第4章
海は蒼く澄んで広大だった。人類の叡智をも無にしてしまうほど深淵だろう。ほんのわずか湾曲した水平線まで海原が陽光に眩く揺れる。久しぶりに大型ホテルのバルコニーからシーを抱いて海を眺めると、わずかだが微風にのって懐かしい潮の香りがした。 ──注射と薬を絶っていたが身体の調子は悪くなかった──
懐かしかった。懐かしさのうちに母をはじめとする死者の面影をみるようだった。オレは海の彼方に、あの世との通路を開く存在を感じた。こころのなかに流れこんでくる異質な世界のちからを感じた。しかしそれが具体的にどういうものかまだよくわからなかった。
オレは小学校を卒業するまで太平洋沿岸の農村に住んでいたが、ふとその農村での忘れられない思い出が蘇ってきた。休日によく海まで自転車を漕いで一緒に遊びにでかけた、同級生で幼なじみのカナエとの思い出が……
夏風に穏やかに靡く稲穂が陽光に眩く輝き、ウミガメが産卵で流す涙のような澄み切った空が広がっていた。朝の清涼な風を頬に感じながら、オレとカナエは、松林が続く農道を浜辺へと自転車を漕こぎつづけた。しかも、近隣ではなく北へ数キロ離れた「サンライズビーチ」と呼ばれていた浜辺まで……
とても夏の太陽が烈はげしい日だった。「サンライズビーチ」は、村の田んぼに水を供給し川のように幅の広い「大排水」の河口にもなっており、隣接する松林には小さな別荘地もあった。しかし、このあたりの海は波が荒く遊泳禁止になっていたため、夏でも訪れる人は多くなかった。
浜辺にはさまざまなものが流れ着き、とくに白いものと黒いものが目立った。白いものの大半は発泡スチロールの塊で、黒いものの多くはプラスチック製のブイだった。ハングル文字の瓶やロープ、網も多い。
オレとカナエは、とくに面白そうなものを見つけては比べ合ったり、よく白っぽい大きな巻貝の殻を耳に当ててみた。ボーっと音がする。それは風の音のようでもあり、深海の水の流れの秘密の音のようでもあった。
少し離れた砂浜の中頃に、大きな燻んだ色の塊が砂をかぶっていた。近づくと大きなウミガメの死骸だった。甲羅の縁が破損したくさんの傷がついている。ウミガメはよく「泣いている」といわれるが、それは眼球の背後に肥大化した涙腺があり、これにより体内に取り込んだ余分な塩分を濾過し、常に体外に放出することで体内の塩分濃度を調節しているからだ。
この時の、砂をかぶったまま動かないウミガメの閉じられた瞳にも涙痕があった。
──かなしそう。
カナエは、そう静かに呟いた。
それから、「大排水」河口の穏やかな浅瀬で、デニムの半ズボンのオレとピンクのミニスカートのカナエは、膝上まで水に浸つかって遊んだ。オレが石ころに躓いて転んでしまい全身びしょ濡れになると、
──ユウちゃん、ドジだなー
と、ポニーテールのカナエは楽しそうに眩く笑った。何でもオレの真似をしたがるカナエは、この時もすぐにおどけてよろけるふりをしながら、そのまま躊躇うことなく水面に倒れ込んだ。小さな花弁のような飛沫があがった。
──冷たくて気持ちいい!
頭から全身ずぶ濡れになったカナエの華奢な身体の腕や脚から、いくつもの真珠のような水滴が滴り落ち、わずかに膨ふくらみはじめた胸に白いTシャツが張りついた。
眩しかった。
カナエの笑顔は、夏の烈しい日差しを浴びて眩い美しさだった。しかもそれは、向日葵のような明るい眩しさというよりも、まるで白い月下美人のような儚く清冽な眩しさだった。
そしてその10日後、カナエはまるで朝陽が昇る前に萎んでしまう白い月下美人のように、田園を流れる「大排水」に落ちて死んでしまった。ひとりでふざけたりけっしてしないはずなのに……
カナエが常に携帯していた白い仔猫のぬいぐるみが、「大排水」の水面に浮かんでいたため、すぐに父親が飛び込むと水底にカナエが沈んでいた。父親は狂ったように嗚咽したが、カナエがウミガメと同じ涙を流したのかはわからなかった。
激しく蝉が鳴く杉林に囲まれたお寺で、カナエの葬儀が終わると、オレはすぐに着替えて「サンライズビーチ」へと自転車を漕ぎ出した。いくぶん陽射しが弱くなった晩夏の太陽がやや傾きはじめ潮の香りが漂っていた。
最後にカナエと「サンライズビーチ」の砂浜で見つけた燻んだ色の大きなウミガメの死骸を、もう一度確かめたいと思った。あのウミガメの涙の跡こそが、カナエの涙のような気がしたから……
しかし白い波が止むことなく打ちよせる砂浜で、10日前に発見した燻んだ色の大きなウミガメを、もうどこにも見つけることはできなかった。落胆したオレは、ウミガメの死骸を見つけた辺の砂浜に体育座りをしまま、ほんのわずか湾曲した水平線をぼんやりと眺めつづけた。カナエが肌身離さず携えていた白い仔猫のぬいぐるみを、震える手に握りしめながら……
折口信夫は、遥かな波路の果に妣の国と常世をみた。オレはほんのわずか湾曲した水平線まで陽光に眩く揺れる海原の彼方に、まるで白い月下美人のような儚い清冽な眩しさだったカナエの笑顔をみていた。あの世とこの世との通路、あるいは精霊の世界にこころを開く通路を見いだしたようだった。こころのなかに流れ込んでくる異質な世界のちからを感じた。異界からの来訪者まれびとがやってくると感じた。




