八話
「うそよっ、なんで!?」
レオナが驚愕した。聖女の目にははっきりと、今まで自分を取り巻いていた精霊が彼女に見向きもせずに二人を連れて天へと昇るのが見えていた。
「な……っ」
「き、消えた……!?」
光が消えるとそこには誰もいなかった。カインたちが驚きの声をあげる。
タートがシルヴィアのいた場所にふらふらと行き、がっくりと膝をついた。
「愛し子様が天の国にお帰りになられた……!」
タートとシルヴィアは歳が離れすぎていた。彼女が王太子の婚約者となった時、タートは彼女を諦めてしまったのだ。諦める理由ができたと思ってしまった。
幼くても女である。カインに恋をせねばならぬという苦痛、他の誰かを想うことを許されない哀しみ、そして現れたレオナにカインを奪われた屈辱はシルヴィアに絶望を抱かせるには充分だったのだろう。
あんな男にシルヴィアを任せるのではなかった。タートは後悔したが、すでに遅すぎた。せめてグレイスのように縋りついていたら共に行くことができたのだろうか。
タートはシルヴィアの名残を求めるように床に唇を落とし、立ち上がった。
愛し子の帰還は教会にとって最大の奇跡である。奇跡の瞬間を目の当たりにした神官としての演技をしなければならない。
「主よ、お喜び申し上げます! 愛し子に感謝を!」
タートの叫びに神官たちが木霊した。
愛し子のいた国は繁栄する。天の国へと帰った愛しい娘が地上はどれほど素晴らしいのかを神に語り、我が子を慈しんだ礼として神が恩寵を与えるのだ。
「愛し子に感謝を!」
「主に祈りを!」
「奇跡の鐘を鳴らさねば!」
タートが慇懃に、しかしどこか軽蔑をもって国王とカインに一礼し、神官たちは王宮を後にした。
「どういうことなの!? 出て来なさいよ!」
レオナが精霊に呼びかけているが、どうやら応えはないらしい。カインは呆然とそんなレオナとシルヴィアの消えた床を見ていた。
「愚か者が」
王が吐き捨てた。鞭の唸るような声であった。
「父上、あれは何が……? シルヴィアはどこへ消えたのです?」
「愛し子様は、主の御許にお帰りになられた。グレイス・バーネット伯爵令嬢も無事に迎え入れられたようだな」
失礼、と言って宰相がレオナのうなじを確認した。聖女の印を見つけて安堵したようにうなずく。
「陛下、レオナはまだ聖女のままです」
「そうか。そこまで愚かではなかったか」
いきなりうなじに触られたレオナは真っ赤になって抗議した。
「なっ、なにをするんですか!?」
「宰相、聖女に無礼は止めよ」
カインもさすがに咎めた。未婚の令嬢の肌に断りなく触るのはセクハラだ。
宰相の代わりに王が答えた。
「聖女は純潔を失えば聖女の力を喪失する。それを確認したまでだ」
思いもよらない内容にレオナがぽかんとする。
「そなたたちは愛し子を排除して結ばれたいと画策したようだが、レオナは以後教会預かりとなる。聖女として、一生男を近づけず祝福せよ」
「そんなっ?」
レオナが叫んだ。王太子妃の夢から一転、修道女になれと命じられたのだ。立ち尽くすカインに泣き縋った。
「カイン様、どうしてですかっ? 教会になんか行きたくありません!」
「レオナ……」
カインは父を説得しようとし、父親ではなく国王として命令を下したのだとわかって言葉を飲み込んだ。
奇跡を目の当たりにし、ようやく色々なことがわかってきた。愛し子と聖女の意味を。
「聖女の伝承が結婚で終わっていたのは、そういうことだったのですね」
「そうだ」
今頃気づいたのか。短い言葉はカインを打ちのめした。
愛し子について文献が極端に少ないのも、聖女の終わりがほぼ結婚で統一しているのも、すべてはそういうことなのだ。
愛し子が現れても、一生を過ごすことはまずない。どんなに綺麗に囲ってみても人の悪意はヘドロのように溜まっていき、いずれ絶望して帰ってしまうからだ。
人々は愛し子をありがたがるくせに、愛し子のいる意味を考えようとしない。ただ便利に使おうとするだけだ。
そして聖女は愛し子を守るために精霊が力を貸している存在だ。愛し子が成長し男が近づいてくるのを阻止するためである。たしかにレオナは精霊魔法を使えるが、シルヴィアが駄目とひと言言えば精霊は力を貸さず、魔法を使うことはできなくなる。
「そなたとシルヴィアの婚約が決まった頃であったな、聖女が生まれたのは」
「まさか……」
「自分ではなくカインを守れと言われた。カインは王太子で、暗殺されれば国の混乱は必至。我が国だけではなく暗殺者の、双方の安全のためであった」
シルヴィアにはグレイスがいた。ただでさえ婚約者を勝手に決められてムカついていたというのにカインが殺されては、パパの怒りが全方面に向くのである。娘を嫁に出すのは嫌だが馬鹿にされるのは許せない。複雑なパパ心である。
愛し子と聖女が娘であることも理由がある。パパは無条件で愛すべき子として地上に娘を顕現させる。男の子ではいずれ自分を越えるべく力をつけてくるだろう。だから娘なのだ。自分の理想を詰め込んだ、最愛の娘。
聖女はというと、男では娘と恋に落ちるかもしれないからだ。純潔を失うことで聖女の力が消えるのは、男を知ったことで娘に優越感を抱くのでは、マウントとってくるのではないかという疑心である。ようするに、娘のために力を与えたのだから調子に乗るんじゃねえというわけだ。
「教会は愛し子が御許へ帰還することを奇跡と呼んで貴んでいる。それでも人への恨みつらみを抱いて帰られては神罰が降るからな。愛し子を守るのはそのためだ」
「聖女とはいえ結婚すれば聖痕は消える。まさか平民の身で王太子妃になれると本気で思っていたのか?」
宰相が息子を叱り飛ばした。
国王が深いため息を吐きだす。
「神託は神が愛し子のために告げるもの。次の愛し子が現れるまで今度は何百年かかるのか……」
「何百年!?」
カインがぎょっとした。愛し子が天に帰ったらすぐに次が現れるとでも思っていたのだろう。
「天の国に帰れば何の憂いもなく主に愛されてお過ごしになる。グレイス嬢が供をしたから地上に未練はなかろうな」
そういう意味でも聖女は都合が良かった。愛し子が地上に降りるのは、友人が欲しいからというのが通説である。
天の国に死があるのかはわからない。死後のことなど誰も知らないからだ。教義では正しき者は天の国に導かれ、悪しき者は奈落に突き落とされるという。
「これで人類の発展は遅れる。カイン、そなたは暗愚な王として生きていけ」
「ち、父上……」
「愛し子様はいずれ天へと帰るもの。罪には問わん。だが神託による災害、疫病への対策、戦争の予知、シルヴィアと神官たちの叡智はそなたに与えられん。聖女が男と通じぬよう、せいぜい大切に囲っておくがいい」
カインがレオナに丸投げの姿勢を見せ、シルヴィアを排除した以上、そうするしかない。レオナは泣いて拒否したが、彼女に選択肢などないのだ。
「……やれやれ。息子に後を任せて楽隠居とはいかんようだ」
シルヴィアとカインが結婚したら王位を譲るつもりでいた王が疲れた様子でぼやいた。少なくとも現王の在位中は神も慈悲をくれるだろう。
神託がありながら無為無策で対処が後手に回れば他国の非難を浴びる。できるだけ長く玉座を守り、カインに引き継がせなければならなかった。
後世に善王であったと讃えられるか、愚王であったと謗られるのか、王も懸命にやってきたのだ。
「そうですね。しかし我々には神託とシルヴィア様の策が残されております」
「さよう。できることを致しましょうぞ」
「考えることを放棄しては、主は二度と愛し子様を降ろしてはくださいますまい。陛下、この老骨も踏ん張りますぞ」
娘が手元から旅発つときのことを思えば、神がなぜ神託を降ろすのか理解できた。父ならば、できる限りの支度をしてやりたい。生活に困らぬよう、誰からも愛されるよう、心を砕くものだ。
「愛し子様の家族はいかがいたしましょう」
「望み通り、今までの礼として金と土地を与える」
シルヴィアの家族を責める声はでなかった。いつこの世から消えるかわからない者に縋りついてばかりはいられなかっただけなのだ。両親も弟も、心からシルヴィアを愛していた。だが、シルヴィアが言ったように、彼らは諦めたのである。
何をしても何を言ってもどれだけ尽くしても、いずれ消えると諦められた。諦めるのは実に気楽だ。それは、シルヴィアの心をどれほど傷つけたのだろう。
いつまでも共にと言ったグレイスだけが、シルヴィアを諦めなかった。讃えるべきは神にも引き離せない女の友情だ。
グレイスが愛し子と同じく天の国で過ごせるのかはわからない。彼女が死ねば愛し子が地上に現れるのか、もしかしたら永遠の時を二人で過ごすのかもしれなかった。もしそうなら、シルヴィアが最後の愛し子になるだろう。