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森喰いの核木(もりぐいのさねき)  作者: 都桜ゆう


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第三章 森返しの登場と“返す”哲学(後半)

 断面からは鮮紅の血ではなく、粘り気のあるどす黒い樹液が噴き出した。飛散した飛沫のいくつかが篝の頬を汚し、残りは彼が足元に引いた「赤い砂の円」へと、重く滴り落ちる。


 その瞬間、連鎖的な変質がタカシの傷口までをも一気に飲み込んだ。砂の持つ力が、同一の不浄を媒介として、宙に浮く本体の断面まで瞬時に波及したのだ。

 断面に残る液体は、滴り落ちる暇さえなく黒い琥珀へと変じ、毛細血管の一本一本までを結晶の中に閉じ込めた。溢れようとしていた不浄は、その場で強固に、そして冷徹に封じられた。


「あ……あ……」


 タカシは激痛と、人智を超えた処置の衝撃に脳が追いつかず、白目を剥いて意識を失った。

 切り離され、地面に落ちたタカシの右腕、――もはや黒い根と一体化した肉塊は、主を失ったことで暴走し、生き物のようにのたうち回った。それは飢えた獣のごとく、目の前に立つ篝の足へ向けて飛びかかる。


「食いたければ、主に食わせてもらえ」


 篝は眉ひとつ動かさず、最小限の動きで半身をかわした。空を切った肉塊が最高点から落ちようとする刹那、彼はその枝の節を地下足袋の踵で踏み抜き、そのまま力任せに横へと蹴り払った。

 重い衝撃音とともに、肉塊は闇の中でうごめく森喰いの巨大な影へと正確に叩きつけられた。


 それは磁石に引き寄せられる鉄屑のごとき速さで、そのまま異形の本体へと同化していく。胸部にある、山羊の頭蓋が並んだ裂け目が気味悪く大きく開き、つい先ほどまで人間の一部だったその肉を、貪り喰らうように丸呑みにした。


 グチャリ、と湿った咀嚼音が響き、森喰いの巨躯が歓喜に震えるように激しく脈打つ。山羊の虚ろな眼窩が爛々と赤く輝き、直後、全身を覆う樹皮の隙間からそれは溢れ出した。

 樹皮を突き破り、新たな芽が吹くような勢いで、タカシのものだった五本の指先が突き出してくる。だが、それはもはや人間の比率を保ってはいない。指の一本一本が、栄養を吸い上げた根のように節くれ立ち、数メートルもの長さにまで異常に伸長しながら、獲物を探して空を掻いた。


「……あいつ、タカシの腕を食べて、さらに大きくなってないか!?」


 車内に逃げ込んだ新藤が、ひび割れたスマートフォンの画面を震える手で握りしめたまま、狂ったように叫んだ。


「じじい! 何をしてるんだ、わざと餌をやるなんて! ……お前、タカシを助けるつもりなんてないのか!? これじゃ、ただ殺してるのと同じじゃないか!」


 彼の目には、篝がタカシを救っているのではなく、森を肥やすために肉を捧げたようにしか見えていない。

 篝は蹴り払った足を引き、新藤の罵声を聞き流して、闇の中で蠢く巨躯を見据えた。


「餌ではない。『利息』だと言ったはずだ。森喰いは一度目をつけた命を、その根が枯れるまで追い続ける。今、あやつにタカシの一部を『返した』ことで、契約は更新された」


 篝は静かに「返し」を構え直す。返り血ならぬ樹液を浴びたその顔は、冷徹な石像のようだった。


「あやつは今、タカシという個体ではなく、その肉を媒介にして、わしという『清算人』を標的に定めた。……これでタカシは、もう追われん」


 森喰いから伸びる数千の細い繊維が、篝の周囲に撒かれた赤い砂の境界を、まるで触れることさえ許されぬ熱線でも見るかのように、ジリジリと遠巻きに取り囲んでいく。

 繊維の先端は砂のわずか数ミリ手前で鋭く震え、侵入を拒む見えない壁に阻まれて、それ以上先へ進むことができない。


「お前さんたちの言う『保護』も、村人の言う『駆除』も、結局は自分たちの都合でしかない」


 篝は短刀を正眼に構え、その切っ先を、森喰いの中心部――山羊の頭蓋が最も密集している場所――に向けた。


「森という場所は、人間が木を一本切れば、その分だけ人間から何かを奪い、帳尻を合わせようとする。そこには慈悲も悪意もない。ただ、出した分と同じだけ引っ込めるという『貸し借り』の決まりがあるだけだ」


 篝は、梁から吊るされたタカシの首元で揺れる、泥にまみれたあるものを顎で指した。


「あやつは、この山の祠に供えられていた『御神木の種』を面白半分に持ち出した。森にとっては、未来の巨木を一本盗まれたのと同じことだ。だから森は、その穴埋めとしてタカシの命という『別の苗木』を求めた。

 だが、苗木一本の代わりに人間一人の命を奪うのは、明らかな『取りすぎ』だ。だから、わしが腕という利息を払って奴を納得させ、残りの()を無理やり買い戻したのだ」


 森喰いが、これまでにない地鳴りのような咆哮を上げた。

 もはや腕や根といった形を保つことすらやめ、巨体そのものが巨大な波となって、篝を押し潰さんと迫る。周囲の杉の木々が、森喰いの意志に呼応するようにバキバキと折れ、その枝もまた、攻撃に加わるべく宙を舞う。


「……欲が過ぎれば、土に還ることも叶わんぞ」


 篝の全身から、それまでの老いを感じさせない鋭い覇気が放たれた。

 彼は森喰いの懐へ、吸い込まれるような速さで飛び込んだ。木の根が空を切り、地面を砕く轟音が響く中、篝の持つ「返し刃」が、闇夜に青白い軌跡を描いた。


 新藤は、割れたスマートフォンの画面越しにその光景を見て、言葉を失った。

 篝の戦いには、英雄的な高揚感も、怪物への憎しみもなかった。それは、ただ粛々と事務をこなす役人のような、恐ろしいほどに淡々とした作業であった。


 激しい怒声も、荒い呼吸さえない。無駄を削ぎ落としたその動きには、敵を討つ殺気すらなく、ただ熟練の細工師が木を削るような、冷徹な手際だけがあった。

 そして、篝の刃が、森喰いの胸部――複雑に絡み合った核へと届こうとしたその時。


 新藤が握りしめていたスマートフォンの画面が、激しい砂嵐のようなノイズと共に明滅した。カメラが捉えていた篝と怪物の境界が、不自然に歪み、あり得ない色彩を放つ。

 その電子的な狂乱を目の当たりにした瞬間、新藤の全身を突き上げていた恐怖が、奇妙な熱狂へと変質した。画面に映る映像は、今この瞬間、間違いなく世界中の誰よりも「価値のあるもの」を自分だけが独占していることを示していた。


(……もし、ここでこの爺さんが負けたら? 怪物に無残に食い殺される瞬間まで撮れたら、この動画はどれほどバズるだろう)


 恐怖という回路が焼き切れ、承認欲求という名の別の飢えが、新藤の心を黒く侵食し始めていた。


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