あざらし男との邂逅
足の裏が、焼かれたように熱くて痛い。
それでも地面を蹴る足を止めることはできない。追われているから。少し遠くから、怒りに満ちた男の声が聞こえる。
両手に抱えた少し生臭い海獣の皮をぎゅっと抱きしめ、浜辺から続く丘の上にポツンと建っている小屋に僕は駆け込んだ。
皮を床に放り投げて、力いっぱい扉を閉めた。そして、机や椅子、子供の力でも動かせる小さな棚でバリケードを作る。
小屋の扉が強い力で叩かれる。何度も、壊そうとするように。
扉の前で、男が叫んでいる。
恐怖に耐えるように、床に放り出していた海獣の毛皮を拾って抱きしめる。
「ちくしょう! 開けろ、ガキっ!」
扉を壊されませんように、と願いながら僕の意識はだんだんと遠のいて行った。
僕には親がいない。
2ヶ月前に、漁師だった父は肺を病んで逝ってしまった。
物心ついた頃から僕は父と2人で暮らしていた。
だから、母がどんな人かは伝聞でしか知らない。父が言うには、母はとても美しい人で、髪は海から覗く朝日のように眩しく、瞳は晴れた日の海のように碧いらしい。
美しい母は、父と出会い僕を産んだあと、時折焦がれるように海を眺めていた、という。
ある日突然現れ、海に焦がれて、唐突に消えてしまった母のことを、街の人たちは「あざらし妻だったのだろう」と言っていた。
僕の手足の指の間には立派な水かきもあり、それも母が「あざらし妻」と呼ばれる一因のようだった。
生前の父は、僕を膝に乗せて「水かきを切ってはいけないよ」と言い聞かせていた。
僕の住む地域には古くから「セルキー族」という海中に住む妖精のような種族がいるのだそうだ。海の中ではあざらしの姿をとり、陸に上がる時には人間の姿になるという。人の姿になった彼らは皆、素晴らしい美貌を持ち、目を合わせればたちまち虜になってしまう、という。彼らとの間に生まれた子供は、手足に水かきを持ち、それを損なうと歩行ができなくなったり、物を持つことができなくなってしまうらしい。
母に出会う前はあざらしを狩って生計を立てていたという父は、母がセルキーだと確信してからは、魚を獲っていくことにした。母の家族を誤って殺してしまうのを避けたのだと思う。
家には数枚のあざらしの皮が残っていたが、父が亡くなってから生きていくために、手放すことにした。幸い、昔父と一緒に漁をしていた人たちがあざらし皮のなめし方などを教えてくれたため、今はその手伝いをして食い繋いでいる。
なめした皮は薬剤の塗布と乾燥を繰り返して仕上げていくのだが、今日は風が強く何枚か浜辺の方へと飛んでしまった。僕は慌てて浜辺に落ちたあざらしの皮を拾っていた。
子供の背丈2人分はある毛皮なので、1枚でもそれなりに重い。
4枚目の毛皮を拾い上げると、下に灰色の少し小さなあざらしの毛皮があることに気づいた。
陽が落ちかかっていたにもかかわらず、その海獣の皮はほんのりと温かかく、模様も違っており、自分が落としてしまった皮ではないようだった。
少し待っていたら、落とし主が現れるだろうか?
僕はあざらしの皮を持って周囲をキョロキョロと見渡した。
その時だ。
浜辺のそばにある岩場から1人の男が姿を現した。
「こんにちは。君はこの辺りに住んでいる子か? 今君が手にしている毛皮だが」
輝く朝日のような金髪、うっすらと薔薇色に染まる白い肌。くっきりとした目鼻立ちは精悍さを感じさせた。厚い筋肉に覆われた肩、腕、胸。固く6つに割れた腹筋。
美丈夫と評せる彼を街の娘たちが見たなら、きっと黄色い声をあげていたはずだ。
声も優しげで、僕を怖がらせないようにしていることがわかった。
だが、彼の全身を視界に納めた僕の顔は引き攣った笑みを浮かべていたに違いない。
その時、脳裏によぎっていたのは、周囲の大人達に幼い頃からいい含められた言葉だった。
「変質者に出会ったら、ともかく逃げろ」
彼は、何も身に纏っていなかった。
たくましい腕も、白くてすらりとした足も、多分立派な男の象徴も、全てを晒していた。
瞬時に踵を返して、全力で駆け出した。
突然逃げ去ろうとする僕に、待て、と彼の声がかかるが振り返ることができなかった。
北に位置するこの地域は、水温が常時低いため、海の中に必要以上に露出して入ることはない。街で一番体が丈夫だと言われている漁師だって、上下を着て海に入る。
それに彼は濡れていなかった。暖をとっていた様子もない。となれば、あの格好は望んでしていると考えるべきだ。
唐突に岩場の陰から全裸で現れた不審者から逃れなくてはならない。
「こらっ! 俺の皮を返せ!!」
優しげだった声は、焦りと怒りの滲んだ恐ろしい男の声に変わっていた。
そうして、浜辺から続く丘の上の作業小屋に逃げ込んで籠城を決め込んだ僕は、疲れのあまり気絶するように寝入ってしまった。
十分に睡眠をとって回復した体が、空腹を訴えたことで目が覚めた。
僕の体は4枚のあざらしの皮でぐるぐるに巻かれ、誰かに抱き抱えられている。
「目が覚めたか、ガキ」
後ろから顎をすくいあげられ、僕を抱き抱えていた人物へ顔を向けられる。
深い深い海のような緑の目と見覚えのある美しい顔が、つまらなさそうに僕を見ている。
多少寝ぼけていた頭が急速に回りはじめて、自分の置かれた状況を把握して、喉の奥から小さな悲鳴が溢れた。
僕を抱き抱えていたのは、あの全裸の男だった。今は、腰に灰色のあざらしの皮を巻いており、全裸ではなかった。
手足は拘束こそされていなかったが、皮の上から腹に回された腕は強く、この男から離れることはできなさそうだった。
「まったく…いきなり人様の皮を持ち逃げしようだなんて、とんでもないな」
ニヤリと妖しい笑みを浮かべた男は、僕の顔を上向かせたまま、がぶり、と僕の鼻に噛みついた。
「いたっ!!?」
痛みは確かにあるのだけど、食いちぎられる、というほどではない。甘噛み、という物だろうか。
目を白黒させていると、口を離した男は顎から手を離してぎゅうと僕の鼻をつまんだ。
「お前の父は、人様の物を勝手に持ち去った場合になんというか教えていないのか?」
「ご、ごふぇんなはい……?」
「ふ、知ってるじゃないか」
僕の鼻から指を離して、よしよし、と頭を撫でてきた。それを受けつつ、この謎だらけの男に僕は懐かしさをなぜか感じていた。
フッディーと名乗った男は、いつの間にか買ってきていたミンスパイを腹を鳴かせたままの僕に手渡してきた。
彼の方はチップスを口の中に放り込みながら、久しぶりにこれらのスナックを食べるためにやってきた、と話し出した。
「皮を干している間に、うっかり寝てしまってな。目が覚めて、皮を探したらお前が持っていて、どこかにいってしまいそうだったから慌てて声をかけたんだ。そしたら、俺を見るなり、お前は真っ青になって逃げ出したもんだから、すわ盗みの現行犯かと思って追いかけた。盗むつもりがなかったなら、どうして逃げたんだ?」
「全裸の男が物陰から出てきたら、逃げるもんだよ。……露出狂に追いかけられたのかと思って、怖かった」
露出狂、とショックを受けたようにフッディーが呟く。自分が変質者と思われる要素があるとは全く思っていなかったようだ。
改めて見ると、彼は美男子だ。ただ立っているだけでも、数分で街のお姉様方に囲まれることだろう。
「……脱いだ皮を腰に巻いたが、それもダメか?」
「うん。やめた方がいいと思う。……追い剥ぎにでもあったの?」
フッディーはもしかしたら、お坊ちゃんなのかもしれない。
そうでなければ、わざわざ「スナックを食べるため」に遠いところからやってくるなど普通はしない。そもそもスナックは手軽に食べられる料理で、上流階級にいるような人が好んで食べるようなものではないはずだ。上流階級のお坊ちゃんのお忍びと考えれば、さほどおかしくはない……かもしれない。
服もきっとお忍びに見えるようシンプルなものを着ていたが上等な品だと気づかれて、巻き上げられてしまったんだろう。
「海賊などに遅れをとったりはしない。俺は、仲間の中でも速く泳ぐし腕っぷしもあるからな!」
「海賊……?」
僕の知る限り、海賊が出るのはもう少し沖合のはずだ。フッディーの言葉がよくわからず首を傾げていると、彼は僕の口元についたパイを拭った。
「お前はセルキーのことを聞いたことはないのか? この手や足であれば、1度や2度は聞いたことがあるだろうに」
フッディーが油でギトつく手で僕の手の水かきをなでる。そこには大事なものがあり、慈しんでいるような仕草だった。その割には汚れることへの頓着はないようで、水かきを含めて手がベタベタしていく。
セルキー族のことはもちろん何度も聞いたことがある。だが、それとこの目の前の美丈夫とどう繋がるのかわからず、僕はじっとフッディーの顔を見上げた。
こうしていれば、フッディーが正解を教えてくれるのではないかと思った。
「……まあ、子供には早いか。そのうち、お前にもわかるだろうさ」
小さくため息をついたフッディーは僕の頭に軽く手を置いた。誤魔化すようなその行動に僕はムッとしたけれど、彼には答える気がないようで食べ終わったミンスパイとチップスが入っていた袋をぐしゃぐしゃと丸めていた。
窓の外の空が目に入った。紺青に瞬く星が散らばっていた。
すっかり夜半に差し掛かってしまっていたようだ。
「ここがお前の家ではないんだろう? 送ってやる。こんな夜中に子供を1人で帰らせたら、お前の養い親が困ってしまうだろう」
「家に帰っても1人だから、気にしなくていいよ。それより、フッディーの宿はいいの?」
「一晩くらい野宿したところで大したことはないさ。だが、そうか…1人か」
父が亡くなった時に、父の昔仲間からは面倒をみてもいいと言われていた。けれど、あと3年もすれば15歳になり、成人と見做される。父が残した家があれば、僕1人が食い繋ぐことは子供であってもなんとかできると思い、辞退した。
それに、記憶には残っていないが両親と過ごした家から離れるのは寂しかった。
小屋の外に出ると、フッディーによって破壊された扉の残骸が散乱していた。
じろりと彼を睨むと、下手な鼻歌を歌いながら街の方へと向かっていく。
大きなため息をついて、彼についていくことにした。
僕の家につくとフッディーは興味深そうに家の中を見渡した。そこに残る何かを探しているようで、宝探しでもしているように終始楽しそうにしていた。
大して広い家ではないので、すぐに見終わるだろうと思っていたが、これはなんだ、あれはどう使う、というフッディーの質問に答えているうちに、だんだんと眠気が襲ってきた。
いくら腹がくちていたとしても昼寝もしたのに、と歯痒く思っていると、暖かい手が頭を撫でる。
「……独りじゃ寂しいだろうに、意地っ張りめ」
撫でる手の心地よさに、瞼が自然に閉じてしまう。力をこめているつもりでも、接着剤で貼り付けられたようだった。
椅子に座っていた体が、ふわりと浮かぶ。フッディーに抱き上げられたのだとわかった。
ぎしり、と彼が歩を進めるたびに、床板が軋んだ。
背中に少し固い布の感触がして、寝台に寝かされた。あまりにも強烈な眠気が瞼を押し上げることを拒否しようとしている。
「フッディー……まって……」
「今日は会えてよかった。元気でな、ライル」
僕の頭に手ではない何かが触れた。
床板が軋む音につづいて、扉の開閉する音を溶けていく意識の中で聞いた。
日が昇ってから目覚めた僕は、フッディーの行方を探した。
しかし、街の人間は誰も彼のことを知らなかったし、壊されていたはずの小屋の扉も、何事もなかったかのように取り付けられていた。
いくら探しても彼の痕跡はなく、いつしか不思議な男のことは記憶の底に仕舞い込んで思い出すこともなくなっていた。
数年して、僕は成人した。その頃には彼がセルキー族であることはわかっていたし、本当は気まぐれに人族をからかいに海から上がってきたのだろうこともわかっていた。
偶然にも僕にあざらしの皮を持ち去られ、海に帰れなくなることを恐れて追いかけてきた。取り返した頃には、日が落ちてしまったので仕方なく哀れな子供を構うことにした。そういうことだったのだろう。
時折街では、セルキーがやってきた、と言われるような事件が起きた。父親のわからない子供がうまれたり、突然現れて消える嫁がいたり、という事件が。
そんな時だけ、僕はフッディーにかけられた「子供にはまだ早い」という言葉を思い出す。確かに成人していない子供には、ちょっと刺激の強い話だったな、と苦笑する。
人と過ごしたセルキーは、しばらくはやってこないようで、話に聞くセルキーと思しき美貌の人たちはバラバラの特徴を持っていた。
「聞きたいことがあったんだけどなぁ……」
漁師になった僕は、海にでた際にあざらしの営巣を見るたびに、あざらし姿を知らないにもかかわらず、フッディーはいないかと目で追っていた。
去り際に彼が「ライル」と僕の名を呼んだ理由を知りたかった。
思い当たる理由は1つある。
だが、仮にそれが正しいとしても僕がセルキーになれる訳でもない。
漁で使った網を持って丘の上にある小屋へと運ぶ。湿った空気と強くなりつつある風が、その遠くないうちに海が時化ることを教えてくれる。
ふと、時化の間、セルキーはどうしているのだろうかと不思議に思った。案外、営巣であざらしたちと一緒に身を寄せ合っていたりするのかもしれない。
あざらしから見ると人気のない容姿だという話も聞くので、ちょっと遠巻きにされている可能性もある。
脳裏に「ひそひそと遠巻きにされる顔だけ出したあざらしの着ぐるみを着た美人」の姿が浮かび、つい吹き出してしまった。もしセルキー族に会うことができたなら、これも聞いてみたいところだ。
もっとも、この地域にいるあざらしは獰猛なのでその中に混ざっているセルキー達も侮辱されたと殴りかかってくるかもしれないので、相手を選ばなければならないだろうが。
網を片付け、小屋から出ようとしたところで、扉のすぐ近くに人がいることに気づく。
複数の漁師が共同で使っているので、他の船の者かと視線をめぐらせた。
瞬時に7年前、まだ僕が成人前の子供の頃に出会った男のことを思い出した。
輝く朝日のような金髪、うっすらと薔薇色に染まる白い肌。
くっきりとした目鼻立ちは精悍さを感じさせた。厚い筋肉に覆われた肩、腕、胸。固く6つに割れた腹筋。記憶の中にあるままの美しい顔。
そして、何も纏っていない、全裸の男。
「こんにちは。君はこの辺りに住んでいるのか? ……何か纏うものを貸して欲しい」
あんぐりと口を開けて彼の顔を凝視したあと、小屋の中に置きっぱなしになっていたあざらしの皮を彼に投げつけた。