7-11「無理②」
──瞬間。
掌に走った痛みに顔をゆがめた。
隙を与えたつもりはないが、奴の歯ががっつりと親指の股に食い込んでいる。
(────く、そ……!)
黒の手袋越し、ぬらりと光る歯が食い込む。
眼下で、ヤツが不気味に笑う。
まるで『このまま噛みちぎってやる』と言わんばかりに。
「────っ!」
「んぐううううう! んぐふふふふふ!」
「────ひ、ひと呼んできます!」
エリック──いや、彼の苦悶に、弾かれたように声をあげ駆けだしたのはミリアだ。
殴られると思った瞬間から、目まぐるしく変わる状況に驚き動けなかったが、棒立ちしては居られないと気が付いたのである。
駆けだしすり抜けようとするミリアの視界の隅で、蹴った男が手袋を犠牲に、強引に右手を引き抜く。反動で体が揺らぎ────ナンパリックが形勢を取り戻そうとしている。
(蹴りのお兄さんちょっと待ってて誰か呼ぶから!)
ミリアは二人の脇を駆け抜け、大通りを目指した。
形勢逆転されたら「蹴りの男」のほうが危ない。自分が助けを求めれば、どちらが悪いかをきちんと説明できると考えたのだ。
しかし、その時。
「────いたぞ!」
「リック殿! お怪我は!!」
「────っ!」
突然。
鎧を着た兵士の声が裏路地に響いた。
わらわらと入ってくる三人の兵士に、ミリアは焦りを走らせる、
『呼ぶつもりだったのに来てしまった』 。
馬乗りになっている蹴りの男性・やられている風のクソ野郎、そして──自分。
事情を知らない兵士たちに、この状況がどう映るのか────、戸惑い躊躇ったその一瞬。
──にやりと笑ったクソ野郎が、大げさに足をバタバタ動かし悲壮感漂う顔で声を上げた!
「──助けてくれえ! こいつが! こいつがボクに暴力を振るったんだ!」
「ち……! 違います! 上のおにーさんは助けてくれて、下のこいつが!」
「こぉの女は嘘つきだ! こいつの仲間だ! 僕をはめようとした! 助けて兵士さああああああああああん!」
「違うって! 違うの兵士さん!」
その言い分に、ミリアが懸命に声を張る。
────しかし。
「怖かったんだあ! 二人で囲んできやがった! 金払えって脅すんだ! ほら見ろこの、こんなふうに馬乗りでボク、動けなああああああああああい!」
「ちが」
「あああああああああああああ救世主だ助かった! 早くこいつらをしょっ引いてくれええええええええええ!」
声の大きいナンパリックの言い分がそこに響き渡る。
ミリアの声はかき消され、エリックは──黙りこくるばかり。
(…………違うのにっ!)
──このままでは恩人の方が連れ去られてしまうかもしれない。
背格好はどちらも一緒、怪しい方はと言われたらどちらも怪しい。
しかし、助けてくれたのは深い青の瞳の彼の方で──と、ミリアが表情をやるせなさで染めた時。
現れた兵士が吠える。
「────捕えろ!」
『はっ!』
「はあ!? なんでボクだよおおおおおおおおおお!?」
声をあげたのはくそ野郎の方だった。
まるで指示したかのような、澱みない動きに戸惑い止まるミリア、ため息をつきながら悠々と立ち上がり、右手を抑える『蹴りの男』。
「…………え…………」
「ちがうだろ! なんでだ! ボクじゃない! あいつを捕えろ!!」
「何言ってんだ! キリキリ歩け!!」
「お前、その髪、その目……、女狩りのオースティンか!?」
「アルトヴィンガの暴漢が聖地に何の用だ!」
「女神さまに悔い改めよ!」
兵士二人に連行されるナンパのリック──いや『女狩りのオースティン』。
それらを背に、残りの兵士が彼に駆け寄り、神妙な面持ちで声をかけた。
「……リック殿。あまり、ご無理はなさらないでください」
「────……」
「────りっく?」
時が止まった。
ミリアの中、情報が混線する。
混乱で滲ませたはちみつ色の瞳を右に左に巡らせ、細やかに首を動かす彼女から、声が、漏れる。
「…………え。
じゃあ、えっ?
あい、
あいつ、
あいつは、
────えっ?」
「────偽物です。
こちらの方が、リック・ドイル殿。
我々の雇い主です」
「え。
──えっ?
じゃあ、わたし、えっ?
騙、さ、……えっ???」
落ち着き払った口調で首を振り、揃えた手で指し示す兵士に、ただ茫然と音を漏らした。
状況に付いていけない。
が、兵士が嘘をついているわけがないし、状況を見れば『ナンパリックが偽物だった』で間違いないだろう。
それに、『落ち着いて見てみれば』。
助けてくれた男の衣装は、明らかにプロ仕様。
縫い目も綺麗で、生地そのものの質が違う。
着付師のミリアには、『論より証拠』だ。
(つまり────『リック・ドイル』はクソ男じゃなかった……!?)
ミリアの中。
先ほどまでの
『リック・ドイルに崩された憧れ』や『植え付けられた嫌悪感』
『振りかざされた恐怖』などが、ガラガラと崩れさり
目の前の助けてくれた男に塗り替えられていく。
蹴り飛ばして助けてくれた。
知り合いでもないのに割って入ってくれた。
(あたま、整理するから待って……!?)
完全に脳がパンクしかかっているミリアを横目に、兵士は、瞳に神妙を宿し黙り込んでいる彼に体を向けると、
「──リック殿。参りましょう。あとは我々にお任せください」
「────」
諭すように述べる兵士に、しかし彼は静かに首を振った。
『待て』と手だけで制し、ちらりとミリアに目をやり、黙る。
未だ、混乱の中に居るのが明白な彼女。
事態が呑み込めないのも仕方ない。
言葉をかけたいが、今はそれもできない。
ぐっと口をつぐみ、伏目がちに距離を詰めた。
ちらりと目についたそれを、胸のポケットから一枚引き抜いて、
(──今日、見るはずだったんだろ?)
声には出さずに目くばせすると、ミリアの右手を掬い上げ、乗せた。
呆然と力なく開かれた右手ごと包み込むように握り、一言。
「────待ってる」
声色を変えて贈った。
ぽかんとした顔と、はちみつ色のまなざしから視線を外し、踵を返し背を向ける。
──これが精いっぱいだ。
正体を明かすのは混乱を招く。この先の予定に支障を出さないためには、無関係を装い立ち去るのが最善のはずだ。しかし、彼女の泣き顔や、落ち込んだところなど見たくない。
去り際に、彼は兵士にミリアを託した。
「……悪いが、彼女についてやってくれないか。怖い思いをしただろうから」




