pf.A.T.E.M.--Automat1c replicating Transistor Elucidate M0dule
紙の街
天を仰いでもまだ空は濃い紺色をしていたが、前の方に視線を移していくとそれは彩度を上げて青く、また光が通過する大気の厚みの変化から緑、黄、橙とグラデーションを示していた。風に散らされて千切れた様な雲はそれらの色を映したり影になって黒かったり、すでに白かったりと適当な様相をしていて、一つ思ったのはいつか見た星雲の写真とそっくりだという事。雲と称されるのも納得である。
私は昨晩も作業を行ったままここで眠ってしまったようで、もう一年も続けているのにまだ終わらないそれは一体いつになれば実を結ぶのだろうと思う。しかしまあ続ける他無いからして何度そんな思いをしてもただ精神の健康を害するばかりなのだ。文句を言っても仕方がないというやつなのだ。
良いことも対してないだろうに、なぜ人は文句を言うのだろう。
いや、違う、なぜ人は文句として口から突いて出てくる様な感情を労働に対し抱くのだろう。労働の結果得られるものを本能的に求めるよりも労働を本能的に求めた方が効率が良いだろうに。
ああ、でもその問に回答を見出しても文句の何たるかは結局良く分からないだろうなぁ……
まあ、そんな事はどうでも良いのだ。
何時もの様に纏まらない思考を締めくくった私は今日も今日とて寝ぼけた体を起こして活動を始めた。
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私はいつも1日の始まりにはまず散歩をする。毎日同じ道を歩いているものだから季節の移ろいが敏感に感じられる。私はその日その日の微妙な景色の違いを眺めながら感傷に浸っているうちにどんどん自分の世界にのめり込んで行くのだ。その時に考えることといえばこの世の社会の仕組みやこの世界に対する哲学的な問いが殆んどである。しかし最近は頭に靄がかかったような感じが続いており、一年も続いている作業が終わらないことに対する焦りもあって思考がまとまらない。空はキャンバスに青い絵の具をそのまま塗ったかのように青々としているのに気分が晴れないのは自分の頭の上だけに雲がかかっているようで気分が沈む。歩いていると楽しそうに友達と歩く小学生、忙しそうに駅へと向かうサラリーマンを見つけた。どこかの家の中から朝のニュースが漏れて聞こえてくる。今日も世の中は元気だ。この街が朝という誰が決めたわけでもない時間に従って静かに動き始める。この光景と何度見ただろうか、いくら私が一人で作業を誰にも知られずに進めていても私は社会の中の一部にしっかりと加わっているのだと実感する。そして思うのだ。いつかこの作品を発表し世間に発表してやるのだと。そして世間に認めてもらい、この道を安定しないからと散々反対した親にも認めてもらうのだと。
三十分ほど歩くと建物も少なくなってきて、人もいなく、申し訳程度の街路樹とそこらに草が生えている。道はまだ先へ続こうと精一杯伸びていたが次第に色を無くして途切れていた。草の根元もぼやけて輪郭が無く、薄緑だけがあいまいに広がっている。それらの向こう側は空を除いた下半分が真っ白だった。
「どうも作風が安定していないなぁ」
それもまあ味か……等と考えながら足元が覚束なくなってきたので踵を返して来た道を戻る。
踏みしめるのはレンガブロックを模した地面であるが、その下には深さは判然としないまでも真っ黒な中に小石で嵩増したコンクリートが敷き詰まっているのだと思う。それ以上下の方には想像が及ばないし、想像していないからにはきっと真っ白なままなのだろう。
帰り際に駅前の喫茶店『シンダバッタの冒険』に入りモーニングを注文する。
「絵描きさんじゃないですか」
店員に注文を伝えてしばらくすると料理よりも先に店長が出てきて四角い四人テーブルの向かい側に座ってしまった。
「ああ……どうも店長、お久しぶり、まだやってなかったでしょうか?」
「いえ、開店前には違いませんがスタッフもみんな揃っていてすることも無かった所なのです」
彼の顔は輪郭が黒い線で縁取りされておりその内側の色は一様、影の付き方と照明の位置に相関は無い。目などは下の睫毛が無く虹彩と瞳を区切る線が太いせいでもう一つ謎の領域が出現していたし、口の中は良く見えず髪の毛も一本ずつ識別できない纏まった形をしていた。それは周囲の背景に比べて極めて単純な構造をしており異質であったが、私は個人的には顔など目と口が一セット付いていれば十分であり、コミュニケーションは心でとるものだと思っていた。
「お待ちどうさまです」
「ありがとう」
店長と他愛も無い話をしていると朝食とコーヒーが出てくる。ここのモーニングは日によってかなり内容が違うのであるが、心積もりはあったにしても今日は流石に文句を言いたい。何と朝食にも関わらず表面にバターのテカったキッシュであったのである。
良く考えると同じものが出てきた試しは無く、そういう主義なのであろう。そして遂に出すものが無くなったという訳だ。
「絵描きさんは作品を描く時、どのようにするのですか?」
こちらの考えていることなど微塵も分かっていない様子で店長はひどく抽象的な質問をしてきた。
「どのように……ですか、そうですねぇ、作品というのは芸術でしょう?それは一体何を目指し作れば良いのでしょうか、はっきり言って私にも良く分かりません。美しさでしょうか、自身が自身の美的感覚に強く共感するものを求める心理は、それは存在するでしょうが、その理由は自身からそれを作り出そうと思わせるようなものではありません。世界を見て回れば自分の小手先などより大きなエネルギーをもって作られた大きな企画がいくらでもあるのです。理由としてはきっと他に自己表現欲のようなものがあって、いやしかしそんな下劣なものでこの突き動かされるような衝動を説明できるはずがありません……うーん、すみません、最近は考えが上手く纏まらないもので」
「へえ、難しいんですね」
その後も適当な話をしつつ私は予想以上にあっさりして美味しいキッシュを平らげ、コーヒーには口をつけずに金を払って店を後にした。飲まないのを分かっているのか店長がさも当然かのようにコーヒーを飲み干していたが、流石に少しおかしいと思う。
小高い丘を登る。視界はどんどん開けてゆき、たどり着いたてっぺんは今朝目を覚ました私の仕事の定位置。寝かせてあった折り畳み式の椅子を広げて座り辺りを見渡す。街並み、空、森に川に山。それらは私が一年をかけて描いて来た作品であり、時が移ろうにつれて描いた覚えのない変化が現れる。まだ下書きしか描いていない所や真っ白でキャンパス特有の凸凹しかない所もあるが、いずれはその全てを多彩な色で埋め尽くすのだ。
私のキャンバスは特別で、描いたところから世界ができ、キャンバスの中で世界が動き始めるのだ。ないものを想像して描くのでなかなか集中力が必要である。私の父上は七日間で「世界」をお創りになられたそうだが、私はもっと時間をかけて想像する。これまで描いてきたものを振り返ると我ながらいい出来になってきていると思う。描いた覚えのない変化が現れるのも描いたところ同士で秩序が生まれて生態系などの相互作用がうまくいっているからだ。特に生き物を想像するときなどは一番神経を尖らせる。自分の管理下から離れるしそれが及ぼす影響をしっかり考えなければどんどん生み出すうちに秩序のズレが積み重なってまた作り直しということになりかねないからだ。父上はよくもまあ七日間で作ったものだ。人間は生物の中でもコントロールが難しい。私が休憩がてらに寄るため作った喫茶店のキッシュは上手いもののコーヒーはイマイチという結果になってしまった。まあこの世界の住人は自然を巧く扱えるのでよしとする。
筆を持つと一気にモチベーションがあがる。目を瞑り、頭の中でどんどん想像膨らませて行く。自分はどんな世界を望むのか自問自答を重ね、明瞭にイメージが出来上がると目を開き丁寧に速く筆を滑らせて行く。色の調合は決して間違えてはいけない。絵の具は描いたものの性質を決めるものだからだ。海を作るにも海用の絵の具が必要だし、空には空用、地面には地面用の絵の具が必要だ。この前には日々の疲れのせいで間違って火で出来た鳥を作ってしまった。消そうとしたが逃げられてしまった生物として不完全なので今後私に見つかるまで半永久的に飛び続けるだろう。
物理法則が一般化できないほどにこの世界は秩序を欠いており、もし私がもっと細々した嫌な性格であれば多少なりとも過程と結果が相関したのかもしれないが……
もし飛行機から落っこちてもそのまま怪我も目の渇きもないまま着地することが可能であるし、人口も描いた人数よりも若干、いや下手をすれば二倍ほど増えている気もする。それともあれほど描いただろうかと思って納得できない訳では無いが、やはり町でふとすれ違ったりしてみてあんなに精巧な人間を描いただろうか等と思うことがあるのだ。
そして描いたなと思ってまた見るとその人はもうどこかに行ってしまっていて、全てのことがそう、辻褄について考えると自身の納得できる辺りに落ち着いてしまって、まあ辻褄なんて無いのだろう。これは芸術であるからして感情なのだ、そこにあるのは感情だけで理屈は存在しない。それらが見えているとすればそんな気分と言うだけである。夢に脈絡は無く、目覚めた後脳が補完してストーリーになっているのだという、これも似たような感覚で補っているのが脳ではないというだけの話。補っているのは感情、脳によって補われた後の脈絡あるストーリーを目の当たりにした時に起伏するであろう感情が独りでに出現している。故に文字に表すことは出来ない、少しでも、絶対にである。私は現状このような思考をしているように思われるがそうであった場合と同じ感情が起伏している為そう思ってしまうだけである。感情が万物の判断基準であるからそうあって何の問題も無い。理性?理性を判断しているのも感情である。
そんな事を考えながらキャンパスをぼけっと眺めて仕事に移る移らないのスイッチを見失っていると作品の向こう側に突如として一人の金持ちが出現した。私は思わず声をあげる。
「げっ、なんだお前は!いつからそこに居た!私は金持ちなど書いた覚えはないぞ!」
急に怒鳴られた彼は少しうろたえて答える。
「え、いつからも何も私は先ほどからあなたに声をかけているじゃありませんか、いい日和ですね、絵をお描きになっていらっしゃるのですか、と」
「何だって、そうだったのかこれは失敬、そうです、私は絵を描いているのですよ、しかしあなたには見覚えが無いのです、これは由々しき事態だ」
「はあ、仰っていることは分かりかねますが.……少し絵を見せてもらっても良いでしょうか」
「絵が絵を見るなどお笑いだ、はっはっは」
私の嘲笑に返答は無く、彼はずかずかと私の横までやってきた。
「おお!これは素晴らしい!写真などよりよほど現実味があってまるで世界と溶け合っている様です。そうだ!私はこの絵を風呂に飾りたいです。売ってください、言い値で買いましょう」
「いや……残念ながらそうはいきませんね……私は金に困ってはいないしこの絵は命よりも大切で、しかもまだ完成してないのですよ」
「そうですか.――ではこういうのはどうです」
そう言うと金持ちは懐に手を入れて何かを取り出した。それを見て私は驚愕する。何とそれは銃であった、こやつは銃刀法違反者であった。
「――何ですか、そんなおもちゃを取り出して……脅しているつもりですか」
金持ちはおもむろに銃口を天に向けて引き金を引く。
ズドーン!
聞いたことも無いような爆発音が響いた。
「やめろ!」
至極単純な叫びであるがそれ以外の願いなどあるはずも無く、私の語彙力が広辞苑三冊分であっても同じことを口にしたと思う。
私は咄嗟に立ち上がってキャンパスを手に取り胸の前に抱えて後じさる。奴の気がおかしいのは確かであるが本当におかしいのならば笑っているのではと思い表情を見るがそれは険しい。精神異常者はとりあえず笑っていると思っていたが間違いだったのか、それともあいつは至ってまともで、三度の飯より絵画が好き、脅迫で捕まっても絵画と一緒になら構わなく、殺人罪などで死刑になっても絵画と一緒になら構わないといったようなやつなのか。いや、絵画を刑務所に入れてもらえるはずが無いし絵画と刑務所に入っている奴がまともな訳が無い……
「おい、そんな事をして何になる、風呂に絵を飾るために人を殺すのか」
「ごもっともですとも、私だってこんな下らない事であなたを殺したくなんかない、けどね、もう私は人生においてすることが無いんですよ。金だっていくらでもあって、弁護士の免許も医者の免許も持っている。この世のありとあらゆるものを食べ、読み、作成しました。雪も食べたんですよ。趣味は極めつくして暇を持て余し、出家して修行に明け暮れて遂に仏になったんです。日照りの時は涙を流し、寒さの夏はオロオロ歩き、皆に木偶の棒と呼ばれてじっと手を見たりしたなぁ。海を割り、山を動かし、銀の翼で太陽まで行きました。全てを手に入れたのです、たった一つを除いてはね。そう、それが風呂に飾る絵画なのです。満たされているのにどこか寂しかった。特に風呂に入っているときですよ。こう、ぽっかり穴が開いたような、やぶれた様な感じです。私はピンと来たね、彩だ!この風呂には彩が足りないんだ!最高の彩、それは絵画だ!絵画を探せ!銃を取れ!町へ繰り出すのだ!と、それが今日の早朝です」
私は声も発せなかったばかりか動く事さえできなかった。涙を流し語る彼を一瞬でも狂っているなどと思った私はどれほど情熱に欠けた奴だったのだろう。彼の思いは私の胸を打ち、もし立場が逆であったならば私だってそうするとも思った。しかし、この絵を渡すわけにはいかないのだ。何とか説得を試みよう。そう思ったその時、悲劇は起こった。
形容出来ない爆音。先ほどの銃声とは比較にならない破壊の音が空間を伝わる。
何と彼が感情に身を委ねて発砲したらしい、しかしそれだけでは無かった。私がキャンパスを抱え続けていたのは最大の誤算であった。放たれた弾は私の胸よりも前に私の愛する作品に穴を開ける。そのまま私に至る前にあまりにも厚い上着によって行く手を阻まれ、胸には至らなかったようだ。奇跡である。しかしそんな事はどうでも良い。
私からおよそ五百メートル離れた所から地面が爆発した、いや、消滅した。
豪風。
無くなった地面に向かってとんでもない風が吹く。私の体は宙を舞いそちらの方へ引き寄せられていくが途中すぐそこに有った樹木に激突し、必死の思いでしがみついた。理解が及ばない、何が起こっているのか。
「あ!」
風の中声は形にならなかったがその出来事は確かに私に衝撃を与えた。何とキャンパスが私の手を離れ消えた地面の方へ飛んで行ってしまったのだ。
三十秒ほど耐えてやっと風が止む。私はどさりと地面に落ちた。
理解が追いつく。成る程、キャンパスに穴が開いたので地面に大穴が開き消えた地面の部分は真空になってそこに空気が流れ込んだのだ……見ると穴の大きさは直径にして三十キロ程はありそうだった。
ああ、しかしもうそんな事はどうでもいい……私の一年間の集大成は覗いても底の見えない真っ黒な正にブラックホールへ消えてしまった……これからどうすれば良いのだろう……
なす術がなくしばらく茫然としていたがはっと我に帰ると金持ちが消えていることに気がついた。
逃げたのか、吸い込まれてしまったのかはわからないが怒りをぶつける先がなくなってしまったのは確かである。私はいくらこの世界を作ったといってもあのキャンパスがなければどうしようもないのだ。本当になす術がなくて笑えてくるほどである。さて、どうするか。
私はその「大穴」の近くまできた。直径はおよそ100メートル。周囲は穴に向かって傾いた半壊状態の建物や家があり、いたるところに瓦礫が散乱していた。その穴は周りの地面が急なカーブを描いてできており、中は暗すぎて何があるのか全く認識できない。
あのキャンパスは借り物であるからいつかはかえさなくてはならないのだ。そしてこの世界で解決方法を探しても見つかるはずはない。穴に飛び込んで見なければなにも始まらないという気さえしてきた。なんとしてでもあのキャンパスを取り戻さなければという意思がより強くなり、私は「大穴」に飛び込み、キャンパスを探すという決心をした。
それからは話が早く、私は勢いよく地面を蹴り、両手と両足をいっぱいに広げ、スカイダイビングのように落下して行った。さっきまであった景色が一瞬で消え、私の視界は真っ暗闇に染まった。
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二秒で後悔の念に襲われる。
一度飛び込んでしまっては元の地面に戻れないかもしれない事等、分かっていたのに!
常に重力に晒され続けている体は突然にプレッシャーから解放された事によりむしろ不安に駆られ、普段の重苦しくも安定した状態を欲する。
耳石が浮いて三半規管が混乱している。何物かよくわからない部分の触覚からの異常の報告によってきっと今アドレナリンが分泌されゆき、感情的鍛練や芸術活動に明け暮れていた自身の、そんな表層ではない部分にある本能が活動しているのが分かる。感情は活動の中に見出だされるのだという事に初めて気が付いた。
自身は人間では無いなどという下らない思い込みが剥がれ落ちてそれを纏う事を欲していた理由や何もかもを思い出した。
重力に従って自由な落下を試みる上で私は当然空気抵抗以外反発力の無い等加速度運動系に乗り、相対的に無重力状態に陥っている。
上も下も気を抜くと分からない。そんな中気を抜かずに仰向けになり、そして青空を見つけた。
私が一番こだわって描いた空は世界のどんな地形の場所のどんな空にだってなることがあった。
それのみではない。この感情的な創作世界の視界のほぼ半分を占める空はこの私の心のどんな色だって雰囲気だって気持ちだって写し出したし、どれ程の細部にだって意味があって、眺めていると常々並々ならぬ情緒の起伏に襲われた。
自分が知らない無意識を表す形の雲があって、天気に対してはどんな話の登場人物よりも共感できたし、時には唯々広大で空とは思えない抽象的なものであったりもしていた。
今この状況にあってその空が雲一つ無い目も開けられない程眩しい青空である。その事実は不思議と救いになった。
ああ、でも、そんな空が目の端の方からまんべんなく円形に消えていく――
数層にもなって繊維がザクザク飛び出したり焼け焦げたりしている穴の縁がどんどん狭まって青い空を侵食していく――
いくら大きな穴であろうとも重力加速度の前には無力であろうし、空想世界であるここではそういう意味でなくてもそれが自分の心の閉鎖の進行を表しているような気がする。
無重力の身からするとそれは暗闇の中青い光の玉が縮小して消え失せようとしている現象のようにも思えた。それは、無くなりはせず、ずっと無限に小さくなるだけなんだろうけど、恐らく私の目の細胞の分解能よりも小さくなってしまえば無くなるのと同じことなんだろうなぁと思う。
小さくなって。
小さくなって。
消えた。その直前だけ光の玉は赤く輝いた気がする。
感覚が麻痺したのか空気抵抗もいつの間にやら分からなくなっていて、私は全平衡感覚の基準を失ってしまう。
まっ暗闇の中、何も見えず、何も聞こえず、寒くも暑くも無くて、どんな臭いも分からないしどんな心地でもない。もう自分の存在さえも不明確な中体を動かそうともがくが動いている気もしない。
何という事も無い。
どうしようもないので取り敢えずとして私は目を開いた。
そこは店内であった。
「何に致しましょう」
「モーニングを」
かしこまりましたと言って店員が下がっていくといつもの様に店長が向かいに座った。客は私の他誰もいない。
「店長、あなたの顔は酷すぎる、コミュニケーションを取る心が先にダメージを受けます、あまりにも酷い」
「なら描き直せばよいでしょう」
「顔は上手く描けないのですよ」
そして店長は唐突によく分からない話を始めた。
「もし地球に穴が空いて、その穴の中に地球を入れたらどうなるのでしょうね、分かりますか?」
口はいつもの通り動いていない。
「どうって……それは無理でしょう、幾何学的に」
「実は私答えを知ってるんですよ、出られなくなるんです、穴から、自分は地球の上にいますよね、自分がいる地球が入った穴から抜け出しても、まだそこは穴の中の地球なんです」
モーニングが届く。今日のメニューはキッシュだった。
ふと、この前も同じメニューが出た様な気がしたが、よく思い出せない。
店長はコーヒーを手に取り飲み始める。
私は言う。
「穴の中に手を入れて地球を取り出せばどうです?」
「ああ.……まあ確かに――でも、穴は底なしなんです」
「そんなめちゃくちゃな……そもそも、何で穴から抜け出さなきゃいけないんですか、いいじゃないですか、地球で暮らせば」
「地球ならそうですが――それが妄想ならどうです、嫌な現実から逃げるために妄想に逃げ込む、例えばそう、人間関係のトラブルとか、ありがちじゃ無いですか」
何の話だろう、脈絡が無い、何にしろ、嫌な話だ。
「絵描きさんは苦手でしょう、例えばあちらのお客さまの様に何でもできて世界に飽きた様な顔をした人、妬ましくもあり、憂いた様な態度が気にくわないでしょう」
そういいつつ店長は窓際に座った男を手で差す。そいつはあからさまに金持ちそうな外見をした男だった。
「何を言っているんだ……別にそんなことないし、私の話は関係ないでしょう」
「まあ、そうなんですがね」
いつの間にやら店内は大勢の客で溢れていた。
目の前に店長の姿はもう無く、きっと奥で忙しくしているのだろう。
さっさと食べて帰ろうと思ったその時、何と自身の手に持つキッシュから突如として火の手が上がった。
「うわっ!」
驚いて取り落とす。
何が起こったのか分からなかった私は立ち上がり、店員を呼ぼうと思って視線を上げて気付く、目の前のテーブルも、カーテンも壁も天井も、不細工に描かれた雑多な客も皆燃えていた。
メキメキといったような音がして私は建物の崩壊の予兆を感じ取った。
「なんだこれは!なぜ燃えている!」
燃え上がる厨房から炎上した店長が出てくる。彼は言った。
「火の鳥がキャンパスをついばんででもいるのでしょうね」
「何の話だ!何故落ち着いていられる!逃げなくていいのか!」
店長の足が崩れ落ちる。元より二次元的で脆そうだとは思っていたがやはり呆気ない。
しかし愛着は人一倍ある。
最初に描いた人間なのだから。
とてもやるせない心地がする。
しかし、彼はまだ話せるようであった。
「もう仕方ありませんからね、逃げ場なんてありませんよ、それに、取り返しのつかないところはとっくに過ぎ去っていますし、あなたが飛び降りてしまったのだからもうそこからどうすることだって出来ません、この火事はついでみたいなものです、日本独特の、それに――」
店長は燃え尽きてしまった。
私のごちゃごちゃになった気持ちは少しも声にはならず私は火のついた上着を脱ぎ捨て、脱出のために近くの崩れて脆そうな壁に思い切り体当たりする。
バリッといって壁にはすぐ穴が空き、外へ放出された私は少しの落下の後にざらざらしたクッションの上に着地する。
「な、なんだこれは……」
それは大量の紙屑であった。
地面を多い尽くし、自身がいる小高い丘はまだそうでもないが少し向こうの方を見ると高さにして数メートルは積み上がりずっと敷き詰まって蠢いているようだ。
どういうことか地平線よりも高く見える遠くまでそれは続いており、空は灰色であった。
それは空からも降っているようであるし、地面から沸き出してもいるようだった。
紙屑の海はそこらかしこが炎上しており妙な匂いが漂って気分が悪い。
私が今立っているのは定所の作業スペースで、振り返って上を向くと丘に立つ大木の頭にどこか上の方からでも降ってきて突き刺さった様な喫茶『シンダバッタの冒険』があり、横っ腹に私が飛び出した時にできたであろう穴が見える。
全体は業々と燃え盛り木全体が炎の木と化して今にも倒れそうであるが、最早自身の周りの紙屑共も引けを取らずに声を上げていて、沸き降る紙屑には際限が無さそうだ。
「穴……」
一際紙屑の降積量の多い一角の遥か上空に巨大な穴を見つける。縁からは滝の様に燃えゆく紙屑が流れ落ちて煌めいている。正に世界の終焉の様相である。
よく見ると天の穴の奥にはまた更にもう一つ穴が開いており、その奥にまた一つ、また一つ、といくつも連なっていた。
自身の視界にも炎の光と灰色の空以外に特別暗いところを見つけ、そこに炎が流れ込んでいることからそれが穴であることを知る。
ここは既に私の精神世界ではないのだなと思う。きっともっと摩訶不思議な、天国地獄的なもので、正にそこに行く前の最後の祭りなのだと思った。
こういう様な盛大な爆発的見送りに見舞ってもらえて良かった。私の情緒は常に無念だとは思えど諦めをもって締め括られていたから、今が全ての終わりの時だと分かっていてもこんな激情と共にならいいと思った。
穴の縁にも火がついていて、尋常ではない速度で拡大していた縁が丘の下辺りにまできた時、私は心を口から吐き出すくらいの気持ちで叫び声を上げながらその中に飛び込む。