1-1「あなた、新興宗教の人なの?」
何事にも、表があれば裏がある。
本業があれば副業がある。
これは、自らを「盟主・スパイ・モデル」という、光と闇の外面で固めた男の 喜 劇 である。
※
季節は七月。
ノースブルク諸侯同盟・オリオン領西の端。ウエストエッジという街の片隅で、今。まさにとある女性が、スパイの毒牙に罹ろうとしていた。
「……よくさあ。”名は体を表す”っていうけど、あれ、幻想に近いと思うんだよね〜。親が願ったように子が育つのであれば、苦労はない」
愚痴っぽく語るこの女性。
彼女の名前はミリア・リリ・マキシマム。24歳。
総合服飾工房ビスティーに勤める着付師だ。
店の軒先でガタついたテーブルに肘をつきヤサグレ気味に串焼きの串を放る彼女に、よそ行きの笑顔を返す男がひとり。
「…………そうかな? 俺は君によく似合ってると思うよ」
「そうかなー? わたし、別に人を許したいとか思わないよ? 恨み持ったら一生許さないし、一生苦しみながら死に絶えて欲しいと思っている~」
「……はは、恐ろしいな」
「綺麗に生きたいとか思わないもん。綺麗事じゃないのよ〜、世の中」
「────フッ! ずいぶん正直なんだな? 気に入った」
「あらま。それはどーも♡ ありがとうざんす〜♪」
ミリアのやさぐれに、わざと吹き出して好感を引き出すこの男。今の名前を『エリック・マーティン』。本名『エルヴィス・ディン・オリオン』。このオリオン領の盟主であり、スパイとモデルの仕事も抱える副業盟主だ。
つまりこいつが毒牙をかけようとしている張本人である。
母親譲りの彫刻美麗フェイスを武器に。
絶対的な自信と、『女など容易い』の思惑を底に。
エリックはその緩い癖毛を耳にかけ、藍よりも深い瞳に愛を乗せてほほ笑むと、
「…………なあ、ミリア」
「おっと。いきなり呼び捨てですか。なんでしょう? おにーさん」
甘い甘い声で絡めとる。
安飯屋の軒先、香ばしいスモークすらも材料にして。
「…………実は、さっき君の職場に顔を出したんだ」
「ビスティーに? なんで?」
「…………君と、話したくて」
「わたし?」
「────そう。君と」
出すのは興味。
君が気になるという空気。
それを出された瞬間、女は皆そわそわと浮足立つと、彼は知っていた。
「……君に惹かれたんだ。もっと君の話を聞きたい。なあ、どうだろう? 一緒に食事でも行かないか?」
「…………しょくじ。」
「──そう。君と、二人で。ゆっくりと」
「……いまたべてる……」
「………………」
ポリッ……
こっくん。
ざわざわざわ……
途端ざわめき出す周囲・固まるエリック・ミリアの揚げパスタ。
確かにそうだ。
確かにそうなのであるが、まさかそう返してくると思わなかったエリックは完全硬直した。
想定外の返答に固まるエリックに、ミリアはもぐもぐと中身を飲み込むと、
「いま、たべている。………え。どうしよ。もうお腹いっぱいなんだけど、あ、まって? 吐き出してきたらいい?」
「ちょ。ちょっと待って」
「ううううん、ごめん~。おにーさんは二軒目行けるかもしれないけど、わたしはもう入らないっすね……」
「……いや。まって」
「っていうか駄目だ! わたしこのあと仕事だし! 今おひるで中抜けで!」
「……えーと、待ってください」
先ほどまでの色気をどこへやら。
思わず待ったの手を出す盟主エリックと、斜め上の返事を繰り出したミリア。
彼は、盗もうとしていた。
ミリアという女から、欲しい情報を。
彼女は、知らなかった。
目の前で話す男がスパイであり、盟主であることを。
──さて、一体どうしてこうなったのか──
それは、ほんの少し前。
エリックとミリアの出会いまで遡る。
※
────『ならない!』
(…………またか)
耳に届いた女の声に息をつく。
目を向けた先、揉めている男と女。
どっかりと腰掛けていたそこから、わずかに背を浮かせ、手の内で新聞を折り畳む。
────『他へお回りください!』
石畳の上、足を組み もう一度。
────『……行かないって言ってるでしょ!』
投げる視線は、冷ややかなもの。
白い壁も眩しい家々の前、色とりどりの服や果実が花を添える店通り。
彼は思った。『ああ、収まる気配がないな』と。
そして彼は立ち上がる。
ぎゅっと踏みしめた革のブーツで石畳を鳴らして、こつ、こつ、こつと、ゆっくりと。
※
彼女は困っていた。
吹き抜ける風も気持ちよく、夏の訪れを感じさせる、よく晴れたとある日の午後。先週よりやや強く降り注ぐ日の光。商店が立ち並ぶ通り沿い、赤茶けた屋根が青空に映える。
ノースブルク諸侯同盟・オリオン領西の端。ウエストエッジの一画で、過ぎゆく雑踏のちらちらとした視線を受けまくる女性がひとり。彼女の名前は『ミリア・リリ・マキシマム』。この物語の女主人公だ。
女主人公のミリアだが、彼女はピンチだった。
「いいだろ? その荷物もってあげるってっ!」
「い、いやあ。大丈夫です~、ありがと~」
さっきからこの繰り返し。足を止めてしまったのが運の尽き。
彼女の足元、ペタンコ靴のかかとがコツンと音を立てて、背中に感じるのは壁の硬さだ。町娘仕様のふんわりスカートが壁で潰れ、カスれた音を立てる。
ピンチだ。ピンチである。
覆うように覗き込むナンパに向かって渾身の引き笑い。軽くあしらえるかと思っていただけに、想定外もいいところだ。
(……困った……!)
胸の内で呟きながら、胸元まで伸びた 深く濃いブラウンの髪を巻き込み、両腕で抱えた紙袋をぎゅっと掴んで、目線を投げた。
そのはちみつ色の瞳で見つめるのは、男の向こう側。通りを歩く見知らぬ人々。
覆われるように追い詰められているとはいえ、全く見えないわけではない。誰かが助けてくれるかもしれない。
─────しかし。
ちらり、ちらり、ひそひそ、……ふっ……
皆、目は寄越すが──……素早く反らして足早に過ぎていく。
(…………せ、世間って冷たい…………)
『厄介ごとはごめんだ』と言わんばかりに去りゆく民衆に、ささやかな悲しみを感じながら一言。傍から見れば『乙女の危機』なのだが、こんな時に現れる英傑など夢の世界の話である。
(……どーしよマジで……)
ウエストを締めている幅広のコルセットベルトに関係なく、胃がぎゅうっと縮む思いだった。
なんとか逃げる算段を立てるが、もう壁際に追いやられているし、ナンパ男の腕は思いっきり壁をドンしているし。顔は近いし、腕は太いし、なんか臭いし、どう考えても逃げられる状況ではない。
この間にも、ナンパな男は今も自分を囲みながら「ちょっとだけ」だとか「いいだろほら」とか、御託を並べている。
────それが、逆効果だということに気づかずに。
「…………」
その状況に、ミリアはすぅっと目を伏せ息を吸い込んだ。
────選ぶしかないのかもしれない。
ここで男に食われるか。
それとも────抗うか。