7-9「ごめん」
物事は、時として続くものである。
その厄介ごとは、ミリアを追いかけるようにやってきた。
ウエストエッジの隣・聖地『クレセリッチ』
人のざわめきが響く路地裏で、ミリアを追い詰めたリックは、いやらしく壁を撫でながら嗤い寄る。
「だぁめだろう? ひめぇ。逃げるなんてえ。」
「────さいあくっ……!」
その薄気味悪い言い方と表情に、ミリアはまともに嫌悪を露わにし、じりっと一歩、距離を取った。
文字通り最悪である。
逃げ切ったと思ったのに追いかけてきた。
しかもこの路地は行き止まりだ。
どう見ても住宅の造りではない大きな建物の窓はすべて締まっているし、声を上げても中に人がいるかどうかもわからない。
応戦態勢を取らざるを得ないミリアに、ヤツはあざ笑いながら腕を広げると、不気味に青い瞳をぎらつかせながら────首をぐりんと捻り口を開ける。
「ひーはっはっはっはっはっはっは! ナニが「最悪」なのさあ? モデルであるこのボク『リック・ドイル』と話せてるっていうのに?」
「『チケットなくした……!』 ぜえええんぶアンタのせい!」
「ひめ? リックと話したかったんだろう? ほら、夢がかなったじゃないか!」
「『チケット無くした』! 許さない!」
(──ここで怯んだら負けだ!)
「チケット出してよ! 何回外れたと思ってるの! やっとやっと今日、やっと見れると思ってきたのに!」
「だからぁ、見てるだろぉ?」
「はっ?」
「 ボ! ク! を! このぉ! リック・ドイルさまを!!」
「『オ・リ・ビ・ア』って言ったでしょ! わたしは『オリビア』を見たかったの! アンタなんて言ってない! ひとっことも言ってない!」
「あ゛?」
力いっぱいめいっぱい叫んだそれは、ヤツの神経を逆なでた。
自己陶酔気味に反り返っていた背が戻る。グリンとこちらを睨み下し『憤怒』と『狂気』を噴き出しながら、ヤツは顔を歪めると
「あ? あ? なんつった? あ? ナマ言ってンじゃねーぞ、くそビッチ。メスツボのくせに逆らいやがって!」
「────『メ』……っ!?」
嫌悪を露わにオラつくリックのそのコトバにひきつるミリア。
『ありえない』の一言に尽きる。
──いくら『モデルのリック』が、ぺっとり髪のナンパくそ野郎だろうが、体目的だろうが、女をツボ扱いするその発言だけはいただけない。最高の侮辱ワードに、ミリアの中。驚愕は瞬時に、冷たい怒りに変化していく。
────ありえない。
ありえない。
ありえない。
「メスツボは人しく言うこと聞いてりゃいいんだよ! は! 挿せばあんあんヨガるくせによお! いっちょ前にヒト気取りか? あっ? 男に奉仕することしかできないメスの癖に? はーっははっははは! 笑わせてくれるぜ、俺らが居なきゃ子ども生むことすらできねえくせに!!」
「────……」
「おいこら聞いてんのか? あ? メスだろ? おまえ。今ならまだヒメ扱いしてやっから。ほら、言うこと聞けよ、な? オリビアに会いた」
「────意味がわかんない。」
べらべらとしゃべり続けるヤツのそれをかき消すように。ミリアは心の底から一蹴した。
『一応、先ほどから』冷えた怒りを胎の内に聞いていたミリアだが、その支離滅裂で傲慢な言い分に我慢も限界である。
頭の片隅で、『噛みつくな』とエリックが声を上げるが────
「『意味がわかんない』って言ったの! アンタわたしの上司でも部下でも何でもないのに、なんで『大人しく』『いうこと聞かかきゃ』いけないの? 今この短い時間で『上』だと思ったの? なんで? わたしが女だからって下に見てる? え? ウソでしょ? そんな『自分の努力や力じゃどうしようもないこと』でマウント取るつもりなの? 意識改革の真っただ中なのに?」
一気に早口、身振り手振りも付けて問うが、答えを求めてはいないのだ。
目的は『言うこと』。
『反抗の意思を示すこと』。
『お前に屈さない』という意思表示。
真っ向からの反論に、奴が一瞬、戸惑いに歪み鼻白んだ時には、ミリアは次弾を放つ!
「それ、良くない。『ボクは新聞も読んでません』って自己紹介じゃん! 時代遅れを自己紹介してどーするの! 広告塔が聞いて呆れる! あなたに憧れてる人間も居るんだから、その考え更新した方が良いと思う!」
力強く指さし説教モードで捲し立てる!
「そもそも! アナタ『オリビアに会わせてくれる』って言った! わたしは『オリビアに会いたい』っていってるのに! 嘘つき良くない! そういうの良くない!」
「────く、はははははははっ!」
ミリアの堂々たる言い分に、路地に響き渡った『心底馬鹿にした嗤い』に顔をゆがめる。
持論をぶつけ、まごつき反省してもらうのが目的であったが、予定外。
大口を開けながら、天を仰ぎ腹を抱えるヤツを、異形を見るような顔で眉を寄せるミリアに。ヤツは愉悦を吸い込み、天を仰ぎ腹を抱えると、
「あっはっはっはっはっははははははは! おまえは馬鹿なのぉ? ボクがいつ『会わせる』つったよ?」
「────っ?」
「ぼぉくは! お前が! 『オリビア』ってほざいてるのを! 聞・い・て・た『だ・け』! ほおおおおら思い出してごらん、メスツボぉ!」
「────……!」
不機嫌な疑問から、一転。
それ気が付いて、ミリアは言葉を失った。
高速で思い返すのは『ここ数十分』。
確かに────……
ヤツはオリビアの件に対して、確定的なことは口にしていなかったように思える。
『会いたい』と言う自分に、笑い・話をそらし・のらりくらりと躱されていた。
自分は語っていたが、リックは答えていなかった。
────つまり────…………
(…………え、じゃあ────……)
すぅ──と冷えていく背筋と思考。
責めているのもお門違いで、勘違いの言いがかりだ──と固まるミリアをあざ笑うかのように、リックは煽るように覗き込み、
「な? 『頷いていただけ』だよお~~? 『あわせてやる』なんて『一言もイッテナイ』よ~~~? わかったカナぁ~~~??」
ぐりんぐりんと聞いてくるナンパは、実に愉しそうで──それがミリアを追い詰めていく。
「おバカさんだねえ~~? 独りで盛り上がってタよねぇ、うんうんっ。バカはよくしゃべるってほんとだよねえ? 思い出したぁ? ボク、『会わせてあげる』なんて言ったかなァ?」
「…………っ!」
「いったかなぁ? 言ってないよねぇ、言ってないよお♡」
「…………~~~っ!」
「ほ・ら♡ おーもいだしたぁ? 言ってないんだよ、ボク♡ 『ヒ・ト・コ・ト』も! だ♡ 哀れだよねぇ・馬鹿だよねぇ、『騙された!』とか言っちゃって♡ あっはっはっはっは! お・ま・えが♡ 勘違いしただヶ」
「ど───ぉぉぉぉぉぉおおおおおおでもいいわそんなん!!」
失望の静寂から一転。
一刀両断の咆哮が、狭い路地に響き渡った。
上から煽りあざ笑うリックのさらに上から。
頭に血が上ったミリアは、言い分を全て叩き潰すように声を張り上げる!
「言った言ってないとか不毛! 覚えてない! 思い出せないし! モンダイそこじゃないし! 今ソコどーでもいい! チケット返して! でなければ今すぐチケット取ってきて! それが無理ならそこどいて! 帰る!」
「はっ? それが通ると思ってんのぉ?」
「と・お・す・に・決まってるでしょーが! 持ってんの!? 持ってないの!? どっち!!!」
「わっかりませーん♡」
「……こいっつ……! ああもういいです! そこどいて! チケット探す!!」
「────えええ。行っちゃうのお? チケットあるのにぃ?」
「……!」
半ば無理やり押しのけようとしたその瞬間。
ぷらんぷらんと現れたポシェットに、ミリアは息を呑んだ。
形勢逆転である。今の今まで押し切れそうだったのに、ポシェットを人質に取られたミリアが出せる手札は──限られている。
「あるならあるって先に言え! 返して!」
「欲しいなら言うこと聞けってンだよ!」
「それは嫌! 横暴すぎる! 拾ってくれたのはありがとうだけど、そもそもわたしの持ち物だし返却条件があり得」
「だ・か・らぁあああああああ! ナニサマなんだよてめーはよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「────っ……!?」
(────えっ! ……な、なに……!?)
──突如。
ポシェットを握り潰し、口調も顔つきも変え咆哮したリックに驚き身を引いた。
(──なんか雰囲気変わった……!?)
その変貌ぶりに焦る。
じりじりと後ずさりで距離を取るミリアを追い詰めるように、奴は厭らしい笑みを狂気と憎悪に塗り替え叫ぶのだ。
「ったくフザケンナよなぁあああああああああああ、イチイチいちいち、なぁぁぁぁぁぁぁぁにが『メスの同意』だ『人権』だあ!!! 女なんてな、貢ぎ物になってりゃいいんだよ! うるっせぇんだよおおおおおお!!」
(────やばい……!)
瞬時。ミリアは後悔した。
言い返すべきではなかった。
どこかで諦め遠ざかるべきだった。
目の前の男はおかしい。
『欲を満たすだけ』のものではなく、明らかに憎悪が混じっている。
(この前の男よりヤバイ、目がやばい! 言ってどうにかなる相手じゃない……!)
『ナンパと行為だけが目的じゃない』。
『きっとそれ以上のものを奪われる』。
悟るミリアのその前で、ヤツは暗示にかかったようにブツブツと、口角をあげながら言う。
「気持ちいいんだろ? だからああナルんだろ? おい、なあ?キモチいいンだろ?」
「〰〰〰〰〰〰〰っ……!」
やばい。やばい。やばい。
独り嗤い始める男から距離を取る。
じり、じり、とすり足で石畳を擦る。
どん詰まりの壁の気配に息を呑む。
狂気で迫りくるヤツを眼前に、ミリアの中で響いたのは──
かつての、エリックの言葉だった。
『大したことなかったからいいものの』
『呆れた』
『助けを呼ぶべきだったんじゃないのか』
忠告が過る。
あの言葉が、〈今〉、刺さる。
痛烈に、刺さる。
(────あの時……!)
思い返すはエリックとのやり取り。
あの時自分はどう返した?
真面目に受け取ったか?
はいはいと聞き流していなかっただろうか?
『ああやって助けを呼ぶんだ。靴を投げたりしない』
『何かあったらどうするんだ』
『子どもじゃないから言ってるんだ!』
「~~~~……────っ!」
(────わたし……、馬鹿だ!)
頭の中で怒鳴るエリックに、顔をゆがめた。
今だからわかる。
あの時、エリックが『何を想定してモノを言っていたのか』。
『懸念と、怒りの、本当の理由』。
(全然わかってなかった……! ──”力じゃ勝てない”って、分かってたはずなのに……!)
後悔が渦を巻く。
自分の認識が甘かった。
ここはノースブルク。
自分は女。
いざとなっても魔法を使うわけにはいかず、力で勝負しようにも異性には勝てない。
『理解しているつもりだった』。
『つもりになっていただけ』だった。
(────ごめん……っ!)
ミリアは奥歯を噛みしめた。
ああ、悔しくて情けなくて涙が出そうだ。
バカだったと思い知らされる。
『自分にそのつもりがなくとも、相手も同じだとは限らない』ことを、前にも身をもって体験していたのに。
(────ああ……もう……わたし……バカだなあ……)
極限の中、吹き出す虚しさに唇を噛みしめた。
情けない。
学びがない。
あれほど言われていたのに。
そんな中でも、エリックの声は響く。
あの時と同じトーンで、はっきりと。
『──相手にしなければよかったんだ』
それもそうだ。
すぐに逃げればよかった。
無視して立ち去ればよかった。
でも、でも。
思い返すのは『先ほど』。
この男が絡んできたときの、シチュエーション。
否応なしに寄ってきた。
席を立つわけにも行かなかった。
警戒心はしていたのに、コイツには効かなかった。
そんな思いは、ミリアの中で疑問となり、渦を巻く。
(……ねえ、どうすればよかったの? こいつ、お構いなしだったよ? わたしが迂闊だったのはわかるけど、でも……っ!)
〈どうしたら良かったの?〉
今更、答えは出ない。
最適解がわからない。
自分が男なら、強く出ることもできた。
彼だったら疑って一蹴しておわりだ。
けれど、手を引かれて腕も抜けず、どうしたら良かった?
立ち上がりざまに腕を掴まれたらどうすれば?
ぐるぐると蠢く虚しさと疑問の果て、彼の言葉が蘇る。
『ああやって助けを呼ぶんだ。』
(────今からでも大丈夫?)
その言葉は、まるで、背を押すように。
『助けてほしいなら、もっと可愛らしく』
(────可愛さ出せないけど、求めたら)
極限の中──、呆れと、真摯を纏いて響き渡る。
『君が危ない目に遭ったら、助けてあげるよ』
「────助けて!!」
記憶の中のエリックに触発され、ミリアは切羽詰まった叫びをあげた。
開けた通り沿いを行く人々に届け!
誰でもいい、気にかけてほしい!
お願い、誰か!
そんな思いを乗せた、可愛さなどかけらもない、初めて求めた『助けて』は、しかし。
狭く高い路地の底にむなしく響き───、雑踏にすら届かない。
(…………ほらやっぱりダメじゃん!)
「どいつもこいつもよお、バカにしやがってよお。男が居ねえと生活もできねえ家畜どもが、なぁにを偉そうに! 人権だぁ自由だぁほざきやがって! 気に食わねえんだよ!! 生意気によお!!」
声上げても誰にも届かない。
頬に、目に力を込めながら、距離を取る。
後ろ、後ろへと。
「あーあーあーあ、ほんっとつっまんねえ!! ツマんねえ家畜はさあ、楽しませようとか思わねえわけ? あ、そうだ♡ チケットほしいんだっけぇ?♡」
「────っ……!」
後ずさりしていた踵が壁を打った。
背に固いレンガが当たる。
追い詰められて、ただ男を睨み上げることしかできないミリアの前。奴はチケットを取り出し、得意げに指をかけ──、そして。
「はぁぁぁいざんねえええん、オリビアサマ、さよ~~~~ならあああああ♡」
愉悦の声と共。
チケットはビリビリと音を立て、紙吹雪となり宙を舞った。
「────……!」
「あっはっは! いい顔できんじゃん、ヒメ♡ それそれ♡ そのビビる顔がいいんだよ♡ 溜まんねえんだよ♡ ゾクゾクする♡ はいはいイイ子ちゃん♡ メスツボから昇格させてあげるねぇ♡ かわいい姫ちゃんには、リックが最高の体験させてあげるから♡」
(……泣くな! 泣くな泣くな! ショーは諦めろ!)
「いいねぇ、その顔! ほぉら、もっともっと♡」
(────逃げなきゃ、逃げなきゃ、でも、どうすればいい? 泣きそうになってる場合じゃないの、そんな場合じゃないの考えて考えて! 魔法使ったらこの街に居られない・暴力は駄目・でももう後が無いし、でも悔しいし、────そうだ、上!)
ミリアが《がら空きの頭上》に気が付いて。
足に力を入れ、ごく少量の風を集めようと見上げた、その時。
「ボク好みの顔にぃ~~~~」
(────あ。)
視界いっぱいに迫ったヤツの図体と振りかぶった大きな腕に、時が止まった。
瞬間的に重なる。
身体が動かない。
竦む。
蘇る恐怖。
────怖い。
ゆっくりと振り上げられた殴打の陰が、ミリアの瞳の光を奪い────
(──だめ、動けな──っ!)
「────してあげるから ね゛っ!!?」
────ごっ!
「────があああああああああああああああああああああああああああああ!?」
──瞬間。
響いたのは、ヤツの悲鳴と地面を擦る音。
(──なに……!?)
言葉を無くすミリアの前で、突如リックが吹っ飛んだのだ。
建物の窓の中から、蹴りと共に現れた〈もう一人〉に、目を丸め立ちすくむ。
あまりの出来事に言葉すら出ないミリアと、現れた〈もう一人〉の目線が絡まった。
石畳を踏みしめる〈男〉の、その風貌。
拵えのいい衣装に質のいいブーツ、同色のアイマスクから覗く両の瞳は、『限りなく黒に近い 奈落の青』。
「…………だれ…………!?」
本物の登場に、ミリアは愕然と呟いたのであった。




