あざらし男の目的
ディランの安全を誓えるなら、自分をどのように扱ってもいい。
そう宣言した僕を、商人の男は面白そうに見下ろした。右手の水かきに触れていた尖った何かは相変わらずだったが、それでもすぐに僕の右手を壊す気はなくなったようだった。
「セルキーを諦めろ、ねぇ」
「あんたにとっては女を横取りしようとした憎い男かもしれないけど、さっきのは正当防衛だろう。手を出さなければ、進んであんたの敵になる男じゃない」
「そうかもな。けどなぁ? こっちもそれなりに痛手喰らわされてるからなぁ」
「僕を代わりに商品にするんだったら、それだけで報復になる。……そう考えたから、僕にセルキーを売るか自分が身代わりになるかを聞いたんだろ」
「……それじゃあ、溜飲が下がらないっつったら?」
「セルキーにするつもりだった暴力も何もかも、僕が引き受ける。あんたの溜飲が下がるまで、全て」
器用に片眉だけをあげた男の視線は面白がるようなものから、不気味なものを見るような視線に変わる。男からしてみれば、「たかが顔見知り」のために自分を安売りしているように見えているだろう。
僕は自暴自棄になっているわけではない。
ただ僕は誰かと生きることを選べない。
「セルキーの子供」ということで選ばれること自体が少ないが、それでも皆無だったわけではない。だが、どうしても考えてしまう。この人はいつまで僕のそばにいてくれるのだろうか、と。
母は物心がつく前に僕と父の前から姿を消した。セルキーだったので、海に帰ったのだろう。何も告げずに僕たちを置いて海に帰るほどには、不本意な婚姻だった、ということだ。
父は一度も母を悪く言うことはなかった。海に帰った彼女や彼女の家族を思って、生業まで変えてしまった。そして、僕が独りでもなんとかやっていけそうになる頃に、肺を病んでこの世を去った。
父の同僚が引き取る、と申し出てくれたのを断ったのは、独りでも生きていけると思ったからではある。
だが、それ以上に誰かと生きることが怖かった。たった数年でも、「誰かの家族」になって、その後、独りに戻ることに耐えられないと怯えるほどに。
そんな恐怖を抱えていた僕の内側にディランは入り込んできた。
はっきりと確認したことはない。同じ色の瞳を持っていることから、種違いの兄弟なのだろうとは察している。けれど、種族が違う。家族として生きることは最初からない相手だ。
だから、安心できた。
ディランには自分を置いていってもらわなければならない。そのためなら、命をかけることに否やはない。
「それでも条件を呑めないっていうなら……差し違えてでも、諦めさせる」
「……決めた。お前の死体とあざらしの剥製でセルキーにしてやろう」
僕の命懸けの脅しに腹を立てたのか、それとも理解できない言動をする不気味な僕を生きた「商品」として扱いたくなかったのか。
男は凶悪な笑みを浮かべて、「尖った何か」を僕の水かきに貫通させた。裂けた皮膚から溢れた赤い血が手首を通って、腕を流れていく。
灼熱のような激痛が頭や掌にあった痛みを塗り替えていくのを歯を食いしばって耐える。
一度でも痛みに声をあげれば、動けなくなってしまいそうだった。
その時、頭上から影が差し込んだ。
「てめえの体で作れよ、クソ野郎が」
差し込んだ影に気づくのが遅れた男の体は、勢いよく吹き飛び棚に突っ込んでいった。
男を一撃で沈めたのは、見知らぬ美しい女性だった。少し乱れた黒髪を軽く手櫛で漉いた後、彼女は僕の右手からそっと尖った何かーー釘を抜いた。
「指、動かせるかい?」
「あ、はい……動きます……」
「そうかい。こんな怪我して潰れずにすむなんて、アンタ運がいいね」
痛みの影響もあったが、突然変わった状況を飲み込めない。あまりの驚きで、問われたことの意味も考えずにそのまま答えてしまう。
女性は僕の上体を起こすと、頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
にっかりと笑って見せたあと、彼女は完全に伸びてしまった男を肩に担ぎ上げて、どこかへと行ってしまった。
入れ違いに、ディランが物置に入ってきた。
「ライル、無事だったか?!」
僕の傷を見て、真っ青になったディランが慌てて駆け寄ってくる。手が動かなくなることはなさそうだと答えると、少し安堵したようだった。
ふわりとあざらしの皮をかけられ、ディランが僕を横抱きにした。あちこち痛むので、大人しくしていたが、大柄ではないにしても成人した男が横抱きにされて羞恥を感じないというわけにはいかない。
「皮、見つかってよかったね」
「探す時間、作ってくれたからな。……時間稼ぎとはいえ、あんな挑発よくないぞ」
「いや、ディランが来てたのは知らなかった。僕、床に転がってたし」
「……手当終わったら説教な」
半眼になったディランがまったく、と小さく呟く。
偶然とはいえ、僕は五体満足のままだし、ディランも無事に海に帰ることができそうだ。命を賭けたにしては十分満足できる結果だろう。
ディランに抱きかかえられながら、僕達は家に戻ってきた。
家に着いてすぐにあの黒髪の女性がディランを訪ねてきたので、僕に家の中にいるようにいいおいて、彼女と外に出て行った。
僕に聞かれたくないことがあるらしい。だが、話の内容はおそらく今夜のことをどう収拾をつけるのか、ということだと予想がついていた。僕も当事者なのに。
僕が窓をそっと開けたことには気づかず、真面目な顔で二人は会話を続けていた。
「官憲があの男を逮捕するように手を回しておいた。とはいえ、『子供』を含めてかなり犠牲になっているようで、私はそちらを追うことになったよ」
「セルキーはともかく、『子供』も?」
「足の水かきを傷つければ、逃げられることはない。手の水かきなら、抵抗を封じられる。動かなくなった手足を本物のあざらしのヒレと挿げ替えれば、あざらし人間の出来上がり、というわけさ。私らよりも扱い易いのだろうさ」
「……俺も何発か殴っておけばよかった……」
「アンタはダメだ。……それより、あの坊やだ。ディラン、まだ伝えてないのかい?」
「このあと、話すつもりだ」
バツが悪そうにディランが返し、頭を乱暴にかきむしる。
坊や、というのは多分ぼくのことなのだろう。だが、「坊や」と称されるほど幼い見目はしていないはずだ。納得がいかないと思っていると、聞こえてきたディランの言葉に背筋がぞわりとした。
母親の話をして本当に良いのか迷っている。
セルキーの母は父と僕をおいて、海に帰った。
子供に会いに戻ってくるあざらし妻の話は聞いたことがある。だが、僕の母はそういうタイプではなかったらしく、姿を消したあとは一度として僕たちの前に姿を現したことはない。
僕の記憶の中に母との思い出はほとんど残っていない。抱かれた腕の体温とか、優しく歌われる子守唄の歌声とかがかろうじて残っている程度で、それももうほとんど思い出すことはない。
そんな遠い関係の女性について、ディランは何を話そうというのか。
腹の奥が熱くなって、胸から喉へと何かがせり上がってくる。
ふざけるな、という言葉を喉元でなんとか押し留めるために奥歯を噛み締めた。
自分がこれほどの怒りを抱いていたことに今更気づく。
母のことを思い出すことはほとんどなかった。父がいたから寂しさを感じることも少なかった。独りになっても、周囲に恵まれていたから孤立もしなかった。
父があざらしをとるのをやめて、魚をとるようになった理由も理解して、応援したというのに。
今の今まで、自分で制御できないほどの怒りを持っているなど気づいていなかった。
「父親と自分を捨てて出て行った女の遺言は、聞きたくないんじゃないか、と……」
「……捨てて、ね。だけどあれは、円満な別れだろう?」
「ライルは知らないみたいだ。……だから、迷うんじゃないか」
「アンタが前回、ちゃんと話さなかったのが悪いんだよ」
黒髪の女性が、大きくため息を吐いた。僕が開けた窓に近づいてきたので、咄嗟に窓の下に身を隠す。
彼らの話を聞く限り、僕だけが知らない事情がいくつもあって、ディランはそれを説明するために上陸してきたのだとわかる。けれど、僕の感情は怒りも驚きも全部がグチャグチャに混ざっていて、とてもではないけど冷静ではない。自分の感情に混乱している自分を見られたくなかった。
窓枠の下に隠れた僕の襟首を、窓の外からのびた白い腕が掴んだ。
それに気づいた時には、僕の体は窓から放り出されて宙を舞っていた。幸い、窓は大人が二人ほどは一緒に通れる程度に大きなものだったからなんともなかったが。
真っ青になったディランが放り出された僕を受け止め、黒髪の女性に向かって怒鳴った。
だが、それを彼女は鼻で笑う。
「話もしないでぐちゃぐちゃと怖がりやがって! ディランはさっさと話して、恨み言でも聞いてやりな。坊やもいい子にしてないで怒って泣いて気持ちに区切りをつけるんだ。まったく、大人になったのは図体だけかい」
僕もディランも、まとめて叱った彼女に僕たちは渋々ながらも頷くことになった。
黒髪の女性・メリエルを見送った僕たちは、向かい合って席についた。お互いの前にはカップが置かれ、湯気の立つ紅茶が淹れられている。飲み物を飲んで、感情を落ち着かせようとしたが、期待していたほどの効果はなかった。
お互いにどう切り出すかを探りあっている中、先に覚悟が決まったのはディランだった。
ぽつり、ぽつりとディランが話し始める。
「ライルは気づいていると思うが……俺たちは兄弟だ」
僕が頷いたのを確認したディランは言葉を続けた。
「お前の母は俺の母でもある。俺が兄、ライルは弟、ということになる。……先ずは、俺が陸に上がった理由から伝えておく。7年前、初めてお前と会った時は、お前の父が亡くなったことを知ったからだ」
「……やっぱりそうだったんだ。初めて会った時から僕に両親がいないことを知ってるような言動してたから」
「あの時に、本当は伝える予定だったんだが……変態と間違われたショックで伝え忘れてしまった」
「今回も全裸で僕の前に現れたよね?」
よよよ、と泣くふりをしたディランを半眼で問い返す。ショックなどと言っているが、大して気にしていないだろう、と。
本当は、僕の様子を見て伝えることを止めたんだろう、と僕は思っている。
あの頃の僕は父を喪ったことから表面上は立ち直っていたけれど、内心では独りになることを恐れていた。今でもそれは変わらないが、交流を避けている節があった。
それを感じたから、ディランは何も言わずに帰ったのだろう。
前回が父の死がきっかけだというなら、今回のきっかけはおそらく。
「今回の目的だ。母が亡くなった。遺言を預かっている」
やはり、と思った。
母が亡くなっただけなら、きっとディランは僕を訪ねることはなかっただろう。
先ほど、あれほど「父子を捨てて出ていった母を恨んでいるかも」と心配していた。
いや、もしかしたら、僕がずっと自覚していなかっただけでディランには見える形で母を恨んでいるような言動をとっていたのかもしれない。自分の母親でもあるのだ。悪く言われていれば、居心地が悪かったことだろう。
残された言葉の内容が僕を心配したり幸せを願うようなものなら、余計に伝えるのを躊躇していた可能性もある。
「……7年前に会ったお前の様子を知ってから、ずっとお前を残して海に帰ったことを悔やんでいた。十分に話し合った結果だったとはいえ、寂しい思いをさせてしまったと。だから、お前が望むなら俺たちの群れに迎えたいとのことだ。これには俺の親父をはじめ他のセルキー達も了承している」
テーブルの上に液体の入った小瓶をおいたディランが、じっと僕の顔を見つめている。
僕の回答を待っているような表情をしている。
だが、僕の頭の中ではディランの言葉がぐるぐると繰り返されていた。
群れに迎え入れる? 他のセルキーも了承済みで??
僕は「セルキーの子供」ではあるが、セルキーじゃない。海の中で生活できるような機能はない……はずだ。確かに水かきはあるし泳げもするが、冷たい海の水に長時間耐えることはできないし、数十分も潜り続けることもできない。まして、あざらしの皮もない。
つまり、セルキーの生き方である、あざらしと同じ生活は送れない。
「もしかして、その液体? を飲むと、セルキーになる……の?」
「そうだ。ただ、この液体は劇薬でもある。『セルキーの子供』なら誰でも効くわけじゃない」
「……僕なら効く可能性があるってこと、なんだね」
「ライルなら、絶対効く」
「絶対……」
どんどんとわからなくなってくる。
母が父が亡くなったあとの僕の状態を知って、後悔したことはわかった。その埋め合わせなのか、彼女の価値観でいう幸せだと思う生活ができるように準備をしたこともわかった。
僕が望めば、としているから僕が陸で暮らしていくことを否定しない、ということだろう。
だが、なぜ僕だったら、その劇薬が絶対効くのか。なぜ、僕をあざらしにすることが幸せだと思うのか。
まさか、セルキーの価値観ではあざらしとして生きるのが幸せ、ということか?
「今出てる情報だけじゃ、判断できないか?」
「……できるわけない」
「あぁ、やっぱりお前、記憶なくなってるのか。そんな気はしてたんだが」
「え、記憶をなくしてる? 僕が?」
「そう。記憶があったら、その反応にはならない」
ディランが苦笑を浮かべる。
彼の中では辻褄のあう事実が見えたようだが、僕にはさっぱり見えてこない。
「今から話すのは、ライルの両親がどうやって出会って、別れるに至ったのかだ」
そう前置きして、ディランは僕の両親の馴れ初めを話し始めた。