第五章 女神サリア(3)
『だから、これはわたしからの遺言だ。アドニス』
いきなり背後を振り向いたランドルフがそう言って、慌てて視線を投げればそこには父さんと母さんか並んで立っていた。
「……随分好き放題言ってくれますね。ランドルフ宰相。わたしはこれでもあなたの主筋の血筋なんですが?」
英雄と言われた宰相というだけあってか父さんも敬語だ。
珍しい。
『そなたの血筋とわたしの血筋が交わることは禁忌だった。そなたはその禁忌を破ったのだから代償は払って貰わねばな』
「わたしにどうしろと?」
『サイラス・ノワールにシリルを嫁がせることだけは認めん』
「はあ。そう来ましたか」
なにか感じるところがあったのか、父さんはどこか遠くを見てため息をついた。
えっと。
俺はこれを喜んでいいのかな?
取り敢えず強制されることはなくなりそうだけど?
『わかってほしい。そなたの血筋とわたしの血筋がこれ以上近付けば、それだけ神を魅了してしまう。この呪いを凌いでも、それを凌駕する事態を招く。それは避けるべきだろう?』
「……そうですね。確かに神のご加護を得し血筋同士の婚姻は忌み嫌われています。これ以上血筋が近付くことは避けねばならないでしょう」
「でも、シリルの呪いが解けなければ意味がないのでは?」
震える声の母さんにランドルフが笑う。
英雄と言われた人の笑顔は、なんだか見ている者に勇気を与えるんだな。
なんでか知らないけど、なんとかなりそうな気がしてきた。
『大丈夫だ。わたしの遺言が発動した。後は発動させた者が責任を取るだろう』
俺が思わずオーギュストを見ると、オーギュは動揺のあまり本を落としかけた。
「お、おれですかっ!?」
『わたしがなんの条件もなく遺言を発動させるとでも? その鍵はそなたの心の中にある。早く気付きなさい。後悔しないために』
オーギュストはなにやら赤くなったり青くなったりして、「あー」とか「うー」とか唸ってたけど、父さんは「そういうことか」と呟いていた。
『遺言の鍵はそなたの心の中に。シリルが持っていた鍵と重なった場合にのみ、女神の神殿の道が開かれる』
俺とオーギュストはじっとお互いを見ていた。
なにか知らないけど、どうやら俺の命運はオーギュストが握っているらしい。
俺を生かすも殺すもオーギュスト次第ってことか。
まあオーギュストならいいか。
どんなに難しいことも間違っていると知った瞬間、過ちを認めることのできる正しい心を持ってる奴だ。
きっと逃げたりしないだろうから。
どうしてそう思えるのか、俺にも不思議だったけど、俺はそう思って小さく笑ってた。
それを見ていたランドルフが微笑んでいたことに、俺は気付かなかったけど、残りの3人は赤くなったり納得したりしていたらしいけど。
すべては後になって語られることだった。
まだすべてが動き出すには早い。
俺の心がまだ子供だった。
戦うことを覚えるには。
それを知っていたのか、ランドルフはこのとき、これ以上のことはなにも言わなかった。
これからも助言を与えるために出てくるとだけ告げて姿を消してしまった。
不思議なご先祖だったなと思う俺と難題を押し付けられたオーギュスト。
そして結果を見守る形になった父さんと母さんは、なにも知らない兄貴のことを思ってため息をついたのだった。
「そこまでわたくしが気に入らないの? ランドルフ?」
苦々しく眼前に広がる世界を睨む赤毛の女性。
女神サリアだ。
あれからの悠久の時代ランドルフの転生を待って、夫を迎えずに暮らしてきた独身の最後の女神。
どことも知れぬ神殿で彼女は夫の訪れを待っていた。
しかし彼は相変わらずだ。
飄々として掴み所がない。
そもそもだ。
彼が女神の求婚を断るなんて普通あり得ないのだ。
何故なら彼が英雄と呼ばれることになった事件。
それに関与したのが女神サリアであり、サリアは助力する代わりにランドルフを求めた。
つまりは見返り。
早い話が神への生け贄であり、ランドルフは女神の夫となるべく運命付けられた男性だった。
始めからそうだったのだ。
サリアの夫はランドルフが生まれる前から彼だと定められていた。
なのにあの男はさっさと恋人を見つけ、サリアと出逢うまでに将来を誓ってしまった。
神の常識としてはだ。
約束を破ったのはランドルフの方だ。
ランドルフは誕生する前からサリアの夫であり、同時にだからこそ神に加護されし神子と呼ばれたのだから。
「でも、仕方がないわよね。そんなひねくれたところが好きなんだもの」
ニコニコと女神サリアは笑う。
屈託なく微笑んでいるが内心は穏やかではない。
サリアが最終的に生命を奪うていうタイムリミットをつけたのは、実は自分が自由になりたいからだった。
ランドルフが生きている限り、彼の魂が存在する限り、サリアは彼以外の夫を迎えられない。
彼の転生は二度目のチャンスであり、女神にとっては最後の機会だった。
最悪彼が呪いを断ち切ってしまったら、サリアは生涯夫を迎えられない女神になってしまう。
彼以外を夫に迎えるためには、ランドルフの魂に消滅して貰うしかない。
女神に与えられた機会は僅か2回。
あの男はそれを知っていて、まだ抗おうとしている。
『わたしは我が儘なんですよ、女神サリア。女神の夫となり神々の一員となることより、泥にまみれて生きる人間でいたい。だから、あなたの求婚は受けられない』
女神として求婚したサリアに対して慇懃無礼にそう言った男。
その曇りのない笑顔を見た瞬間、恋に落ちていた。
定められた関係だからとか、そんな宿命的なものは抜きにして、この男が欲しい。
そう思った。
なのに彼は一度も振り返らなかった。
彼の瞳はサリアを見なかった。
女神は心を奪われた段階で、その男以外を夫に迎えられなくなる。
それ故の婚姻の宿命であり、サリアは自分の運命に嵌まったわけである。
なのにあの男ときたら死んでまでも逆らおうとしている。
「知っているのかしら? ランドルフ? そうやって逆らえば逆らうほど神は本気になるものよ?」
ニコニコと笑い声が漏れる。
気性的にはなにも変わっていないが、穏やかな時代に生きている分、覇気を失い可愛らしく転生したかつての英雄を思う。
それは彼の運命の半分を女性化させた報いでもあったかもしれないけれども。
でも、彼もまた間違いなくランドルフ。
あの迷いのない眼がその証。
女神を拒絶する瞳をした者が他にいるわけがない。
「わたくし以外を思うことなど認めないわ。あの男のどこがいいの? 女になりたくないあなたが何故あの男に惹かれるの?」
ランドルフの眼は常に自分以外に向いている。
そのことを女神は悔しく思う。
その感情が執着となり自身を縛っていることをサリアはまだ気付いていなかった。