5-13「ああもう」
「────ルメと、ニモ?」
総合服飾工房ビスティーでの夕暮れ時。
相棒『エリック・マーティン』に問いに、ミリアは繰り返し呟いた。
顔を向けた先で、にこにこと微笑むのはエリックだ。
先ほどまで放っていた、刺さるような怒りを打ち払うかのように
『素早く浮かべた優等生の笑み』を目の当たりにして、
ミリアは一瞬、返事に迷った。
────しかし。
その『笑顔』を崩さない彼を一瞥。
さりげなく瞳を配らせ、さっと『ニモ』と『ルメ』に手を伸ばす。
「あ、うん。
これこれ、これのこと」
「────糸?」
後ろの壁。さっと取り出す、巻き糸二つ。
先程の笑顔をかき消すかのように
少し大きめに目を見開くエリックに釣られ
ミリアは2つ、素早く頷き
”つぅ────”と、糸を引っ張った。
「……ウン。そうそう。
ルメが、シルク用の細い糸。
ニモが、綿とか普通の生地用の糸。
ほら、見える? 太さが違うの。
素材も違うの。わかる?」
言いながら、目の前で比べる系二本。
「…………素材……、触ってみても?」
「どうぞ?」
カウンターの向こうから
真剣に糸を眺め、暗く青い瞳で聞くエリックに『普通に』頷く。
絹の糸を触る彼。
自分にとっては慣れ親しんだただの糸に、真剣なエリックに目線を向けながら、ミリアは──唇の裏で思惑を飲み込み、顔の筋肉に力を込めた。
「…………」
(────気には なるけど)
(…………気には、なるんだけど)
と、瞳で探りつつ、胸の中で呟く彼女。
────先ほどの、『あの変化』。
『あの変化』はなんだろう。
ミリアの脳内、蘇るのは『さっきのエリック』。
明らかな怒りから 一瞬の切り替え
研磨された顔つきから 煌びやかな笑顔へ
こっちの動揺など見ていないと言わんばかりの
これ以上触れるなと言わんばかりの
────『優等生の笑顔』。
しかしそれは『ほん数秒』で
ミリアの前、糸を触り比べ確かめる彼には
先程の不機嫌も、優等生も見当たらず────
(…………)
口を噤んで 瞳で察す。
緊張を孕んでしまいそうな頬に意識を向け、緩む様に息を吸う。
そろりと向けるのは目だけ。
目の前のエリックは、通常運転だが
(…………”闇”)
と、ぽそり。
(……”割れそう”)
とも、ぽそり。
カウンターの内側で、ミリアが静かに考えを巡らせる中
エリックは──
真剣に糸を確かめている。
「………………」
────そんな様子に、彼女は
『何もなかった』と言わんばかりに糸へと視線を移し、丁寧に比べると、普通の口調で言った。
「シルクは特に、生地自体が繊細だから。
糸も同じ素材のものを使って、なるべく穴が開かないように縫っていくの。
他にも、用途に合わせていろんな糸があるよ?」
「……へえ。太さも様々だとは思っていたんだけど」
「うん。
薄い生地のものに太い糸を使っちゃうと、破れの原因にもなるし、糸穴自体が大きくなっちゃって……みっともないし、そこから穴が広がる原因になるから……
…………で、ニモとルメがどうしたの?」
問いかけは”さらり”。
それに上がる、エリックの顔。
(────あ。ふつうだ。)
と呟く彼女の前で、彼は、糸を覗き込んで前のめりになっていた姿勢を正し、普通の顔で口を開ける。
「────ああ……、
聞きたくないことかもしれないけれど。
…………それも、値が上がるんだ」
「うん、知ってる」
「…………そうか。知っていたのか」
「ちょっと前にメーカーさん来たもん。
『値上げのお知らせ』~って」
落ち着いた声色の彼に、息つき、肩をすくめ。
ミリアはやれやれと首を振りながら唇を尖らせた。
”やや気になるそれ”を記憶の彼方に追いやるように脳裏によぎるのは、注文した糸の中に入っていた一枚の紙切れである。丁寧に『値上げするね』と記されていた文言を読んだ時のため息が、時を超えてリバイバルする。
ああいう知らせの場合、やれ『原料の高騰により』『情勢を鑑みて』など御託を並べたてるが、結局のところは『値上げします』の一言だろう。彼女自身もそれらの御託は並べるのだが、消費者側に回るとため息しか出ない。
ミリアは、ありとあらゆる『値上げしたものたち』を思い出しながら、作業台の上に散らかる道具たちに手をかけると
「…………まーったく、どーこもかしこも値上げばっかで、ヤになっちゃうね~。」
カタンカタンと仕舞われていく道具たち。
作業台を見つめながら、声は普通で。
「仕方ないってわかってるんだけどね?
徐々に物価も上がってるし。暮らしが豊かになるとそうなのかなって思うし。
でも、こう値上げばっかりだと、ね〜……」
カタン・コツン・カシャン。
仕舞われていく道具に相反するように、ミリアのささやかなため息が作業台の上に転がる。
誰でも・いつの時代でも。
”自分の出費”が地味に増え続けるのは──単純に心がささくれるものなのだ。
そして、そんな不満は
聞いてくれる相手がいると、とめどなく、溢れ出してしまう。
──────は〜あ……
「……これで税金も上がったら溜まったもんじゃないなぁ~。
一体何に使ってんだか。
ホント、われわれ庶民の税でお暮しになられている貴族サマたちはいいよねまった…………く………………」
「…………」
「────あ。」
(────しまった!)
と、瞬間的に顔を引きつらせ、そろりそろりと神経をカウンターの向こう側へ。
視界の外──額の上から、じわっと感じる『何かの圧』。
──それに。
一筋、頬に汗を流しながら。
そろ~~~~~~──っと目だけをあげると────
「………………」
エリックが、真顔のまま。
あからさまなオーラを出している。
いつものエリックの、その顔に
(……やっば、オリオンさんの部下だった……!)
ミリアは一瞬引きつり、慌てて手をあげ口を開く!
「────ちが!
いや、違わないけど、えーっと!
そ、そういうつもりじゃなくて!」
「………………」
────ぱちん!
「──あ────っと、えっと!
これキミの旦那さまには内緒で!
違う、ごめん! ほんとごめん!
オリオンさんを責めるわけではなく!」
「…………………………………………」
落ちる、ジト目、にじみ出る・不満。
「ごめん! 内緒でっ! しんじてる!
おねがいっ!」
「…………まあ。
…………言わないけど」
(────言われたけど)
エリックは一言だけ答えた。
『言わない』もなにも何もない。筒抜け直通である。
──何を隠そう、彼は盟主だ。
ここのトップだ。
その『オリオンさん』本人で
税収で暮らしている貴族である。
ミリアの今の発言は、思いっきり喧嘩を売っている。
愚痴と見せかけた、堂々たる嫌味である。
「…………」
────しかし、立場上。
黙りこくるエリックの前、ミリアはというと、大変『饒舌』だ。
『いやあのね? 盟主さまが悪いって言ってるわけじゃないの。値上げがね、厳しいなあって。ほら。わたしもそんなに裕福じゃないし? 貴族さまがその分大変なお仕事をされてるってわかってるし? だからね? えーっと、オリオンさんが悪いわけじゃなくて、税金の不満って言うかなんて言うか? あ、旦那さまを責めてるわけじゃないよ? オリオンさんが駄目ってわけじゃなくて~』
────と何やら喋っているが
なんのフォローにもなっちゃいない。
ミリアの『ぽろっと出ちゃった堂々たる不満』を聞く最中
先程の苛立ちを押し込め切り替えたエリックの中、高速でめぐるのは『近隣他領の税率とここの比較』だ。
頭の中で同盟諸侯 各領地の税率をパーセンテージで並べ立て、ジトっと落ちゆく頬の筋肉を自覚しながら──
(………うちの税率は同盟国内でも低い方なんだけど。
…………わかってないだろ)
──と、ぶすっと一言。
嗚呼。
先程の苛立ちを押し込めたというのに、今度は別の方向からモヤが湧き出して仕方ない。
ここの税率は、相当安い部類に入っているというのに。
かなりの還元率で民に戻していると言うのに。
(…………はあ)
彼の中、ゲンナリと広がる卑屈な感情。
ミリアが庶民で、こちらの内情など見えないことなどよく知っている。
それは、裏を返せばお互い様なのもわかっている。
が、彼女の愚痴には────訂正を入れたくなるのは何故なのか。
別に税への不満など、今までも散々聞いてきた。
エリックとして話を聞く際は『ははは、そうですね』と視点を変えて相槌も打ってきた。
心の中で『何も知らないやつはいいよな』と吐き捨て嗤えば、それでよかった。
『知らないくせに』と吐き捨てるのは、慣れていた。
────しかし。
胸の奥底で(お気楽でいいよな)とも思いつつ、彼は思い巡らせ、呆れを込め、一瞥。
(……他国の税率は知らないのか?
いや、それをここで口に出してもな……)
と、もやもやを腹の中で培養していくエリック・マーティン。
さらりと渡された細い針を指で摘み、専用の糸を通しながら考える。
カウンターの外、おあつらえ向きの背の高い丸椅子に腰掛け考える。
ミリア相手に、ここで税の話をしようものなら、『固い』と言われるか、下手をしたら『なんでそんなことまで気にするの?』と怪しまれるかもしれない。
彼女には関係のない話だし、国政がらみのことになると一気にモードがそちらに傾くのも自覚している。
総合的に考えたら『言わない方が良策』である。
というか、『言うメリット』が見つからない。
──しかし。
(…………言いたい)
真実を説明したくなる。
今まで言われてもどうでも良かったことが、どうでも良くない。
誤解されようが構わなかった事柄に、訂正を入れたくなる。
(…………私利私欲には使っていない。
ほとんどが公共施設や道路・下水をはじめとする公共事業で、私腹を肥やしているわけじゃない)
胸の内 呟く声に 寄せられて
じわじわ集まる 眉間皺
(……父の時代より税率は下げたんだけど? 安い方なんだぞ? その分、腐った貴族どもに、毎回毎回嫌味を言われてこっちは)
「? なに? エリックさん?」
「…………いや。 なんでも?」
じわじわ寄りゆく眉間皺。
ぱっ! と向けられたハニーブラウンの瞳と顔に
静かに首を振り、自分の手元。
『針孔に通りそうで通らない糸』に目を落とした。
(……落ち着け、苛立つことではない。
彼女は一般の民だ。政治を行う人間ではないのだから)
──と、言い聞かせつつ。
左手でつまむ細い針。
頭の穴の入り口で、くにゃりと曲がる糸の先。
勝手なことを言う相棒。
針穴のそこで、くにゃっと曲がる糸の先。
何も知らない彼女。
針穴のそこで、ふたつに裂ける糸の先。
(…………あ──、もう…………!)
喉元を突き出そうになる言葉を飲み込み、もどかしさで口をゆがめた。
”────どうにも、コンロトールが効かない。”
────さっきも
(…………理由もなくイラついて)
────今も
(……出来ていたことが、出来ない)
イラつくのは、通らない糸の先だけじゃない。
さっきからの自分へもそうだ。
”調子が狂う”
”なんだかおかしい”
──心は、こんなにせわしなく動くものだっただろうか?
今まで、26年間。
イラつくこともあった。
ムカつくこともあった。
吐き気がするようなことも多々あった。
悲しみに暮れて、全てを恨み否定したくなることもあった。
しかし、原因がわからない怒りや苛立ちなど、いままではなかったし
誤解を訂正しようと思ったこともない
────それらを鑑みて、頭の中。
冷静な部分が問いかける。
”……その、原因は?”
(…………それは)
(…………今。考えることではないだろう)
どこかに流れ行きそうになった
自らの思考を無理やり止めて
『柔らかなすまし顔』を意識しながら、彼は絹糸の柔らかさに意識を集中させ────
「あ、これ使うといいよ」
『それ』は、突然声と共に目の前に現れた。
ひょい! と音さえ立てたようなタイミングで現れた道具に、エリックは目を見開き、思わず顔をあげる。
「……これは?」
「糸通し。こうやって使うの」
「……へえ」
糸通しの向こう側。
飛び込んできたのは、こちらを見つめるハニーブラウンの瞳と
────呑気な顔。
「入った?」
「──…………入った」
「ごめんね、もっと早く渡せばよかったね?」
「……いや、君が謝ることじゃない」
カウンターを挟み、向かい合わせ。
互いに背の高い丸椅子に腰掛けながら首を振る。
渡された糸通しに導かれ、指の先で、滑らかに、糸を穴が滑っていく。
今までのもどかしさが嘘だったように
するすると通った糸に、そこはかとない気持ちよさを感じるエリックの前。
手元の小さな絹生地を丸めながら、ミリアは言うのだ。
「ううん、おにーさんが初心者なの忘れてたから。
完全にこっちの過失。ごめん!」
「…………いや。
……あー……、糸は、これぐらいの長さでいい?」
「うん、だいじょうぶ。
このコサージュ、小さいやつだから、くるくる~って丸めて縫う」
「……こう?」
「そうそう、お花を意識して」
「……花を」
いつのまにか覗き込み、前傾姿勢。
顔を突き合わせ、おなじところを見ながら
息があっていくのを、感じつつ
『集中』に、心が、解けていく。
「もうちょっと”きゅっ”と! ほどけないようにしっかり。」
「…………君の手本を、もう一度見せてくれるか?」
「こうして、こう。きゅっとする」
「…………こう?」
「そう~~!! ほらぁうま~~い! 出来た!
おにーさん、上手い! 上手~!!」
「……………………」
ミリアの声に合わせて、ビスティーの中が『ぱぁ!』と華やいだ。
ぱちぱちと手を叩かれて
にこにこと笑われて
喜ぶ彼女を前に
────言葉が、でない。
手のひらの上、出来上がった小さな布の花。
『できた』満足感と
自身の中に広がる、喜びのような恥じらいに、素直に
戸惑う。
『うまあい!』とか
『じょうず!』とか
はっきり言って子ども扱いの褒め言葉だ。
26にもなって、こんな言葉を浴びるなんて、恥ずかしいはずなのに。
別の人間に──例えば、スネークなどに言われたら
『馬鹿にしているのか?』とムカつく感情しか浮かばないが
”────今”
『違う』。
先ほどまでの苛立ちも、モヤも解け消えた胸の内。
決して言葉には出さないが、心に広がる嬉しい気持ち。
(…………不思議だ)
素直に、嬉しかった。
そして、照れくささもあった。
「ねえねえ。
やっぱ手先器用だよね? ボタンつけてた時も『悪くないな〜』って思ったけど〜!」
「──そう? 君には遠く及ばないよ」
声が
頬が
心が、綻ぶ
──彼女と居ると
苛立ちもするが ほぐれてもいく。
感情が、波打つように、入れ替わっていく。
「そりゃ〜プロですから?
ボタンつけもできなかったおにーさんに追い抜かれたらたまらない〜」
「──言っておくけど、俺、覚えはいい方だからな?
本気になったらすぐ追いつくかもしれない」
「うわあ、ヤダ〜」
──フフ……!
『やだ』と言いながら、ケタケタ笑うミリアに釣られて笑う。
────先ほどの苛立ちは、もうどこか飛散し消えていった。
彼女の出す穏やかな空気に、心も丸くなる。
自分自身を操ることができないことや
思ったよりも感情が動くことに、戸惑いも苛立ちも覚えるが
(──今は、ひとまず良いだろう)
と、心の中で結論づけて
そしてエリックは、思い出したかのように口を開き話題を振った。
「────なら『ボーンの値も上がるのも、もう知ってる』か。
糸の値上がりと共に知らせが来てるよな?」
「ボーンも!!?」
それに戻ってきたのは、素っ頓狂な声だった。
先程の柔らかさはどこへやら。
秒速で吹っ飛び愕然とする彼女に、エリックは様子を見ながら言葉を続ける。
「……それは、知らなかった? 来月から値上がりするらしいんだ」
「…………知らなかった…………
…………うそでしょ、ぼーん……おまえもか……!」
「…………」
『やや大きめ』。
声を響かせがっくりとカウンターを見つめるミリアに、胸の中がざわめいた。
──以前
布屋の店主に『綿も値上がりした』と聞いた後のあの時より、強く。
彼女の『どうしよう』に、心が、引っ張られていく。
「ねえ、ぼーんってどっちのほう?」
俯いていたそこから、パッ! と勢いよく。
はちみつ色の瞳で見射られ、彼は一瞬詰まり、首をかしげる。
「う、ん? 『どっち』?」
「だから、種類あるじゃん、どっちが上がるの?」
「……種類?
……あー、『S』の方?」
「……えすかぁあああああああ~~~……!」
「……ミリア? その様子だと、関係あるんだな?」
「うーん……
ないこともない、というか。
そんなにたくさん使うわけじゃないけど、たま~に必要になるの、『ボーン』って」
問いかけに、しゅんと眉を下げるミリアは、『困った』を前面に出し、悩ましげに両頬を包んで溢すのである。
「ああもう~……
…………よりによって『S』の方……!
うーん……!」
「ミリア……、その。
気を落としているところ悪いんだけど、ボーンって、何?」
「ん? ああ、これこれ」
問いかけに、ミリアはけろりと頷いた。
エリックの気遣いもころりと受け止めて、彼女はカウンター下に手を伸ばし────
────ばいんっ。
「────!?」
突如。
彼女が引き出したのは『透明な板』。
その『反動で飛び出したような不思議な音』に。
びよびよびよ! ぼよぼよぼよ!
「…………!?」
ミリアにぶんぶん振られて音を出すそれに。
(──なんだ……!?)
エリックは、まともに驚き身構えたのであった。
※プラバン※




