事故物件の穴
不動産屋の扉を開ける時、久良木蓮は必ず三回深呼吸をすることにしていた。
別に縁起担ぎというわけではない。単純に、強固な営業スマイルを向けてくる担当者に対して自分が「カモにはならない」と心構えを整えるためのルーティーンだ。
二十三歳、関東に出て初めての一人暮らし。親元を離れる理由は山ほどある。とりわけ、実家という名の戦場から距離を置くことが精神衛生上の最優先事項だった。
蓮は念入りな男だった。
物件を探すにあたってまず間取り賃貸物件情報サイト三社を比較した。次に候補物件の住所をリスト化し、それぞれについて検索をかけた。事故物件公示サイト「大島てる」は言うまでもなく確認済みだ。
掲載履歴も遡れる範囲で調べ、過去五年以内に火災・孤独死・自殺・他殺のいずれかが発生した物件はすべてリストから除外した。
次に周辺環境。犯罪統計サイトで治安マップを確認し、最寄り駅周辺の深夜の様子をストリートビューでなぞった。ゴミ捨て場の写真を見て住民の民度を推し量り、口コミサイトで管理会社の対応評価を読み込んだ。
そしてもちろん現在の状況についても忘れてはならない。
設備については直接内見で確認した。水圧、コンセントの位置、携帯の電波、換気扇の音、窓から見える隣のマンションとの距離感。チェックリストは自作したA4用紙二枚分に及ぶ。
そこまでやって、蓮は一軒の物件を選んだ。
埼玉県某市、築二十二年、2DK、月額六万八千円。駅徒歩八分。南向き。告知事項なし。管理会社の評価は星四つ。
上々の成果だった。
引っ越し当日、搬入作業員たちが去ったあとには壁際に積み上げられたダンボール箱の山と、確かな達成感が残された。
「よし」
誰に言うでもなく呟いて気合を入れ、彼はカッターを取り出す。
新居でダンボールを開けるという行為には一種の儀式めいた感覚がある。折りたたまれた生活が一枚ずつ展開されていく。食器、本、着替え、調理器具。生活を支える品々が部屋に配置されていくにつれ、ただの空間が少しずつ“自分の部屋”へと塗り替えられていく。
最後のダンボールを解体し終えたのは夜の十一時を過ぎた頃だった。
蓮は座布団に座り込み、コンビニで買ってきた缶ビールを開けた。
静かだ。実家では常に何かが鳴っていた。母の声、テレビの音、食器が乱暴に置かれる音、父のため息。それら何も、今ここにはない。
自分だけの部屋自分だけの部屋だ。
蓮はビールを一口飲んで目を閉じる。
そしてゆっくりと開けた。
部屋の隅に、老婆が座っていた。
――正確には、座っているというより「ただ存在していた」という表現が適切だった。
紺地に小さな花柄の和服を着た小柄な老婆が、押し入れの前の床に、ごく自然な姿勢で膝を揃えて座っている。そこにいるのがさも当たり前の顔をして。
蓮と目が合うと、皺の深い顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
「引っ越しお疲れ様でしたねえ」
蓮の手から缶ビールが落ちた。鈍い音を立てながら畳に落ちた缶はぐるりと回って直立し、中身がこぼれずに済んだ。なんとなく滑稽に感じながら蓮はそれを眺めていた。
気のせいだ。錯覚だ。そう思いつつも、老婆はにこにこと蓮を見ている。
「……あの、透けてますよね、あなた」
「ええ、まあ」
老婆は自分の手のひらを見下ろし、照明の光が透過していくのを確認するように小首を傾げた。透過している。背後の押し入れの襖が老婆の胴体を通して見えている。
「な、なんで」
蓮は思わず立ち上がった。立ち上がろうとして膝ががくがくと震えてしまい、テーブルに手をついた。
「なんで……告知、なかったじゃないですか。不動産屋に確認したんですよ、ちゃんと。告知事項ありませんって言ったんです!」
「ええ、それは本当のことですよ」
老婆は涼しい顔で答えた。
「告知義務がなかったんですもの、ないものは知らせませんでしょ?」
「だって、人が死んでるじゃないですか。この部屋で、あなたが死んだんでしょう!」
「そうねえ」
「孤独死でも病死でも、事件性がなくたって、心理的瑕疵があれば次の入居者に告知する義務があるはずで……」
「次の方にはそうですねえ」
老婆が静かにそう告げると、蓮の口が止まった。
「私が亡くなった後に入ってきた方には、きちんとお伝えしてたんじゃないかしら。でもねえ」
呆然とする蓮に、老婆は人のよさそうな笑みを浮かべたまま無邪気に続けた。
「その方が引越された後、また別の方が入ってこられて。その方が出た後にまた別の方が。それを何度か繰り返しますと、告知の義務というのはなくなるんですよ。法律がそうなってるのねえ」
蓮はテーブルに手をついたまま立ち尽くした。
間に別の入居者が挟まれば、瑕疵の告知義務は消える。老婆の言うことは間違っていない。それは知識として知っていたのに、自分の身に起きると思っていなかった。
だって、そこで人が死んだらそれは事故物件事故物件じゃないか。
些かの眩暈を感じながら、蓮は振り絞るように目の前の老婆に意識を向ける。
「……まさか、あなたが死んで、その後に入った住人たちは、呪い殺されたとか」
「でしたら不動産屋さんが仰るでしょう」
「あ、そうか」
力が抜けて、その場にへたり込んだ。先ほど落ちた缶ビールに指先が触れる。
老婆によれば、こういうことらしかった。
まず老婆本人がこの部屋で亡くなった。老衰に近い形の自然死。息子と孫に看取られての死だったそうだ。
その後、最初の入居者は転勤族のサラリーマンで、一年半ほどで別の赴任地に移っていった。次の入居者は二十代の女性、ここで暮らす中で交際相手と出会い、結婚を機に退去した。次は自営業者の壮年の男で、親の介護のために田舎に帰った。
そして今度は蓮が入ってきた。
入居者はいなくなっているが、いずれもただ引っ越しただけだった。
「そういうわけですから、不動産屋さんには、私がここで亡くなったことを伝える義務がなかったんですよ」
「……幽霊がいるのに」
「ちゃあんと合法ですよ」
蓮は頭を抱えたくなった。法律の抜け穴に突き落とされたような気分だった。
「今は皆さん、それぞれの人生を歩まれて……中には今頃もう亡くなっておられる方もいるでしょうけれど」
「そりゃあ、まあ」
いずれも老婆と違って死ぬには若い住人だったようだが。
「そりゃ時間が経てば、死んでるってこともあるでしょうね」
「ええ。人間ですものねえ」
老婆は笑うと目尻の皺がより深くなって、穏やかさが増すようだった。皴ができるほどに笑みの絶えない生前だったのだ。
押入れを見つめて、老婆は「私の時はここにお仏壇を置いていたのよねえ」とぽつりと呟く。
「死人が出た部屋、なんて言いますけれど。時を遡ればどんなお部屋だって、“かつてそこに住んでいた誰か”が亡くなってらっしゃることは、あるでしょう?」
事故物件だとか、死に方の不穏さで選んで怖がるなんて、おかしな話ねえ、と朗らかに笑う。
蓮は押し黙るほかなかった。老婆は正しいことを言っている。なのに、幽霊に論理で諭されているという事実が頭の処理能力を超えていた。
不思議なことだが、蓮はその夜ぐっすりと眠れた。
ダンボールの開封を一晩で終わらせた肉体的疲労と、引っ越しという人生の大イベントによる精神的疲労が重なり、そこへきて幽霊問題が登場して考えることを放棄した状態で布団に倒れ込んだら朝になっていた、というのが正確なところかもしれない。
翌朝、布団に包まったまま恐る恐る押入れのほうを見ても、あの老婆の霊はいなかった。
ほっとして起き出した蓮は身支度を整える。歯を磨いて顔を洗って、徐々に覚醒してきた頭で幽霊といえばなぜ老婆が多いのだろう、なんて益体もないことを考えた。神でも怨霊でも日常に根差した亡霊でも、女性のほうが様になるのだろうか。
朝食の準備をしようと台所に立ったら、隅に老婆が座っていた。
「おはようございます」
「あ……おはようございます」
思わず返事をしてしまった。
冷蔵庫から牛乳を取り出しながら、蓮はまた頭がぼんやりした。悲鳴をあげるところじゃないか。もう引っ越すべきか。違約金が痛いけれど。それとも霊媒師を呼ぶべきか。そのほうが高くつきそうだ。
老婆は何をするでもなく、ただ座って蓮がトーストを焼くのを眺めていた。
「あの、えっと、おばあさん」
「はい」
「何か……したいことがあって、してほしいこととかがあって、ここにいるんですか」
「いいえ、特になんにも」
「成仏できないとか、この世に未練があるとか」
「ただ、住み慣れた場所なものですから」
成仏できない理由がない幽霊。怨念がない幽霊。ただの習慣でそこにいるだけの幽霊。
どのホラー映画でもあまり見ない類型だった。だってこれでは、オチがつかない。
一週間が経つ頃には、蓮はある程度この老婆の存在に慣れてしまっていた。
老婆は実際のところ非常に無害だった。勝手に物を動かすこともなく、部屋の温度を下げることもなく、窓や戸をがたがたさせて脅かすことも、枕元で呪いの言葉を吐いたりもしなかった。時々現れては部屋のあちこちに座って、蓮の日常を眺めるだけだ。
それはまた蓮のほうも同様で、次第に老婆の姿が日常に馴染んでしまったのだった。
「おばあさん、テレビ見てるんですか」
「ええ、よく見てますよ。あなたが帰ってこない時間も」
「……電源入ってないですけど」
「ですから、座って見てますよ。テレビを」
何も映していない真っ暗な画面を一人でぼんやり眺めているところを想像すると、なんとなく気の毒になって、蓮はリモコンを老婆に渡そうとした。しかし手が透過してしまう。
「チャンネル、どれがいいですか」
「私はニュースが好きですねえ」
NHKのニュースを流しながら、蓮と老婆は並んで画面を眺めた。
蓮は段々、この老婆のことを「おばあちゃん」と呼ぶようになっていた。
蓮の実母は、いわゆる毒親だった。
感情の制御が利かない人で、機嫌が良い日と悪い日の落差が激しく、蓮が子供の頃から家の空気は常に荒れていた。父は温厚な人ではあったが母に逆らう気力がなく、緩衝材として機能しながらも根本的な問題を解決することはなかった。
蓮は父方の祖父母の家にたびたび避難させてもらっていた。しかしそれも、時間が経つにつれてより複雑な問題を生んだ。
祖母は蓮が避難してくるたびに、その事実を嫁への攻撃材料に使ったのだ。母が迎えにくると、「お母さんが怖いから蓮くんはおばあちゃんのところにくるのよねえ」と、蓮を傍らに置いたまま言い放った。
蓮は自分が争いのだしにされていることを子供心に理解していた。でも逃げ場がそこしかなかったから、ずっと黙っていた。
老婆の霊を見ていると、ふと浮かんでくることがある。この人が自分の祖母だったらもっと穏やかな日常だったのかな。もっと家族で笑って暮らせていたのかな。
そんなことを思う自分を少し恥ずかしいと思いながらも、抱いた幻想を完全には打ち消せなかった。
秋雨が降っていた。仕事から帰った蓮が夕飯を食べていると、老婆がいつになくしんみりした様子で窓の外を見ていた。
「おばあちゃんみたいな人だったら、家族とも仲良かったんでしょうね」
「ええ、うちは仲が良かったですよ。近所でも評判で」
老婆は振り向いて、いつものように穏やかに答えた。少し嬉しそうに見えた。
「いいなあ」
意識せずとも素直に感嘆が出てきた。
「最近あんまり聞かないですよね、姑と嫁が仲いいって話。うちは逆だったから」
「あら、そうでしたの」
「うちの父方の祖母が、あんまり……その。まあ、いいんですけど。仲のいいお嫁さんと姑って、どんな感じなんだろうと思って」
初めて会った時に聞いた話を思い出した。老衰に近い形の自然死、息子と孫に看取られての死だった。
「最期、お嫁さんとは?」
「とても残念なことに、嫁は早くに亡くなってしまったのよ」
「あ……すみません、変なこと聞いて」
「いいの。あの頃は息子も悲しんでて、見ていられないほどでしたよ。本当に仲のいい夫婦でしたから」
事故物件、人が死んだ部屋、心理的瑕疵。過激な一面ばかりが取り沙汰されるが、そこにあるのは怪奇現象だけではなく、誰かの生活の終わりだ。家族の時間の、最後のページなのだった。
それが凄惨なものであれ穏やかなものであれ、誰かにとっての大切な日常の場所だったことに変わりはない。
そんなことを、蓮はぼんやりと考えていた。
「ですから、ここは昔に人が死んだ家でもあり、殺人犯が死んだ部屋でもあるわねえ」
蓮の箸が床に落ちた。老婆はごく穏やかな顔をしていた。動揺などどこにもなかった。
「……え?」
「仲が良かったですよ、うちは。近所でも評判で」
だから、と、老婆は何の衒いもなく続ける。
「年老いた私より先に若い嫁が死んだって、だあれも私を疑わなかったわ」
嫁姑問題なんて噂が立ってたら、真っ先に疑われてしまいますものねえ、だなんてくすくす笑っている。
蓮の脳裏によく聞くホラーの定型句が浮かんだ。
結局、人間が一番怖い。
ヒトコワと呼ばれるジャンルがある。幽霊や怪物ではなく、人間の悪意そのものが恐怖の源泉となる物語。都市伝説や怪談の世界では一つの確立されたカテゴリーだ。
しかし蓮の目の前にいるのは、幽霊だった。かつて人間だった幽霊だった。
人間であった時に人を殺し、人間でなくなった今も穏やかな顔でそれを語る、老婆の霊だった。
これはジャンルとしては何になるのだろうか。そんなどうでもいいことを考えるのは現実逃避だ。
「最初からそのつもりで――穏やかで害のないおばあちゃんみたいに振る舞って、僕が油断したところで」
「ふふ」
目尻の笑い皺が深くなった。さっきまでは温かく見えたその皺が、今は違って見えた。
「だって、本当のことですよ。家族の仲が良かったのも、嫁が早く死んだのも、息子が悲しんだのも。ぜえんぶ本当。嘘はひとつも言ってないわ」
「でも、でも、お嫁さんを殺したんでしょう」
「嫁はこの部屋で死んでいませんもの、事故物件にはなりませんでしょ?」
ふふ、と老婆がまた笑う。とても穏やかで上品な笑みだった。
「……証拠とか、は」
「残ってないのでしょうねえ。もう二十年も……三十年だったかしら。昔の話ですから」
残ったのは老婆の霊の自白だけ。この人を、この霊を、裁くことのできる法はない。
「なんで……僕にそれを教えたんですか」
「さあ。あなたが聞くから」
「僕は家族と仲良かったかって聞いただけで」
「ええ、うちは仲良しでしたよ」
もはや見慣れた、心の底に馴染んだ笑顔で老婆が言った。
「少なくとも、そう記憶されていますよ」
翌朝、蓮はスーツケースひとつ分の荷物だけ持って部屋を出た。残りの荷物は後で業者に頼めばいい。あの部屋に一人で戻る気には、今のところなれなかった。
ネットカフェの個室でノートパソコンを開く。不動産サイトで条件を入力する。路線、駅、家賃、間取り。
検索ボタンをクリックする前に、蓮はしばらく画面を眺めたまま硬直した。
おばあちゃんは結局、自分に何もしなかった。怖がらせはした。しかしそれだけだった。物理的な害は何もなかった。
よく考えれば、あの老婆の霊がいる限り、不法侵入者がきても撃退だってできるかもしれない。そういう意味では防犯上の利点すらある。
……いや、駄目だ。
蓮は慌てて首を振った。思考が変なほうに向かいかけた。
穏やかに語りかける幽霊に対して親しみを感じてしまう、あの感覚は何だったのか。老婆が「優しいおばあちゃん」に見えてしまっていた、あの時間は何だったのか。
人の好意と信頼を積み上げさせてから足元を崩す。それは老婆が生きていた時から得意としていたやり口なのかもしれなかった。
お嫁さんを殺したみたいに。
蓮は検索ボタンを押した。候補は十七件表示された。
リストの一番上から丁寧に、念入りに、確認を始める。間取り、駅距離、築年数、管理会社評価、それから――
告知事項。
明確に告知事項なしと書いてあっても、蓮にはもはや信頼できなかった。間に入居者が挟まれれば義務は消える。
だからといって完全に確認不能かといえば、そうでもない。建物の登記情報、過去の火災報告、地域の噂話、管理会社の変遷。遡れる情報は、まだあった。
蓮は新しいチェックリストを作り始めた。今度はA4用紙三枚分になりそうだ。
「……でも」
蓮は不意に自棄になったように手を止めて、頭を抱えた。
どんなに記録を遡ってみても、弾けるのは“何かが起きた部屋”だけだ。かつて人を殺した穏やかな幽霊を避ける術はない。
ところで後日談として付け加えておくと、蓮が退去した後、その安全な部屋安全な部屋には次の入居者が現れた。
若い女性で、やはり引っ越しを念入りに調べる人だったらしい。不動産屋にも多くのことを確認した。不動産屋は正直に答えた。
告知事項はございません。あの部屋の入居者は皆さま恙無く暮らし、問題なく退去しています。
そして入居後の夜、すべてのダンボールを開け終えた彼女の部屋に老婆は現れた。
「引っ越しお疲れ様でしたねえ」
不動産屋のメモ:告知義務の消滅という制度の穴がある。穏やかな顔をしたものが必ずしも安全とは限らない。そしてどれほど念入りに調べても、知り得ないことは存在する。




