第一章 前兆(後半)
「皆さん、ライブ配信見てますか! ここが現在、絶滅危惧種……いえ、山の守り神である『森喰い』の目撃が相次いでいる、鹿ヶ瀬村です!」
リーダーの新藤は、広場の惨状を背に、慣れた手つきでスマートフォンのレンズを自分に向けた。画面の向こうでは、数千人の視聴者が「都会の安全」を担保に、この村の恐怖を娯楽として消費している。リアルタイムで流れるコメントは、村人たちの切実な叫びよりも、新藤の掲げる「愛と共生」という甘美な言葉を肯定し続けていた。
「いいですか。村の人たちは、古い迷信に縛られて、この高貴な存在を排除しようとしています。でも、考えてみてください。山羊が消えた? それは、僕たち人間が森を切り拓き、彼らの餌場を奪ったからです。彼らは怒っているのではない。悲しんでいるんです!」
新藤の後ろでは、仲間の女性であるミキが、お洒落なフォントで「Save the Forest God」と書かれたプラカードを掲げ、SNS映えする角度で自撮りを繰り返している。
彼女たちが纏う高級なアウトドアブランドの香料の匂いが、小屋に漂う死臭や黒い樹液の悪臭と混ざり合い、胃の底がせり上がるような不快な空間を作り出していた。
「……ふざけるな、このガキどもが」
村人の一人が、震える拳を握りしめて前に出た。
「俺たちが今夜、どんな思いで戸締まりをするか知ってるのか! あいつは、山羊を食ったんじゃない。梁に耳を『植え付けた』んだぞ! あんなものが、愛だの共生だので済む相手か!」
「暴力的な言葉はやめてください。それこそが、野生動物を刺激する原因なんです」
新藤はカメラを村人に向け、薄く笑った。
「もしあなたがたが、罠を仕掛けたり、銃を持ち出したりするなら、僕たちは即座に世界中へ告発します。暴力によって自然を屈服させる時代は終わったんです」
その歪な空気を切り裂くように、村の入口から重苦しいディーゼルエンジンの唸りが聞こえてきた。霧の深い坂道を、一日数本しかない古ぼけた路線バスが、車体をきしませながら登ってくる。バスは広場の手前で一度だけ激しく喘ぐように停止し、湿った空気をさらに重くするような、黒ずんだ排気ガスを吐き出した。
バスが再び動き出し、エンジン音が霧の奥へと遠ざかっていっても、吐き出された煙だけは地を這うように広場に留まっていた。その白く濁った煙の帳を、内側から押し広げるようにして、一人の男がゆっくりと、しかし確かな足取りでこちらへ歩み寄ってきた。
老人と呼ぶのをためらうほど、その背筋は鋼のように真っ直ぐに伸びていた。
纏っているのは、藍色の生地が煤と泥で黒ずんだ古い作業着だ。肩には、ずっしりと中身の詰まった分厚い布袋を担いでいる。足元の地下足袋は、薄いゴム底越しに地面の凹凸を鋭く捉えていた。一歩踏み出すたびに、二股に分かれた爪先が獣の指のようにしなり、湿った土を無音で掴む。
男が近づくにつれ、湿った森の匂いに混じって、鼻を突くような鉄錆の臭いが漂ってきた。よく見れば、作業着の袖口や膝のあたりには、まだ乾ききっていない赤黒い飛沫が、泥に混じって生々しくこびりついている。それは動物の返り血が、粘り気のある樹液と混ざり合って固まったものだ。
その汚れの鮮度は、彼がこの村に呼び出される直前まで、別の地獄を潜り抜けてきた事実を無言で突きつけていた。
そんな死線を越えてきた者にしか纏えぬ凄絶な装束は、カタログから抜け出したような最新の登山ウェアに身を包む新藤たちとは、あまりに残酷な対照をなしていた。一方は命を守るための記号に過ぎず、もう一方は、土と血に塗れて命を清算してきた実戦の証だった。
男が広場に足を踏み入れた瞬間、新藤は喉の奥が凍りついたような感覚に襲われた。あれほど騒々しく正義を喚き散らしていた彼の声が、ぷつりと途絶える。
それは、新藤が自ら口を閉じたというより、男が纏う濃密な気配が、周囲の音を根こそぎ吸い取ってしまったかのようだった。 男の歩みに合わせて、風の鳴る音も、虫の羽音も、新藤の浅い呼吸音ですらもが重苦しい沈黙の中に沈められていく。
男の周囲だけ、世界から色彩と音が削ぎ落とされたかのような、寒々とした静寂が支配していた。
「……遅かったな、篝さん」
古老の源三が、安堵と恐怖が混ざり合ったような複雑な表情で男を呼んだ。男――篝は、返事をする代わりに、鼻先を微かに動かした。
「……風が、湿っておるな」
その声は、掠れてはいるが、大地を震わせるような力強い響きを持っていた。篝は、新藤たちがカメラを向けていることなど一切気に留めず、家畜小屋の扉の残骸へと歩み寄った。そして、床に糸を引く黒い樹液を指先ですくい、それを躊躇いもなく口に含んだ。
「な、何してるんですか!? 不衛生ですよ!」
ミキが悲鳴のような声を上げたが、篝は無視した。
「……まだ若いな。だが、欲は深い。
……食うためではなく、増やすために歩いておる」
篝は懐から、煤けた手拭いを取り出して指を拭うと、じっと山の稜線を見つめた。その瞳は、新藤たちのような理想を見ているのではなく、もっと深い場所、森の奥底で脈打つ「異質な循環」を直接見据えているようだった。
「篝さん。やはり、例の……『森喰い』かね」
源三の震える問いに、篝は視線を山の方角へと向けたまま、静かに、しかし断定的に答えた。
「ああ。……本来なら土に還り、森の糧となるべき命が、還る場所を失うておる。未練か、あるいは呪いか、土に還るタイミングを逸した『死』が、森の根と混ざり合って醜く腐っておるのだ。それが、森喰いという名の淀みよ」
篝は一度言葉を切り、広場を囲む深い闇を睨んだ。
「山は厳しい貸主だ。村に分け与えた『恵み』の利息が払えぬと見れば、村ごと一気に取り立てに来る。……今夜、ここへ来るぞ。山が、この村をもう生かしておく価値のない『余分な肉』だと判断したようだ」
篝の言葉は、冷酷な宣告だった。だが、その重圧を理解できない新藤は、「何が取り立てだ、ただの迷信だろ」と鼻でせせら笑い、再びスマートフォンの録画ボタンを押し込んだ。
彼はそのまま、村外れの古い納屋の前に設営した自分たちの拠点――「フォレスト・ガーディアンズ」のキャンプ地へと悠然と歩き出す。仲間に向けて合図を送り、機材の最終チェックを始めた。強力な照明を並べ、これから訪れる「撮りどころ」を前に、新藤はレンズ越しにフォロワーへ向けて語りかける。
「……いいですか、フォロワーの皆さん。あと数分もすれば、人間の手が及んでいない本物の夜がやってきます。現地の老人は迷信で我々を脅そうとしていますが、それこそが最高のスパイスです。期待していてください」
「……これを持っておけ」
背後から声をかけられ、新藤が苛立たしげに振り向いた。いつの間にか追いかけてきていた篝が、赤黒い砂の詰まった小袋を差し出している。
「何かあれば、自分を囲むようにこの砂を撒け。この赤は山の理の外にある。
……淀みが嫌う色だ」
だが、新藤はカメラを回したまま、差し出された袋を忌々しげに払いのけた。
「結構ですよ。我々が撮りに来たのは神秘的な『山の神』であって、あなたの妄想するオカルトモンスターじゃない。そんな泥遊びで神様を怒らせたら、せっかくのシャッターチャンスが台無しだ」
砂の袋は地面に落ち、新藤はそれを踏みつけるようにして仲間の元へ戻った。対照的に、近くで様子を伺っていた自警団のタカシは、震える手でその砂を拾い上げ、命綱のように腰に括り付けた。
新藤は鼻でせせら笑うと、再びスマートフォンのレンズに顔を寄せた。視聴者に向けて、今しがたの「老人の奇行」を嘲る言葉をさらに重ねようとした、その時だ。
ふっと、周囲の気温が数度下がったかのような錯覚を、その場にいた全員が抱いた。あれほど喧しかった鳥の声が完全に途絶え、代わりに山の奥底から、巨大な肺が空気を吸い込むような「ヒュウ……」という不気味な風鳴りが吹き下ろしてくる。
新藤の指が、スマートフォンの画面の上で凍りついた。空気が急激に湿り気を帯び、山の端から巨大な影が、まるで意思を持った漆黒の液体のように静かに溢れ出してきた。
村の夕刻は、もはや目前まで迫っていた。険しくそそり立つ山影が、じわりと、飢えた獣の舌のように村の家々を舐め取り始め、一刻ごとに光を奪っていく。それは単なる日没ではない。森がその口を大きく開け、村という余分な肉を飲み込もうとする、捕食の始まりだった。




