彼女の真実
それから数日、彼女の消失と共に、生きる目的も一緒に失った俺は、抜け殻のように惰性の日々を送っていた。彼女を追い出すこと以外目もくれなかった俺に、飯を作りに来てくれるような女人もいない。ならば自分で作るほかないのだが、それをする気にすらなれなかった。
師匠が俺を訪ねてきたのは、そんな折りのことだった。
「穢れに遭って出仕を控えていると聞いていたが、この荒れようはどうした?」
「荒れてなどおりません。ただ、目的を果たした今、何をする気にもなれないのです」
「目的を果たした……?」
俺の言葉に、師匠は訝しげな顔を浮かべる。そして、屋敷を見回すと、真顔で問いかけた。
「お主、この屋敷におった鬼はどうした?」
「……魔滅で祓いました」
「なんだと!?」
今まで見たこともない師匠の剣幕に、ゆるりと首を傾げる。すると、師匠は俺の頭をぽかりと叩いて言った。
「この戯け者! 何度も言っただろう、仇を見誤るなと! 仇を取るといって、仇を取り違えてどうするんだ!」
「何を言ってるんですか。あの鬼が俺の仇です。俺が仇の顔を見間違えることなんてありません」
「あの鬼はな……」
そこまで言ったところで、師匠の言葉が途切れる。それと同時に感じたのは、全身の肌を逆なでるほどの妖気。ぶるりと身を震わせる中、師匠は破魔札を懐から取り出し、外を見つめる。それに倣い、俺もそちらを振り返れば、そこには彼女がいた。
「な、んで……」
「久しいのぅ。お前、あのとき喰いそこねた童か」
「何を言って……」
久しいも何も、彼女を祓ったのはつい数日前だ。加えて、まるでしばらく会っていなかったかのような口ぶりに、頭が混乱する。そんな俺に師匠が言った。
「落ち着いて聞け。お前の仇は、今ここにいるあの鬼だ」
「……え?」
「お前が今まで一緒にいた鬼は、仇などではなかったんだ」
師匠が信じられない言葉を吐いた。仇ではなかった。誰が? 彼女が? でも、目の前にいる彼女は仇だと言う。意味がわからない。だが、その答えは、図らずも彼女自身が答えをくれた。
「忌々しい姉の結界が邪魔で手を出せなかったが、それが消えた今、ようやく食べ損ねたごちそうが喰えるというもの。邪魔立てしてくれるなよ、そこな陰陽師」
彼女の言葉にますます混乱を極める中、彼女の左胸に刻まれているはずの蝶の刺青がないことに気付く。なるほど、刺青の入った方が姉で、ない方が妹。そして、妹の方は胸がやや小ぶりなんだなと、現実逃避した頭で思う。
そんな俺を庇うように立ち、師匠が言った。
「お主のそれは聞けない相談だ。こんな戯け者でも、私の大事な弟子なんでな」
「ならば貴様から喰ろうてやる!」
俺を置き去りにして、師匠と彼女……いや、彼女と同じ顔をした鬼が対峙する。というか、姉が張った結界ってなんだ。それは何のための結界で、どうして消えた。
思考がぐちゃぐちゃでまともに動けない中、師匠の術で目の前の鬼が絶叫をあげる。そして、これでもかという程に呆気なく灰と化し風に散っていった。
そういえば、祓われた物の怪は灰になって消えるんだったな、と記憶の中の知識を引っ張り出す。引っ張り出して、その瞬間はたと気付いた。
柏手を打って場の浄化をした師匠に近付き、その袖を引っ張って言った。
「師匠!」
「なんだ?」
「灰にならなかったんです! 透明になって消えて!」
「落ち着け」
主語もなく喋る俺の肩に手を置いて、師匠は静かに問いかけた。
「お前が祓ったときは灰にならなかった、ということでいいんだな?」
「はい」
「ならば、それは祓ったのではなく、彼女が自ら姿をくらましたのだろうな」
何故、なんて思わない。初めて会ったときから、俺はずっと彼女に呪いの言葉を吐き続けてきたのだから。出て行けと、追い出してやると。
「師匠。彼女は、俺の仇ではなかったんですか……?」
「先ほど祓った鬼が言ったとおりだ」
「何故、師匠はそんなことを知っているんですか?」
俺が師匠の元に行ったのは、両親が殺されて数年が経ったあとだ。当時のことなど知るはずもないのに、何故知っているのか検討がつかなかった。そんな俺に、師匠は静かに語った。
「人の中には稀に、物の怪の妖力を増す血肉を持つものがいる。それがお主の家系だ、という話は以前したな?」
「はい。だから身を守るための術を教えてくれたのですよね?」
「そうだ」
それは俺の両親が鬼に狙われた理由であり、才能がからっきしな俺に師匠が術を授けてくれた一番の理由だ。忘れるはずもない。
「お前と一緒に居た鬼はな。お前の両親が喰われるその少し前、私のところに助けを求めに来たんだ。自分の力だけでは止められないから、双子の妹を止めてほしい、とな」
師匠が告げた言葉に、思わず絶句する。それではまるで……。
「それを受けて私が到着したとき、鬼は正にお前を襲おうとしていたところだった」
「じゃあ、あのとき助けてくれたのは師匠だったんですか?」
「いいや。私ではなく、お前と共にいた鬼の娘が、身を挺してお主を庇ったんだ。衝撃でお主は気を失ってしまったから、覚えていなくとも無理はない」
彼女が仇ではないばかりか、恩人だという風に聞こえる。なんと都合のいい、甘美で……そして、残酷な幻聴だろう。半ば放心状態の俺に対し、師匠は淡々と続けて語った。
「その後、私はかの鬼を寸でのところで逃がしてしまってな。妹が必ずお主を狙いに来るはずだ、どうにか止めたいから結界を張って欲しいと彼女に乞われ、私は彼女を核として結界を張った」
「結界……」
「そうだ。彼女の妖力が途切れない限り消えることのない結界。それを恐らく、お主の魔滅が途切れさせてしまった……いや、辛うじてまだ途切れてはいないが、それと感じられないほどに弱まってしまったんだろうな」
――私がお前を守るのはここまでだが、達者で暮らせよ。
師匠の言葉に続くように、彼女が消える前に告げた言葉が過る。あのときは何を言っているのかさっぱりわからなかった。でも、師匠の話が全て真実だとすれば、ずっと彼女が俺を守っていたんだ。本当の仇である、彼女の妹からずっと。
「あんな言葉でわかるか、馬鹿……」
思わず、ここにいない彼女へ小さな悪態がこぼれ落ちる。
でも、こんな場所で俯いてる暇はない。師匠は言った。辛うじて彼女の妖力が途切れていないと。つまり、彼女は弱っているかもしれないが、今はまだ無事だということだ。
痛ましげな顔を浮かべる師匠を真っ直ぐ見上げて、俺は問いかけた。
「師匠、彼女の居場所を知りませんか?」
「知ってどうする」
「会いに行きます。俺は彼女をずっと仇だと思っていた。恩人をずっと呪い続け、仇で返してきました。それを償いに行くんです」
俺はずっと彼女を仇だと思い込んできた。思い込もうとしてきた。
出て行けと、邪険にする子供を揶揄いはしても、いつだって見守ってくれていた彼女を。それに絆されてはいけないと、ずっと彼女にも自分自身にも呪をかけてきた。
でも、それは間違いだった。俺がかけてきた言葉の数々は的外れな上、彼女にとってはとばっちりもいいところだ。
そんな俺に、師匠は気難しげな顔を浮かべて口を開いた。
「向こうにその気があるとは思わないが、それでも行くのか?」
「教えてもらえないのならば、自力で探しに行くまでです」
意志を曲げる気がないというのが伝わったのか。師匠は小さく息をつくと、この京の都から北に位置する鞍馬山にいると教えてくれた。
師匠から聞いた山道を登る。最初こそ、まだ人の道があったものの、途中からは獣道になり、ついには道すらなくなった。草をかきわけ、時折、木々の間から見える太陽で方向を確認しながら進んでいく。
そうしてどのくらい経っただろう。唐突にぽっかりと拓けた場所へと辿り着く。そこには一本の見事な柏の大木があった。そして、横に広がった太い柏の枝の根元に寄りかかり、一人眠る彼女を見つけたのだった。