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あざらし男が語るには

 女は海の中で暮らすセルキーとして生まれた。幼い頃は少しやんちゃで、同年代の子供たちと海の中を泳ぎ回り、よく食べよく笑った。年頃になると、豊かな長い髪と女らしい丸みを帯びた肢体は男たちを虜にした。

 しかし、彼女の性格は幼い頃から大きく変わることはなく、好奇心に満ち、行動力に溢れていた。年頃になってもよく食べよく笑うことは変わらず、その好奇心はやがて陸に向いた。

 彼女は同年代の男たちから求婚されるようになった。だが、彼女の目にはどの男も大して魅力があるようには映らなかった。愛を請う歌に見向きもしない女に、男たちは焦れていった。時には、力づくで彼女を伴侶にしようとする者もいたが、全て返り討ちにした。


 腕っ節も陸への好奇心も強い彼女に、群れのリーダーから人間の動向を探る仕事が斡旋された。

 人間の中にはあざらしを狩って生計を立てるものがいる。セルキーは海の中ではあざらしの姿を取っているため誤って狩られてしまうことがある。だが、それを咎めるつもりはなかった。

 とはいえ、危険に晒されていることには変わりないので、人間社会の動向を把握し、あざらし漁が盛んになるようであれば人間から距離を取れるようにする。それが目的だった。

 彼女は喜んでその仕事を引き受けた。そして、初めて陸に上がり人間の営みを知った彼女は魅了された。


 人間の作る「料理」に。


 幼い頃から食べることが好きだった彼女は、人間社会の動向を探る傍ら、人間が作る料理を食べられるだけ食べた。

 特にフィッシュ・アンド・チップスは、食べ慣れた魚とは思えない食感と味に感動するほどだった。

 調査を終え海に帰る頃には、体型に明らかな変化が出るほど夢中になっていた。

 調査に行くたび変貌して帰ってくる彼女に、段々と求愛する男も減っていった。それでも変わらずに愛の歌を捧げ、伴侶に、と求める男もいた。

 最初は魅力を感じていなかった女も、重ねて愛を請われれば絆される。幼い頃から共に遊び彼女の食べ過ぎによる変貌すらも笑って受け入れる幼馴染みの男と婚姻を結ぶことにした。愛を交わし、子を生み育てた。

 娘を2人、息子を1人得たあと、彼女はまた人間の動向を知るための調査へと向かった。




 男は海辺の街で生まれ育った人間とセルキーの間に生まれた子供だった。彼の母親は漁師と結婚したが、早々に嵐で夫を失ってしまった。再びの縁談もあったが、彼女は偶然出会った美しい男と関係を持ち、身籠った。それが男だった。

 母と関係を持った美しい男は、翌朝には消えており、その後誰も見かけなかったため、セルキーだったに違いないと言われた。それを証拠付けるように男の手足には小さいが水かきがついていた。

 異種族と交わる者は往々にして存在していたが、社会がそれを積極的に受け入れていた訳ではなかった。不貞ではなかったものの、母子と街の人間との間には、大きく距離ができていた。


 男が成人する頃には、母は風邪をこじらせて亡くなった。運良く男はあざらし漁の頭領に見込まれ、漁に加えてもらった。個人漁が基本だが、獲ったあざらしを卸すのには頭領を通さなければいけなかった。

 あざらしを獲って皮を剥いで鞣す。肉を削ぎ、脂を加工して卸す。そんな毎日を繰り返した。

 他の漁仲間のように所帯を持つことに憧れを抱いた事もあったが、「セルキーの子供」だと知ると街の娘たちは離れていく。水かきを傷つけてしまい手足が不自由になった「セルキーの子供」が、いつの間にか街から姿を消す。既に親もない自分もいずれは人知れず野垂れ死ぬのだろうか、と暗澹とした気持ちになっていた。


 ある風の強い日、男は卸すためのあざらしの皮が浜辺に落ちているのを見つけた。見覚えのない皮だったが、男の仲間の誰かが狩ったものかと思い、拾って丘の上にある小屋へと持っていった。

 他の皮と同じように畳んでいると、他のあざらし皮よりも2回りほど小さいことに気付いた。商品にはならないかもしれないと思い、次回商人に卸す皮とは別にしておいた。

 街に戻り露店屋台でパイを買うと、後ろから若い女に声を掛けられた。それの具は何か、と。

 振り向いて彼女の容姿を目にして、男は自分が一目で深く惹かれたことを自覚した。

 眩いまでの金髪に、透き通るような白い肌。少し厚いが形の良い唇は赤く、何よりも晴れた穏やかな海を思わせる碧い瞳が、キラキラと好奇心に輝いていた。

 奔る鼓動を抑えながら男が羊肉のミートパイだと答えると、彼女はなるほど、と呟いたあと礼を言って同じものを買い求め、去っていった。その姿を見送った男は、彼女とまた会えたら良いのに、と思った。




「こうして、お前の両親は出会ったんだ」

「……ご飯大好きのくだりは要らないと思ってたけど、それが出会いのきっかけとか思わなかった」

「親父とメリエルは、大爆笑してたぜ。お袋らしいって」

「セルキーの中で有名な笑い話なのかよ?!」

「いや、メリエルは俺たちの姉だから。ライルのことは甥とか息子くらいに思ってそうだけど」


 次から次へと、母の家族構成が明らかになっていく。

 そして、僕は父も「セルキーの子供」だったということを初めて知った。僕の記憶の中にある父の手は大きくて温かかったが、水かきがあったことは記憶に残っていない。

 それをディランに言うと、僕のようにはっきりわかるほどの水かきがある方が珍しく、まして感覚まであるのはかなりのレアケースらしい。僕の血がかなりセルキーに近い証左だそうだ。


「出会いのきっかけはともかく、お前の父親は母に好感を持って再会を願った。それは、時間を置かずに叶った」




 日が暮れて来ると、風はかなり強くなり、嵐が近いことは誰の目にも明らかだった。

 あざらし漁に使う舟は、大人1人が乗るだけでいっぱいになってしまうような小舟だ。嵐で飛ばされないように、男は浜辺にいくつかある横穴に仕舞うことにした。

 横穴に舟を仕舞い浜辺に戻ると、露店屋台で出会った美女がウロウロと何かを探すように彷徨っていた。顔色が悪く、大事なものを失くしたのだろうと察したが、如何せん嵐が近づいてきていた。潮も満ち始め、波がかなり近くなっていた。


「お嬢さん、捜し物ですか?」

「貴方は……」

「嵐が来るし、潮も満ち始めてる。危ないから、嵐が去った後に探した方が良い」


 男に言われて初めて気付いたのか、美女は足元にまで届く波に驚いていた。しばらく逡巡して、諦めたようにため息をついた。

 美女は男に宿はないか、と聞いた。この街の者ではないため夜を越す場所がない、と言われて街の宿屋を紹介することになった。

 しかし、いざ宿屋に着くと既に満室になっていた。朝から風が強かったため、昼過ぎには大事をとった商人や旅人が部屋を取っていたのだそうだ。他の宿も似たような状態の上、女が1人で宿に泊まるには少しばかり男が多すぎると言われた。部屋が融通できても、男と相部屋になると言われれば、引き下がるほかなかった。

 男の知り合いには女性が安心して夜を明かせる場所を提供できそうな者はおらず、仕方なく男の自宅に彼女を泊めることになった。


 嵐の後も彼女は男の元から去ることはなかった。

 彼女の探し物が見つからなかったためだ。男も協力を申し出たが、美女は「泊めてくれるだけでもありがたい。食事も用意してもらえている。これ以上は甘えられない」と固辞した。

 あっという間にひと月が経った。同じ屋根の下で寝食を共にしていれば、仲も深まる。

 いつしか美女は捜し物をしなくなり、男の妻と呼ばれても否定することなくむしろ肯定するようになった。

 程なくして、夫婦の間に男児が産まれた。

 男児の手足には、父親よりも目立つはっきりとした水かきがあった。それを見て、ようやく男は自分の妻がセルキーであることに気付いた。


 気付いてしまえば、妻の言動が違って見えるようになった。

 男児の育児の傍ら、妻は時折、海を眺めた。出産前にも時折見せていたが、その時は海が好きなのだとしか思っていなかった。

 だが、今は海が恋しいだけでなく、きっと残してきた彼女の家族を思っているのだろう。

 妻は愛おしそうに己の息子を育てるが、成長の遅さを心配した。

 セルキーの育児期間はあざらしに近いのではないか、と仲間たちと話した事があった。

 あざらしであればおおよそ3週間だ。対して人間の子供は乳離れするには半年程掛かるし、ある程度自分の事ができるようになるには年単位の時間が必要になる。

 男はそれとなく人間の子育てについて「周囲からこんな話を聞いた」という体で美女に伝えた。話を聞くうちに、彼女も成長が遅いわけではなく時間が掛かるものだと認識していった。

 息子の首が座り離乳食を食べられるようになると、妻は子供を連れて海に散歩に行くようになった。

 海に焦がれた視線を送る彼女の慰めになればと思っていた男は、それを歓迎した。

 ある日、波間に立つ彼女の傍らに、彼女に似た少年とその少年の家族と思しき男女の姿を男は見つけた。妻の、セルキーの本来の家族だと、思った。妻と笑いあい、息子を楽しげにあやす彼らを見て、男は衝撃と恐怖を覚えた。


 妻との関係はこの2年程の間に築いたものだ。男と彼女のそれよりも、彼女の本来の家族との関係の方が深いとしても、驚くものではない。彼女の本来の家族からしてみれば、男は妻を、母を奪った存在だ。

 好意的に見られなくとも仕方のないことだが、息子を好意的に受け入れているように見えた。生まれてきた子に罪はない、という考えだろうか。それとも、彼らにとっては混ざった血統であってもセルキーであれば、受け入れられるのだろうか。


 男は悩んだ。

 自分が見た光景を妻に問うべきか否か。それとも、知らないふりを続けるべきなのか。

 明らかに深い悩みに苛まれている夫を気遣う妻に、苛立ちから彼女を否定するようなことを口にするようになった。その度に真っ青になって謝罪し、妻はそれを受け入れてきた。それさえも、男の悩みを深めていく。

 彼女と彼女の家族に嫉妬し、息子を奪われる、と勝手に怯えて彼女を傷つけている。今はまだ謝罪を受け入れてもらえているが、そう遠くないうちに言葉だけでなく手もあげてしまうように思った。だから妻とは距離を取らなければならないと彼は信じた。


 諦めてしまった彼女の探し物を彼女に渡すことを決意した。

 彼女が探していた物について名言されたことはなかったが、今の男には彼女が何を探していたのか、心あたりがあった。

 男がかつて拾ったあざらしの皮は、今も売り物と区別して保管していた。彼女のものであれば、妻を海に返すことができる。

 息子と別れる選択肢を突きつけることになるが、彼女は元の家族と過ごすことができる。息子が3つか4つ頃になれば、自分から海に出向くようにもなる。その時に息子とは会えるようになるだろう。

 そう考えた男は、翌日にあざらしの皮を妻の目にとまりやすい場所に置き、彼女が海に帰るきっかけを与えた。




「それで、母さんは海に帰ったんだね」

「『あざらし妻』の伝承通りの関係なら、そうなる」

「父さんは母さんに罪悪感を持ったから、海に帰すことにした。家族がいることも知っていたから、あざらし漁をやめた。……だけど、僕の記憶の有無は関係なさそうな気がする」

「伝承通りの関係なら、と言っただろう? 妻を傷つけることに恐怖して、妻の安全のために実家に帰そうとする夫が伝承通りの夫婦関係になっているわけがない。このあと、まだ続きがあるんだ」


 ディランが苦笑して言う。確かに、僕がまだ赤ん坊の頃の話で、覚えているわけないだろうと思っていたので、続きはあるのだろう。

 僕とディランの前のカップに新しい紅茶が継ぎたされた。

 まだまだ話は続くようだ。




 男が漁から自宅に戻ると、息子がベビーベッドの中ですやすやと眠っていた。しかし妻の姿はなく、出かける前に置いておいたあざらしの皮がなくなっていた。

 やはり彼女のものだったのか。

 海に帰っただろう妻とはもうきっと会うことはできないだろう。ベビーベッドに近づき、男は息子の眠る姿を眺めた。彼女と過ごした幸せだった日々が脳裏に浮かび、涙が一筋こぼれた。

 これから、1人で息子を守り育てて行かねばならない。だから、涙を流すのは今日だけにしよう。

 男は涙を流しながら、決意を新たにした。

 

 息子の世話をしているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだった。ソファに沈み込むようにして眠っていた男の体には毛布がかけられていた。

 胃が空っぽだったことを思い出させる、コンソメの匂いが鼻腔をくすぐった。

 夜漁から戻った時に妻がよく用意してくれていたスープの匂いだと思った。


「おはよう。ライルのお世話、ありがとう」

「……あ、うん。え、いや、でもなんで」

「急いだのよ、これでも。でも、ジジ…んんっ、お爺様ったら、なかなかお願いを聞いてくれなくて、遅くなってしまって。いきなりいなくなって、ごめんなさいね」


 にっこりと笑みを浮かべてスープをカップに入れて渡してきた妻に驚きつつ、海に帰ったのではないのか、と男は尋ねた。

 妻は男の質問には答えず、スープをまずは飲んで、と微笑むばかりだった。

 指示通りに彼女の作ってくれたスープを飲むと、腹の奥がじんわりと温まった。疲労の溜まっていた体に染み入るような感覚に、小さく息を吐いた。

 男がスープを飲むのを見つめていた女は、つけていたエプロンのポケットから小さな小瓶を取り出した。中には液体が入っているようだった。


「急いで、これを取りに行っていたの。ねぇ、あなた。海と陸、どちらがいい?」


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