遠くへ行きたい
メリル・タッカーの推理旅行は全て、同じ文で締めくくられています。
『「人間というのは、気にもとめてない相手の前に出る時、お洒落なんかしねぇもんだ」
「な、何が言いたい!?」
「……女将さんはアンタの事を、少なからず想ってたんじゃねぇかなぁってことさ」
「あ…!あああ、私は、私はなんてことをっ……!?」
番頭の男は慟哭し、その光る頭に負けない程輝く大粒の涙を流していた。全く、この世で一番怖いのは人の嫉妬心という事か。いや、それよりも恐ろしいのは私の頭脳かもしれない。何せ、日頃の忙しさから逃げるようにやってきたこの温泉宿で、愛憎渦巻く殺人事件に遭遇し見事それを解決してしまったのだから。……まぁ、それらは全て私の妄想な訳だが。
――メリル・タッカーの推理旅行、呪いの温泉宿編。 完』
「ふふ。あー、面白かった!これも読み終わっちゃったし、今度またスカディに別の本を貸してもらおうっと」
手にした本を閉じて、フレイヤは一人ニコニコと笑みを浮かべている。現在、フレイヤは空前の読書ブーム真っ最中である。というのも、幽霊であるフレイヤは基本的に本などの物質に干渉出来ないのだが、スカディは自らの魔術によって、幽霊でも手に取って読める本を作る事が出来るらしい。流石は本を統べる魔女を自称するだけあって、本に関しては万能な女性だ。フレイヤはそれを借りているのである。
これまでの人生(既に終わっているが)において、フレイヤはまともに娯楽書を読んだことが無かった人間だ。それは別に、バルドルのように本を買う経済的な余裕がなかったからではなく、日々の生活の忙しさで本を読む時間が取れなかったせいだった。
何しろ生前のフレイヤは公爵令嬢としてのマナーや常識を学ぶ授業と、それに茶会の出席に始まり、当時の婚約者であった王子との結婚に向け、日々妃教育などに追われていたのである。それに加えて、王立学園での勉学もこなさねばならなかった彼女には、到底、娯楽の為に本を読む時間など取れるはずもない。それも全て、公爵家の令嬢に生まれた者の務めだと、必死に努力していたのである。
だが、今となってはそんな時間的制約は全く無い。むしろ、幽霊になってからは夜に眠る事もなくなり、一人時間を持て余していたせいか、スカディがフレイヤにも触れられる本を貸してくれるようになってからは夢中で本を読み漁っているのだった。
スカディはスカディで、ウルの他にフレイヤという同性で本を語れる友達が出来たことを、何よりも喜んでいるようだ。フレイヤときたら、本を貸せば熱心に読んでくれて、またすぐさま感想を語り合えるのだから、本好きには最高の友人と言えるだろう。
そんな訳で、フレイヤはとにかく本の虫になっているというのが、ここ二週間程の話である。
「温泉宿かぁ……そう言えば、私って旅行した事無かったなぁ。実際にはこんな事件なんて起きない…のよね?」
フレイヤはそう独り言ちているが、それは当たり前だろう。誰かが旅行へ行く度に事件が起きていたら大問題だ。そもそも、メリル・タッカーの推理旅行は全て作者の勝手な妄想である。何も起きないからこそ、タッカーは脳内であれこれ騒動を起こしてはそれを解決していくのだ。
「温泉ってどんな感じなのかしら?家のお風呂との違いが解らないわ。バルドルは……きっと知らないわよね」
絵本すら買って貰えなかった貧乏貴族であるバルドルなのだから、当然温泉旅行などに行った事はないだろうとフレイヤは思っている。初めての事なら、一緒に行って経験してみたいなとフレイヤは考えたようだ。
「ふぅ、ただいま。フレイヤ、何か変わった事はあったか?」
ちょうどその時、外出から帰って来たバルドルがリビングに顔を出した。すっかり陽気は春そのもので、二人が出会った頃からすると外はずいぶん暖かくなってきたと感じる。既に一張羅のコートを着なくなったバルドルは、いつもの騎士団の隊服姿だ。たまには私服姿も見てみたいとフレイヤは思った。
「ええ、何も変わったことは無かったわ。ねぇ、それよりバル。温泉宿って行った事ないでしょう?行ってみたいと思わない?」
「オンセンヤド?……ああ、温泉宿か。いや、あるぞ」
「え?」
「家族で旅行というのはした事ないが、家を出て修行の旅をしている間は野宿だけでなく、立ち寄った街で住み込みの仕事をすることもあったからな。そういう時に利用させてもらった事がある。食事も賄い付きで、中々悪くない経験だったよ。でも、それがどうしたんだ?」
「……むぅ」
バルドルがまさかの温泉宿経験者だった事に、フレイヤは不満たらたらな様子だ。せっかくお互いに初めての体験が出来ると思ったのに、水の泡である。もっとも、幽霊であるフレイヤは風呂になど入れないので、あまり体験の共有とはいかないのだが。
アテが外れてすっかり拗ねてしまったフレイヤは、その後一日むくれていた。一方のバルドルは、何故フレイヤが怒っているのか解らず困惑した様子である。そんな二人の様子が変わったのは翌日のことだった。
「温泉宿泊券?当たったのか?」
「ええ、姉さんがくじ引きで……こういう物に関しては途轍もなく引きがいいですから、あの人」
そう言ってフォルセティが机の上に置いたのは、紛れもなく温泉宿の宿泊優待券だった。どうやら、先月頃に申請のあった新規宿泊施設のものらしい。ずいぶんと早く出来たものだとバルドルは優待券を見て思った。
「ふむ、まぁいいじゃないか。たまには姉弟水入らずで行ってくるといい。二~三日なら都合はつけられるぞ、最近はようやく出動要請も落ち着いてきたしな」
「いえ、この歳で姉弟二人の旅行というのは流石に……それでですね、差し支えなければ、団長とフレイヤさんも一緒に行きませんかとお誘いしたいのですが」
「俺とフレイヤを?」
「はい、この優待券一枚で四人まで泊まれるようですから。いつもお疲れの団長を労いたいと姉さんが」
「俺をか……うーん」
バルドルは腕を組んで、考え始めてしまった。労いたいと言ってくれるのはありがたいが、バルドル個人としては温泉旅行にあまり興味はない。絶対に行きたくないという訳でもないが、好んで行きたいとも思わないというのが正直な所だ。昨日フレイヤにはああ言ったが、実は旅行慣れしていないバルドルは、宿の至れり尽くせりというのがどうにも居心地が悪いらしい。
修行の旅に出ていた時はもっぱら野宿ばかりで、宿に泊まった回数はそう多くなかった。それらも路銀稼ぎのアルバイトのようなもので、三食賄い付きで働けて給料も出たから泊ったというのが理由のほとんどである。
とはいえ、せっかくナンナとフォルセティが誘ってくれているのに、無碍にするのも気が引ける。特にナンナはいつも厳しい態度で接してくる(照れ隠し)ので、歩み寄れるならそれに越したことはないのだ。
そんなバルドルの視界の端には、瞳をキラキラと輝かせたフレイヤの姿があった。フォルセティの話を聞いて、興味津々のようである。
(そう言えば、昨日温泉宿の話をしていたな……もしかして、フレイヤは温泉に行きたかったのか?よし)
「解った。じゃあ、お言葉に甘えよう。ただ、日程の調整をする必要があるから、数日待ってくれないか」
「はい!姉さんも喜びます、ありがとうございます!」
フォルセティは破顔してガッツポーズをしている。それは、フレイヤも同じであった。そんな二人を見ていると、休日に子供と出かける約束をした親のような気持になって、バルドルは苦笑しながらスケジュール帳を開くのだった。
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