子孫への置手紙『三河物語』で書けなかった話
皆さんこんにちは。大久保忠教です。
『大久保忠教って誰?』
と思われている方。多い事かと思われます。
『大久保彦左衛門』
の方が通りが良いのかもしれません?えぇ。時代について行く事が出来ず。過去の栄光をひけらかせた老害としてお馴染み。
『三河物語』の大久保彦左衛門忠教に御座います。
さて今回私は、戦国時代並びに江戸時代に入ってから書かれました文書や手紙に記す事が出来なかった。許されなかった事柄を当人を交えて紐解いてみようでは無いか……。そのように考えております。
その1回目。語り手は私、大久保彦左衛門であります。私に対し世間が期待する事となりますと当然。
『徳川家康』
になるかと思われます。
そうですね……。
『鳥居強右衛門』
をご存知の方。多い事かと思われます。そう。武田勝頼に城を囲まれ、苦境に立たされた長篠城から岡崎に居る徳川家康と織田信長に援軍を依頼。快諾を得るも帰り道で捕まり、武田の兵により城の前に引き出されるも
『援軍が来るぞ!!』
と自らの命を投げ打って味方を鼓舞した。
あの鳥居強右衛門であります。
ただ彼って、奥平の直臣ではありませんでした。奥平の家臣の家臣。陪臣でありました。普通、使者に選ばれる人物はそれなりの身分の者。相手側が見て即わかる人物が選出されるのでありますが、何故か長篠城から派遣されたのは陪臣の鳥居強右衛門であります。
何故か?
それは、皆が皆。使者になる事に難色を示したからであります。
何故か?
勿論、武田勝頼により厳重に包囲。攻撃されていたため、脱出する事が難しかった。これは事実であります。しかし現実には陪臣に過ぎない。直臣よりも城並びに城周辺を熟知する事が出来ていないハズの鳥居強右衛門が包囲をかいくぐる事が出来た。と言う事は、直臣が出来ないわけでは無かった。
にもかかわらず誰も手を挙げる事はありませんでした。
何故か?
それは1年前のあの出来事が影を落としていたのでありました。
-続きは9月27日火曜日の12時-