あざらし男を狙った企て
物語の都合上、暴力表現、流血表現があります。
どこかで男女が言い争う声がしている。
ズキズキとした頭の痛みで意識を取り戻した僕は、痛みに耐えながら視線を巡らせた。暗くて薄っすらとしか見えない視界に入ってくるのは、根菜が覗く木箱や棚に並ぶ酒瓶だ。
体全体から感じる木の板の感触と少しの埃っぽさで、床に転がっているのだと気付いた。
手足はそれぞれ縛られているのか、思ったようには動かせない。特に右手はうずくような痛みとベタつく何かのせいで、拳を作ることすら辛い。
段々と意識がはっきりとしてくるが、痛みが続いているせいで聞こえてくる言い争いの内容が、頭に入ってこない。
「だいたい! あざらしの毛皮くらいで、アタシの男になれるわけないじゃないっ!!」
「毛皮だけじゃない! 高価なジュエリーだって、ドレスだって、たっぷり買ってやったじゃないか」
「当たり前でしょ?! あんたみたいな、金と権力しか取り柄のない芋男と話すのに、そのくらいの報酬がなきゃやってらんないわよ!!」
「……何だと、このアバズレが!」
醜い罵り合いは、痴話喧嘩のようだ。
男の声は聞き覚えがあるのかわからなかったが、女の方には聞き覚えがあった。
そう、確か「バー・アルバ」でディランの右隣にいた女の声だ。
声は2人分しかなく、他の誰かがいる気配もなかった。
床に転がされているのは自分1人だけのようだった。視界に入った物や、手足に触れる物との距離から物置のような場所だとあたりをつけた。
ディランの姿を探すが、見える範囲にはいない。大きな空間ではないので、彼はここにはいないのだろう。ならば彼はどうなったのか。
目が覚めた時から続く頭痛に眉をしかめながら、物置に転がされた経緯を思い出すことにした。
ディランに手を引かれて家に帰る途中、後ろから声を掛けられた。
粗野で、傲慢さが滲み出ていたその声掛けに不機嫌そうにディランが振り返ると、3人の男がニヤニヤと僕たちを見ていた。
「さっきの、見てたぜ。両手に花だったじゃねぇか、色男」
「でもいけねぇなぁ? 人の彼女に色目使ったらよぉ」
下卑た嗤いを隠さずに、左右の男達がディランに難癖をつけた。
あの場にいたらディランが色目を使ったのではなく、「彼女」の方が色目を使った挙げ句にフラれたことは一目瞭然だった。だからこそ、この物言いは完全に難癖だ。
「俺から色目を使ったように見えたなら、視力か頭に問題があるな。2人とも、医者に掛かった方がいい」
ディランが鼻で笑って嫌味を返す。
そのまま、僕を庇うように前に出た。僕よりもディランの方が背が高く、体もゴツいのですっかり後ろに隠れてしまう。
煽られたと気付いた男2人が、瞬時に顔を真っ赤にした。だが、飛び出そうとするのを中央の男が抑えた。
2人よりもいい身なりをして、他人を従えるのが当然だという態度をしたその男は、ニヤニヤとした笑みをすっかり消してディランを睨みつけた。
「色目を使ってないって割には、彼女の周りをウロチョロしてたじゃねぇか。何か気になることでもあんのかい?」
「捜し物をしててね。俺が失くした物にそっくりのものを彼女が持ってるって聞いたから、確かめたかったんだ」
ディランの言葉に、一瞬男が目を開く。そして、何が可笑しかったのか、突然笑い出した。
ひとしきり笑った男は、少し息を整えた後、ニタリと笑った。
「なるほど、アンタがあの毛皮の中身だったのか」
「ディランっ!!」
慌ててディランの腕を引く。
いつの間にか、近くの路地から角材を持った男達が現れ、ディランめがけてそれを振り下ろした。
左腕でそれを受け止めたディランは、空いた右の拳を殴りかかってきた男に叩き込む。ぐ、と呻いた後殴られた男が地に倒れ伏す。
僕の方にも殴りかかって来るので、避けつつ足払いをかけて転ばせる。残念ながら僕の攻撃力は、気絶させたりできるほどの威力を持たない。せいぜい、動きを鈍らせる程度でしかないので、基本戦術は逃げるしかない。
気付けば、ディランと僕との間には十数歩分の距離ができていた。
「ちょこまか、しやがって……!!」
攻撃を避けつつ、ディランの様子を伺う。
ディランに叩き折られたのか、短くなった角材を捨ててナイフを構えた襲撃者の姿が目に入った。
咄嗟にディランと襲撃者の間に体を滑り込ませ、ディランの顔目掛けて突き上げようとしていたナイフに手を伸ばした。
掌に燃える様な痛みと、手の甲から生えた血に濡れた刃に、悲鳴を上げそうになるのを飲み込む。邪魔をされたことに驚愕を隠せていない目の前の男の腹目掛けて、全力で足を蹴り入れた。
男が吹っ飛んだのを確認し、ディランの無事を確かめる為に振り返った。
ゴッ!
鈍い音のあと、後頭部に鈍痛が奔る。
視界の端で、あの笑っていた男が血の付いた拳大の石を放り投げていた。
意識が闇の中に落ちていく中、ディランが僕を呼ぶ声が耳に残った。
意識を失う前の記憶ではディランには怪我はなさそうだったが、その後に危害を加えられていないとは限らない。本人が昔言っていたように腕っぷしは強いのだろうが、荒事に慣れていると思えるような男たちに囲まれて、無事でいるとも思えない。
半分ほど開いたままになっていた扉の向こうから、互いを罵る男女の声が相変わらず続いている。もしかしたら、そちらの部屋にディランもいるのかもしれないが、まったく話題に出てこないまま2人の声が響く。
彼は無事に逃げられたのだろうか。それとも……?
「隣町で大きい顔できてんのは、アンタの父親が町長だからじゃない! パパの力がなきゃ、毛皮販売だって希少生物販売だって利益なんか出せないくせに!!」
「若さだけが取り柄の尻軽女に商売の何がわかるんだ?! まともに女給もできない、男に跨ることしか能がないくせによ! 俺が買い与えたもんがなきゃ、辻に立つくらいしか出来ねぇだろ!!」
ドン、と壁が衝撃に震え、半開きだった扉が動いてそれまで見えなかった隣の部屋の様子が視界に入ってきた。
壁にもたれかかってぐったりと座り込んでいる、派手で胸元の露出が多めの服を着た女を血走った目で見下ろしている男がそこにいた。
やはり、女の方は「バー・アルバ」でディランの右隣にいた娘だった。その娘を見下ろしているのは、僕たちを襲撃してきた男だ。
それまで2人が言い争っていた内容と出来事、そしてこれまでに見聞きした噂が僕の脳内で一直線に繋がり、心臓が早鐘を打ち始める。
僕がこれまでに聞いたことのある噂では、隣町の町長の息子はあざらしの毛皮を扱う商人らしい。だが、彼は商いのやり方が荒っぽいらしく、あまりうまくいっていないことも併せて伝えられている。最近は正規の仕入れを行うことも少ない上に、扱う商品も「人魚のヒレ」や「首無騎士の鎧」といったフリークショーの一部のようなものになっているとか。
そのフリークショーのグッズになるようなものを仕入れる場所というのが、例の「逢引きに使われる横穴」付近らしい。漁師仲間だけでなく僕も1度だけだが、「仕入れ」をしに来ているだろう彼の部下を目にしたことがあった。それがさらにいかがわしい商品を扱っているという噂に信憑性を持たせていた。
今夜聞いたばかりの「バー・アルバの女給に入れ込んでいる」という噂。入れ込んでいる女給が彼女のことなのだろう。
おそらく、ディランのあざらしの皮を持ち去ったのは彼か彼の部下だろう。それを彼女に貢物として渡した。だが、彼女はそれを受け取っておきながら、ディランと関係を持とうとした。
その一部始終を見ていた男に嫉妬を向けられ、そして襲撃された時の会話からディランがセルキーだと、彼女に渡したあざらしの皮がディランのものだと判断して、ディラン自身を商品にしようとした。
だが、ここにディランの姿はない。最悪を考えるなら、ディランはどこか別の場所に捕らわれている、ということになる。その場合、ディランの救出が必須になるが、僕1人で彼を助け出せるのかが最大の難関だろう。
ここであの男を倒してディランの居場所を突き止めたとしても、そこから彼を救い出すためには多勢と対峙する必要がある。正直、僕は腕が立つとは言い難い。策が必要になる。
あの男を人質にして、交換を求めるか? 人質としての価値はあるのだろうか。彼の部下は彼を慕っているというよりは、彼がもたらす利益を慕っているような噂の方が多かったが。
それとも彼女を人質にして、あの男にディランとの交換を認めさせるか? 否、今これだけ激しく罵りあっていたのだ。時間を置いたら変わるかもしれないが、今このタイミングではその交渉が成り立つとは思えない。
「おい、見てただろう」
思考に没頭していた僕の目の前に、男の足が現れる。男がいつの間にか僕のそばにまで移動していたことに、声をかけられて気づく。
しゃがんで僕の顔を覗き込んだ男には、彼女と相対していた時のような激昂は見えない。
「お前と一緒にいたセルキー野郎を呼び出したいんだがな。どういう関係だ」
「……ただの、顔見知りだ」
「セルキーを名前呼びできる奴が顔見知りってことはない。人間は当然だが、『セルキーの子供』にだって名前を教えたりしない」
「本当に、ただの顔見知りだ」
「……なるほど。お前、あのセルキーの身内か。あざらし妻は子供に会いに戻ることがある、というからな」
男がにやりと嫌な笑みを浮かべて、僕の前髪を掴んで顔を上げさせる。
男の瞳に、母譲りの晴れた日の海のような色をした目をした僕の姿が映り込んでいた。
僕の容姿からセルキーを思わせる特徴は、手足の指にある水かきだ。だが、それ以外でセルキーと関係があると思わせるものがある。目の色だ。ディランも同じ目の色をしており、本人が言うには、多少の違いはあるが「海を思わせる碧」はセルキーに多い色だという。だが、この色はセルキーにも多いが人間にだってそれなりにいる。
今夜は一緒に行動するにあたって父の遠縁だとしたが、セルキー特有の美貌に遮られたのか同じ色の目だと気づいた者はいなかった。父の目は茶色だったから、気づかれれば嘘はすぐに露見したことだろう。
「確か、水かきを傷つけるとうまく動かせなくなる、だったか……?」
男の視線が縛られている右手に向かったのを見て、背筋に氷塊が落ちたような感覚を覚えた。掴まれていた前髪を強い力で引っ張られ、床板に顔が打ち付けられる。
一瞬、視界が真っ白になった直後、激痛で感覚が戻ってくる。頭を押さえつけられたまま、右手を無理やり引き上げられた。
僕はまだ水かきに怪我をしたことがない。幼い頃から父に気をつけるように言われてきたこともあるし、ディランと初めて会った時に大事にするように言われたことから怪我をすることを避けていたからだが、それ以上に「水かき」自体に触覚があることに気づいていた。皮膚部分かその中かは定かではないが、神経があるなら痛覚も感じるだろう。
しかも、指先よりも幾らか感覚が鋭敏なようだった。鋭敏、と言うことはそれだけ神経が多く通っている。
水かきに怪我をして手が動かなくなってしまった「セルキーの子供」に話を聞いたことがある。僕と同じように指先や手のひらよりも水かきの周辺の感覚が鋭敏で、怪我をした当時は痛みで頭が焼けつくかと思ったらしい。
僕の推測だが、おそらく「セルキーの子供」は水かきにも集中して神経が通っている。だから怪我をするとその神経を痛めてしまい、動かすことができなくなってしまうのだろう。
その仮説を立ててから、僕やまだ手足を動かすことができる「セルキーの子供」はそれまで以上に怪我をしないように気をつけて生きるようになった。
僕たちは動けなくなったら、養ってくれる家族がいない限り生きていくことができないから。
引き上げられた右手の水かきにヒヤリとした感触が触れる。何かの金属、それも尖った物が触れている。
ピリピリとした痛み未満の感覚が走る。
「ライル、だったか。お前、セルキー野郎を呼び出す囮になるか、このまま手足を潰されて、紳士淑女どもに売られるのと、どっちがいい」
熱のない口調で男が尋ねる。
無理やり引き上げられた手のせいで、両肩に負荷がかかる。体中に痛みがあり、だんだん思考が鈍ってくる。
ディランを呼び出す、ということは彼は捕まってはいない、ということだ。それなら僕が「商品」になれば、ディランから手を引くかもしれない。僕の行方がわからなくなってしまえば、元から人間に積極的に関わる目的のないディランの安全は図れるようになる可能性が高い。
「セルキーを諦めろ。それが守られるなら、売るなり素材にするなり好きにしたらいい」
ディランに危害が加えられないなら、僕は自分の人生を重視しない。
どうせ、独りで長く生きるつもりはないのだから。