6-12「……納得」
──『夫婦喧嘩は糸くず(ぬのきれ)にも満たない』。
シルクメイル地方に古くから伝わることわざである。
『たとえ何かの布端切れでも、手を加えれば何かに使用できることもあるが、夫婦喧嘩は絡まるだけだ』『糸くずにいくら手をかけても疲れるだけ』『なんの役得にもならない』『近寄るな』という意味の教えだ。
他にも『痴話げんかは絡まる糸を解くようなもの』『ほっとけ やめとけ 損するぞ』など、同じような教えはいくつかあるが────
──彼、スネーク・ケラーは、ビスティーの中。
糸のような目で虚空を見つめながら、ひしひしと。
『先人のありがたい教え』を痛感していた。
我らがボス・エリックと、その相棒ミリアが口げんかを始めたのがついさっき。
それらを止めるために仲裁に入り、上手く話を逸らしたのだが──
しっかりきっちりと戻ってしまった。
これでは堂々巡りである。
さすがに『白熱! 訣別必死の押し問答!』には待ったを入れるが、繰り返し巻き起こる痴話げんかには興味がない。
『堂々巡りをしているボス』にやや辟易としながらも、スネークは目の前で『ああ言えばこう言う』を繰り返す二人に”こほん”とひとつ、息を吐き
「……とにもかくにも。お二人とも、仲直りは早めにお願いいたします。
この街の未来に支障がでますので」
はっきりきっぱり言い切り、
ぎい、バタンと音を立て
その場から退場していくスネークを視界の中に──
『………………』
⦅…………仲直り…………⦆
ほぼ同時。
二人そろって沈黙したのであった。
────『仲直り』。
この世でもっとも難しいとされている『人類の難題』だ。
『ごめんなさい』『悪かったです』と
さっさと謝ってしまえばいいのだが、時折それが、どうにもこうにも難しい。
どんな学者でも『絶対仲直りできる方程式』を説いたものは居ない。どんな魔術師でも『仲直りの呪文』を開発したものは居ない。
個人同士の小さな喧嘩から、組織の対立まで
『あの時ごめんと言えたら良かったのに』と後悔したことのない人間など、居はしないだろう。
簡単なようで、とても難しい。
そして厄介なことに、人は、時に頑なにソレを避けるのだ。
互いに『ごめん』が言い出せず、そのまま消滅させる。
あるいは流し、うやむやにする。
解決したわけではなく『流してしまう』という行為を、ヒトは、度々してしまうのであるが
──それはのちに、何かしらのきっかけで爆発する・蒸し返しの原因になり、喧嘩の原因すらわからなくしてしまう『厄介なものに成り得る』のである。
彼『エリック・マーティン』。
彼女『ミリア・リリ・マキシマム』。
彼ら二人に課されたミッションは、まさに。
『今出た問題は今解決しろ』という、スネークからの圧力だった。
────しかし。
総合服飾工房ビスティー内。
残ったエリックとミリア。
完全に途切れた会話。
────”気まずい”。
(────こっ、これ~~~……やりにくい……!
先手決めちゃったほうがいいよね~~~??
でも、あああああっ……!! どこから言えば!?)
(……スネーク……!
”仲直り”と言われるとやりづらいだろ……! 子どもの喧嘩じゃないんだぞ……!)
──と、出方をうかがうミリアと、内心毒付くエリックだが────
子どもの喧嘩である。
彼らは夫婦ではなく相棒だが、やっていることは間違いなく『低レベルな喧嘩』だ。
意地と意地・意見と意見のぶつかり合い。
『糸くずにも満たない』はまさにその通りで、くだらないにもほどがあった。
──しかし、それがわかっていながら。
『あの時』
『あの場で』
互いに『ごめん』が出なかったのは、メンツと空気のせいである。
内心
(せ、せんてひっしょう……!?)と身構えつつも空気をはかるミリアに対し、エリックは──
スネークの『糸のような目を張り付けたニヤニヤ顔』を一蹴し、すぐさまその気持ちを切り替えた。
(────言った相手が誰にせよ、言っていることは至極真っ当……か)
落としたトーンで呟き、小さく息。
『ここで取るべき最善策は』と脳がはじき出すその隅で
同じように飛び出てくるのは『自分のしてしまった事』と『言ったこと』だ。
(──……随分な言葉を吐いた)
『放った言葉』に、腹の奥で重りが転がる。
『勝手に勘違いし』
『勝手に決めつけ、言葉を浴びせた』
──『知らなかった』とはいえ
それでは済まされない言葉をぶつけた。
”そのすべてを、突き詰めてしまえば”。
(…………)
心の声さえも無く、エリックの胸の中に、じんわりと広がる罪悪感。
『最善策』だとか
『原因は早めに処理』だとか
計算的思考が頭の隅をかすめるが
”それよりも何よりも”
”今、したいことは”
────ふうっ……
心の奥底。
決まった腹を固めるべく、彼は小さく息を吐く。
伝えるべき言葉はひとつ。
ため息で緩んだ空気に乗せて
彼女に──眉を下げた。
「────ミリア。
…………悪かった」
「え、あ、や、」
途端、戻ってきたのは慌てた声。
焦りを浮かべたハニーブラウンの瞳がくるんと動くのを見つめながら、彼は言う。
「…………今更言い訳にしかならないけれど、本当に。
あそこにそんな場所があるなんて、知らなくてさ。
領内のことなのに、情けないよな。
俺の視野の狭さが原因だった。
……なのに、感情に任せて怒鳴ってしまった。
本当に、ごめん。
……すまなかった」
「…………いや……、
わたしも、その……
ごめん、ね?」
告げた思いに、たどたどしくも柔らかな声が返ってきた。
そのトーンにエリックが、無意識のうち”ふぅ”と息を吐きだす向こう側で。
カウンター越し、言葉を探すように目を配らせる彼女は、彼を見上げて口を開く。
「……わたしも、そんなところだなんて知らなくて……バカとか言った。ごめんなさい」
「…………」
自信の無さそうに。
迷うはちみつ色の瞳に、”ほっ”と綻ぶ、胸の内。
──言わなくても、わかる。
『以心伝心』などと言うつもりはないが、今は『わかる』。
その気持ちは、安堵となって
エリックの口から──零れ落ちた。
「────あぁ……」
「な、なに? どしたの情けない声出して」
「……いや? 信じてもらえないだろうけど、聞いてくれる?」
情けなさを隠さず出した問いかけに戻ってきた『うん?』に、肩の力が抜けていく。
自然と手を置くカウンター。
腰掛ける椅子。
向かい合い、目線を合わせ、気を配りながらも。
声に、顔に安堵を乗せて、彼は気持ちを紡ぎ出す。
「…………心底ホッとしているんだ。
実は……
こういう『口論』は、経験したことがなくてさ。
感情の制御は出来ていたはずなのに。
君と話していて、自分を見失ってしまった。
……悪かったと思ってる」
「うん……」
「弾みであんなことを言ってしまった自分にも驚いたし、後悔もした。君が『要らない』とむくれていた時は、正直……焦った」
言いながら、思い出すのは先ほどの『焦り』。
『違う』が伝わらないもどかしさ。
あの時の『嫌な焦りと苦み』を噛みしめ、そして
払うように、思いを告げる。
「──────『勝手にしろ』なんて、思ってない。
『要らない』なんて、思ってないからな?」
「…………」
カウンターの向かい側。
真っすぐ告げた言葉に、ミリアの瞳が丸まった。
はちみつ色の瞳を驚きで満たして、
ぴくんと背筋を伸ばしながらも固まる彼女に
一瞬、『伝え方を間違えたか?』と疑念を持ったエリックは、物言わぬ彼女を確かめるように覗き込むと、
「──────ミリア?」
「……や……、
あの………………」
問いかけに
戸惑う彼女の声は、迷いながら、少しずつ。
「……とても。
『まっすぐ』で……
……おどろいている……」
ぽつぽつ。
『意外』と『驚き』を顕わにしながら、情報を処理するように。
「そう、
出られると、
とても、
謝りにくいというか。
えーと、
わたしも、
ごめんなさいの気持ちは同じなんだけど、その、
…………うーん……」
「…………」
唸りながら、項垂れて一拍。
悩み迷い紡がれる言葉を──待つ。
「うーん、
あの、
……それ以上の、誠意をもって、伝えられるか、
……わからなくなってしまったというか……」
悩まし気で、たどたどしい口調が伝えてくる『彼女の気持ち』。
「……うぅん……
何を言っても『二番煎じ』……
あ『謝ってくれたから謝る』んじゃないんだよ? ごめんって思ってるのは本当。
謝る気持ちがある、のに、
先に言われてしまって……
頭の中で回ってる言葉はあるんだけど、なんかどれを並べても『後出しだなあ……』って思えて」
『…………うん』と小さく頷く視界の中
ミリアのはちみつ色の瞳が瞼の中で下を這い────
「『ごめんね?』
『全然わかってなかった』
『これからもよろしくね』以上のものが出てこなくて……
──────困っている。」
「──フ!」
悩まし気から、一転。
顔面の偏差値を下げ、真顔で言うミリアに吹き出した。
(……ふ、ふふふ……!
『困ってる』って、ふふ……!
そんな顔で言うか? 普通……!)
と震える腹筋に力を籠めるエリックだが、しかしミリアはど真面目なのだ。
俯きこらえ、見つめるまなざしの中で、眉を下げ”じっ”と瞳を向けながら『心底困ってる』を露わにしながら言うのである。
「わたし、困っている。
どうしたらいい?
……困っている……」
「…………ふ! ハハハ!」
「ねえ~、笑い事じゃ無いってば~。
困ってるの。
どれが最善策? どれが最適解?
どうしたら伝わる?
わからなくて、こまっている。」
ふ、ふふ……! くくくくく……!
困り顔で首をかしげる彼女に、エリックはたまらず顔を抑えて項垂れていた。
ああ、力が抜ける。
拍子抜けだ。
『もめごとの決定権・生殺与奪を相手に委ねる』なんてこと、エリックの人生では考えられない。『どうすれば許してくれるのか』など言った日には、最悪首が飛ぶ世界に生きてきた。
なのに、これは『住む世界の違い』なのだろう。
──それをあっさりと言ってのけた彼女にも
言われ噴き出した今の自分も
すべてが、おかしく面白かった。
──込みあげる笑いを、頬の内側で噛みしめて
小さく震えるエリックに対し、ミリアとは言うと、『いつもの通り』なのである。
『笑うエリックが不可思議だ』と言わんばかりに、カウンターの向こうから、少々眉根を寄せて首を捻るのだ。
「ぷるぷる震えてるけど。
ねえ、そんなおかしいこと言った?」
「いや、ただ『素直だな』って。
力が抜けてしまっただけ」
言いながら、姿勢を正して細やかに首を振る。
(これ以上笑っていたら、また怒られるかもしれないし)と、微笑を浮かべながら、息を吸い込み整えて、
「…………”困ってる”って、素直に人に言うなんて。
俺には、選択肢すらなかったから」
呟く眼差しに、驚嘆と信頼を載せて言った。
彼も今まで
『困ってる』と口にしてきたことはあったが
それは『ポーズ』であり『相手を転がすための手段』。
本音ではない。
しかし彼女は本音で使ってきた。
新鮮で、意外で、心がほぐれる心地よさ。
『ああ、こんな使い方もあったのか』と驚きすら覚える。
それらすべての状態を整理するように落とした瞳に、信頼を宿して
彼は”すぅっ”と短く息を吸い込むと、正面から見据えて彼女に述べる。
「────君が困っているのなら、解決策は一つだ。
『俺の相棒でいてほしい』。
……ミリア。
応えて、くれる?」
「────あ。それでいいんだ?」
「いいよ。
──というか、君は無用心すぎるよな。
これで俺がとんでもない条件でも出したらどうするつもりだったんだ?」
「──とんでもない条件って?」
「…………」
あっけらかんと戻ってきた問いかけに、余裕をたたえていたエリックの表面がやや困惑で染まった。
瞬時に気まずさと迷いが走り抜ける中、緩んだ心と頭が弾き出すのはいつもの想定論。
『うん?』と目を丸める彼女に、エリックは呆れと心配を宿すと
「……『男女の』……つまり、そういうことだよ。
男の俺に『どうすればいい?』なんて、軽々しく聞くものじゃないだろ?
もし仮に、俺が君に性的な欲求でもしたらどうするつもりだったんだ?」
「……性的な欲求」
「────そう。
────仮にも、俺は男で、君は女だ。
言わないとは限らな」
「言わないと思った」
迷いなきその言葉は
彼の心を貫き 言葉を奪う




