意地悪な風竜と出会った日
――――アリアンローズ有志作家企画
ザクザクザクザク。
彼女は雪を踏みしめ、歩き進んでいく。
ぶ厚いコートの中は何重にも重ね着をしているし、マフラーも一番暖かいものを選んで外へ出て来た。
母に教わって編んだクリーム色の帽子と手袋もしている。
着ぶくれで一回りは大きくなっているくらいだが、それでも寒いものは寒くて、外気にさらされているまだ子供らしい柔らかさを残した十代半ばの彼女のほっぺは真っ赤になっていた。
(寒いけど、こうして真っ白になって出てくる息はやっぱり面白いわ)
意識して深く息を吐き出しながら、彼女―――アイーシャは、目的のものを探して忙しなく深緑色の視線を動かしていく。探しものをしているのだ。
「この辺にあったはずなんだけど……ロッカの木」
視線の先に立ち並ぶのは、高くそびえるたくさんの木々。
ほとんどが葉も落ちて枝のみの姿になっている。
(ロッカの木は冬に葉が茂って実が生るから、枝ばかりの他の木と見比べればすぐにわかるはずなんだけど……。でももう町から出て三十分は経っているのに、見つからないなぁ)
「……。…よし。ちょっと、道を外れてみよう」
アイーシャは土を固くならして作られた小道から外れ、森の中へと入っていくことにする。
森とはいっても浅く、慣れた場所であるし、狂暴な獣が出ることもない。
雪は積もっているけれど降ってはいない。
問題ないと判断して木々の生い茂る森へと入り、繰り返し白い息を吐き出しながら誰も踏みしめていない雪に足跡をつける。
時おり吹く風の冷気に身を縮め、首にぐるぐるに巻いたマフラーに顔をうずめつつ、彼女は歩く。
……やがて、先ほど歩いていた道も見えなくなって。
周囲には本当に木々と草花、そして雪だけになった頃。
――――ふいに。
今までとは比でない強い風が吹き、粉雪が舞い上がる。
「わっ!」
アイーシャのマフラーから数束こぼれていた真っ直ぐな薄茶の髪が、ひるがえった。
「っ……寒いっ!」
肌を刺すような冷たい風にアイーシャは大きく身震いをした後、肩を落としてため息を吐いた。
そうしてから、歳よりもまだ幼くみえる仕草で唇を突き出して愚痴をつく。
「あーもう。大人しくお店で買えば良かったかなぁ。ロッカの実。でも摘みたてが一番おいしいし。母さんも新鮮なのが好きって言ってたから……」
アイーシャの探しものは、この地方で一番寒い季節、新年が明けた今頃が一番の旬となるロッカの実だ。
ロッカの木に生る指先に摘まめるくらいの赤くて丸い実は、アイーシャの母の好物だった。
摘んで半日ほどで酸味のきつくなるロッカの実を生でそのまま食べる為には、自分で摘んで数時間のうちに口に入れなくてはならない。
アイーシャの母は年が明ける前から咳が目立ち、最近はベッドから起き上がれない日もあるようになっていた。
町中で一家で営んでいる小さな雑貨屋で店番に出ることも少なくなり、家族はもちろん客や近所の人たちも心配している。
母に新鮮で甘い状態のロッカの実を食べさせてあげたい。
「栄養もあるし、咳に効くって聞くから。母さん、きっと元気になってくれるはず」
そんなほのかで小さな願いから、アイーシャは凍えるほどの寒い雪の中、赤い木の実を探して森へ分け入っていた。
でも、さすがにそろそろ気力もそがれて来ている。
真っ白な景色を見渡して、ため息を吐いてから。
森の中、一人ぽっちで歩きながら肩を落とし呟く。
「―――やっぱり帰ろうかな……お店で買ったものでも、きび砂糖を足してジャムにしたら美味しいし。パイか、焼き菓子に入れるのもいいだろうし」
普段は元気が取り柄で騒がしすぎると姉に顔をしかめられているくらいだが、さすがに少し心細くてなってきた。
最近の母の体調不良も、彼女の不安に拍車をかけている。
とほうに暮れて青く澄んだ空を見上げ、寒さには勝てないなと思いながら引き返そうかと考え始めた時。
「ひゃっ!?」
考え事をしていた上に足元を見ていなかったアイーシャは、盛大に何かに足を引っかけ、けつまずいた。
ちょうど手をポケットに入れていたから、手を出すのも間に合わず。
そのまま彼女の身体はあっけなく前へと倒れて雪の中へと放り出される。
ぽすんっ。という間抜けな音と一緒に、アイーシャの顔は白い雪にはまった。
「…………。顔、いた…くはないけど、冷たい」
ポケットから手を出して雪の積もる地に付け、体を起こすと、視線の先の雪にはくっきりとアイーシャの顔の形がついていた。
「もうっ! 一体なにに転んじゃったのかしら!」
アイーシャの記憶では、特にけつまずくような地形ではなかったはずだ。
立ち上がって服に付いた雪を叩きつつ、変なこけかたをしたことが恥ずかしくて、少し怒り口調でつまずいた原因を探して振り向き、……アイーシャは、目を大きく見開き、固まった。
目の前の木と木の間のぽっかりと空いた空間に、大きな大きな何かがあった。
いや。
何か、ではなくおそらく――――
「……り、りゅう?」
寒さからではない震えた声が、口からこぼれ落ちた。
……それは雪の上に伏せっている姿勢なのに、アイーシャからすれば小高い山ほどの高さもあった。
とてつもなく大きな、艶のある鱗につつまれた藍色の身体。
背中に折りたたまれている状態の翼は、広げればとても大きくなるのだろう。
絵姿でしか知らないけれど、間違いなく竜だった。
「…………」
――――この世界には竜が居る。
それはアイーシャだって知っている。
アイーシャの暮らすネイファという国は、世界でもひときわに竜を崇敬する国民性をもつ国であり、世界で一番多くの竜が暮らす国でもある。
……でも、それでも竜はとても珍しい生き物だ。
少なくともこんな片田舎の、町にほど近い森の中に居るものではないはず。
アイーシャだって、これまで生きて来た十五年の人生で今初めて実物を見た。
そして竜が目の前にあることに、感動して打ち震えている。
「………本物? よね」
皆が憧れる竜が、今ここにいる。そんな興奮と喜びに心臓ははやなった。
「竜がここにいるなんて、まさか。信じられないわ」
アイーシャは驚愕に大きく開いたままの目でその山のように立ちはだかる竜をしっかりと見上げた。
緊張からか興奮からか、自分でも判断がつかない感情に急かされて。
一度だけ唾を飲み込んでから、アイーシャはおそるおそる身をかがめ、自分のけつまずいた部分らしい竜の尻尾の先にそっと手を触れてみる。表面をびっしりと覆う鱗のうちの、たった一枚が、抱えるほどに大きい。
竜の鱗に触れること。それは本当にただ素直な好奇心からの行動だった。……のだけれど。
「冷た! え、これ、冷たすぎないかしら」
この雪の景色にも負けないくらいに美しい、艶やかな藍色の鱗は、なめらかな感触だったがひんやりと冷えていた。
手袋を通していても分かるくらいに、本当に―――氷のように冷たかった。
二度、右から左へとその表面を撫でたものの、変わらず冷たく凍るようなその鱗の温度に、アイーシャの高揚していた気分は急激に下がる。
彼女は眉を寄せ、小さく唸る。
「冷たくなってて、この寒いなかでピクリとも動かない……。え、まさか……死ん、でる…?」
アイーシャの心臓が外気とは関係ない悪寒に震えた。
胸の奥が、ざわめいていく。
こんな森の中で竜が死んでいるなんて一体なぜと動揺し、眉を下げ、しかし次の瞬間にはっと顔を上げる。
「あ! 動いた! 生きてるわ!!!」
触れていた手の中で、尾の先が確かにピクリと小さく動いて、嬉しくて思わず大きな声をあげてしまった。
それは目には見えない程にわずかな動きだったけれど。
触れていたアイーシャの手には確かにその振動が届いた。
その竜が生きていたことにほっとしながらも、しかしたったこれだけしか動かないことに直ぐに顔を青ざめさせる。
竜の生態にはもちろん全然詳しくはないけれど、あきらかに異常な状態だ。
「っ……! 大変! この竜、弱ってるんだわ! ―――ねぇ! 大丈夫!! どこか怪我しているの!?」
アイーシャは慌てて走り、全長二十メートルはあるだろう竜の身体を周りこんで、竜に声をかけながら顔のある場所まで移動する。
そうして見上げた竜の顔は瞼は閉じていて、やはりぐったりとしていた。
(こんなに大きな竜、ちょっとやそっとじゃ気づいてもらえないだろうし)
アイーシャは冷たい空気を肺いっぱいに吸い込んで大きく声を張る。
「ねぇ! あなた! 竜……ええと、藍色の鱗は確か風竜だったわよね! 風竜さん! 大丈夫!? おーい!」
ジャンプして、前足の部分を大きく叩いてみたりして、なんとか反応を引き出そうとする。
「おーい! おーい! 風竜さーんーーー!」
こうしなければ、こんなに大きな生き物に気づいてもらえないだろうと思った。
(本当は誰か大人を読んで来た方がいいのかもしれないけど。でも…ううん……)
アイーシャでは、珍しくて凄い生き物だとしか分からない竜をどうにも出来ない。
だから大人を連れてこようかという考えも頭を過ったのだが。
でも。今、少しの間でも離れれば、その瞬間にこの竜が世から消えてしまうのではと思えてしまった。
こんなに大きいのに。
どうしてかその存在がとても儚く見えたのだ。
どうにか目を開いてと、アイーシャは必死に声を張る。
「ねぇ! ねぇ! ねぇってば―――!!」
『うるさい』
「!?!?!?!?」
突然、頭の中に響いた声に、アイーシャは首を振って左右を確認する。
人っ子一人いない、雪と枯れ木しかない森の中だ。声をかけてくるような人の影はない。
「え……」
『うるさい! これだから人間って嫌なんだ。勝手に触るしうるさく騒ぐし、本当に図々しい!』
アイーシャは、大きく深緑色の目を瞬かせながら、毛糸の帽子に包まれた自分の頭を両手で抱えた。
「あ、頭の中に、声が響いてる……?」
「グォウ!!」
「ひえっ!?」
頭上でなった低いうなり声に、跳びあがる。
『間抜けが。この姿じゃ人語は話せないから。竜術で頭の中に声を届けてるんだよ』
「え、竜術? この声、貴方の……竜の声なの?」
「グォ!」『そう!』
竜の口から出てくる獣らしい低い咆哮と、頭の中に響く若い男の子みたいな声が重なった。
おそらく、先ほどの言葉を信じるのならば、目の前の竜が竜術という不思議な力を使ってアイーシャにこの声を届けているらしい。
驚きながらもまじまじと竜の顔を見上げると、いつのまにか竜は目を開いていて、こちらを睨みつけている。
縦に瞳孔の入った鋭い印象を受ける竜の瞳に睨まれるのは、正直身震いするほどに怖い。
けれど好奇心旺盛な彼女は竜に対する興味と、そして弱っているのだろう彼への心配から逃げることはしなかった。
震えそうになる足を踏ん張り、見下ろしてくるぎょろりとした藍色の目の鋭さに緊張しながら、アイーシャは口を開く。
「ね、ねぇ、あなたは、風竜?」
『そーそー、ふーりゅーだよ』
ずいぶんと間延びしたやる気のない返事が返って来た。
戸惑うアイーシャの頭上で、竜は大きくあくびをしている。
その口からのぞく牙はとても鋭くて、アイーシャが口に頬りこまれれば一瞬で骨ごと噛み砕かれるだろう。
(怖い…けど。でもこのまま放って置けないし。あと、なんか……うん)
思わずアイーシャは呟いてしまう。
「……思ったより、若いのね?」
『は?』
「あ…えと、声が……竜ってもっと威厳のある生き物だと思い込んでいたから。貴方のもの凄く間延びした、適当な話し方と声にびっくりして」
頭の中に響く竜の口調はくだけた、アイーシャくらいの若い子が使うようなくだけたものであるし、さらに声も年若い少年のものだった。
竜がとてもとても神秘的で厳かな生き物だと思い込んでいたアイーシャは、その予想より軽くて適当な言葉遣いに虚を突かれたのだ。
『なに? 文句あるの?』
しかもアイーシャの指摘に不機嫌そうにしているあたりが、ぶっきらぼうな同年代の男の子そのままの反応で。
考えていた竜という『とっても凄い生き物』に対する崇敬的な気持ちが崩れていく。
(うーん。本物の竜って、こういうものなの?)
ネイファの国の民にとって、竜は尊いもの。この国を守ってくれる聖獣だ。
でも、この竜は大人たちが言う「尊い聖獣」のイメージとは少しずれている気がした。
姿は自分とまったく違うけれど、中身は人間ととても似ているように、アイーシャは感じた。
そう思うと、ぎょろりとしていて怖かった竜の目玉がとたんに怖くなくなった。
乱暴なもの言いも、なんだかただの虚勢のように感じて可愛いとさえ感じるようになった。
アイーシャはやっと肩の力を抜き、少しだけ口端を上げながら、声色からおそらく雄なのだろう彼に訊ねてみる。
ずっと頭上にある彼の耳にまで届くように、大きめの声を張って。
「ねぇ、どうしてこんなところに伏せってるの? 今日はとても寒いし、外でお昼寝が出来るような気候でもないわ。それに、あなた、何だかとても弱ってるみたい。こんなところに居てはだめよ」
『……関係ないだろ』
藍色の風竜が、首を少し向こうへ背けた。
気まずくてそっぽを向いたのだと分かった。
アイーシャは瞬きを繰り返したあと、小さく言葉を落とす。
「……でも。心配だわ」
『……?』
その呟きに、風竜は首をこちらへかたむけてくる。
『どうして?』
「なにが、どうして?」
『僕を心配したって、あんたに得なんてないだろ。竜だから?』
アイーシャはまた大きく瞬きをしたあと、当然のようにいう。
「得とか損とか良くわからない。私は弱っている子を放っておくような非情な人間じゃないわ。人間でも竜でも、道で倒れている誰かを見つけたら同じように心配するわ」
『……ふーん? 竜だからじゃなくて、人間でも同じようにか………』
風竜が微妙な表情をして呟いた。
真上にあるし、大きくて顔の全貌が見えないので確実ではないけれど、確かにそれまでの ただ突っぱねるばかりだった空気が変化したようにアイーシャは感じた。
『まぁ。どーでもいいや。気にしないで放っといてよ。これが治ったら勝手に飛んでいくから』
これ、と言って風竜は伸ばした首を曲げて、視線で自分の翼を差す。
視線に釣られて自分もそちらを見て、アイーシャは眉を寄せた。
「翼が折れてるのね!?」
いままで気づけなかったことに、歯噛みする。
身体に沿うように折りたたまれた翼の右側が、どう考えても有りえない場所……関節ではないはずの、骨の真ん中部分から外側へと曲がっているのだ。
(骨が折れてたら、そりゃあ飛べるはずないわよ!!)
この雪の中で伏せっていた理由を理解したと同時に、アイーシャは狼狽する。
「骨折なんて、絶対に痛いわ」
風竜は平気なふりをして話しているけれど、どう考えたって大けがで、やせ我慢だ。
「ど、どうしよう! 少し待ってて! 父さんを呼んでるわ! あと、お医者様も必要よね……!!!」
『いや平気だ。竜を人間と同じに考えないでくれる? 一週間もあれば完治するから』
「えぇ!? 一週間!?」
一週間で骨折が治るなんて、そんな……とあんぐりと口を上げて風竜を見上げた。
「折れた翼が一週間で治るの!? ほんとに!? ただ放置するだけで!?」
『うん』
「凄い……」
『ふふん』
感心するアイーシャに、なぜか風竜は得意げに鼻を鳴らして見せる。
(もしかして、この竜って、竜の中でも子供なのかな。さすがに全部の竜がこう子供っぽいわけじゃないよね)
「ううーん……でも、一週間か……」
再び飛び立てるまで一週間。
それまで、この雪の中の森に転がっているつもりなのだろうか。
(いくら竜が丈夫だっていっても。こんなに寒いのだし、よけいに悪化してしまうわよ……)
しばらく唸り、ひとり考えてから、アイーシャは顔を上げた。
「ねぇ、やっぱり父さんを呼んでくるから待ってて。せめてあなたを暖かな場所に運べるように―――」
『やめろ』
びゅっと、音を立てて風が鳴る。
驚き固まったアイーシャのかぶっていたクリーム色の毛糸の帽子が飛び。
次いで、目の前に見覚えのある薄茶の髪の固まりが舞った。
前髪がすっぱりと風の刃によって切り落とされたのだ。
「っ……」
アイーシャは顔を青ざめさせて喉を引きつらせる。
一歩、二歩と風竜から後ずさった。
そうしながら思わず額に降れた前髪は、眉より上の高さで真っ直ぐに切りそろえられる形になっているようだった。
前髪は伸ばしていたのに。
子供っぽい髪型にされてしまったことに憤ったけれど、今のこの状況で文句を言える勇気がない。
風竜の操る風が、こんなにも切れ味が鋭いものだったなんて。
『やめろ。人間に知らせるな。広めたらコロス』
「で、でも」
「グゥワォ!!!!!!!」
「きゃあ!」
今度は大きく吹いた風にアイーシャの身体がふわりと吹いて、宙へと放り出された。
内臓ごとひゅっと浮く感覚に、心臓が止まるかと思う程の恐怖が込みあがる。
ぎゅっうと目を瞑ると同時に、浮いた身体は地へとどさりと音をたてて落ち、アイーシャは雪の上へと尻餅をついた。
「い、ったー! お尻が……! もう!! 親切で言ってるのに!」
『ほっとけ。うざい。次に言ったらコロス』
「っ……」
『竜は人間なんかよりもよほど生命力が強い。これくらいの寒さや雪で死ぬことも弱ることもないし、放って置いたら治るから。それよりお前のうざい声の方が傷に響く。どっかに行って。邪魔なんだよ』
風竜はふんっと大きく鼻をならしてから続けてアイーシャの頭の中に言葉を届ける。
『こんな雪の中の森、絶対人なんか寄ってこないと思って不時着したのに、おせっかいな娘に見付かるなんて失敗した!』
「……なによ、その言い方」
――――心配、してあげたのに。とアイーシャは頭に来て頬を膨らませた。先ほどの竜の力へ対する恐怖も、怒りが上回って飛んでいった。
親切心で手を貸そうとしたのに。そんな風に迷惑がられて突っ張られて、気分を害された。
確かに、断っている相手にお節介をしすぎたかもしれない。
でも。
(前髪、切られたし……!!!)
女の子にとって髪がどれだけ大切なものなのか、この竜はまったく分かっていないのだろう。
たった一ミリの誤差で何日も落ち込むくらいには重要な部分なのに。
(1ヶ月は伸ばさないと。それまでずっと額まで丸見えなんて堪らないわ!)
腹が立って仕方がないアイーシャは眉を吊り上げ、鼻から荒い息を吐く。
視界の中で白く色ずくその鼻息と一緒に、目の前にそびえる大きくて意地っ張りで意地悪な口調の竜を見すえながら顎をつんと上げて、大きな声で怒鳴る。
「っ……わかったわ! 余計なお世話して悪かったわね! ふんっ! 貴方なんて、ずっとそうして雪に埋もれてればいいのよ!!!」
そう言い捨て、アイーシャは雪の上に落ちた毛糸の帽子を乱暴に博上げると立ち上がり、頬を膨らませながら来た道を帰る。
真っ直ぐな薄茶の髪を揺らし、駆けてその場から離れていった。
生意気で意地悪な竜との決裂。
それは近所の同年代の男の子との喧嘩と、何一つ変わらないやりとりだった。
―――その後、アイーシャはロッカの実を店で買って、家でジャムを作って、パンと共におやつとして母にふるまった。
ベッドの上で喜んで食べてくれる母の顔を見て、こちらまで嬉しくなって、あの生意気な竜に対するいらだちはいつの間にか消えていた。
でも、夜。
居間で暖かなココアを飲みながらぼんやりとしていると、びゅうびゅうと雪が降る音が聞こえてきた。
「あぁ、吹雪いて来たな」
テーブルをはさんで正面の席に座る父も、同じことに気づいたようだ。
アイーシャと同じ薄茶の髪の父は、しかし真っ直ぐな髪質の彼女のものとは違い、癖でくるくるに丸まった髪をしている。
その柔らかな髪と容姿に、柔和でおっとりとした優しい性格の彼のことをアイーシャも、そして今隣に座っている姉も好いていた。姉も自分もお年頃というやつだけれど、他所の家庭でよく聞く、親に対する反抗期のようなものは今のところない。
家族で協力しなければ、今の体調の悪い母を支えられないという団結力のようなものもあった。
父と同じ柔らかくウェーブした髪質の姉が、こちらへと口をひらく。
「アイーシャ。今夜は特別に冷えるわ。温かくして寝なさいね」
「えぇ姉さん、分かったわ。あ、湯たんぽ用にお湯を沸かしましょうか」
「そうね。母さんのベッドに入れる分も湧かしてちょうだい」
そんなふうに父と姉と会話をしながら、家の外の音が気になってしまう。
昼間の晴天が嘘のような凄い吹雪だと、こうやって聞こえる音だけで分かった。
手の中の暖かなカップをかたむけながら、アイーシャは瞼を僅かに落とす。
(……あの子、大丈夫かしら)
もう知らない! と思って離れたけれど、本当にこの寒い中でも竜とは大丈夫なものなのだろうか。
(この季節に森の中なんてそうそう入っていく人も居ないから、本当に凍死しても誰も気づかないだろうし。そういえばご飯もないはず。―――竜って何を食べるのかしら)
もやもやとした思いを抱えながら、アイーシャは湯たんぽをもってベッドへ入った。
そのあとも、ずっと。寝付く寸前まで吹雪く風の音が気になって仕方がなくて。
(もうっ!)
……――――結局。
森の中に一匹だけでいる風竜のことが気になって気になってどうしようもないアイーシャは、翌日の早朝にまた風竜のもとを訪れる。
バスケットいっぱいの食べ物と、傷薬や包帯を抱えて。
そうやって、望まれていないお節介をし、どうしてか毎日通って来る彼女に文句を言いつつも徐々にほだされた口の悪い風竜が、彼女の母の為に異国の薬草を取りに空を駆けたりし。
なんだかんだで互いに絆を深め。
数百年の時間を生きる竜が、短い人間の生を終えるその瞬間まで寄り添うほどに彼女へ入れ込むことになるのだとは、この時の一人と一匹はまだ想像してもいなかった。
読んでくださりありがとうございました。