ間が覗いた。差し込む光にあてられる中、ゆっくりとバルドルの目が開く。
「だ、団長!?」
「……皆、すまない。迷惑をかけたみたいだな」
そうしてベッドの上で起き上がるバルドルの瞳には、強い光が宿っているようだった。
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