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森喰いの核木(もりぐいのさねき)  作者: 都桜ゆう


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第一章 前兆(前半)

 鹿ヶ瀬(ししがせ)村において、山は「慈しむもの」ではなく「供えるもの」だった。

 北アルプスの末端、地図からも忘れ去られたような深い谷間に位置するこの村では、太陽が顔を出す時間は極端に短い。午後三時を過ぎれば、巨大な山影が村を飲み込み、家々は湿った闇に沈む。


 転げ落ちそうなほど険しい斜面に張り付くように建つ家々は、どれも軒が異様に深く、窓が小さい。それは冬の豪雪を避けるためだけではない。森の暗がりから向けられる、人間という「柔らかな蛋白質」を品定めするような、名もなき視線を遮るためでもあった。


 その朝、村の広場を支配していたのは、むせ返るような生臭い沈黙だった。広場の中央、村の共有財産である家畜小屋の前に、男たちが数人、石像のように立ち尽くしている。


「……また、やられたか」


 村の最古老、源三(げんぞう)が震える手で刻みたばこを火皿に押し込んだ。吐き出された煙が、冷たく湿った朝の空気に白く混ざり合う。


 男たちの視線の先。そこには、もはや扉としての体をなしていない無残な木枠があった。厚さ五センチ、樹齢百年の杉板で作られた堅牢なはずの扉が、まるで内側から巨大な風船が破裂したかのように、外側へ向かって「めくれ上がって」粉砕されていた。ボルトは引きちぎられ、鉄の蝶番は飴細工のようにねじ曲がっている。


 中から連れ去られたのは、二頭の若い山羊だった。しかし、床に血溜まりはない。争った跡も、毛が散らばった様子もない。ただ、黒く粘り気のある液体が、床一面に糸を引いて残されていた。それは樹液に似ていたが、鼻を突く匂いは腐った内臓と、古びた湿布薬を混ぜ合わせたような、脳の奥を直接掻き回すような生理的な嫌悪感を呼び起こす代物だった。


「……見ろ、これ。熊の仕業じゃねえ」


 源三が指差したのは、小屋の天井にある太い梁だった。そこには、奪われた山羊の片耳だけが、まるで最初からそこにあった植物の芽であるかのように、木の節の隙間にぴったりと癒着していた。断面からは血ではなく、あの黒い樹液がドロリと滴っている。

 驚くべきは、その耳が今なお微かにピクピクと、音を探すように動いていることだった。


「接ぎ木だ……」


 誰かが低く、掠れた声で呟いた。その言葉とともに、男たちの脳裏には、幼い頃から耳にタコができるほど聞かされてきた村の古い教えが、冷たい手触りを持って蘇っていた。


『山に身体(からだ)を貸してはならぬ』


 この村では、深い森に立ち入る際、決して肌を晒してはならないと言い伝えられている。

 森は常に「欠損」を抱えており、隙あらば人間の五感や四肢を奪い、自分の一部として繋ぎ合わせようとするからだ。


 たとえば、森の見張りの(ふし)

 山で目を奪われた者の成れの果てだ。老いた大木の幹に、不自然に生々しい節があれば、それはかつて村から消えた誰かの眼球だという。瞼を失い、閉じることができなくなったその瞳は、樹皮の隙間から、森に迷い込んだ次の獲物をじっと監視し続けている。


 あるいは、震え葉(ふるえば)

 それは、喉を奪われた者の末路。風もないのに、一枚の葉だけが激しく震え、ヒュウヒュウと擦れた音を立てることがある。それは、木に取り込まれた人間の喉仏が、今なお助けを求めて鳴らしている叫びの残響なのだ。


 一度でも森にパーツを貸し付ければ、それは二度と返ってはこない。それどころか、奪われた傷口から森の根が逆流し、血管を苗床にして、残りの五体をもジワジワと木へと変えていく。この村の男たちが震えているのは、単に山羊が食われたからではない。自分たちの身体の一部が、あの異形の一部として加工されることへの、根源的な恐怖だった。


 今、(はり)に植え付けられた山羊の耳は、まさにその接ぎ木の始まりだった。

 もしこれが、ただの獣の仕業であれば、耳は食い散らかされているか、地面に転がっているはずだ。しかし、その耳は、まるで最初からそこから生えてきたかのように、梁の木目にぴたりと馴染んでいた。


 これこそが、村人たちが最も恐れる呼び木(よびき)という現象だった。まず家畜や小動物のパーツを人間の住処(すみか)に『植え付ける』。すると、そのパーツを起点にして森の根が目に見えない速度で家の中へ、そして床下へと這い広がり、その家全体を森のネットワークの一部に変えてしまうのだ。


 つまり、この耳はただの残骸ではない。森が村の境界を侵食し、この場所を自分たちの肉体を育てるための苗床として確定させたという宣戦布告なのだ。

 梁に根を張った山羊の耳が、村人の足音に反応してピクリと動く。その振動は、すでに床板を伝って村人たちの足元まで届いているかもしれない。


 男たちが震えているのは、家畜を失ったからではない。自分たちの寝室や居間が、すでに森の胃袋の中へと繋がってしまったことを悟ったからだ。自分たちの指や目、あるいは心臓さえもが、次に森を広げるための部品として収穫される予感に、彼らの魂は凍りついていた。


「……森喰い(もりぐい)が、飢えておるんだ」


 源三の言葉は、冷たい地下水のように男たちの背筋を伝い落ちた。


 森喰い。それは単なる獣ではない。かつて、この村が深刻な飢饉に見舞われた際、山の神を鎮めるために間引きされた赤子たちの叫び。あるいは、掟を破って山に入り、戻ってこなかった者たちの怨念。そういった「森に拒絶され、かつ忘れ去られた人間の残り滓」が、何百年という時間をかけて地下の根と絡み合い、一つの巨大な、歪んだ意志となったものだ。


「じいさま……。あれを放っておけば、次はどうなる?」


「決まっておる。山羊の次は牛。牛の次は、外で遊んでおるガキだ。あいつは、自身の『欠けた肉』を埋めるために、生きたまま肉を剥ぎ、自分の一部として取り込みよるんだからな」


 源三の瞳には、かつて彼が若かりし頃、隣村がこの森喰いによって一夜にして消滅した際の光景が、今なお焼き付いているようだった。その村の跡地には、今では不自然に形が歪み、人間の苦悶の表情に似たコブを持つ樹木が、異様な密度で生い茂っているという。

 だが、そんな村の、命を削り合うような緊迫感を一瞬で無効化する、軽快なしかし暴力的なまでに場違いな明るい声が、背後から響いた。


「おはようございまーす! 今日も素晴らしい、野生の息吹を感じますね!」


 村の入口、朝霧の向こうから現れたのは、蛍光色の最新アウトドアウェアに身を包んだ男女の集団だった。自撮り棒を掲げ、最新のiPhoneを向けるリーダー格の青年。その顔には、都会の冷暖房完備のビルで育った者特有の、根拠のない万能感と正義が張り付いていた。


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