付き合うことになった彼女が実は小学生だったことが判明したんですが、これはアウトですか?
(い、言うぞ……今日こそ言うぞ……っ!!)
物心ついた頃から通っている書道教室の帰り道、僕は隣を歩く少女の顔をチラ見しながら、密かに決意を固めていた。
少女の名前は足立千紗。3カ月前くらいから僕と同じ書道教室に通い始めた少女で、僕の初恋の相手だ。
高校3年にもなってようやく初恋というのは遅いかもしれないが、これにはあるやんごとない事情があった。事情というか、単純に好みの問題というか、もっと下世話な言い方をすれば癖というものなのかもしれないが……
僕は、字が綺麗な女の子でないと好きになれないのだ。
今までも何人か、クラスの女子で「あの娘いいな~」と思ったことはあるのだが、どの娘も先生に指名されて黒板に書いた字を見た途端幻滅した。もうその瞬間、「あ、これは僕ちょっと無理だ」と思ってしまった。
これはうちの書道の先生もよく言っていることなのだが、字にはその人の性格が出る。
そのことは僕自身よく実感していたし、字が綺麗な人に悪い人はいないと思う。
いや、なら逆に字が汚い人は悪い人なのかと言われればそうは思わないし、事実僕の友人達はお世辞にも字が綺麗とは言えないのだが……少なくとも、僕は字が汚い人は恋愛対象として見れない。これはもう、自分でもどうしようもないのだ。
その点、千紗ちゃんは僕の理想的な女の子だった。
3カ月前に彼女が教室に来た時、座布団の上に座り、筆を持った姿勢を見た時点で僕は彼女に好感を抱いた。
そしてその筆運びを見て更に好感度は高まり、書き上げられた字を見た時にはもう彼女のことを好きになっていた。彼女の字は、彼女の優しく几帳面な内面をはっきりと映し出していたのだ。
と言っても、この時点ではまだ人として好きになっただけで、異性として好きになったわけではなかったのだが……このことが、僕が彼女に話し掛けるきっかけとなったのは確かだった。
それから教室で会う度に軽く話をするようになり、たまたま家が同じ方向だと知ってからは一緒に帰るようになった。
そして、それから2週間も経つ頃には完全に彼女のことが異性として好きになってしまっていた。
千紗ちゃんは僕が思った通り、いやそれ以上に真面目で優しい娘だった。誰に対しても礼儀正しく、お年寄りにさり気ない気遣いを見せる彼女は、書道教室のじいちゃんばあちゃんに「理想の孫」とまで言われるほどに本当にいい娘だった。
「ウチの孫の嫁に来んか?」なんて言われてるのをよく見かけるくらいだ。
(この告白がもし上手くいったら……じいちゃんばあちゃんから睨まれるかもなぁ)
そんなことを考えて乾いた笑みを浮かべている間に、目的の場所に着いた。
「……っ、千紗ちゃん!」
「はい? どうしました?」
そして、緊張で声が震えないようにしながら、すぐ近くの公園の入り口を指差して言った。
「少し、寄っていかない?」
「……」
用件も言わずに公園に誘う。
これで、千紗ちゃんも何かを察したようだった。
形の良い眉をピクリと動かし、少し黙考してから「いいですよ」と頷く。
断られなかったことに内心ホッとしつつ、僕は「じゃ、じゃあ……」みたいなことを口の中でもごもご言いながら、千紗ちゃんと一緒に公園に入った。
そしてしばらくお互い無言のまま歩いてから、人気のない高台に着くと同時に振り返り、千紗ちゃんと向かい合った。千紗ちゃんも、心なしか固い表情で僕を見返す。
「千紗ちゃん……」
「……」
そして、僕は千紗ちゃんの目を真っ直ぐに見詰めながら、ゆっくりと口を開いた。
「僕は、千紗ちゃんのことが好きです。もしよかったら、僕と付き合ってくれませんか?」
「……!」
千紗ちゃんの大きな瞳が、こぼれんばかりに見開かれる。その頰が少し赤いのは、夕日のせいかそれとも……。
そして、視線を少し下の方に彷徨わせつつ、躊躇いがちに口を開いた。
「その……」
「うん?」
「私は、石見さんとは少し歳が離れてますし……」
「……うん?」
意外な言葉に、思わず小首を傾げる。
(あれ? そういえば千紗ちゃんっていくつだっけ? ちゃん付けで構わないって言うから、てっきり1つか2つ下くらいだと思ってたけど……もしかして3つ……いや、4つ下だったり?)
4つ下だとしたら、中学2年生か。
たしかに高校生にしては少し童顔だけど、すごくしっかりしてるし時々驚くほど大人びているから、てっきり高校生だとばかり思ってたんだけど……いや、そんなことは関係ない。
たとえ千紗ちゃんがいくつでも、僕が千紗ちゃんを好きなことに変わりはないのだから。
「そんなこと、僕は気にしないよ。千紗ちゃんは、年上はイヤかな?」
そう言うと、千紗ちゃんは慌てたようにふるふると首を横に振った。
「それに……今は10歳以上年の離れたカップルだって珍しくないみたいだし? 全然大丈夫だよ」
軽くおどけてそう言うと、千紗ちゃんはクスリと笑みをこぼした。
そして、僕を少し上目遣いに見詰めると、その手をスッと差し出してくる。
「それじゃあ……よろしくお願いします」
「え、それって……」
その手と千紗ちゃんの顔を交互に見詰めながらそう問い掛けると、千紗ちゃんは少しはにかみながら言った。
「私も……石見さんのこと好きです。だから、私でよかったらよろしくお願いします」
「……っ!! うん、うん! こちらこそよろしく!!」
少し震える手で、その手を握り返す。
すると、千紗ちゃんはニコッと花開くように微笑んでくれた。
石見修司18歳、高校3年の夏に初めての彼女が出来ました。
* * * * * * *
「なん、だと……!?」
「え……マジで?」
翌日、学校で親友の志郎と清也に彼女が出来たことを伝えると、2人は愕然とした表情をした。
そして次の瞬間、矢継ぎ早に質問を投げかけて来た。
相手はどこの誰か。出会いのきっかけは何か。告白はどちらからか。
そういった質問に片っ端から答えていると、志郎がワントーン声を低めて言った。
「で? 可愛いのか?」
どうやら清也もそこが気になるようで、今までで一番真剣な表情をしていた。
「可愛いよ。……写真見る?」
「マジで!? 写真あんの!?」
「ちょっ、見せろ見せろ!!」
スマホで写真を引っ張り出すと、あっという間にスマホを引ったくられた。
「うわっ、マジで可愛い!」
「おいおいマジかよ。スタイルもメッチャいいじゃん! 乳でかっ!」
「バッ……! 乳とか言うな!!」
いきなりセクハラ発言をし始めた清也から、慌ててスマホを奪い返す。
すると、ちょうどそのタイミングで千紗ちゃんからメッセージが飛んで来た。
見ると、昨日約束した放課後デートについてだった。
せっかく恋人同士になったことだし、それらしいことをしたいと考えて僕が提案した。放課後にどこかに寄って帰る、これぞ学生カップルの特権ではないだろうか? まあ学校違うけど。
『委員会が無くなったので早く帰れそうです。白川公園の入り口辺りで待っていればいいですか?』
そのメッセージに肯定を返していると、いつの間にか背後に回り込んでいた志郎と清也に呪詛を浴びせられた。
「おーおー早速デートですかい? 推薦決まってる優等生様は余裕ですなぁ」
「こちとら受験勉強で夏休みどころじゃなくなりそうなのに、誰かさんは可愛い彼女とさぞかし楽しい夏休みを過ごすんでしょうなぁ〜……クソがっ!!」
しかしそんな嫉妬と怨念に満ちた言葉も、初めてのデートに浮かれる僕は柳に風と受け流すのだった。
* * * * * * *
「……で、なんでついてくんの?」
放課後、学校近くにある公園に向かう僕は、ニヤニヤとした笑みを浮かべながらついてくる2人にそう問い掛けた。
すると、2人共悪びれた様子もなく野次馬根性丸出しで答えた。
「いやぁ、友人の初彼女の顔を拝もうと思って」
「そうそう、彼氏の友人代表として挨拶をな」
「なんだそれ? 結婚式じゃあるまいし……まあ見るくらいならいいけど、挨拶だけしたら帰れよ?」
「……ああ」
「モチロン」
「なんだよ今の間! そして棒読み! 言っとくけど絶対に邪魔はするなよ!? もしやったら本気で怒るからな!?」
へらへらと笑う2人に何度も念押しするも、あまり効いている気がしない。そうこうしている間に、待ち合わせの場所に着いてしまった。
入り口を通って周囲を見回せば、すぐに彼女は見付かった。その綺麗に切り揃えられた濡れ羽色の髪と、それとは対照的に眩しいほどに白い肌は見間違えようがない。
その身に付けているのは、有名なゲームキャラがプリントされたTシャツに、青色の短パン。そしてその背には、赤いランドセ──
……………………
……………………?
…………ん? え? ランドセル?
……なして?
呆然と固まる僕達3人に、千紗ちゃんが気付いた。
パッと表情を明るくさせると、両手でランドセルの肩ひもを握ってパタパタと駆け寄って来る。
「こんにちは、石……修司さん」
「ああ……うん、こんにちは」
「そちらは、お友達ですか?」
「あ、うん……」
「どうも……」
「はじめまして……」
「はじめまして。私、足立千紗です」
そう言ってぺこりと頭を下げる千紗ちゃんに、なんとか精神を立て直した僕は、ようやく疑問をぶつけた。
「千紗ちゃん……」
「はい?」
「……なんで、ランドセル?」
ああ、もしかしたらファッションなのかもしれない。
外国では、ランドセルが普通にオシャレなバッグとして使われてるって聞いたことあるしね。うん。
しかし、千紗ちゃんはキョトンとした表情で、そんな僕の逃避的思考を叩き潰した。
「え? だって学校帰りですから」
「……ごめん。今更だけど、千紗ちゃんっていくつ?」
「11歳です」
「じゅーいち!?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ?」
聞いてないよ!?
内心でそう絶叫しながら、僕は頭を抱えた。
「もしもし警察ですか? ちょっと犯罪者予備軍を発見したんですが……」
「110番は任せた。俺ちょっと戻って生活指導の太田呼んで来るわ」
「ちょっと待て!!」
背後から聞こえてきた不穏な言葉に、慌てて待ったをかける。
すると、2人はザッと一歩引きつつ言った。
「いやぁ流石っすわ、石見さん。まさか小学生に手を出すとは」
「マジでパネェっすわ。ルゥェベルが違いますわ」
「やめろ! 本当に知らなかったんだって!!」
思わずそう言ってしまってからハッとした。
慌てて振り返ると、千紗ちゃんが眉をハの字にして俯いてしまっていた。
「やっぱり……小学生じゃ、ダメですよね……」
そう言ってキュッと唇を噛む千紗ちゃんを見て、僕の迷いは一瞬で吹き飛んだ。
「そんなことない!!」
はっきりと断言し、千紗ちゃんの肩を掴むと、その目を真っ直ぐに見詰める。
「昨日言っただろう? 僕はそんなこと気にしないって。年齢なんて関係ない。僕は、今のありのままの千紗ちゃんを好きになったんだから……」
「修司、さん……」
そして、2人で至近距離で見詰め合う。
すると、千紗ちゃんも口元に笑みを浮かべ、「はい」と頷いてくれた。
2人の間に、穏やかな空気が流れ……
「……などと容疑者は都合のいい供述をしており──」
「イヤァ、アイツハネ。イツカヤルト思ッテタンデスヨォ」
「おいそこ、勝手に容疑者にすんな。そして容疑者の友人Aになるな。っというか手のひら返しエグイな!」
「ハッ、男子校に通いながらも彼女作る奴なんぞもう友達ではないわ!」
「くくっ、荒れるぜぇ? 明日からお前の学園生活は荒れるぜぇ?」
下卑た笑みを浮かべながらそう言う志郎と清也だったが、そこで千紗ちゃんが控え目に声を上げた。
「あの……修司さんのご迷惑になるようなことは、しないで欲しいのですが……」
おずおずと告げられた千紗ちゃんの言葉に、2人が毒気を抜かれたような顔をする。
そして少しバツが悪そうな顔をしながら、冗談だと言った。
「し、しかしあれだなぁ。あわよくば彼女ちゃんにお友達でも紹介してもらおうと思ってたけど、小学生じゃちょっとなぁ」
志郎が気分を切り替えるようにそう言うと、清也もすかさず便乗した。
「ホントだよなぁ~。あっ、そうだ。お姉さんとかいない?」
「いますけど……彼氏いますよ?」
「あれま」
「ざ~んねん」
「おい、あまり千紗ちゃんを困らせるな……というか、もう帰れよ」
軽く顔をしかめつつそう言えば、志郎と清也は肩を竦めて踵を返した。
「へいへい、じゃあ後は若いお2人で」
「じゃあな、足立さんも……っと、そうだ」
そこで、清也が何かを思い出したように立ち止まり、こちらに近付いて来た。
「っ、なんだよ?」
「いいから」
横から肩を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。
反射的に抗おうとしてしまったが、清也のいつになく真剣な表情に、怪訝に思いながらも体を預ける。
そして、千紗ちゃんから少し離れたところで、真剣な声音でそっと耳に囁き掛けられた。
「13歳未満とそういうことすると、合意の上でも強姦罪が適応されるらしいから気を付けろよ」
「帰れ!!!」
僕は清也の手を振り払うと、その脇腹に拳をねじ込んだ。
* * * * * * *
「その……ごめんね? 騒がしい奴らで」
その後、なんとなくデートという気分でもなくなってしまった僕達は、公園に来ていた移動販売のワゴンでクレープを買うと、ベンチに並んで座って食べていた。
お互いに一口食べたところでそう切り出すと、千紗ちゃんはお行儀よく口の中のものをしっかりと飲み込んでから口を開いた。
「いえ、お2人共楽しい方でしたよ?」
「そう? まあそう言ってもらえると助かるけど……」
そう答えつつ、改めて千紗ちゃんの姿を上から下まで眺める。
……うん、恰好自体は完全に小学生のそれなんだけど、体形は完全に小学生のそれじゃないね。
最近の子供は発育がいいって言うし、事実巷のアイドルグループとかにも、高校生にしか見えない13歳のアイドルとかいるけど……いくらなんでもこれで11歳っていうのは……。
「どうかしました?」
「ああ、いや、その……本当に、11歳にしては背が高いなぁと思って」
背だけじゃないけど。それ以外も色々と大きいけど。
「そうですねぇ。クラスでもよく言われますし、男子にはよくからかわれます」
「あぁ……そう……」
「ホント、事ある毎に私の身長をイジって来るんですよ! デカ女とか、このままだと高校生の頃には2m越えだとか! ちいさくないから足立千紗じゃなくて足立デカだとかっ!!」
「あぁーー……」
うん……その場を見てないから何とも言えないけど、それってたぶん小学生男子にありがちな「好きな女の子にこそちょっかい出してしまう」ってやつなんじゃなかろうか?
千紗ちゃんってすごい美少女だし。掛け値なしにいい子だし。
むぅっと頬を膨らませつつクレープを頬張る千紗ちゃんを、なんとも微妙な気分で眺めていると……ふと、気になったことがあった。
「あぁーー……その……今更だけど、千紗ちゃん的にはどうなの? 高校3年生の彼氏っていうのは……」
きっと、本人にその自覚がなくとも、千紗ちゃんは学校でモテるのだろう。
そんな、同級生でも相手に困らない千紗ちゃんが、よりによって7歳上の高校3年生と付き合うというのは、果たして彼女的にどうなのか……。
「う~ん……別にどうとも……同級生の男子は子供にしか見えませんし」
「うん、実際子供だからね。気付いてるかどうか知らないけど、言ってることが完全に女子高生のそれだからね?」
脳裏に、「男子高校生とかマジガキだわ~。付き合うなら大学生か社会人だわ~~」と言っていた従姉の姿が過ぎった。
「それに、中学生と付き合っている同級生も何人かいますし。それより少し上だと思えば別にどうということは」
「マジで? 最近の小学生って進んでるなぁ」
僕が小学生の頃は、恋愛なんか欠片も興味なかったけど……最近の子ってマセてるんだなぁ。
「そ、それに? 恋に年齢は関係ないっていうか……」
あ、かわいい。
食べ終わったクレープの紙をくしゃくしゃしながら、俯いてもにょもにょとそう言うその姿に、なんかもういろんなことがどうでもよくなった。
つい、馬鹿みたいに「そうだよね~関係ないよね~~」と復唱して緩み切った笑みを浮かべそうになってしまい、慌てて残りのクレープを口に放り込んで誤魔化す。
その時、向かいのベンチに大学生くらいのカップルが座った。何やら2人で手を繋ぎながら、彼氏のスマホを見て盛り上がっている。
それを見た千紗ちゃんがちょっと恥ずかしそうにしながら、ぼそっと言葉を漏らした。
「私達も……恋人同士に見えます、かね?」
「学校帰りの小学生とお迎えに来た親戚のお兄さんにしか見えないと思う」
「デスヨネー」
千紗ちゃんの目が一瞬にして単色になる。
そして自分の……まあ正直に言って実に子供っぽい服装を見下ろすと、襟元を引っ張りながらむぅっと眉をしかめた。
「分かりました! 明日はちょうど祝日ですし、また明日改めてデートしましょう! その時は、私もバッチリ決めて来ますからね!!」
「あ、うん……分かった。楽しみにしてるよ……」
握り拳を突き上げつつ、鼻息荒くそう宣言する千紗ちゃんに、僕は少し気圧されながらも頷くのだった。
* * * * * * *
そして、翌日。
僕は待ち合わせ場所である駅前広場に来ていた。
「え〜っと、千紗ちゃんは……」
行き交う人混みの中、キョロキョロと辺りを見回しながらしばらく歩き、僕はようやく千紗ちゃんを発見した。の、だが……
「え……あれってまさか……」
千紗ちゃんは、大学生くらいに見える3人組の男達に何か話し掛けられている最中だった。
道を聞いている……ような感じでもない。
男達は千紗ちゃんを半円状に取り囲むようにして立ってるし、千紗ちゃんは何かを拒否するようにさっきから胸の前で手を振ってるし。
これは、やっぱり……
「ナンパ、なんだろうなぁ……」
となれば、ここは彼氏として助けなければならないだろう。
(待ち合わせ場所に行ったら彼女がナンパされてるって……こんなこと本当にあるんだなぁ)
そんなことを考えつつ、千紗ちゃんに向かって一歩を踏み出した、その時。
ピルピルピルピルピルピル!!!
突如、千紗ちゃんの方から特徴的な警告音がけたたましく鳴り響いた。
「なっ……」
ぼ、防犯ブザーだと!!?
小学生必携の護身用グッズ、防犯ブザー。リアルで使われるところ初めて見た!!
予想外の展開に思わず固まっていると、駅前の人混みの視線が一気に千紗ちゃんの方を向いた。
そしてその人混みの中から、駅前を巡回していたらしいお巡りさんが駆けてきた。
これには、千紗ちゃんの行動に固化していた大学生達も慌てる。
しかし、彼らが次の行動に移る前に、40歳くらいに見える中年警官が彼らの元に到達した。
そして、千紗ちゃんと何かを話した直後、大学生3人組が「えっ!?」という表情になり、警察官のおじさんが鬼のような表情になった。
……会話は聞こえないが、たぶん千紗ちゃんが自分の年齢を話したんだろう。
警察官のおじさんはそれを聞いて、自分の娘さんを千紗ちゃんに重ね合わせでもしたのかもしれない。大学生達を見る目が、完全に変態性犯罪者を見るそれになっている。
大学生達は何やら必死に弁解していたが、結局そのまま警察官のおじさんにドナドナされていった。
……ナンパしたくらいでしょっぴかれるって……いや、僕が言うことではないし、庇うつもりもないけど……なんというか、ご愁傷様。
3人組に心の中で合掌してから、僕は千紗ちゃんの元に向かう。
へたれと言うなかれ。あのお巡りさんの前に「あ、彼氏です」なんて堂々と名乗り出る勇気は僕にはない。
「あ、修司さん」
「お待たせ。ごめんね? 助けられなくて……」
「いえ、あそこで修司さんが出て来たら、余計こじれていたと思いますから」
……どうやら何もかもお見通しらしい。
つくづく聡いな。……本当に小学生?
「ところで、どうですか? 今日の私は」
そう言って、千紗ちゃんがくいっと片手を上げてポーズを取る。
宣言通り、今日の千紗ちゃんは昨日の子供っぽい恰好とは打って変わって、とても大人っぽいファッションに身を包んでいた。
膝丈のミントグリーンのワンピースに、腰の辺りを布のベルトで緩く締めている。その手には白色のハンドバッグを持ち、足元は飾り紐がオシャレなパンプス。
うん、どう見ても小学生には見えない。さっきの大学生がナンパした気持ちも分かる。……ホントのホントに小学生?
「うん、とてもよく似合ってる。大人っぽくて可愛いよ」
「ふふ~ん、そうでしょうそうでしょう」
機嫌良さそうにそう言うと、千紗ちゃんはその場でくるりと一回転した。
その動きに合わせ、翻るスカート。そして、そのポケットから飛び出したチェーン付きの卵型防犯ブザー。
あ、うん。確かに小学生だね。
しかもよく見ると、ブザーの裏にしっかりと名前が書かれている。うん、紛れもなく小学生。
ドヤ顔で決めポーズをする千紗ちゃんに妙に優しい気持ちになりながら、僕は口を開いた。
「それじゃあ行こうか」
「あ、はい」
そして、僕達は駅前のショッピングモールにある映画館へと向かった。
エレベーターに乗って映画館が入っている階まで上がり、映画館の入り口を潜ると、ポップコーンの甘い香りが鼻を刺激する。
壁に飾られている上映中の映画のポスターを見ながら、チケットを買いに行こうとして──ふと立ち止まった。
(あれ? 普通に今、中高生の間で人気のアニメ映画を見ようと思ったけど……千紗ちゃんは他のものが見たかったりするのか?)
視線が、並んでいるポスターの一番右端──『プリピュア7 ~星降る夜に願いを込めて~』に吸い寄せられる。
……うん、まあ最近の子供向けアニメって、大人でも結構楽しめるって話だし? 千紗ちゃんが見たいって言うなら、僕はそれに付き合うけど……。
「……千紗ちゃんは、どれが見たい?」
「え?」
密かに覚悟を決めてそう問い掛けると、千紗ちゃんが目を瞬かせた。
そして、少し上目遣いで「私が選んでいいんですか?」と遠慮がちに尋ねてくる。
「うん、いいよ。どれが見たい?」
「それじゃあ……あれが見たいです」
そう言って、千紗ちゃんが指差したのは──
『魂の一振り ~昭和の名工と呼ばれた男~』
渋っ!!
* * * * * * *
「面白かったですね~」
「うん、まあ思ったより面白かったね」
あの後、子供料金でチケットを買おうとして受付のお姉さんと一悶着あったりもしたが、僕らは千紗ちゃん御所望の映画を見て、その感想を語りがてらショッピングモール内のファミレスに来ていた。
「あの最後のところなんて、私ちょっと泣いちゃいましたよ」
「えっと、あの鉄瓶が完成したところ?」
「はい!」
「あぁ……そうなんだ?」
内心で「泣けるところあったかな?」と首を傾げながら、千紗ちゃんにメニューを差し出す。
「ありがとうございます。……修司さんは、もう決まったんですか?」
「うん。ハンバーグかステーキか迷ったんだけど、結局ミックスグリルにしようかなって」
「そうですか……」
そう言ってメニューに目を落とすと、少ししてから「決まりました」と言ったので、近くを通った店員さんを呼び止める。
「えっと、僕はミックスグリルで」
「畏まりました。ソースは如何いたしましょうか?」
「あ~~っと、じゃあデミグラスで」
「サラダかスープ、どちらかをお選び頂けますが?」
「じゃあサラダで。千紗ちゃんは?」
「えっと……」
千紗ちゃんに振ると、なぜかメニューで顔の下半分を隠して恥ずかしそうにしてしまう。
「どうしたの?」
「あの……笑わないでくださいね?」
「? いや、千紗ちゃんが何を食べようと別に笑わないけど?」
「本当ですか?」
「うん」
そう頷きつつ、内心で首を傾げ……ふと思い付いた。
(ああ、もしかして……お子様ランチとか? いや、あれは小学生は小学生でも、精々低学年までか。となると……ああ、パフェを食べたいとかかな? ふふっ、可愛いなぁ)
僕が微笑ましい気持ちで見守る中、千紗ちゃんは「じゃあ……」と言いながらメニューを下ろし──
「まず、ほうれん草のソテー。次がコーンポタージュで、その次が舌平目とタコのカルパッチョ。桃のシャーベットの後に、ハンバーグステーキのソースは醤油で、サイドメニューはサラダで。そして最後にティラミスを」
「!!?」
全然可愛い注文じゃなかった。すんごい手慣れてた。
量もさることながら、ファミレスでメニューの順番まで指定する人初めて見たよ。というか、気のせいでなければ今のって完全にフランス料理のコースじゃなかったか? なんか、注文を取ってる女性店員が「こ、こやつ、出来る!!」みたいな表情になってるし。
「い、以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
しかしそこはプロというべきか、店員さんは微妙に引き攣った笑みを浮かべながらも、一言一句違わずに注文を復唱してみせた。そして綺麗にお辞儀をすると、やり遂げた感満載の笑みと共に厨房へと向かった。
「す、すごい食べるんだ、ね?」
店員さんを見送ってから、対面の千紗ちゃんにそう言うと、千紗ちゃんはまた恥ずかしそうな顔で肩を縮こまらせた。
「よく言われます。私、結構大食いみたいで……」
どうやら、千紗ちゃんの年齢にそぐわない発育の良さにはきちんと理由があったらしい。
恥ずかしそうな千紗ちゃんを驚き半分感心半分で見ていると、千紗ちゃんがハッとした表情で顔を上げた。
「あっ! でも、ちゃんと自分の分は自分で払いますから!」
「いや、いいよ。今日は僕が払うよ」
「でも、さっきの映画館でもチケット代を出してもらいましたし……」
「それはまあ……流石に高校生として、小学生にお金を出させる訳にはいかないよ」
「大丈夫です! コツコツ溜めてたおこづかい持って来たので!」
「くふっ」
ヤバイ。見た目同年代の千紗ちゃんが、無駄にキリッとした表情で「おこづかい持って来た」とか可愛すぎる。
両手をグッと握ってふんすっと鼻息を鳴らす千紗ちゃんを前に必死に笑いを堪えつつ、僕はその申し出を断った。
「いや、流石に小学生の女の子にお金を出させるのは心が痛む……というか、物凄く居た堪れない気持ちになるから、ここは僕に出させてくれない? 僕の精神の安定のために」
「……むぅ、分かりました。それじゃあごちそうになります……」
千紗ちゃんが不承不承といった様子で頷いたところで、注文した料理が届いた。
「いただきます」
「わぁ~い、おいしそ~~。いただきます!」
千紗ちゃんは満面の笑みを浮かべると、一品目のほうれん草のソテーにフォークを突き刺した。
あっという間に半分ほどを平らげたところで次のコーンポタージュがやってきて、それが少し冷めた頃に一品目を片付けると、実に幸せそうにスプーンを手に取る。
その後も千紗ちゃんのペースが衰えることは一切なく、全体で僕の3倍くらいのボリュームがある料理の数々を、ものの30分ほどで残らず胃に収めてしまった。
「ごちそうさまでした。それじゃあ、これからどうしましょうか?」
「あ、ああ……適当にウィンドウショッピングでもしようかと思ってたんだけど、千紗ちゃんが行きたいところがあったらそれに合わせるよ」
満足気に口元を紙ナプキンで拭う千紗ちゃんにそう言うと、千紗ちゃんはその瞳を期待に輝かせた。
「本当ですか!? じゃあ、私行きたいところがあるんです!」
「お、おお……どこ?」
「それは──」
* * * * * * *
「……ここ?」
「はい!」
確認の意味を込めてそう問い掛けるが、それに満面の笑みで答えられる。
千紗ちゃんのリクエストで来た場所、それはデパートの屋上に造られた、小規模な遊園地だった。
(ここで急に子供っぽいのキタッ!!)
千紗ちゃんが小学生であることを忘れかけていたところのこれに、思わず額を手で押さえる。
しかし、千紗ちゃんはそんな僕に気付いた様子もなく、キラキラした瞳で園内を見回していた。
「あっ! パンダさん! これに乗りたかったんです!」
そして、柵の中を軽快な音楽を奏でながら動き回るいくつものぬいぐるみの中、パンダの乗り物に駆け寄ると、その背に嬉々として跨った。
ハンドバッグからお財布(落下防止用のひも付き)を取り出すと、背中の穴に100円玉を投下する。すると、急に生気を吹き込まれたように首と足を動かし始めるパンダのぬいぐるみ。
「……」
パンダの乗り物の上ではしゃぐ千紗ちゃん。それを柵の外から見守る僕。……保護者感ヤベェ。
* * * * * * *
「今日はありがとうございました。とっても楽しかったです!」
「ああ、うん。千紗ちゃんが楽しんでくれたなら良かったよ」
あの後、千紗ちゃんは屋上遊園地で夕方まで遊び倒した。
小さなジェットコースターに乗ったり、ステージでやっていたヒーローショーを見たり、なんか大量のバルーンで埋め尽くされたアトラクションで遊んだり。
子連れのお父さんお母さんの生温い視線もなんのその、小さな子供に交じって普通に遊ぶ千紗ちゃんを、僕はひたすらスマホで撮っていた。うん、やっぱり彼氏というより保護者だったな。最後の方。
まあ、千紗ちゃんの素敵な笑顔がたくさん撮れたからよかったことにするけど。
そして、千紗ちゃんの家までもう少しというところで、千紗ちゃんがふと思い出したように言った。
「そうだ、今日はうちに寄っていってください。お姉ちゃんが是非修司さんに会いたいって言ってるので」
「……え゛?」
千紗ちゃんは本当に何気なく言っているようだったが、それを聞いた僕はとても平静ではいられなかった。
しかし、それも当然だろう。
僕は一人っ子だが、もし僕に小学生の妹がいて、その妹に高校生の恋人が出来たと聞いたらどう思う?
……考えるまでもなく、その男の顔を見たくなるだろう。好意的な意味ではなく、「うちの妹に手を出した変態ロリコン野郎の面を拝んでやろう」という意味で。というか、千紗ちゃんのお姉さんが僕に会いたがる理由なんてそれ以外に考えられなかった。
しかし、ここで逃げる訳にはいかない。
それは結局のところ問題の先延ばしに過ぎないし、千紗ちゃんとそのお姉さんの心象を悪くするだけだろう。
「ふーー……っ、分かった」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ? お姉ちゃんは優しい人ですから」
「そうは言っても、流石に緊張するよ……ちなみに、お姉さんっていくつ?」
「えっと、修司さんと同じで、高校3年生です」
「同級生か……」
姉妹で結構歳が離れてるな。
まあなんにせよ、今の僕に出来るのは、千紗ちゃんの“優しい人”という評価が正しいことを信じるのみだ。
そうして覚悟を決めたところで、ちょうど千紗ちゃんの家の前に着いた。
千紗ちゃんに手招かれるまま門を潜ると、玄関の前で軽く深呼吸。
すると、ポケットから鍵(落下防止用のバネ付き)を取り出した千紗ちゃんが「あっ」と声を上げた。
「いくらお姉ちゃんが美人だからって、好きになっちゃダメですからね? お姉ちゃん彼氏いますから」
ちょっと眉を寄せながらメッとやってくる千紗ちゃんに、思わず表情が緩む。ついでに緊張も緩んだ。
「大丈夫だよ。僕は千紗ちゃん一筋だから」
「しゅ、修司さん……」
照れたように頰を染める千紗ちゃんと、静かに見詰め合う。すると……
「おかえりなさい」
「「!!?」」
いつの間にか少し開いた玄関扉の隙間から、一対の目が覗いていた。2人共ビクッと体を跳ねさせ、お互いに距離を取る。
「た、ただいま、お姉ちゃん……どうして気付いたの?」
「人の気配がしたから」
……なんか達人みたいなことを言いながら出て来たのは、千紗ちゃんとよく似た和風美人の少女だった。和服がよく似合いそうなその清楚で落ち着いた雰囲気は、たしかにとても優しそうではあったのだが……
(なんだ? この寒気は)
僕は、その少女に肌がざわつくような感覚を抱いていた。なんとなく、蛇に睨まれたカエルの気持ちが今なら分かる気がする。
その優しげな笑みが千紗ちゃんから僕へと向けられて、本能的に体が震えるのが自分で分かった。なぜだろう、昼間の警察官のおじさんより、目の前の優しげなお姉さんの方が余程鬼のように見えるのは。
「あなたが千紗の彼氏ね? はじめまして、千紗の姉の楓花です」
「は、はじめまして、石見修司です」
「どうぞ上がって? 今日は両親いないから」
「は、ハイ……お邪魔します」
言われるまま玄関に入り、出されたスリッパに足を通す。
「それじゃあ千紗、お姉ちゃん石見さんと少しお話があるから、部屋に戻ってなさい」
「え、でも……」
「千紗」
「はい……じゃあ修司さん、ごゆっくり」
そう言ってぺこりと頭を下げると、千紗ちゃんは階段を上がって2階に上がってしまう。
……小学生に頼るなんて情けない話だけど、正直側にいて欲しかった……というか、このお姉さんと2人にしないで欲しかったよ……。
「じゃあ、リビングに行きましょうか?」
「……はい」
それでも、お姉さんにそう促されれば反抗する気は起きず。僕は大人しくその後についていくのだった。
「さて」
テーブルに2人分の麦茶を出してから、正面に座ったお姉さんが口を開いた。
「同級生ってことだし、敬語はいいよね?」
「あ、はい」
僕は敬語使うけどね。というか年齢とか関係なく、この人相手にタメ語とか使う気にならない。
なんだったらソファの上で正座したい気分だよ。マナー違反っぽいからやらないけどね。
「じゃあ石見君、わたしはあなたについて重大な懸念を抱いているの」
「はい」
……どうでもいいけど、僕さっきから「はい」しか言ってないな。
「まあストレートに言うと、あなたが小学生に欲情するクソ外道変態ロリコン野郎なんじゃないかって話なんだけど」
「……おぅ」
予想以上にストレートだった。そして僕の予想を超えて、最初に“クソ外道”が付いていた。澄ました顔してとんでもない過激発言するなこの人。
しかし、ここはきちんと訂正しておかなくてはならない。
僕は断じて千紗ちゃんが小学生だから好きになった訳ではないし、何よりここで誤解を解かないと殺される気がする。
「それは違います。僕は小学生とかそんなこと関係なく、純粋に千紗ちゃんのことが好きなんです」
背筋をピシッと伸ばしつつそう言えば、お姉さんはジッと僕の目を見た後、「ま、だろうね」とあっさり肩を竦めた。
疑いが晴れたようで良かった。なんだか怖いお姉さんだけど、やっぱりきちんと誠意をもって話せば通じ──
「千紗がただの変態なんかを好きになる訳ないし」
ですよね!!
そっちに対する信頼ですよね! うん、知ってた!
「でも、姉として心配になる気持ちは、分かってくれるよねぇ?」
「あ、はい。それはもう……」
反射的にそう答えると、お姉さんは笑みを深めてポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
「じゃあ、これにサインしてくれる?」
テーブルの上に広げられたそれは、手書きの誓約書だった。
いくつもの項目に分けて箇条書きでズラズラ書かれているが、要は千紗ちゃんが成人するまでは健全な交際を続けることを誓うものだ。しかもお互いに1枚ずつ保管するために、きちんと2枚用意されている。
(う、うわぁ、流石千紗ちゃんのお姉さん。字、綺麗だなぁ……うん、千紗ちゃんが言ってたように、本当は優しい人なんだろうね。その人柄が字からも伝わってくるよ……でも、なんでだろう)
字を目で追っているだけで、背筋に寒気が走るのは。
これが殺気というやつなのか? 見ただけで殺気を感じる字なんて初めて見たよ。
「それで、どう?」
「は、はい! そ、うですね……」
誓約書に目を落とす。
まあ、大体は問題ない。流石に小中学生に手を出すほどケダモノじゃないしね。
そう。大体は問題ない、のだが……
「……あの、すみません」
「なに?」
笑みを浮かべたまま小首を傾げるお姉さん。
その姿は、純粋に疑問を感じているようにしか見えないが……なぜだろう、背後にめらめらと炎が見えるのは。「なんか文句あんのか、ああん?」という副音声が聞こえるのは。
思わず「いえ、なんでもないデス」と首を横に振りかけたが、ぐっと堪える。そして、大きく唾を呑み込んでから言った。
「この成人するまでというの……せめて、結婚できる年齢になるまで。つまり、16歳になるまでに変更してもらえませんでしょうか?」
言った! 言ったよ僕!! やるじゃん僕!!
「……ふぅん」
言っちゃった。言っちゃったよ僕。殺られるかもよ僕。
スゥッと目を細めたお姉さんに、一瞬にして達成感が萎える。
そして本能的な危機感に衝き動かされるまま、早口で自己弁護をした。
「考えてみてください! 千紗ちゃんが成人するまでって言ったら、その時僕は26ですよ!? 流石にその歳までお預けっていうのはちょっと……。千紗ちゃんが16歳の時、僕はもう22ですから!! もう十分責任取れますから!!」
「……」
冷や汗をかきつつそうまくし立てると、お姉さんは顎に手を当ててしばらく黙考した。
そして、僕の背中が汗でぐっしょり濡れた頃に、ようやく「ふぅ」と息を吐く。
「ま、いいでしょ。ただし、責任を取るというなら学生の内はダメだから。きっちり大学を卒業して、社会人として安定した生活を手に入れてからね。もちろん大学院に行くならもう2年お預けで」
「は、はい。それでいいデス……」
小さな声でそう返し、僕はソファの上でどっと脱力した。ヤバイ、下手したら千紗ちゃんに告白した時よりも緊張したかも。
そんな僕を尻目に、お姉さんはその場でさらさらと誓約書の内容を書き換えると、2枚まとめて僕の方へと滑らせた。
「じゃあ、そこにサインと血判を」
「あ、はい…………ん?」
? 今、なんか聞き慣れない言葉を聞いたような……? 冗談だよね?
そんな思いを込めてお姉さんを見上げると、その手にはいつのまにかカッターナイフが握られていた。アカン、これ、冗談じゃないわ。
「ちょっ、普通に拇印でよくないですか!? なんで血判!?」
「安心して、等価交換だから。わたしもやるよ」
そう言うと、お姉さんは躊躇いなく自分の親指にカッターの刃を当て、眉1つ動かさずに刃を引いた。あ、ヤバイ。このお姉さん絶対に堅気の人じゃない。
「はい、じゃあ次」
ビチャッと音がしそうな勢いで自分の名前の横に親指を押し付けると、お姉さんは血を拭き取ったカッターナイフをこちらに渡してくる。いや、そんなくじ引きのくじ渡すテンションで言われても……。
「あの、それはちょっと……」
「そう? その程度の覚悟なら、やっぱり成人するまでに──」
「修司、いっきま~す」
ノリと勢いに任せ、えいやっと指を切る。
そして痛みを感じる前にぐぐいっと紙面に指を押し付けると、すぐに圧迫止血した。
「ん、どうぞ」
お姉さんがそう言って1枚を手に取ると、僕に絆創膏を差し出してくれた。
ありがたく受け取って親指に巻くと、サインと拇印を確認していたお姉さんが納得したように頷き……
「深く切り過ぎて指紋が滲んでるからやり直し」
「嘘でしょ!?」
思わず悲鳴混じりにそう叫ぶと、お姉さんは表情を変えずに「冗談だよ」と呟いた。……顔が全然冗談言っているように見えないんだけど。
「ま、いいでしょ。覚悟は見せてもらったし、これで千紗との交際は認めてあげる」
「あ、ありがとうございます……」
「でも──」
ワントーン下がった声でそう言われた瞬間、キュッと心臓を掴まれたような心地がした。
(ま、まだ何かあるのか!?)
急激に高まった殺気を前に、全身が硬直する。
ただ黙って目を見開くことしか出来ない僕の前で、お姉さんがゆらりとソファから立ち上がると、その右手をグワッと開いて僕の胸元へ──
(胸ぐらを掴まれるっ!?)
そう察して反射的に目を瞑るも、いつまで経っても体を引っ張り上げられない。
恐る恐る目を開き、自分の胸を見下ろして……
「……?」
……は? え? ん?
お姉さんの手。指が、僕の胸に食い込ん……って、
ギャーーーー!! なにこれナニコレ!?
胸に! 肋骨の間に、指が刺さってるんですけど!? あれ? でも痛くないし血も出てな……う、お!?
(い、今……物理的に心臓掴まれた!?)
リアルに心臓がキュッとなった。いや、心臓をキュッとされた。
文字通り急所を握られるという状況に、ダラダラと冷や汗をかきながら視線を上げると、すぐ近くににっこりと笑ったお姉さんの顔が。
その唇が開かれると同時に、その両目がスッと開かれ、冴え冴えとした輝きを放つ。
「もし、千紗を泣かしたら……潰すよ?」
凄まじい殺気を孕んだその言葉に、僕は超高速で首を縦に振るのだった。
* * * * * * *
それから、約5年間。
僕はお姉さんとの約束を守り、千紗ちゃんと健全でプラトニックな交際を続けた。
まあ当然というかなんの波乱もなしにとはいかず、むしろ波乱だらけだった。
突然学校帰りに小学生男子数名に取り囲まれ、「このロリコン大魔王め! 千紗ちゃんを解放しろ!!」とか言われて決闘を挑まれたり、その一件が学校に知れて“ロリコン大魔王”なる不名誉極まりない二つ名が学校中に広まったり、大学への推薦が少し危うくなったり。学園祭に来た千紗ちゃん本人を見て男子校の飢えた獣共が発狂したり、僕が大魔王から勇者へと意味不明なジョブチェンジをしたりもした。
なんとか無事大学に進学し、千紗ちゃんが中学生になってからも、やっぱり中学生男子十数名に決闘を挑まれたり。大学に遊びに来た千紗ちゃんがタチの悪い男子グループに目を付けられ、鬼と化したお姉さんが乱舞したり、どういう訳か全く面識のないオタサーの連中に神扱いされたりもしたな。
千紗ちゃんが高校生になってからは、向こうからそれとなくアプローチされるようになり、男としての欲望を抑えるのが本当に大変だった。「手を出したら死。手を出したら死」と自分に言い聞かせて必死に欲望に抗った結果、危うく悟りを開き掛けた。
……いや、本当に頑張ったよ僕。我ながら5年近くもよく耐えたと思うよホント。
しかし、つい先日僕は大学を卒業し、この4月に晴れて社会人となった。
そして、今日。僕は、16歳、高校2年生になった千紗ちゃんと共に、新たな関係へと一歩を踏み出す……。
桜舞う並木道で、彼女が待っている。
春風に濡れ羽色の長い髪を揺らしながら、スーツ姿で近付く僕を見付けて微笑みを浮かべる。
そして、ゆっくりと僕の前に歩み寄ると、いたずらっぽく目を細めて言った。
「これから2年間、よろしくお願いしますね? 石見先生」
「……」
……あの、すみません。
5年近く付き合っている彼女と教師と教え子の関係になってしまったんですが、これはアウトですか?
楓花「ギリアウトで」
修司、あと2年お預け決定。