第四節『残り火』② ・届きかけた拳・
ゴウは息を吸った。
肺が冷たい。
指先が、まだ震えている。
止めようとしても、言うことをきかない。
――行くぞ。
自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
「まだ、俺がいるぞ」
イギルの前に身体を滑り込ませ、ヴァルバロの視線を強引に遮る。
「お前はもういい」
ヴァルバロは足を止めなかった。
その声にも、存在にも、何の重みも感じていないようだった。
ただ、歩き続ける。
その背中に向かって、今度はゴウの方から距離を詰める。
「今さらお前に何ができる。あいつのような覚悟もないんだろ」
低く、嘲るような声。
ゴウは数歩手前で足を止めた。
ヴァルバロは止まらない。
圧が、近づいてくる。
「何ができるか――」
拳を握りしめる。
「――見せてやるよ!」
【身体強化】を発動。
地面を蹴った瞬間、視界が一気に引き伸ばされる。
一瞬で間合いを詰め、全体重を乗せた蹴りを、側頭部へ叩き込んだ。
鈍い衝撃音。
骨を砕く感触――の、はずだった。
だが。
ヴァルバロは、腕一本で受け止めた。
衝撃が逆流する。
蹴り脚が、痺れた。
次の瞬間、押し返される。
力ではない。
質量そのものに、弾かれた感覚。
体勢が崩れた。
――まずい。
ヴァルバロは、逃がさない。
空気を引き裂き、巨石のような拳が一直線に迫る。
紙一重で身を翻す。
風圧が、頬を叩く。
反動を利用し、そのまま首筋へ蹴りを放った。
確かな手応え。
――だが。
木の幹のような首は、微動だにしない。
「……っ」
足首を掴まれた。
握力というより鉄枷だ。
次の瞬間、視界が上下反転する。
ゴウの身体は地面に叩きつけられた。
鈍い音。
内臓が、ずれる。
布切れを放り投げるように、ゴウの身体は床に転がった。
衝撃が遅れて襲い、景色が歪む。
咳き込み、赤いものが口から零れ落ちた。
身体が言うことをきかない。
指一本、動かせない。
「お前はそこで、ただ見ていろ」
ヴァルバロは倒れたゴウを一瞥しただけで、興味を失ったように再びイギルへと歩き出した。
ゴウが動かなくなったことで、地下牢には異様な静けさが落ちた。
足音だけが響く。
ヴァルバロは、ゆっくりとイギルに近づいていく。
血の匂いと、崩れた石の粉塵が、空気に混じる。
イギルは、その場から動けなかった。
逃げなければならないと頭ではわかっている。
だが、脚が言うことをきかない。
視界の端で、ゴウの指先が僅かに震えた。
それを見た瞬間、イギルの胸がきつく締めつけられる。
(……また……)
自分のせいで、また誰かが。
「怖いか」
ヴァルバロの声は、低く、静かだった。
怒鳴りもしない、嘲笑もない。
それが、かえって恐ろしい。
イギルは、唇を噛みしめた。
答えない。
ヴァルバロはイギルの前で立ち止まる。
その影が、少女の身体を、すっぽりと覆った。
床に倒れたゴウへと、ヴァルバロの視線が一瞬だけ向けられる。
「弱さとは、罪だ」
イギルの肩がびくりと跳ねた。
(……違う)
心の奥で、何かが強く否定する。
けれど、言葉が出てこない。
「お前の両親も、そうだった」
ヴァルバロは、続ける。
「守る力を持たず、抗う覚悟も足りなかった」
その言葉が、刃のように胸に突き刺さる。
イギルの呼吸が浅くなる。
目の前が、揺れた。
「……やめて……」
掠れた声が、ようやく零れ落ちる。
ヴァルバロは首を傾げた。
「何をだ」
「それ以上……言わないで……」
震える声。
恐怖。
怒り。
悲しみ。
どれも、整理できないまま、胸の中で渦を巻く。
ヴァルバロは、その様子を無感情に見下ろしていた。
「現実から目を逸らすな」
一歩、近づく。
「この世界は、力ある者が選び、力なき者が従う」
イギルは、ぎゅっと拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
痛みが、かろうじて意識を繋ぎ止める。
「……ちがう……」
小さな声。
それでも、確かにそこにあった。
「何が違う、言ってみろ」
イギルは、顔を上げる。
恐怖で視界が滲んでいる。
それでも、目を逸らさない。
言葉は、まだ形にならない。
だが。
胸の奥で、はっきりとした感情が生まれ始めていた。
――拒絶。
力が命の価値を決める世界への。
その想いだけが、確かにそこにあった。
「――おおおおっ!!」
叫び声と同時に、金属音が地下牢に響き渡る。
「……?」
ヴァルバロの眉が、僅かに動いた。
その瞬間、ヴァルバロの後頭部に瓦礫がぶつかった。
「俺はここだ!」
完全な挑発、無謀な行為。
ヴァルバロがゆっくりと振り返る。
その先に、鎖を持ったゴウが立っていた。
「まだ、立つのか」
低い声。
興味と、侮蔑が混じる。
ゴウの背筋が、凍りつく。
逃げるな。
ここで、止まるな。
「俺はまだ、立ってるぞ!」
声が、裏返る。
「お前の思い通りには、させねえ。……死んでもな」
ヴァルバロは小さく息を吐いた。
「くだらねえ」
ゴウは走った。
死の距離。 恐怖が視界を白く染める。 足が震え、呼吸が乱れる。
それでも、止まらない。
拳が振り上げられる。
一撃で、終わる。
その刹那。
ヴァルバロの腕に鎖が何重にも巻き付いた。
腕に鎖が食い込む。
鉄が軋む音。
ヴァルバロは、鎖ごとゴウを引き寄せるように、そのまま腕を引いた。
その時。
ほんの僅か、ゴウとヴァルバロの力が拮抗した。
一瞬、ヴァルバロの動きが遅れた。
その隙に、ゴウは自ら鎖を手放した。
拳を真っ直ぐに突き出す。
狙いは胸――
否、僅かに下、鳩尾。
ヴァルバロは迎え撃たない。
避けもしない。
だが。
拳が触れる、その直前。
腹部の筋肉が異様なほどに締まった。
「……っ!」
鈍い衝撃。
まるで、分厚い岩盤を殴りつけたような感触が、拳から肘、肩へと逆流する。
骨が、軋む。
――効いて、いない。
それでも。
ヴァルバロの身体が、半歩だけ後ろへ流れた。
床石が、きしむ。
ゴウの目が、見開かれた。
(……下がった)
続けざまに肘を叩き込む。
肋の隙間を抉るように。
今度は、腕で受け止められた。
力任せではない、一瞬の判断。
「……ほう」
ヴァルバロの口から低い声が漏れる。
驚きではない。
だが、無関心でもなかった。
ゴウは理解する。
傷はついていない。
確かなダメージもない。
――それでも。
あいつは今、俺の攻撃を無視できなかった。
ヴァルバロが間合いを詰め直す。
拳を構え直した。
その動きは、先ほどより、僅かに速い。
「いい一撃だった」
次の瞬間。
膝が、鳩尾に突き刺さった。
息が止まる。
肺の空気が一気に吐き出された。
ゴウの身体がくの字に折れ、そのまま地面へと叩き伏せられる。
視界が暗転する。
殺すためではない。
だが――
「これ以上は許さない」という、 圧倒的な力の差。
それでも。
倒れ伏しながら、ゴウの胸の奥には、 確かな感覚が残っていた。
届かなかった。
だが――届きかけた。
「――っ!」
床に伏していたシェイムの指が、床を掴んだ。
音。
ゴウの声。
肉と骨がぶつかる鈍い衝撃。
――ゴウが、時間を作っている。
それに気づいた瞬間、胸の奥が強く打たれた。
(……立て)
肩が悲鳴を上げる。
視界が揺れる。
それでも、歯を食いしばる。
(立て……!)
ヴァルバロの腕が、振り上げられる。
ゴウは反射的に身を捻った。
間に合わない。
死を、覚悟した。
だが。
「――させるかぁぁ!!」
床を蹴る音。
次の瞬間、シェイムの身体が二人の間に滑り込んだ。
剣は持っている。
だが、体当たりだった。
全身で、ヴァルバロの拳の軌道をずらす。
拳が床を砕き砂煙が舞う。
ほんの数秒。
だが、確かに――
止まった。
「……まさかな」
ヴァルバロの声が低く、弾んだ。
「面白いじゃねえか」
視線がゴウから、シェイムへ移る。
「弱者が、弱者を庇うのか」
シェイムは膝をつきながら、それでも顔を上げた。
息が荒い。
腕が震える。
だが、目だけは逸らさない。
「……礼は、後だ」
かすれた声でゴウに告げる。
ゴウは言葉を返せなかった。
ヴァルバロは大きく肩と首を回し、関節を鳴らす。
「いいだろう。少しだけ――本気を見せてやる」
空気が、変わった。
圧が一段重くなる。
「今度は、時間稼ぎでは済まねえ。覚悟しろ」
ゴウは歯を食いしばる。
シェイムは拳を握り締める。
――まだだ。
――まだ、終わらせない。
2人が稼いだのはほんの僅かな時間。
だがその時間は、確かに命を繋いだ。
「……来るぞ」
シェイムの声は掠れていた。
だが、その背中はもう逃げていない。
「わかってる」
ゴウは息を吐いた。
怖さは消えない。
それでも、足は前に出ていた。
ヴァルバロがゆっくりと拳を構える。
「雑魚が2人揃ったところで、何も変わらねえ」
口角が吊り上がる。
「あの何の力もねえ憐れなガキも、すぐに両親の元へ送ってやる」
その言葉を耳にした、瞬間。
シェイムの胸の奥で、何かが弾けた。




