第二節『旅立ち』② ・生への希望・
冷や汗だろうか、まだ動いていないというのに首筋を汗が伝う。
握った拳に余計な力が入っている。
先程丁寧な様子でティリアと名乗った男は、直立したままこちらを見るだけで戦闘の構えを取ろうとしない。
俺と戦う程度のことであれば構える必要も無いという事か。
彼は【闇の一族】だと名乗った。
【闇の一族】、あの大戦【最終戦争】の時に【反天才軍】として戦っていた組織の成れの果て。
そんな組織の人間に、何故命を狙われなければならないのか。
むしろ俺だって、いや人類ならば、【天才】を憎んでいるはずなのに。
「お前の目的はなんだ！」
あまりの理不尽に声を荒らげる。
とにかく今は、思考を練る時間が欲しい。
「いいんですよ、理由なんて。知らない方が幸せなこともありますしねえ」
ティリアはニタニタと笑顔を浮かべた。
どうやら会話をする意思はないらしい。
全身に寒気が走る。
ティリアの表情とは裏腹に、伝わってくるのは感じたことの無い程純粋で、大きな殺意。
さっきの一撃で確信した。
俺の実力では逃げることすらできない。
……だったら戦うしかない。
【魔力】を持たない俺はどうすれば勝てる、どの行動が最適だ。
全力を上回るスピードとパワーを持つ相手に、どうすれば勝てるというんだ。
勝利するビジョンが、全く浮かばない。
「おやおや、震えているようですねえ。大丈夫ですよ、抵抗しなければ一瞬で済みますからねえ」
そう言った次の瞬間、ティリアは俺の視界から消えた。
「まずい――」
ドン。
その場に響く、短く鈍い音。
ティリアの蹴りが横腹を潰した音だった。
思考が追いつかないまま近くの木の幹に衝突する。
あまりの痛みにその場にうずくまった。
動こうとすると左腕と肋が軋んで激痛が走る。
左腕、それに肋が二、三本折れたようだ。
「おや、私の予想よりダメージが浅いですねえ」
立てない。
今の蹴り一撃で立つことさえできない。
圧倒的な実力差に、最早無抵抗そのものだった。
こいつには、勝てない。
「立てないですよねえ。今のは殺す気で攻撃しましたから。痛いですよねえ、辛いですよねえ」
何とかうつ伏せから起き上がろうとするも痛みで体に力か入らない。
ティリアはそんな俺の首を強く掴んで持ち上げた。
体が宙に吊るされる。
息が出来ない、死ぬ……！
ティリアは笑顔を浮かべると、力一杯乱雑に放り投げる。
道の真ん中に打ちつけられて頬が地面を擦った。
久しぶりの酸素を必死に取り込む。
しかし、深く息を吸うと体に強烈な痛みが走りどうしても呼吸は浅くなる。
いつの間にか頭の先ではティリアが俺を見下ろしていた。
「立たなくてもいいんですか？立って戦わないと、私に殺されますよ？私は優しいですからねえ、10秒だけ待ってあげましょう。さあ、立って」
ティリアは突然カウントダウンを始めた。
やばい、やばい！
このままでは本当に殺されてしまう！
考えろ、考えろ！
いや、考えるくらいなら手を、足を、身体を動かせ！
必死に体を起こそうとするも、左腕が折れ、右手だけで体を起こすのは不可能に近かった。
それでも必死に力を込める。
力む度に全身に激痛が走る。
その間にもティリアの地獄のようなカウントダウンは進んでいく。
「ごーお、ろーーく」
ダメだ、限界だ。
どれだけ力もうとも体は言うことを聞かない。
――もう、抵抗するのはやめよう。
立ち上がってどうする、その後どうせ殺される。
どうせ死ぬならこんなに辛い思いをしてまで抵抗する必要はあるのか。
目の前にあるのは絶望。
そして、その先にあるのも絶望。
心の火は、もう消えかかっていた。
（――ないで――）
その時ふと、俺を呼ぶ声が頭の中に響く。
（――負けないで、諦めないで――）
誰の声だろうか。
女性だ。
透き通るような何とも聞き心地の良い女性の声。
俺の頭は救いを求めるように全力で声の主を記憶から探る。
しかし、その記憶の旅は現実世界で数える程もない速度で終わりを告げた。
その声の主が、記憶の最も浅い場所に居たからだ。
あの人だ、あの人の声だ。
今朝見た夢の、あの少女の声だ。
暗闇に差し込む一筋の光のように、その声は俺の心を鼓舞する。
「そうだ……きっと、俺はあんたに会うまで、死んじゃダメなんだよな……」
かすれる声で俺は呟く。
（――生きて――）
きっとこれは勝手に作り出した幻聴なのだろう。
なんせ彼女は俺を殺そうとしていたんだ。
俺が、生きることを望むはずがない。
それでも、都合のいい解釈でも構わない。
彼女に会えば俺は殺されるかもしれない。
それでもいい。
それが、生きる希望になればそれでいい。
今この時を生きる活力になればそれでいいんだ。
「はーち、くーう」
再び希望を得た俺はすぐに行動に移す。
時間が無い、左手も地面に着いた。
「ぁ"ぁ"ぁ"ぁ"！！！」
強烈な痛みとともに左腕がおかしな音を立て始めるが、構うことなく力を込める。
震えながらも徐々に浮き始める体、常に襲いかかる強烈な痛み。
上半身が持ち上がり始めた頃、急に吐血する。
折れた肋が肺を傷つけたのかもしれない。
それでも力を込め続ける。
「こんな所で死んでたまるか……俺は彼女に逢いに行くんだ！！」
心が折れそうになる度にその一心で死を拒み続けた。
そして、ついにその場に立ち上がった。
ティリアはぽかんと口を開けて俺を見つめている。
いつの間にかカウントダウンは止まっていた。
「本当に立ち上がるなんて、少々驚きましたよ。やはりあなたはここで殺しておいた方が良さそうですねえ」
ティリアは先程までの気持ち悪い笑顔を急に辞めると、真っ直ぐ右腕を伸ばし手のひらを向けた。
その手のひらに少しづつ何かが集まっていく。
夜の闇よりもさらに深く、薄く紫に発光するそれは、何となく【魔力】なのだと感じた。
しかし、俺が見る景色は焦点が合わずに霞んでゆく。
肺の痛みで息を吸えず呼吸が浅い。
激しい頭痛がしてクラクラする。
逃げないと、何とかして――
俺の頭はそこで思考を辞めた。
辞めざるを得なかった。
絶対的な死を前に、思考など無意味だ。
「それじゃあ、死んでくださいねえ」
ああ、ここまでか――
ティリアの手から【魔力】が放たれる。
まさにその時だった。
突如辺り一体に強力な【魔力】が充満する。
次の瞬間、その【魔力】によってこの場所の重力は何倍にも増加した。
あまりの圧力に地面が巨大な円形に窪んだ。
あのティリアでさえその場に膝をつこうかという勢いだ。
「なんですか、この強大な【魔力】は……！この地にそんな事ができる人がいるなんて聞いていないですよ……！」
唯一、俺だけがこの【魔力】の影響を受けていない。
誰かが助けてくれているのか……？
「仕方ないですねえ、今日の所は引き上げるとしましょう」
朦朧とする意識の中、ティリアは黒い煙になってその場から忽然と姿を消した。
その瞬間、辺りを包んでいた【魔力】は何事も無かったかのように止んだ。
俺はその場に倒れ込む。
終わった、ようやく、開放された。
「おい、しっかりしろ――」
どこからやってきたのか、誰かの声が遠くに聞こえる。
ああ、見知らぬ誰か。
助けてくれたんだな。
すまないが、俺は疲れた。
少し目を瞑らせてくれ――
俺の意識はそこで途絶えた。
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