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元あざらし男と僕

 海に帰ったのだと思っていた妻が帰宅して早々に、小瓶に入った謎の液体を突きつけて海と陸のどちらかを選べと迫ってきた。

 男は目を白黒させつつ、彼女の言葉がどういう意図で出てきたのかを考えた。

 妻は少しばかり言葉が足りないことがあった。彼女と同一の情報を持っていると思って、状況や言葉を省略してしまっているようだった。


「海と陸のどちらか、というのは……仕事をする場所かい?」

「いいえ、生きる場所よ! この薬は、セルキーが怪我をしてあざらしの皮が破れてしまった時に飲んで皮を修復するのだけど、『セルキーの子供』が飲むとセルキーになれることがあるの」

「……それを、ライルに飲ませる?」

「貴方が海を選ぶならね。あ、貴方も飲むのよ? 陸を選ぶか貴方がセルキーになれなかった場合は、私の皮は焼き捨てるから」


 私、生半可な覚悟で貴方の妻になったわけじゃないのよ。

 そう笑った彼女の美しい顔を、男は生涯忘れなかった。


 結果として、海を選んだ男は妻から渡された液体を飲んだがセルキーになることはできなかった。

 妻は結果がわかった途端、あざらしの皮を焼き捨てようとしたので慌てて止めた。

 彼女の気持ちは嬉しかったが、妻には元の家族がいるのだから、と説得した。渋々と焼くのをやめた彼女が言うには、子供たちは既に親離れをしているので心配はなく、セルキーの夫も自分のそばに縛りつけるようなことをする男ではない、と話した。

 それどころか、男とは交流を持ちたいと考えているとのことだった。

 破天荒気味な妻への愚痴に共感する相手として期待されているのかもしれない、と男は思った。


 それから数日は夫婦は穏やかに過ごしたが、突然血を吐いて妻が倒れた。

 それまで健康を体現したかのような者が吐血して意識を失ったので、男は真っ青になった。幸い、倒れて数時間後に妻は意識を取り戻した。


「セルキーは人間と短い時間しか過ごさず、その後は7年は人間に関わらない。私、ずっと用事が終わった後は単に興味が薄れるからだと思ってた」

「君は精霊のようなものだ。一度海に戻ったから、在り方を曲げてしまった影響なんだと思う。……きっとライルが7歳になる頃には、自分で海か陸かを選べるようになる。だから、君は海に戻るべきだ」


 夫と息子との別れを惜しみ、再会を約束した妻は再び海に帰った。




 人と交わることのできない、というのは「人間の姿で」という注釈が入ることを知ったのは、妻を海に帰してから3年後のことだった。

 あざらしからタラなどの魚を獲る漁師に転向していた男の乗る船に、1頭のあざらしが寄ってきた。あざらしは好奇心が強いことが多く、人間の乗る船にも近寄ってくることがある。男は魚が逃げないかと内心で焦りつつも見守っていた。

 寄ってきたあざらしが船に乗り上げ、男をじっと見つめていた。しばらく見つめたあと、あざらしは船から滑るように下り、泳ぎ去った。

 その時は、単純に泳ぎ疲れたあざらしが休憩に使ったのかと考えた。しかし、同じことが数日置きに繰り返され、何か人間への要求があるのだろうと考え始めた頃、泳いでくるあざらしが2頭になった。1頭が船に乗り上げると、そのままモゾモゾと動き、あざらしの皮を被った男の姿になった。

 彼は、妻の本来の夫だった。

 本来の夫が言うには、あざらしの姿で接触する分には接触期限が解除されていなくても良いとわかったので伝えにきたらしい。船の周りを泳ぎつつ、時折魚を船の中に放り込んでいるあざらしは妻であると聞き、男は闊達な姿に胸を撫で下ろした。


 セルキーの一家は、息子も交えて交流を持ちたいと男に依頼した。

 幼い人間の子供と接触する機会はほとんどないらしい。さらに人間の子供との接触を避けるように言われたことのある者とそうでない者がいるとのことで、何か理由があってのことかを知りたいようだった。

 息子に危害を加えるつもりはないようだったので男は承諾し、翌日浅瀬で会うことになった。

 セルキーの一家と父子は早々に打ち解け、日が暮れるまでともに過ごした。

 息子は始終きゃっきゃと笑っていた。


 セルキーの一家と別れた後、遊び疲れて眠ってしまった息子を背負った男は自宅に戻る途中で幾人かの知り合いとすれ違った。彼らは男が久方振りに笑っているところを見た、と安堵したように声を掛けた。

 妻が側にいないことは確かに寂しい。

 だが、息子は順調に育っているし、セルキーの一家と交流も持てた。側にはいないが、家族が増えたようで温かな気持ちになっていた。

 それが表情に出ていたのだろう。


 ところが、あざらし姿のセルキー達と会った翌日から息子の体調は徐々に悪化して行った。

 初めは疲労が残っているのだろうと男は考えたが、4日目には高熱を出したので、慌てて医者に診せた。医者の診断は肺炎だった。

 懸命の治療の甲斐あって、息子は一命を取り留めた。

 しかし、意識の戻った息子からはセルキーの一家と過ごした記憶は消えてしまっていた。



 

 ディランはカップに口をつけ、紅茶を飲み込んだ。

 僕もディランにならって、紅茶に口をつけた。すっかりぬるくなってしまった紅茶は、口の中で苦味を残していく。まるで、僕の内心のようだった。

 僕にはほとんどその時の記憶は残っていないが、父からは、肺炎になり死にかけたことがあったという話は聞いていた。ディランの話と、僕が肺炎になった時期は同じなので、整合性は取れている。

 だが、僕には彼の話をまだ受け入れられていなかった。

 母は僕や父に会いにきていて、父と良好な関係を築いていた。そう言われて、今まで感じていた蟠りを簡単に覆すことはできない。

 ディランは嘘をついていないと判断しているのに、感情はそれを認めようとしていなかった。


「お前が覚えていない以上、今抱いている感情を捨てろとは言わない。覚えていたとしても、同じ感情を持ったかもしれないしな」

「……覚えていたら、恨んだりしなかったかも」

「答えのでる仮定じゃないだろう? 覚えていたら、交流を続けなかった理由に納得できても余計に寂しく感じたかもしれない。もっと恨んだかもしれない」


 余計に寂しかったのかもしれない。もっと恨んだかもしれない。

 どれも仮定で、実際にそれを体験しなければ答えは出ないのだろう。

 僕は一つため息をついて、テーブルに置かれた小瓶に手を伸ばした。中の液体は無色で濁りもなかった。事前に劇薬だと言われていなければ、蓋を開けて舐めるくらいはしたかもしれない。

 

「そういえば、交流を続けなかった理由って何? 最低限の連絡はとってたみたいだけど……」

「セルキーって言っても、海の中にいる時は俺たちもあざらしと変わらない。どうも、人間が罹患するような病原菌を持ってるやつもいるみたいでな」

「は!?」


 ディランの言葉に、思わず後ずさる。ガタリと音を立てて、椅子ごと距離をとった。

 つまり、あざらしの姿で僕と遊んだら、肺炎の原因になるものを感染させた、ということじゃないのか。

 そして、父が患った肺の病の原因は目の前のあざらし男たちが原因の可能性があることに思い至った。


「お互いの知識を擦り合わせたら、大人でも体調崩すことがあるってのがわかったから、あの後はあざらし姿の時は直接接触しないようにした。でもそうすると、ちゃんと意思疎通ができないこともあってな。結局、交流したくてもうまい方法が思いつかなくて」

「手紙は? 読み書きができない訳じゃないよね?」

「海藻は配達してもらえないんだよ」


 少しずれた返答は、ディランの本気の答えだったのか、それともはぐらかしたのかはわからなかった。ただ、父の病気はセルキーとは無関係のものだったのだろうとは思った。

 手の中の小瓶を弄びながら、僕はディランを見つめる。

 この小瓶の中の液体を飲んだら、高確率で僕はセルキーになるのだという。母はセルキーで、父はセルキーのハーフなのだから、セルキーの血が濃い僕がセルキーに変じることはおかしくない。

 ふと、僕が仮に陸で生きることを選んだら、ディランはこれまで通りに僕の前に現れるのだろうか、と気になった。一度海に帰ると、次に会えるのは最短でも7年後になる。セルキーの寿命があざらしと同じなのか、人間と同じなのか。はたまた、精霊だから人間よりもはるかに長く生きられるのかはわからない。ただ、次は確約されないだろう。

 薄々兄弟だと察していた頃は、次を望んでなどいなかった。それなのに、はっきりと家族だと知った今は、次の約束が欲しくなっている。

 現金だな、と僕は苦笑した。


「決めたのか?」


 僕の様子から、決心がついたのだと察したディランが尋ねる。

 頷いた僕は、結論を口にした。




 僕は相変わらず、漁師を続けている。ディランと一緒に。

 陸で人間として生きることを選んだ僕は、セルキーになるという液体をディランに返した。やっぱり、と一言笑ったディランは僕の頭を撫でながら、夜が明けたら海に帰ると僕に告げた。

 しかし、ディランは海に帰らなかった。否、帰れなくなってしまった。


 隣家が放火され、それに巻き込まれて僕の自宅とともにディランのあざらしの皮も焼け落ちてしまったのだ。

 深夜まで両親の話をしていたこともあり、隣家に放火された時には僕もディランもすっかり寝入っていた。延焼していることに気付いた時には、かなり火が回っていて逃げ出すだけでお互い精一杯になっていた。そして、脱出してからディランの皮を置いてきたことに気付いた。

 慌てて取りに戻ろうとする僕を、ディランが羽交締めにして止めた。あの液体を飲むから、取りにもどらなくて良い、と。

 消火されてからわかったのは、隣家に火を放ったのは隣街町長の息子の仕業だった。姉のメリエルによって彼は逮捕目前の状態だったが、ディランへの報復のために部下に放火を指示したらしい。

 僕の家に直接火を放つのではなく、隣家にしたのは住人が長期間留守にしていることがわかっていたので対処が遅れることを見込んでのことだったらしい。警察に逮捕された後、放火の罪で再逮捕となった。

 事件後にディランは例の液体を飲んだが、焼け落ちたあざらしの皮は戻らなかった。

 「怪我をして、あざらしの皮が破れてしまった」場合に効果がでるのであって、焼けた皮は戻らない、と後から他のセルキーから聞かされたディランは蛙を轢き潰したような声をあげていた。

 しかし、海に帰れなくなったディランが落ち込んでいたのはわずか半日だった。彼曰く、人間の食事を好きなだけ弟と楽しめるようになったと考えれば、大きな問題はない、とのことだった。

 食欲に忠実すぎると言えば、母親似だから仕方ない、と返ってきた。




 ディランが頭領のもとから戻ってくると、僕に何か言いたそうな顔をしたまま口を開けたり閉じたりを繰り返した。

 きっとまた、頭領から縁談の話を聞かされてきたのだろう。

 ディランの前に麦酒(ビール)のはいったジョッキと彼の好物であるフィッシュアンドチップスを置いてやる。


「また、オヤジさんから縁談の話がきたの?」

「俺にじゃなくて、お前にな。その場で断ったって聞いたけど、説得してくれって」

「説得、ねぇ……」

「俺がいるせいなら、他のとこに家借りるぞ。相手はライルが『セルキーの子供』でも構わないそうだし、お前の好みそうな容姿・性格っぽい。せめて会ってみるだけでもしたらどうだ?」


 ディランにも度々縁談が持ち込まれていたが、海に帰れなくなってもセルキーであるディランは人間の女性と結婚はできないようだった。

 母が海に戻ってからすぐに父と会って死にかけたように、ディランも一晩以上は女性と一緒にいることができない。

 実際に一晩をともにした女性に翌日も近づこうとしたところ、酷い悪寒と高熱に見舞われていたので、セルキーとしての在り方に反するということなのだろう。

 対外的には僕が所帯を持つのを見届けたら、と言って縁談を躱している。

 僕にも時々縁談が持ち込まれるが、ディランに比べれば数は少ない。やはり「セルキーの子供」であることは大きい。

 それでもいい、と言う女性もいるにはいる。

 だが、いざ会ってみると本当はディランを狙っている、という女性ばかりだった。ディランが僕から離れて暮らすにしても、先のディランの性質を思えば、簡単に頷くことはできなかった。

 何より、ディランとの生活は居心地がよかった。父がいた頃のような安心感がある。

 

「ディランが結婚したら、考えるよ」

「……それ、結婚しないやつじゃないか」


 タラのフライに齧り付きながら、ディランはため息をついた。

 僕が結婚する気がないことを嘆きつつも、この人の好い兄はきっと最期までそばにいてくれるのだろう。


 それなら代わりに、僕は彼が好む「料理」をせっせと提供しようと思っている。


この話が最終話となります。

お気に召しましたら、「いいね」等の反応を頂けますと幸いです。


最後まで閲覧いただきまして、ありがとうございました。

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