表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

個人的人生善悪論

作者: 緒岾留美子

あくまで個人の考えなので、あまり間に受けすぎないよう。

現実というのはまるで険しい山である。

頂上への山道は人生で、頂上には日の光が差す。

頂上とはつまり永遠不変の常であろう。死とか、そういうやつ。

絶対零度の状態だ。動かない。変わらない。

そういう言い方をするとこの上なく美しいって気がする。

頂上だけにとてつもなく寒い。頂上だけにこの上ない。

まぁ、現実が山である以上、人が人生を歩むのは、そこに現実という山があるから、なんだろう。

生き物というのは生きる意味より先に兎にも角にも生きるものでしょう。


さて、この山道を登るわけだが、山道は険しい。スタート位置は人によるし、どういうルートを進むかも人によるので、一概には言えないのだろうけれど、それはもう険しい道が多いのではないか。

山道は進みたい方向に進めるとは限らない。

遠くに見えた大きい木の影に行きたいと思ったって、その周囲に道があるとは限らない。

前に通った人がいれば進みやすいのに。案内してくれる人がいればいいのに。そもそも途中で飽きちゃうかも。

学問と一緒で、偉大な先人の作った理論という道だったり、先生の指導という案内、何よりその木に辿り着きたいという意欲が必要である。あと才能という足腰の強さとか。


頂上を目指すにしても、途中の木を目指すにしても、上手いこと木々などの障害物をかわすか、山を切り拓いて道を作らないといけない。

ただ、やっぱり、かわしているだけだといつか躓く。嫌なことからのらりくらりと、ふわふわ生きていくと、社会に出て困るもののようだ、どうも現実は。

そこで勉強する。それは頭の使い方を学ぶということ。

つまり現実という山で上手く動けるように身体の使い方を訓練するのだ。

ただ、これをやっただけではかわすのが上手い奴になるだけで、まだ足りない。

効率の良い身体の使い方は分かった。次はそれを使って何をするのか、だ。

何か、と言われれば、道を作るわけなんだが、どうやって作るのか。

山を削るのだ。

人間は現実を理性で削って経験を生み出す。

人間は、現実という山を、理性という鉈やスコップで削って、経験という新たな素材を手に入れる。

まぁ、ここでいう素材というのは、土や木々であって、そのままではあまり役には立たないけれど。

素材は上手く使う必要がある。

例えばセメント化させて道を固めるとか。つまり人間を支える土台を固めるということである。


しかし、この開拓作業を続けていると、理性は磨耗し感情が剥離して砕け散ってしまう。

そこで、人間は虚構に浸ることで理性のひびを埋める。


他人の虚構は他人の物語であり、その他人の自己であり、理性だ。

具体的には、本を読む、アイドルを応援する、宗教に入信する、etc.

つまり、先の例えに戻るなら、学問という木の影で休むことだ。

木の影に行くために木の影で休む。アイロニー。


これに対し、自らの虚構に浸れば現実逃避である。

現実逃避は妄想と積極的諦めに分かれる。

妄想とは即ち、隣の山を眺めることだ。

隣の芝生は青い、ならぬ、隣の山はなだらか、である。

いや、その山は虚構だがね。


積極的諦めというのは、つまり思考の停止である。

山の途中で突如寝る。それはもう、自然に溶け込むかのように。

これは人間にとって最も容易で安易な快楽だ。

思考の停止とは、周囲に同化する事である。

エブリシング、見たまま聞いたまま同調するのだ。

例えば、集団社会において、同調圧力などと呼ばれる強者に組み敷かれる。

なされるがままに。

長い物に巻かれたいのだ。

言われた事を言われたままに行う快楽だ。

それが正しいのかは、置いておく。


ここで言う「長い物」とは、強い物だ。

授業中、先生の教える言葉は正しいし、プロのスポーツ選手は上手い。

政府は絶対で上司は絶対。

強いものに付くのは人間として至極当然なのだろう。

しかし、強いは正しいと同値ではない。

悪には荒々しく勇猛という意がある。

むしろ強いは悪だ。

世の中とは総じて、悪が強くて然るべきであって、人々は悪に属して然るべきだったのだ。

…なんてね。

人間は悪の元で正義に憧れる。


周囲に合わせる合理性を悪だと言ってきたが、しかしそれはまだ通過点。

日本で電車に乗るとき、我々は思考を放棄し周囲にならえで二列に並ぶ。

果たしてこれは悪か。

いや、この場合、並ばない方が悪だろう。

則ち、周囲に合わせることが人を悪へ導くというのに乱さない事は正義でもあるのだ。

自ずと、正義は悪へ向かう。そして悪は正義に向かう。

つまり、ここに明確で絶対の境界線は無い。

結局のところ、この世の全ては等しく平等に無価値である。

我々は物から価値を見出すのではなく、物の特徴を見抜いた上で、自らの心から当人だけの価値を出すべきなのだ。

我々は正義の共犯者にして、悪の味方。

要は乱さなければ平穏ではあるってことだ。

平和には差別撤廃が必要かもしれないが、平穏は別。

差別し区別し区切ることで、膠着させることで、平穏は訪れる。

ただ、忘れてはならないのは、迫害は乱す行為だってことかな。

蛇足

『見出す』のではなく『見抜いて』『出す』は洒落です


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ