この関係に終止符を
お越しいただきありがとうございます!今作は、晩春の苦味と、初夏の爽やかさを混ぜ込んだ作品にしてみました。この変わり目の香りを楽しんでいただけたらなと思います。
――他にいい相手がいないから。
彼女とまだ付き合っている理由は、ただ、それだけ。
でも、彼女はきっと違うんだろう。
いつのまにか、そう思い込んでいたんだ。
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いつもの場所。昼前。それなりに気に入っている服を着て彼女を待つ。周りには僕のように待ち合わせをしている人が沢山いて、混雑している。少し背の低い彼女を見つけることが出来るかどうか、少し心配だった。
「……ん、お待たせ」
「あぁ、別に待ってないよ。おはよ」
ひょこっ、と。彼女が人混みから顔を出す。いつもと同じやりとり。このやりとりを、今まで何度繰り返しただろうか。見慣れた服に身を包んだ彼女は、少しだけ挑発的な笑みを浮かべて言った。
「……どう?何か言うこと、ない?」
ふむ。どこについて言えばいいのかな。昨日も会ったし、大きなところは変わってないのはわかる。少なくとも髪は切ってないだろう。……いや、数センチ切ったとか言われたら無理だけど、そんなことを言う彼女ではない。爪?いや、別に普通だ。メイク?いつも通り。……あぁ。これは、あれだな。
「今日も可愛いよ、綾乃」
「……うむ。大儀である」
「ははー」
少し笑い合って、歩き出す。綾乃が僕の左手を握る。それを握り返す。彼女の温もりが心地いい。……でも。こういう時にいつも、ふと考えてしまう。これは本来ならドキドキする行為のはずなのだ。それなのに、胸がときめかなくなってしまったのは、いつからだっただろう。彼女とのやりとりが程よい緊張感を失ってしまったのは、いつからだっただろう。……もしくは、元々だっただろうか。
ゆっくりと歩く彼女に、僕の足はいつの間にか歩調を合わせていた。
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――こんな関係は間違っている。
彼女と付き合い始めてからすぐに、僕はそう思うようになった。そもそも、こんな二人が付き合うこと自体が間違いだったんだ。
根本的な原因は、そう。しょうもない好奇心と一種の憧憬だった。付き合ったことがない非モテ男子が見た、くだらない夢。
……まぁ、有り体に言えば、誰でもいいから付き合ってみたいという欲望だ。でも、そういう奴に限って、“誰でもよく”はないものである。
特に僕は、無駄に理想が高いタイプだった。付き合うなら美人で愛嬌があって、清楚で巨乳で……など、挙げれば挙げるほど非モテクソ童貞の典型的なタイプだったとわかる。そんな理想のせいで、周りにはロクな女がいない、と。僕はそう思ってしまった。
……まぁ、結果はお察しさ。結局大学に入るまで、誰とも付き合うことは出来なかった。
そこでやっと、僕は気づいたんだ。そんな理想を掲げていたら、いつまでも付き合うことなんて出来ないと。……遅すぎるよな。なんでもっと早く気づけなかったんだと、後悔しかないよ。まぁそれでも、そこからはちゃんと周りを見るようにしたんだ。容姿はこの際あんまり気にしない。大事なのは性格や相性だ。一緒にいる時間が楽しくなければ、いくら美人でも付き合い続けるのは辛いはずだ。いや、付き合ったことないから知らんけど。
でも、周りを見れば見るほどに、僕の趣味には合わない女しかいないことに気づかされた。声が大きすぎて煩かったり、逆にオドオドしすぎていて極端に気が弱そうだったり。……これは僕の好みの方が問題なのかもしれないが。
そんな軽い絶望を感じていたその時、彼女は僕に声を掛けたんだ。
『……あ、同じ大学だったんだ。偶然ってあるもんだね。これで小中高大と同じかぁ。これからもよろしくー』
それが、僕が彼女――綾乃を女性として見た、初めての会話だった。
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「――ぇ、ねぇ、ちょっと。聞いてる?」
「……ん?あぁ。もちろん聞いてるよ。ベニテングダケがどうしたって?」
「やっぱり全然聞いてない!」
もう、と言って少し睨む顔が、可愛いとは思う。でも、この感情はきっと愛情ではなく、親愛なんだろう。やはり、こんな歪な関係は間違っている。僕は彼女を愛していないのに、付き合っているだなんて。
「――。でね?スギヒラタケっていうのが――」
そう楽しそうに話す彼女を眺めながら僕は、何百回もし直した決意をもう一度固めるのだった。
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あの日から僕たちは、なにかと話すようになった。小中高では特別仲がよかったわけではないのにもかかわらず、だ。要因としては、昔から同じ学校だったこともあるが、それよりも彼女とは妙に馬が合ったということが大きいだろう。彼女の性格は穏やかで、一緒にいることが全く苦にならなかった。それに、適当に話をしても会話が思った以上に盛り上がるのだ。
この女性となら、こんな僕でも上手くやっていけるんじゃないか。もしも付き合えたなら、きっと毎日が楽しいだろう。そんな妄想ばかりが膨らんで、しかし彼女の気持ちはわからず、悶々とした日々を過ごしていた。そんなある意味で充実していたある日、彼女は僕に言ったのだ。
『ねぇ、私たち、付き合ってみない?』
――衝撃だった。まず、会話の中で流れるように告白をされたことが。次に、彼女が僕に対して恋愛感情を向けてくれていたことが。……そして。
僕が首を横に振ったことが。
『……ごめん。それは、できない』
ただただわからなかった。望んでいたはずの告白を断った理由も。
『うん、まぁそうだよね。だって、快斗くんって私のこと別に好きじゃないもんね』
彼女が、今にも泣き出しそうな表情で、しかしさも当然と言わんばかりの口調で話している理由も。
『じゃあさ、“仮”彼女っていうのはどう?うん、仮彼女。キープちゃんって言ってもいいよ?他にいい女性を見つけるまでの練習台。それでも、だめ?」
彼女がそんな奇想天外な提案をしだした理由も。
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「ねぇねぇ!これ、どう思う?」
ハッ、と。彼女の声に意識を引き戻された。ううむ、いけない。どうも今日は回想に陥りがちだ。辺りを見回せば、いつのまにか洋服店に来ていたようだった。目の前には白のパーカーを持った彼女。……ん?パーカー?彼女が着ているところはあんまり見たことがない気がするけど、結構好きだったりするのだろうか。まぁ、彼女に似合わないものは無い。正直に答えればいいだけだ。
「ん、普通に綾乃に似合うと思うよ。でも珍しいね、パーカー買うの」
「……ん?いや、私じゃなくて、快斗が着るんだよ?」
うぁ、マジかよ。完全に話を聞いてなかったのがバレたな、これ。
「……もしかして、体調悪いの?大丈夫?今日はもう、帰ろっか?」
「い、いや、大丈夫大丈夫!ごめん、ちょっと考え事してただけだから!」
「……だめだよ」
抵抗虚しく、彼女は手に持っていた服を置いて、僕の手を掴んで歩き出した。
「お、おい!大丈夫だって!ほら、さっきの服、買おう?きっと僕にも似合うしさ!」
「……」
く、くそ。話を聞いてくれない……!ま、まぁ、話を聞いてなかったのは僕の方なんだけどさ……。連れて行かれたのはショッピングモールのベンチ。外に生やされた樹木が葉をつけているのが、ガラス張りの向こうに見えた。半ば無理やり座らされた僕の隣に、彼女は少しムッとした表情で座った。一応とはいえデートだ。デート中に考え事など、失礼にも程があるだろう。申し訳ないことをしてしまったなぁ。
「……快斗はさ、昔から、変わらないね」
「……そう、かな?」
「うん。変わらないよ」
そう言って、彼女は少し寂しげな表情を見せた。昔?昔とは、いつのことを言っているんだろう。確かに小学生の頃から同級生ではあるが、その頃は全然仲良くなんてなかったはずだ。俺の性格なんて、別に知らなかったと思うのだが。
「夏が、始まるね」
そう、静かに呟いた彼女の表情は見えず、その言葉にどんな感情を込めたのかは、今の俺にはわからなかった。
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「今日は楽しかったよ」
数日前に比べて少し明るくなった気がする宵闇の中、街灯に照らされながら彼女は微笑んだ。
「今日は本当にごめん。なんだか集中できてなくて」
「ん、別に気にしてないよ」
そう言った彼女は、しかし何故か妖艶に唇を舐め、口元を歪ませながら続けた。
「でも。もしも申し訳ないと思ってるなら……」
「今夜、うちに泊まっていかない?」
そう言った彼女の目は、口元の妖艶さに似合わず、何かを決意するような鋭さを湛えていた。
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「お、お邪魔します」
「どうぞどうぞ〜」
恐る恐るドアを開ける。え?なんで彼女の家に入るのにビビってんだって?そんなの決まってんだろ!初めてなんだよ、彼女の家に入るのが!いや、おかしいとは僕も思うよ?二年も付き合ってれば普通、お互いの家くらい行くだろ!でもさぁ、僕たちは所謂“普通”の関係ではないわけで。中途半端な気持ちでそういうのはって、思っちゃったんだよねぇ。でもまぁ、今回ばかりは仕方ないかな、と思ったんだ。僕のせいで彼女を不快な気持ちにさせてしまったのは、間違いないんだし。
「あ、そこら辺に適当に座ってて!今お茶でも出すから」
「ん、わかったよ。お構いなく」
ヤバい。どうやって彼女に接すればいいのか、なんか急にわからなくなってきてしまった。え、これ、泊まってくんだよな?一緒に寝ちゃったりするやつ?……あれ?もしかして、今までのプラトニックな関係が終わっちゃう感じ?え?それでいいのか、僕?ここはちゃんと断らないと……。あ、ヤベ、ゴム買ってくるの忘れたなぁ。今コンビニに行ってくるべきか?流石に生はヤバいだろ……。って、違う違う!断るんだって!くそ、思考が纏まらない……!
「お待たせー!はい、紅茶」
「あ、ありがと」
「快斗、コーヒーより紅茶の方が好きだったよね?」
「うん。よく憶えてるね」
「ふっふっふ。そりゃあ憶えてますとも」
彼女は戯けるようにそう言って、テーブルを挟んだ僕の向かいにちょこんと座った。
確かに紅茶の方が好きだけど、そんなことをわざわざ言ったことがあっただろうか?……まぁ、こういうことはよくあることだ。言葉というのはいつだって、言った側よりも言われた側の方が憶えているものだから。
「ん?あれ、今日はお酒飲まないの?」
ふと、疑問を口にする。僕はあまり飲まないのだが、彼女はかなりの飲み手だったはずだ。二人で外食をした時には、必ずと言っていい程に飲んでいた。だから当然、今日も飲むのだろうと思っていたが、彼女の手元にあるのは僕と同じ紅茶。一体どうしたんだろうか。
「あはは、人をそんなアル中みたいに言わないでよ。でも、まぁ。今日はちょっと特別」
「特別?」
「うん。お酒の力を借りないで言わないと、卑怯だと思うから」
――ビリッ、と。頭の中を電気が駆け巡った気がした。あぁ、僕はいつもこうなのだ。嫌な予感だけ、冴え渡る。……嫌?僕は、嫌、なのか?
「あのね。私、好きな人ができたの」
ふざけるな。
そう、反射的に口にしかけた自分に、まず驚いた。ふざけているのはお前の方だ、僕。彼女は何もふざけてなんていない。真剣な目で、素面で、真摯に別れを告げようとしているのだ。そうであるならば、僕は頷くだけ。元々僕も、こんな関係を終わらせたいと思っていたじゃないか。これで万事解決。ハッピーエンド。何か文句でもあるのか?これでいい。これでいい、はずだ。それなのに。
「……だからね、別れてほしいんだ。私と」
それなのに。
この煮えたぎる感情は、何だ。
「……そっか、そっか!よかったね!いい相手が見つかって!」
そんな感情を無視して、俺の理性が勝手に喋り始める。そうだ。それでいい。いいはずだ。これこそが、正しいはずだ。僕がここで何を言っても無駄だ。彼女の意思はきっと固い。僕程度の説得じゃあ、変わりなんてするはずがないから。そう。仕方ないのだ。
そうやって現実を肯定し続けても。そうやって逃げ道を作り続けても。腹の奥に燻る熱は消えてくれない。あぁ、どうしろって言うんだよ!
「……うん!ありがとう!」
彼女は本当に嬉しそうな笑顔を浮かべてそう言った。なんだ、その表情は。僕の前でそんな笑顔を見せたことなんて、なかっただろ。僕を見つめているはずのその瞳にはもう、僕は映っていないんだろう。その瞳に映るのは、誰かさんと彼女が並んで歩む未来。知らない男の隣で、幸せそうに微笑む彼女の姿が目に浮かぶようだった。それをどうにかして消したくて。見ていたくなくて、目を瞑る。
目蓋の裏にいたのは、かつての彼女でも、思い出の笑顔でもない。知的な雰囲気を持つ男と、粗暴な雰囲気を持つ男が、何故か佇んでいた。
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二人はどちらも同じ顔をしている。お前たちは誰だ、と。僕が口を開こうとした途端、どこか既視感があるその顔をこちらに向けて、一人が静かに口を開いた。
『今すぐに別れるべきである。元より歪んだ関係。私の心の弱さが故に先延ばしにしてしまっていたが、彼女から告げられるのであれば僥倖。またと無いこの機会を逃すべきではない』
もう一人が荒々しく口を開く。
『今すぐに引き留めろ!こんな形で、俺たちが終わっていいはずがねぇ!そして何より!彼女が他の男の隣を歩くなんて、そんな未来、あって堪るものかよ!ふざけんな!』
そんな男の声を無視してか、いや、もしくは聞こえていないのか。知的な男はそのまま続けた。
『それだけではない。彼女の未来を考えるのだ。彼女は紛れもなく素晴らしい女性である。そんな彼女の隣には、彼女に相応しい、素晴らしい男性がいなくてはなるまい。そして、それは私ではない』
彼はとても冷静に、そして論理的に僕のことを諭す。しかし何故だろうか。感情を無視するように冷たい彼の声に、どこか泣き笑いにも似たものを感じるのは。そんな彼の心を見つめる暇もなく、もう一人は声を張り上げた。
『それだけじゃねえ!彼女は既に、俺の“理想”の女性だろうが!……いや、違ぇ。俺の“理想”の女性が、彼女になったんだ。彼女と出会って、俺は変わった。彼女と過ごす代わり映えのない日々が、俺を変えたんだ。変えてくれたんだ。他にいい相手がいない?ははっ、そりゃあ、そうだろうよ。なぁ。こんなにイイ女性を、本当にみすみす見逃すつもりか?」
彼は声を荒げて、いかにも思ったことだけを口にしているように見える。しかし、それでいて彼は非常に冷静であった。それ故に彼の言葉は心に響く。まるで、彼が感情というものを熟知しているようだった。
『……だが、お前はもう理解しているのだろう?』
『……だけどよ。本当はもう、わかってんだよな、お前は』
何をだ。どうしようもないこの僕が、何をわかっていると言うんだ。彼女の心が離れていたのにも気づかなかったこの僕が!今更何を理解してるって言うんだよ!言ってみろよ!!
二人は顔を見合わせて笑う。その笑いは、決してバカにしたものではなく、むしろ僕に対する愛しみを感じさせるようなものであった。笑みを顔に浮かべた二人は、僕を見つめて口を開く。
『見て見ぬ振りをしたがるなぁ。お前は昔から変わらない』
『それでもお前は、最後には見つめるんだ。いつだって。何だって』
二人の姿が消えていく。光の粒子となって、宙に溶けていくようだった。ズキン、と。頭が痛む。一体なんだと言うのだ。こいつらは一体何が言いたいんだ。二人分の粒子が混ざり合う。それは僕までも巻き込んで、一つの塊になろうとしているようだった。
『お前がわかっていることを、私たちがわからないわけ、ないだろう?』
二人の声が混ざって聞こえる。いや、違う。彼らは、混ざっているのが本来当然であるのだ。なぜなら、彼らは他でもない――
『お前のやりたいようにやれ。それこそが、俺たちの意志だ』
―――僕自身であったのだから。
@
目を開ける。視界はもう、一点の曇りもなく澄み切っていた。
「……僕よりも、そいつの方が好きなのか」
「……え?」
少女漫画に出てくる男が言ってそうなセリフを吐く。この際、羞恥心など感じるだけ無駄だ。僕がやるべきことはただ一つ。逃げも隠れもせず、本音をぶつけてやるだけ。僕を縛っていた全ての枷は、彼らが受け持ってくれたから。あぁ、そうだ。全てが終わったら、三人で飲み会でもしよう。まぁ全員ジュースで乾杯だろうが。
「あの日の告白は、もう無効なのか」
「……ど、どうしたの?急に。なんか、変だよ?」
「ごめん。変なことを言っている自覚はあるよ。でも、答えてほしいんだ」
「……わかったよ。えっと……言いにくいけど、今はもう、彼の方が、好きだよ。そして、ごめん。私から付き合ってもらったのに、フることになってしまって」
わかっていた。この質問に、彼女はそう答えると。そして、わかっている。彼女の答えは、ここで終わらない。
「……でも、これでも私、頑張ったんだよ?快斗に好きになってもらいたくて。快斗と正式にお付き合いしたくて」
わかっていた。彼女が頑張っていたことは。だけど、わからなかったんだ。どうして僕が、彼女にこんなに好かれているのかが。どうして僕は、彼女の気持ちに応えてあげられないのかが。
「このままでは終わりたくないって、ずっと思ってた。だけどさ、私、考えちゃったんだ。ずっとこのままなら、って」
わかっていた。あんな歪な関係を続けているというのが、どういうことなのか。そして、歪なものが迎える結末というものも。
「……ごめんね。私、疲れちゃったの。手に届かないものを、追いかけ続ける日々に。風に舞う桜の花びらを、必死で掴もうとする毎日に」
わかっていた、つもりだった。彼女は歴とした人間だ。この残酷な現実を、必死に生き抜いている人間だ。決してラブコメのヒロインなんかじゃない。人並みに疲れて、人並みに苦しんで。人波に呑まれて、人並みに諦める。報われない想いに何年も耐え続けることなんて、普通は出来るわけが、ないのだ。
「納得してくれなくていい。好きなだけ責めてくれていい。だけど、お願いだから、理解してほしいの」
そう締めくくって、彼女は下を向いてしまった。そして僕は、わかってしまったのだ。この、彼女と僕の物語の結末を。そして、今更僕がどう足掻いたとしても、その結末は避けられないことを。
「なぁ」
わかっている。こんな言葉にもう、意味などはないんだ。なくなって、しまったんだ。だから。これはただの自己満足。意味のない雑音。でも、それでも、これを言わずに手を振るのだけは、違うと思った。それは彼女への最大の侮辱だと思った。……なんて、屁理屈を並べてみても、結局のところは単純だ。この期に及んで、隠してきたくだらない本音をぶちまけたい。それだけ。……本当に、反吐が出る。
「……僕は、綾乃のことが本当に好きなんだ」
「……」
彼女は何も言わない。しかし、その顔を上げて、僕の目をじっと見つめた。目と目を合わせるのが何故か怖くて、目を伏せる。その瞬間に、ふと、気づいた。
――あぁ、そうか。僕の気持ちは、思っていたよりもずっと、単純だったんだ。
ただ、怖かっただけ。変わってしまうのが、怖かっただけ。……この、心地よい微睡みのような関係が終わってしまうのが、怖かっただけなんだ。あの日の告白に応えられなかったのも、そうだ。付き合ってしまえば、彼女がどこかに行ってしまう気がして。僕の腕から、伸ばした指から、すり抜けて消えてしまう気がして。
そんな根拠もないことを恐れて、いつもいつも逃げ出して。その結果がこの様だ。バカな話だよな、全く。逃げ出したつもりが、気付けば終わりへと走っていたんだから。そうさ。僕が招いたんだ、この結末は、全て。
顔を上げて、しっかりと彼女の目を見つめる。
今から言う言葉への返事なんて、もうわかりきっている。もはや、一種の様式美だ。うん、わかってるから、大丈夫だ、きっと。なぁに、大したことじゃない。積もり積もった今までのツケが、ここぞとばかりに最悪のタイミングで訪れただけだ。甘い甘い蜜の毒が、身体に回りきっただけだ。
こんなに遅くなってしまったけれど。もう手遅れになってしまったけれど。やっと、打つよ。ごめんね、綾乃。疲れたよね。これで、全部終わりにするから。この関係に、終止符を。
「僕と、付き合ってくれないか」
考えてみれば、おかしな話だ。彼女は別れてくれと言っているのに、僕は付き合ってくれとほざいている。その上、別れの言葉が告白なのだ。はは、嗤ってしまう。こんな意味のわからないやりとりをしているのは、世界中探しても僕たちだけではないだろうか。彼女は僕の言葉を聞いて、すぐに下を向いてしまった。あぁ、きっと、困らせてしまったんだろうな。本当に、申し訳ない。
そんな罪悪感とともに、どうしようもない寂しさが込み上げてきた。こんな気が狂ったようなことを言ってしまったのだ。いくら彼女といえど、俺と距離を置かざるを得ないだろう。そうして僕たちは、一緒にいないことが普通になって。自然と友人としての関係も終わるんだ。ただの他人としての毎日に戻るんだろうな、彼女も、僕も。
でも。それでいいのかもしれない。
感傷の中に、何故かそんな安堵を覚えている自分がいることに気づく。……だって、そうだろう?友人でもなくなるということはつまり、彼女が誰かと幸せになっている姿を、近くで見なくてもいいということなんだから。
今にも目を閉じて俯いてしまいたくなる自分を、必死に抑える。もう、目を瞑るのは飽き飽きだ。やっと目を開けることができたんだから。最後の最後まで、見させてくれよ、僕の彼女を。僕にとって最後の、彼女の姿を。
綾乃が、徐に顔を上げる。その顔を目に焼き付けようと目を見開いたその瞬間、僕の心臓は大きくはねた。あぁ、これが。と。頭の中の冷静な僕が、静かに呟いた。
――これが、天使というものか。
何故なら。その彼女の顔は、今までの彼女の中でも最高の――
「嘘だよ」
―――笑顔、だったのだから。
彼女の言葉に呆けている僕を見つめながら、彼女は続ける。
「嘘!ぜーんぶ嘘!ごめんね?でも、これは仕返しなんだから!」
そう言った後、長年の宿願が叶ったような満足げな顔で、コロコロと彼女は笑った。
#####
「あははは!どう?見た?見た?私の演技力!なかなか捨てたもんじゃないでしょ!」
「……」
「私はこういうの初めてだったからさー、いろいろ頑張ったんだよ?」
「……」
「でも、一番頑張ってくれたのは、快斗だよね。本当にカッコよかったし、嬉しかったよ。ありがとう、快斗」
「……どういたしまして」
彼女によれば、どうも今回は一本取られてしまったらしい。焦りに焦った僕が、まるで道化のようで。何だか恥ずかしいやら安心したやら嬉しいやら。とにかく複雑な気分だ。
「……どうして、こんなことをしたんだ?」
「んー?……快斗が、悩んでたからだよ。ずっと」
「……僕が?」
「うん。あなたが何かを抱え込んで苦しむ姿を、これ以上見ていたくなかった。……ごめんね。全ての原因は私なのに、こんなこと言うの、変だよね」
「……」
「だから、終わりにしたかったの。あなたの悩みも、私の恋も。だから、本当はどっちでもよかった。あなたが楽になれるなら」
「……綾乃」
「……なーんてね!嘘嘘!単純に、私が我慢できなかっただけだよ、快斗の告白を!私のこと好きに決まってるのに、いつまでも告白してこないんだもん!」
そういって彼女は、さも楽しそうに笑う。……本当に、綾乃には敵わないなぁ。いつもそうだった。彼女はいつでも僕の側にいて。いつも僕の背中を摩って、そして押してくれるのだ。そんな彼女に、僕は何を返せるのだろう。何を返せばいいのだろう。
――そんなことを考える僕の脳裏に、光の粒が煌めいた。視界が重なる。
『春が終わるね』
泣き腫らした女性の顔。血が滲むほどに握った拳。光の粒。舞い上がる、桜。
『またね』
それがなんであるのか。誰の声であるのか。今の僕にはわからない。それでも、彼女に言わなければいけないことだけは、わかった気がした。
「●●」
彼女が目を見開いた。今、僕は何と言ったのだろうか。僕は、誰かの名前を呼んだはずだ。それなのに、僕の声はすぐに消えてなくなってしまった。まるで、世界がそれを拒むかのように。誰かの生きた証を奪うかのように。それでも僕は、言わなくてはならない。どれだけ世界が拒んでも、これは僕の。……そして、『俺』の、願いであるはずだから。
「結婚しよう。●●」
彼女の瞳から、雫が溢れる。いつのまにか、僕の視界もぼやけてしまっていた。涙に歪んだ彼女の姿は、いつもより輝いているように見えて。とても愛おしそうに、それでいてどこか懐かしそうに、彼女は言った。
「私でよければ、喜んで」
――その言葉に、身体が震えるのがわかった。喜び故の震えか?いや、違う。これは恐らく、恐怖、だ。今にも彼女が、僕の手の届かないところまでいってしまうような気がした。その柔らかな微笑みが、その左手が、僕を残して消えていくような気がした。僕の掌から消えていく彼女の手が、生々しいほど鮮明に脳裏に輝いて。
そんな僕の右手を、しっかりと握って彼女は言う。
「大丈夫だよ、●●。もう、消えたりなんてしないから」
震えが止まるのが、わかった。その代わりに、今度は涙が止まらない。でも、この頬を濡らすのは、今度こそは喜びのはずだから。
彼女の手を、少しだけ強く握り返す。春が、終わる。こんな日に流す涙なんて、もう、僕らには充分のはずだ。僕も彼女も、もう泣き尽くしたはずだから。
「キノコミュージアム、行ってみようか」
きょとんとした顔をこちらに向けて、すぐに彼女は笑いだす。そうだ。これでいい。僕らの関係は変わったけれど。これからも少しずつ変わっていくのだろうけれど。その度に終止符を打って。その度にこうして変わらずに笑い合えたなら、それでいい。終止符の先にも、物語は続くのだから。
夏が始まる。桜の木はもう、青々とした葉を輝かせていた。
お読みいただきありがとうございました。こちらも併せてお読みいただければ、より楽しめるようになっております。よろしければどうぞ。それではまた。
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