第百二十九話:勝てない女と
「なるほど、体内の陽のマナにおいが分かるんですか。良い匂いだとしても、匂うと言われるのは少し恥ずかしいですね」
ナディアと二人になったサラは、クラウスの力についての情報をナディアに話すと、こんな返事が返ってきた。
恥ずかしいとは口だけの様で、まるで顔色を変えることなくナディアは続ける。
「今のクラウスは90mのドラゴン相当。今はドラゴンの発生も確認されてませんし、現在単体で最強の生き物はクラウスと言って間違いはないかもしれないですね」
その言葉も、ナディアは平然と言い放った。
クラウスが聖なるマナの匂いを良いと感じると言うことはつまり、いつか剣の力に気付いた時、それを抑えられなくなった時、クラウスは勇者を殺しマナを奪い始めるかもしれないということ。
いいや、かもではない。
クラウスは必ずいつか、本能に逆らえず勇者を喰らおうとする日がやってくる。クラウスの正体に英雄達が気付いて以来、凡ゆるシミュレーション、予測、予言を持ってしても、そのどれもがクラウスの暴走を示していた。
そして予言は、文献からの推測は、同時に単なるクラウスの暴走だけで終わることはないことも示していた。
それは簡単に言えば、クラウスが生きている以上は絶対に止められず、また、もしも殺せば機嫌を損ねた世界の意思によって毎年作られることになる魔王によって世界は滅ぼされる。
そんな未来がやってくるということ。
かつては20年程の猶予があるとされた未来も、もうそれほど遠くはない未来へと移り変わっていた。
思わず最悪の未来を想像して不安げな表情をしてしまうサラに、ナディアは再び平然と言い放った。
しかしその表情はどこか柔らかく、真に確信を持った瞳で。
「でも、大丈夫ですよ。
そう、私には世界にたった二人だけ、勝てないと認めている女がいます。一人は献身をその身に体現したあの子。そしてもう一人は、意志を受け継いだあの子。魔女は置いておいたとしても、その二人には敵いません」
それは、ナディアがライバルをライラに絞らなければならない理由だった。
その様にナディアは続ける。
曰くあの魔女には事実として負けていたけれど、二人の愛弟子には勝てないと悟った。
だからこそ自分は、夢見るお姫様の様な綺麗事を言うライラにつっかかるしか無かったのだと。
「こんな見苦しい女の言うことにどれほどの説得力があるかは分かりませんが、私個人としては確信を持って言えます。
あの人の、二人の弟子が居るから世界は大丈夫です。
例えクラウスが、かつて英雄ベルナールが討伐したと言われる強き魔王より強くても、例え……あの人より強くても、世界は大丈夫なんですよ」
あの人が、どの英雄を指すのか位サラにも分かっている。
比較対象にその人物を出すのに、少しだけ逡巡したその理由も。
「ふふ、そんな眉間に皺を寄せたらせっかく可愛い顔をしてるのに台無しですよ。
それに、大丈夫です」
最初の報告以来声を出していないサラは、ナディアに対していつのまにか表情で返事をしていたらしい。
そんなサラを見たナディアの表情は今までにも増して柔らかくなり、確かに聖女と瓜二つと言われるに足る微笑みに変わる。
「世界はあの二人に守られますけど、きっとそんなクラウスを守れるのは、あなただけなんですから」
その言葉は、もしかしたらサラが一番かけて欲しかった言葉なのかもしれない。
自身が無かった。
魔法使いであるサラは、クラウスが暴走した時にはきっとなんの役にも立たないのだと、昔から確信していたからだ。
魔法使いの寿命は短い。
それは文字通りの命の長さではなく、魔法使いとしての寿命。
クラウスが産まれたことで、世界からいつかマナは消えて無くなってしまう。
体内にマナを内包している勇者と違って、魔法使いはある器官に一時的にマナを貯蔵出来るだけ。
世界からマナが失われれば、魔法使いはいつかただの一般人と何一つ変わらなくなってしまう。
そんな事実を知ってから、サラは魔法の鍛錬を怠りがちになっていった。
偉大な両親はそれを知っていても尚魔物から人々を守る為に研鑽を続けていたけれど、スタート地点がそもそも既に英雄である二人とと才能を失う子どもでは違っている。
だからサラは、まだ暴走しないクラウスと少しでも一緒に居たいと思ったのが、クラウスが旅に出ると聞いた時の最初の感想。
「私で、……大丈夫なんでしょうか?」
思わず、そんなことを尋ねてしまう。
才能があるから苦労はしていなかった。
それは確かにそうだった。
これまでは、確かにそうだった。
しかしそれは同時に、虚しさでしかなかったのも事実だった。
失うことを分かりきっている才能に喜ぶ、何も知らない世界中の大人達。
その才能を、いつしか遥かに超えて行ってしまった幼馴染の持つ運命。
そしてたった一つしかない欲しいものは、失うことが確定している才能とともになければ、得られるかすら怪しいと思ってしまうもの。
「私は、クラウスの側に居てもいいんでしょうか」
幼馴染が憧れる英雄は、世界最高の英雄と呼ばれる聖女と共にあった。
世界最高の魔法使いである父は、同じく世界最高の魔法使いである母と共にある。
そして目の前の自称敗者もまた、敗者ながら世界で最も英雄らしい英雄と共に。
だから自分には、ただの一般人になるサラは全ての始まりである剣と共に居られないのではないか。
居てはいけないのではないか。
そんな不安を、思わず漏らしてしまう。
そんなサラに返ってきたナディアの言葉は、まるで聖女ではなく、ナディアらしい、魔女らしいもの。
そして同時に、相談する相手がサラにとっねベストだったことが、確信出来たものだった。
「大丈夫です。
勇者ならあの子の餌になって終わりですし、一般人に才ある苦労は分かりません。
全てを持っていながら失うあなただからこそ、あの子の弱い部分と相互依存出来て良いはずなんですよ」
甘い雰囲気もロマンも何もかもぶち壊しな、相互依存関係を築けるなどという現実的な意見。
夢見る乙女だったと言う英雄ライラなら、怒り出す様な言い草だったかもしれない。
それでもそのナディアの言葉は、サラにとって望んでいた言葉にとても近くて。
「あはは、じゃあ上手くいかなかったらナディアさんのせいにしちゃいますよ」
そんなことを言いながら、頰を温かいものが伝うのだった。




