秘めた想いと新たな一歩
緋色の瞳は閉ざされていて、一瞬、死んでいるのではないかと思うほど、その存在感は希薄だった。しかし、一歩彼女に近付いた際に、草を踏む音が彼女に届いたらしい。気怠げな様子で顔を覗かせた紅玉が、俺をしっかりと捉える。
「何しにここに来た……と聞くのは野暮か」
「全部、師匠から聞いた」
「そうか」
ふっと力なく笑みを浮かべる彼女に、俺は山を登る間に考えていた言葉の一切を忘れて言った。
「なんで、最初から教えてくれなかったんだ! 勘違いだって、俺の両親を殺したのは自分じゃないって、そう言えばよかっただろ!」
謝らなければ、そして伝えるべき想いを伝えるのだと、そう思っていたのに。俺の口から出てきたのは、素直さの欠片もない、捻くれた言葉だった。そんな俺を咎めるでもなく、彼女は静かに言った。
「身内が人の肉の味を覚え、お前の両親を殺したのは事実だ。そして、妾も鬼であることに変わりはない」
「鬼だからなんだ! 俺はあともう少しで、恩人のお前を殺すところだったんだぞ!?」
「坊に祓われるならそれでも構わんさ。まぁ、念のため少しでも結界の維持をしていたかったから、祓われたと見せかけたが、朱梨が今度こそ祓われたのなら、妾もここに留まる理由はない。ひと思いにやるといい」
この後に及んで、俺がまだ祓うつもりでいると思っている彼女に腹が立つ。そういう言動をずっと繰り返してきた俺が悪いのもわかってはいるが、恩人だとわかってなお、そんな非道な仕打ちをする人間だと思われていることが、純粋に悲しかった。
「お前は昔からそうだ。俺のこと馬鹿にして子供扱いして、言うことなんか何一つ聞いちゃくれなくて」
「妾の十分の一も生きていない坊の言うことを聞く義理はないからな」
「なら、俺だって、お前の言うことを聞く義理はない!」
今にも消えそうな彼女を前に問答などしている場合ではないと判断し、俺は持ってきていた小刀を取り出した。それを見て、彼女は悲しげに微笑んだが、彼女の思うとおりになど動いてやるものか。
そして、俺は迷うことなく、その小刀で自分の左腕を切りつけた。それに対し、彼女の瞳が大きく見開かれる。
「なっ……! 坊、お前何を!?」
「俺の血肉は、お前達にとって妖力を跳ね上げる養分なんだろ? なら飲め」
そう言って、俺は垂れ流すままにしている腕の血を彼女の口元に近づけた。一瞬、恍惚とした表情を浮かべた彼女だったが、もう少しで唇に触れるといったところで、理性を取り戻したのか、顔を背けて言った。
「馬鹿を言うな。飲めるわけが……んうっ!?」
自ら飲む気がないのなら、俺が飲ませるまでだ。彼女が御託を並べる間に、自分の血を口に含み、そのまま彼女に口付けた。無理矢理、舌と共にねじ込み、飲み込むのを確認して解放すれば、彼女の希薄だった存在感が確かなものになる。それにホッと息をつけば、彼女は俺をキッと睨むように見上げ、俺の血で赤く染まった口を拭った。
「お前、自分が何をしたかわかっているのか!?」
「言うことはもう聞かないって言った」
「……こんな痴れ者に育てた覚えはないぞ」
「こんな風にしたくなかったのなら、俺のことなんか放っておけばよかったんだ」
そう。彼女を仇だと信じ、飯を食べることも生きることも放棄しようとした子供なんか、放っておけばよかった話だ。それでも彼女はそうしなかった。
俺が何を言っても、時に揶揄い、時に抱きしめ、時に宥めた。それが彼女の間違いだ。最初こそ、母のそれに似た感情を抱くこともあったが、年を重ねるにつれ、歪な別のものへと置き換わっていったのだから。
「お前は俺をただの子供としか思ってなかったようだが、仇だと思って憎んでいなければ均衡が保てないほど、俺は同じくらいお前のことが愛おしかったんだ」
そんな俺の言葉に、彼女は『は?』と間の抜けた声をあげる。憎むばかりだと思っていた子供が、思慕の情を抱いているなど思うまい。俺だって、ずっと見ないようにしなければ、自分を保てなかった感情だ。
だが、否定したかった俺の感情とは裏腹に、一度芽生えたそれは、年を追うごとに膨れ、想いは降り積もっていく一方だった。
「仇でなければとどれだけ思ってたか、お前は知らないだろ? 俺がどんな気持ちで祓おうとしたかなんて知らないだろ?」
仇は討たなければならない。そうしなければ、両親が浮かばれないとそう思っていた。だから、祓ったら後を追うつもりだった。彼女が残した夕餉さえなければ。
俺の生を願って用意された夕餉だと知っていたからこそ、それを無下にもできなかった。食ったからこそ、俺はまだこうして生きている。
彼女が残した願いの欠片などなければ、とうにこの世にはいなかっただろう。
それほど、彼女は俺にとって大きな存在だった。そんな華奢な両腕を掴めば、彼女は焦った様子で言った。
「ば、馬鹿っ! 早まるなっ! そんなの気の迷いだ!」
「気の迷いなんかじゃない。何なら、ここで契りを交わそうか、今すぐに」
彼女を祓っていなかったとわかったときに俺の安堵を、彼女が仇ではなかったとわかったこの喜びを、どうしてもわからせたかった。そして、俺は小さな子供ではないのだということも。
「お前が昔と変わらずに抱きしめてくる度に、俺がどれほどの劣情を感じていたか、わからせてやる」
「やめっ……!」
問答無用で、彼女の片肌脱ぎの着物をはだけさせ、首筋に口付ける。それに硬直したのをいいことに、左胸に刻まれた蝶の刺青に口付けながら、さらしに手をかけたそのときだった。
「やめろと……」
「ん?」
くぐもった彼女の声に顔をあげれば、耳まで真っ赤に染め上げた彼女が俺を睨めつけて言った。
「……言ってるだろうがーーーーっ!」
「ぐはっ」
すっかり手込めにしたつもりで油断していた俺は、怒鳴り声とともに繰り出された彼女の鉄拳を、もろに顎へとくらい、ものの見事に吹っ飛ばされた。
「お前が妾に勝とうなど、百年早いわ戯け者!!」
そう言って、彼女は僅かに乱れた着物をささっと直すと仁王立ちした。その顔が熟れたリンゴのようでなければ、恐怖に恐れおののいたのだろうが、生憎、全く怖くはない。むしろ、可愛らしく愛おしいと感じてしまうほどだ。
それに思わず笑ってしまっていたのだろう。彼女は憤慨した様子で言った。
「な、何が可笑しい!」
「いや。そんな風に慌てるところを初めて見たなと。あと、ようやく、俺を子供から一人の男として認識したのが嬉しくてな」
「なっ……おお、お前なぞ、まだまだ子供だ! ひよっこだ!」
彼女は気付いているんだろうか。彼女が声を荒げる姿をオレに見せること自体が初めてだということを。そして、どれだけ彼女が動揺しているか、その行動が俺に雄弁に語ってしまっているということに。
「そのひよっこに手込めにされかけたのはどこの誰だ?」
「術で弱ってただけに過ぎん!」
「……そういうことにしておいてやるよ」
そう言えば、彼女は不満げな顔を露わにする。威厳の欠片もない、そんな姿がどれほど俺の心を掴むかなど知らないのだろう。そして、俺がどれだけ本気なのかも。だからこそ、俺は至極真面目に言った。
「だけど、お前が両親の仇じゃないなら、俺にはこの気持ちに蓋をする理由はない。だから覚悟しておけよ」
「するか、戯けっ! 寝言は寝て言えっ!」
そう言って拳を振るおうとする彼女の手首を取り、俺の方へと引っ張る。姿勢を崩した彼女と位置を入れ替え、俺はその身体を地面に縫い付けた。
「俺が負けず嫌いなの、お前が一番知ってるだろ」
目を瞬かせていた彼女が、俺の言葉に口元を引き攣らせる。どうやら俺の本気度合いがやっと伝わったらしい。そんな彼女の少し尖った耳元に顔を近づけて、俺は囁いた。
「お前の全てを手に入れるまで、オレは諦めないからな」
言葉にならない悲鳴をあげた彼女の動く気配がして、さっと避ければ彼女の膝蹴りが空を切る。俺を恨めしげに見つめながら、彼女は悔しそうに言った。
「坊のくせに、生意気な……」
「冬惺」
たった一言告げた単語に、彼女は呆気に取られた様子で瞠目する。意味がわかっていないらしい。
「俺の名前は坊じゃなくて、冬惺だよ、朱華」
「そんなこと知って……~~っ!?」
ずっと頑なに呼ばなかった彼女の名を呼べば、一拍遅れて気付いたらしい彼女の顔の赤みが増す。嫌われていない確信だけはあったものの、異性として見て貰えるのかは賭けだったのだが。この様子なら、思ったよりは脈があるのかもしれない。
それならば、焦って既成事実を作る必要などない。そう判断し、俺は彼女に手を差し出して言った。
「朱華、ここからもう一度始めさせてほしい。今度は仇としてではなく、一人の男と女として」
「妾は鬼だと言っているだろう」
「俺は朱華が好きだ。その気持ちに鬼も人も関係ない」
「冬惺はわかってないだけだろう。人間は人間と結ばれる方が幸せだ」
そう言って彼女は、視線を反らす。名を呼ばれたことで、俺がどれだけ歓喜しているかも知らずに。
「仮にそうだとしても。それでも俺は、生きるのなら朱華と一緒がいい」
俺の言葉に、彼女が目を見開いて振り返る。
「身勝手だと重々承知はしている。それでも、言わせてくれ。一緒に帰ろう、朱華」
そんな俺の手と顔を交互に見た後、彼女はやや躊躇いがちに俺の手を取った。
もう二度とその手を離すまいと握りしめ、豊満な身体を抱き寄せる。拒まれなかったのをいいことに、一度触れたその唇にそっと口付ければ『調子に乗るな』と、顔を真っ赤に染めた彼女に殴られた。
これが、俺と朱華の本当の始まり。
その後、俺と朱華がどうなったかって? それは想像に任せよう。ただ、俺はやると言ったらやる、それだけだ。