2-7「黒い噂(1)」
「…………くろい、うわさ……」
投げた言葉に彼女が止まる。
工房ビスティーのカウンター口、エリックとの間は人2人分。
先ほどまで、軽やかに動かしていた手を止めて。
小物を宙に持ち上げたまま、彼女はぽそりと呟いていた。
その探すような、確かめるような口調に、エリックの静かな視線が降り注ぐ。
楽しく穏やかな空気が一変、店内の空気が淀み重くなったのを感じながら、彼女は
すぅ────……っと静かに、まぶたを落とし
くるりと彼に向き直り
カウンターに背を預け
左肘を右手で掴みながら
口を、開いた。
「────まあ、仮にあったとして……
お外に話せないよね、そんなこと」
言いながらミリアは静かに首を振った。
その声色は、至極まじめ。
彼を否定するわけでも、拒否するわけでもないトーン。
彼女は、肘を掴んだ右手を隠すように
腕を組みながら
エリックを一瞥すると、
「噂はうわさじゃん? 確証も何もないでしょ?
うちも、信用でやってるから。
例えばそのお客様が、ウチでしか話してないとして、噂が広まったら?
うちの信用ガタ落ちじゃない?
……そんなことできない。
……根も葉もない噂話を、裏も取らずに広げるなんて無責任なこと、できないよね〜……」
「………………」
答える彼女の、その後ろ。
積み重なった糸や布が
やけに大きく、重く、存在を主張する中。
ミリアは言葉を続けた。
「聞いてる分には、聞くよ。それも仕事だから。
でも、それを他に流すかと言ったら別問題。
お兄さんが言った『どこどこのお坊ちゃんが婚約した』とかなんとか言う話も、公に出るまでは言わない。
信用にかかわるから、やらないのがベストだよね」
「…………確かに、そうだな」
彼女の言い分に、エリックは重々しく頷き、そっと息を逃がしていた。
店の糸や、彼の背後
トルソーに飾られたドレスたちが2人を見守る中。
彼の中、じんわりと湧き出すのは…………
『罪悪感』だ。
別にこういうことが初めてだというわけではない。
スパイ行為をする以上、相手に不利益をもたらすのは当たり前のことである。
しかし、彼の罪悪感の正体は、そこではなかった。
ミリアが、思ったよりしっかりしていたこと。
彼女はきちんと『店を守る』ことも考えながら会話としていたということ。
そして、彼女にも、生活があるということ。
仕事上、近づいた相手の意外な面に驚いたこともある。
生活が、その後がちらついたこともある。
────が。
「……………………」
「……おにーさん?」
「…………………………いや、なんでもない」
「いやね、ここにいて思うのよ。
『口に戸は立てられないな』って。
みんな、そういう話大好きだからさ~」
黙って首を振る彼に、ミリアは軽くフォローを入れた。
あまり表情の動かぬ彼の、感情の機微については全然つかめないのだが
もしかしたらなにか、気分が落ちるようなことを言ってしまったのかと思ったのだ。
彼女の中、黒い噂については全く思い当たらないし、貴族令嬢子息のゴシップについては漏らすつもりはない。
────しかし、物見遊山か野次馬か。
彼のようなことを言ってくる人間も、少なからず存在していたのは、今までの経験からわかっていた。
……ただ。
(……なんだろ……、なんか変だな?
みんなこんなふうに黙り込んだりしかなかったのに)
ほんの少し、心に芽生える罪悪感。
(……このおにーさんが
何の目的があってそう言うこと聞くのか、
さーっぱりわかんないけど)
くるくる回る、抱いた疑問。
(ちょっと調子狂うじゃんっ)
と、胸のあたりで呟きつつも、彼女は言葉を続ける。
「──凄く良く聞くよー、どこそこの貴族サマの愛人事情から、交友関係まで。
お上に対する不満とか特にね~
盟主さまの話とかさ~」
「────……盟主様?」
何気ない一言に、彼の目線が少し上がった。
その反応に引っ張られるように、ミリアは二つ返事で頷くと、
「そうそう、ここのエライヒト。
名前が~~……えーっと…………」
「────エルヴィス・ディン・オリオン。
……ここの、……盟主だろ?」
「そうそう! そんな名前だった!」
「そんな名前だった……って……!
知らなかったのか……!?
この街の主だぞ?」
「え」
気分転換になるかと思い、出した話題の反応に固まる。
(思ったより驚かれたっ?)
と目をぱちくりする彼女に、エリックの驚愕に満ちた視線が刺さりまくり────
ミリアは後ろ頭を掻きつつ『へらっ~』っと、笑ってみせた。
「……いやー、アッハッハッハ。
ぼんやり名前はわかってたんだけど……
ふ、フルネームはちょっと……」
「…………はあ……
……………………呆れた」
(────呆れられたっ!?)
苦し紛れの笑顔に返ってきた言葉に驚いた。
そこまで重要な情報ではなかったのだ。
しかし、目の前のエリックの雰囲気は、流れるように『呆れ』から『憶えのある空気』へ変化している。
(この雰囲気、しってる!
これ、久しぶりな気がする!
やばい、……なんかやばい雰囲気!)
と、喉を詰まらせ身構える彼女に
エリックは、
両手を腰に当て、ぐっと距離を詰めると
「────君。
今までどうやって暮らしてきたんだ?
まさか、この街や国のことを何も知らないというわけじゃないだろうな?」
「………おおむね平和に……
安いご飯屋さんと、布屋さんなら知ってマスが……」
「そうじゃなくて。この街の事情とか、ココの政策とかだよ」
ジロリと真っ直ぐ射抜かれて、ミリアの中。
ぶわーっと吹き出す昔の記憶。
この雰囲気。
この感じ。
忘れもしない。
学校だ。学校の先生である。
エリックの黒く青い瞳のにらみは、まさに。
学校の教師のそのものだった。
(……やべーやべーやべ……!
これ、説教タイム始まる予感がするっ
うわあああああああああああ)
若干のけぞり引き気味に 心の中で大絶叫。
反り返った腰と引いた肘が、後ろのカウンターをコツンと音を立てた。
ミリアからあからさまに滲み出る『やばい、知らない〜!』という空気に
彼は
我慢 できなかった。
「………………その顔。
……嘘だろ?
君、仮にも成人してるよな? 新聞や、通達文があるだろう? それは読んでないのか? 仮にもここで暮らしていて盟主の名前も知らないって、あり得ないんだけど」
「ちょ、ちょ、ちょっとまっておにーさん」
矢継ぎ早の質問に、ミリアは慌てて待ったを入れた。
このままでは説教2時間コースを予想したのだ。
確かに自分は市勢に詳しいほうではないが、彼女には彼女の事情というか、言い分がある。
今にも頭を抱えてうずくまりそうな彼に
「めっちゃ非常識な女に見えるかもしれませんが、言わせてください!
────わたし、実は」
エリックの『信じられない』をひっくり返す一言を
「この国の人間じゃないの。
マジェラって知ってる?
わたし、そこから来ている。
こっちに来て5年ぐらい!」
『どうだ!』と言わんばかりに、得意げに言い放ったのであった。




