第三節『二人目』⑨ ・伸ばした先に・
俺は、イギルの方へ走った。
迷いはなかった。
考える余地もなかった。
あの背中を――
震える声を――
もう、これ以上失わせるわけにはいかない。
床を蹴る。
脚が悲鳴を上げる。
それでも、走る。
視界の端で、ヴァルバロが動いた。
同じ方向へ踏み込んでいる。
しかも――速い。
「……っ!」
【身体強化】を、限界まで引き上げる。
肺が焼ける。
視界が白く滲む。
それでも、ヴァルバロの影は瞬く間に迫ってくる。
ヴァルバロは、俺を見ていなかった。
ただ、標的だけを見据えている。
最初から理解していたかのように。
俺が何を選ぶかを。
「お前は守りたいものを選んだ」
低い声が、聞こえてくる。
「だが、お前は、何も成し遂げない」
その言葉と同時に、
巨大な背中が、俺の視界を横切った。
追い越された。
――追いつけない。
「待て――!!」
イギルが、俺を見ていた。
涙に濡れた目が、俺のすぐ横に移った。
その視線の意味を、俺は理解した。
「――お父さん!!」
叫び声が地下に響く。
イギルが父親の方に体を向けた、その瞬間。
ヴァルバロの戦斧がためらいなく振り下ろされた。
刃が、人の身体を断つ音がした。
重く、鈍い音。
骨が砕け、肉が裂ける感触が空気を通して伝わってくる。
父親の身体が前のめりに崩れ落ちた。
続けて、振り抜かれることのないもう一撃。
刃の腹が、母親の胸元を叩き潰す。
短い、息の詰まる音。
そして――
崩れる。
「……あ……」
イギルの声が、音にならず消えた。
俺は転がるように駆け寄り、二人の前に膝をついた。
血が、広がっていく。
止まらない。
見ただけで、わかる。
――致命傷だ。
「……嘘だ……」
声が、震える。
俺は選んだ。
間違いなく選んだ。
それなのに。
「これが現実だ」
背後から、ヴァルバロの声。
「力こそが全て。力ある者が、全てを支配する」
戦斧が、床に落とされる。
その音が、終わりを告げる鐘のように響いた。
俺の視界の端で、イギルがその場に崩れ落ちた。
泣き声は無かった。
ただ、両親の名を呼ぶ唇だけが、何度も、何度も動いていた。
俺は、何も言えなかった。
守ると決めて、走って、それでも――
間に合わなかった。
○
血の匂いが濃くなった。
床に広がる赤が、時間と一緒に広がっていく。
俺は、動けなかった。
動かなければならないのに。
少し離れた場所でゴウが立ち尽くしていた。
肩が僅かに震えている。
「……俺が……」
ゴウの声は、掠れていた。
「俺が、もっと早く来ていれば……」
言葉は最後まで続かなかった。
ゴウは一度だけ目を閉じた。
深く息を吸い、吐く。
そして、再びヴァルバロに視線を向ける。
切り替えられていない。
それは、見ていてわかる。
それでも――
「……今、俺にできることは……」
呟きのような声。
自分の行動を悔いている。
自分の無力さに打ちひしがれている。
だが、考えることだけはやめていなかった。
両親の横で、イギルが動かない。
いや、動けないのだ。
両親を見下ろす視線が焦点を結ばない。
唇が震え、何かを言おうとして、言葉にならない。
次の瞬間。
感情が、溢れた。
「……なんで……」
声が、震えている。
「なんで……来たの……」
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「助けるって……言ったじゃない……」
涙が頬を伝う。
怒り、絶望、無力感。
全部が混ざり合って、行き場を失っている。
「……なんで……」
視線が俺に向けられた。
責める目、縋る目、壊れかけた目。
どれでもあり、どれでもない。
俺は何も言えなかった。
どんな言葉を掛ければ良いか、分からなかった。
その沈黙をヴァルバロが破った。
「……いい目だ」
戦斧を肩に担ぎゆっくりとイギルに近づいていく。
もう振り回してはいない、興奮もない。
嵐が過ぎたあとの、嫌に澄んだ空気。
「ようやく仲間が助けに来た。そこに希望を見いだした。だが、結果は期待外れに終わった」
視線がイギルへ向けられる。
はっきりと、狙いを定めるように。
「親を目の前で殺されたやつは、果たして何を選ぶんだろうな」
戦斧の切っ先が僅かに持ち上がる。
「絶望に打ちひしがれるか。それとも――」
口元が、歪んだ。
「誰かを恨むか」
その瞬間。
背筋が、凍りついた。
「あの男を見ろ。助けると言った、守ると言った。だが、結果はどうだ。あいつはお前にちっぽけな希望を抱かせ、期待させただけだ。なにもできず、お前の両親は目の前で殺された――」
イギルは爪が食い込むほど拳を振るわせる。
「――あいつが、弱かったからだ」
「……やめろ」
声が、遅れて出る。
「さぁ、どうする。お前の両親は殺された。だが、あいつはまだ生きているぞ。自分の命を投げ出す勇気が無かったからだ」
「……」
「あいつが自分の命を投げ出していれば、お前の両親はまだ生きていたかもな。結局は自分が可愛いんだろう。守るなんて口では言っておきながら、本気で守るつもりなど無かったんだろうな」
俺は、それ以上なにも言い返せなかった。
ヴァルバロの言葉を、否定しきれない自分がいる。
「自分の両親は死んだのに、約束を果たさなかった、お前を裏切ったあいつだけが、飄々とまだ生きている」
ヴァルバロが腰に携えた短剣を抜き、イギルの目の前に放り投げた。
「さあ、どうする。お前には選ぶ権利がある」
空気が張り詰めた。
イギルは、短剣をじっと見つめている。
そして、ゆっくりと拾い上げた。
「イギル……!」
後ろからゴウの声が聞こえる。
だが、それ以上の言葉は無かった。
「私は――」
イギルの表情が強張る。
俺は、何も言わず、何もしなかった。
ここで彼女がどんな選択をしようと、俺はそれを受け入れるべきだと思った。
じっと、見守った。
「――私は、お父さんとお母さんを守ってほしかった。だけど、シェイムも、ゴウも、守ってくれなかった。……それは、弱かったからだ」
その言葉が、胸を締め付ける。
果てしない無力感と、自分に対する苛立ちが込み上げてくる。
「だけど――」
イギルは、短剣を強く握った。
「――だけど、それは、私も同じだ。」
イギルが短剣を手放す。
金属音が微かにその場に響いた。
「……そうか」
ヴァルバロは息を吐くと、戦斧を振り上げてイギルの頭上に構えた。
「お前も弱者のまま終わるんだな」
ヴァルバロが戦斧を握る手に力を込めた。
緊迫する状況の中、俺の頭はやけに冷静だった。
ここに来るまでのことが、頭の中に一気に押し寄せる。
地上で戦った兵士たち。
侵入を許すまいという決意に満ちた目。
剣を握り、相手と向き合い、次の一撃でどちらかが倒れると理解した瞬間。
――殺すか、殺されるか。
その単純で残酷な現実に、俺は躊躇っていた。
剣を振るえば、相手の命は終わる。
それを自分の意思で選ぶことがどうしても怖かった。
だが。
今、目の前にある光景が、その甘さを容赦なく叩き壊す。
選んだのに、走ったのに、守れなかった。
「……違う」
喉の奥から、掠れた声が漏れる。
違う。
俺は、間違えた。
――奪わなかったからだ。
命を奪うことを、恐れたからだ。
奪われないためには、奪うしかない。
守るためには、踏み越えるしかない。
その考えが、胸の奥に重く沈む。
――そうだ。
そうしなければ、何も守れない。
「……奪われないためには、奪うしかない」
「……ほう」
ヴァルバロの意識が、イギルから途切れた。
そして、こちらを見ていた。
まるで、心の中を覗き込んでいるかのように。
「お前も、そう思うか」
戦斧を、軽く回す。
「奪われぬために奪う。守るために殺す」
淡々と、噛み砕くように言う。
「それが、この国の理だ」
胸が、ざわつく。
「力ある者が支配する。それの何が悪い」
視線が鋭く突き刺さる。
「お前も今、同じ結論に至った」
息が詰まった。
否定したい。
否定しなければならない。
だが――
言葉が、出ない。
事実だからだ。
俺が今剣を振るおうとしている理由は、ヴァルバロと同じ構造をしている。
「……違う……」
絞り出すように、言う。
「俺は……お前みたいには……」
「何が違う」
即座に返される。
「理由か?……死んだ者からすれば、どちらも同じだ。俺は、自分の正義が奪われないために殺す。お前は、自分の守りたいものを奪われないために殺すんだろ?」
世界が静まり返る。
俺は剣を握り締めた。
「――何が違うんだ」
――違わないのかも、しれない。
それでも、立たなければならない。
俺が選ぼうとしている道が歪んでいるとしても。
ここで何も選ばないことだけは、許されない。
正しさはまだ見えない。
それでも。
「……それでも、俺は……」
声が、震える。
震えながらも前を向く。
「お前を、止める」
その宣言がどれほど矛盾しているか、自分でもわかっている。
それでも。
ここから先は、逃げない。
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