最悪な敵
今までで最もくだらない敵が登場…!
夜が明けると、その日は生憎の空模様で、しとしとと弱い雨が降り続いていた。季節はもうすっかり春のはずなのだが、山間にある伽藍堂はビフレストよりも気温が低いようで、こうして雨が降ると肌寒さを感じる。幽霊が出るというにはピッタリな雰囲気と言えるだろう。
「少し冷えるな。すぐに出てきてくれるといいが……あ、いや、出て来ない方がいい。頼む、出て来ないでくれ…!」
バルドルは一人、玄関付近の植木に隠れて周囲を観察している。男の霊が出るという場所は、玄関付近や中庭、それに本館から風呂へと続く渡り廊下付近などに限られているらしいが、その付近というのが曲者だ。そのざっくりとした表現の通り、ここ!と確実に言える場所がないのである。
昨日はフレイヤが渡り廊下付近で見つけたので、宿屋の主人が言うルール通りなら、男の霊はこの玄関付近に現れるはずだ。ということで、ナンナが風呂に入り、フレイヤとフォルセティ、そしてバルドルが少しばらけて玄関付近を見張ることになった。もっとも、霊と出くわした所で、決定打を打てるのはバルドルだけである。そういう意味では、人海戦術も役に立たないので、バルドル達が不利と言えるだろう。
配置についてからに十分ほど経った頃、バルドルの視界の中で、ゆらりと草木が歪んだように見える瞬間があった。
「き、来たか?」
薄暗く濃い森の匂いが、雨によって更に強くなる。その間にもゆらぎは強くなって、やがてはっきりと目に見えるほどに景色が歪んだ。まるでその部分だけが滲んで溶けたかと思うと、まばたきほどの一瞬の内に男が現れた。
その男は、やや薄汚れた長髪を頭の上で団子にまとめた髪型をしている。顔つきはやつれていると言っていいほど痩せ気味で、目玉だけが爛々と光っているようだった。何よりも目立つ肌色は土気色そのもので、まさに死体が歩いているかのようだ。
「ピッ!」
バルドルのどこから出たのか解らない叫び声が、周囲に響く。フレイヤに初めて出会った時よりも恐怖してないように見えるのは、多少なりとも彼女との生活で耐性がついた証拠なのかもしれない。
「デッ、ででで…出たっ!?出たぞ、二人共」
今度大声で叫び、近くにいるフォルセティとフレイヤを呼んでバルドルは茂みから飛び出した。
「お、おい!そこの幽霊男っ!う、ううう動くな!」
バルドルがそう言うと、男の霊はその目に狂気を宿しながらギロリとバルドルを睨みつけた。ヒュッという息を呑む音がしてバルドルは震え、涙目になって声を失っている。ちょうどそこへフレイヤとフォルセティがやってきて、三人で男を包囲する形になった。
「団長、ご無事ですか!?」
「あ、やっぱりこの人よ!昨日私が見たのは」
「コイツが……!」
ちょうど三方向から男を囲む形となったが、油断は出来ない。今しがた何もない場所から現れたように、またフレイヤの前から忽然と消えてみせたように、この幽霊男は煙のように突如として消え去る事が出来るのだ。逃げられる前に決着をつけなくてはならないだろう。
そんな状況の中、幽霊男はバルドルを睨み続け、睨まれたバルドルはすっかり委縮してしまっていた。まさに蛇に睨まれた蛙のようだ。
「…………」
「は……い…お……な……!」
「話が通じるのか解らんが、一応聞いておいてやる!お前は一体何者だ?!何故この宿を狙う?……ですよね?団長!」
「……!」
(フォルさん凄いわね。なんであれで通じるのかしら)
声が出せないバルドルに替わってフォルセティが問い質し、バルドルは涙目で頷いている。そんな二人にフレイヤが感心していると、幽霊男はその目に怒りを滾らせ、大声を張り上げた。
「……ううう、羨ましい、妬ましい!生きている人間が!」
「本性を現したか…!」
「な、なんて強い負の想念なの!?恨みの波動だけで、草木が枯れ始めてる。一体どれほどの……」
「おお、俺は、俺はぁぁぁぁっ!うおおおっ!覗かせろ!風呂を!温泉を!裸を見せろオオオオオオッ!」
「……は?」
その瞬間、この場の空気がピタリと止まった。三人共、幽霊男の言葉が理解出来ずに呆然と立ち尽くしている。一方、呪詛を吐く幽霊男のテンションは更に上がって、恐ろしい声を吐き続けた。
「どいつもこいつも……!温泉に来ればきゃあきゃあと楽しそうにしやがって……!いいじゃないか、風呂を覗くくらい、俺にもその楽しさをおすそ分けしろよ。身体に触った訳じゃなし、開放的な気分になってるんだ。少しくらい見られたって逆にイイ気持ちになるだろうが…っ!それを……覗きくらいで大騒ぎ……!そのせいで俺は……!」
「え、何を言って……の、覗き?」
「そうだ!俺は生きている時、この宿の風呂を覗いた事を咎められ、追われて逃げた拍子に裏の滝つぼに落ちて死んだんだ!お前らが、お前らがちょっと黙っていればよかったものを……!」
「……徹頭徹尾自業自得じゃないかっ!?なんなんだお前は!」
あまりにもくだらない話だったせいか、怯えていたはずのバルドルは普通に復活して大声でツッコミを入れている。かたやフォルセティとフレイヤは呆れ返って口を閉ざしたままだ。
「うるさいっ!死んだ時、俺は決めたんだ!このままでは浮かばれない、どんな事をしても覗きを成功させてやると!それまで成仏なぞしないとなぁっ!」
「コイツ……!そんなに女湯が覗きたいなんて、どういう生き方をしてきたんだ?!」
「バカにするな!俺が覗くのは女湯だけじゃない、男湯もだっ!」
「最悪の変態じゃないかっ!?そんな目で見られるのはご免だが、男湯なら自分が入ればいいだろう?!」
「覗くという行為がイイんだよ!俺を変態扱いするなっ!」
「いや、余計にダメでしょ。なんなのこのヒト……」
「うるさいうるさいうるさいっ!俺のこの、熱く燃える情動を理解しないクズ共め!俺はちゃんと、ルールに則って覗きをやろうとしてきたのに!」
ルールというのは、日に一度現れて、少しずつ温泉に近づいていくアレだろう。そんなものはルールでもなんでもなく、ただ自分の欲求を高める為の設定にすぎないものだ。身勝手過ぎる男の言い分にバルドルは頭を抱えていた。
「頭が痛くなってきた……もう、さっさと浄化してしまう方が良さそうだ」
「じょ、浄化だと!?止めろ!俺はまだ何も成し遂げていない……!こんな、こんな所で消されてたまるかぁっ!!」
男が叫んだ途端、再び猛烈な負の感情が溢れ出し、そのまま周囲を覆い尽くすほどの闇へと変わっていった。バルドル達は闇に包まれ、闇が消えた後には、どこにも彼らの姿はなくなっていた。
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