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溜息


ひどく疲れている夜だった。


薬を飲んでも夜通し歩いても眠れない日が続いていた。

ずっと頭の中に霧が立ち込めていて、奥の方にある傷が膿んで心がヒリヒリとしている。

きっと僕を取り囲む溶岩から逃げられずに、火傷してしまったんだ。


思うように絵も描けず、僕は鉛筆を握りながら目の前を通り過ぎる人々の靴を見ていた。


駄目だ、今日も描けなかった、そう思いながらスケッチブックを閉じる。

虚しいだけで、悔しがる気力も残っていなかった。


その日はイベントがあったようで表通りは人が多く、人混みを避けるため建物の間を通って車まで向かった。


すると突然目の前の扉が勢い良く開き、人が飛び出して来た。

屋内からの「勘弁してくれよ」という呆れ声を背中で受けながら地面にへたり込み、えずいている。


狭い路地でその子の上を跨いで行く事も考えたが、僕は持っていたミネラルウォーターを彼女に差し出した。


上半身を振り子のように揺らしながら顔を上げる。

それを見て、酔っ払いじゃ無いと分かった。

顔が白くてあのタバコの匂いがしていたからだ。

手を差し伸べた事を後悔した。


「えぇ〜あいあとぉ〜」

回らない呂律でそう言うと、近くにあった室外機に手を乗せて立ち上がった。


俯いたまま立ち去ろうとすると、「いいこだね」という言葉が聞こえた。

僕は思わずその子に目を向ける。


すると「いいこいいこ」と言って頭を撫でて来た。


グシャリと何かが潰れた音が聞こえた。


僕の心ではない。


瞬間的に記憶が蘇り、瞬間的に蓋をしたんだ、

僕が女の子の顔を殴った音だ。


女の子は鼻から血を流して倒れている。


僕は慌ててその場から走り去った。


胸がドキドキする、気持ち悪い、でも、何処かスッとしている。


自分より力のない存在に暴力を振るうなんて、美しくない、とても僕らしく無い。

そんな風に思っていた筈なのに、考えれば考えるほど自責の念よりも胸がスッと軽くなった事の方が勝っていき、胸に込み上げる複雑な快感を味わっていた。


その日の夜はよく眠れたんだ。





「その、頭撫でられるのは母親から良くされていたこと、なのか?」

大澤さんの質問に動かしていた指に力が入る。


「…母親、と、か、」

喉が突っ掛かる。


だってこれはお医者さんにも教えてない、一番奥に閉まった物だから、開けたくないんだ。


僕は細かく振動させていた目を大澤さんに向ける。

彼は、攻撃的な姿勢が剥き出しの眼差しを僕に向けていた。

この人は真っ直ぐ僕と向き合っているんだ、今までの人達とは違って。

彼が教えてくれた“秘密”はきっと同僚達も知らない彼の過去なのだろう。

それを曝け出した。

僕の罪を暴くために、自らを削ったんだ。

僕も同等の“秘密”を晒さないと、だね。


もう塀の外には出れそうに無いから、閉まっておく必要も隠しておく必要もない。

あの絵を完成させる事も無理そうだし。


もう、足掻く必要がないんだ。



「母は…」


常に快楽を求めていて、常にお金に困っている人だった。


疲れの滲んだヒールを擦る音と、アクセサリーの揺れる音が母が帰って来た合図で、その音が聞こえると僕はクローゼットの中に隠れた。

風俗で働く母は、たまに客と一緒に帰ってくる事があったからだ。


家の中は大麻特有の甘ったるい匂いと、お香の煤けた匂いが充満していた。

ビル影で陽の当たらない室内には、服やゴミが散乱し、お腹が空いたらその辺のビニール袋の口を開いて食べられそうな物を探して飢えを凌いでいた。


母の稼いだお金はほとんどが薬に消え、その薬でキマってる時の母は予測不能な言動を繰り返していた。

優しく僕を呼び寄せたと思ったら「お前なんか産むんじゃなかった」って泣き出したりする。

黒い涙を流す母が何かに取り憑かれているように思えて、子供の僕にはそれが怖くて仕方なかった。


でも、たまに優しさだけを見せる時があって、僕はそのたまに味わえる母性という飴が、すごく嬉しかった。



ある日、母が僕に洋服を買って来た。

心を弾ませながらシャワーを済ませると、着せられたのは女の子用の薄くて小さな下着だった。

戸惑いの目を母に向けるが、余計な事を聞くと怒られるから言われるがままにそれを着て、その上にコートを羽織る。


その後、母は僕を連れてタクシーに乗ると、頂上が見えない程の高層ホテルの前で降りた。


首を反らせながら車を降りると母は言った。

「相手の言う事を聞くのよ、絶対に嫌な顔をしないで、声も出さないで」

頭の中はハテナだらけで返事すら出来なかった。


ふわふわの絨毯の上を歩く感覚が面白くて、僕は足元を見ながらホテルの中を歩いた。

浮き足立っていたんだ。

母と2人で出掛けるなんて滅多に無い事だから。


母の足が止まり、ホテルの一室をノックするとスーツを着た男の人が顔を覗かせる。

僕が顔を上げると、そのおじさんは優しく微笑んだ。


母が背中を押すと僕は室内に足を踏み入れた。

背後で扉が閉まる。

おじさんのお腹が目の前にある、母は居ない。


理解が追いつかないまま胸だけが騒いでいく。


おじさんは僕を部屋の奥に連れて行くと、椅子に座らせた。

大きなガラステーブルの上にはケーキやジュースが並べられ、僕の為に用意したんだ、とおじさんは言った。

名前や歳、好きな事などを聞かれ、痒くも無い手の甲を掻きながらそれに答える。


ケーキに手を伸ばす僕を、おじさんはにこやかに見ているがほとんど食べられなかった。

知らない人と部屋の中で2人きり、落ち着けるはずがない。


しばらく雑談した後、おじさんは僕をその場に立たせるとコートに手を掛けた。

咄嗟に手でそれを阻止する。


「…大丈夫だよ、痛いことしないから、ね、」


ケーキで緩んでいた心が一気に汗をかき出す。


“言う事を聞いて、嫌な顔するな”

母の言葉が頭を過ぎる。


僕は手を体の横に戻した。

母の言葉だけでは無い、おじさんの目が怖かったんだ。

その目は冷静さを装った猛獣のようで、僕はその猛獣に捕まった獲物なのだと気付いた。

此処から逃げられないのだと。


コートが脱げるとおじさんの息を荒らした顔が近付いてきた。


鼻息とざらりとした唇とナメクジのような舌が体を這っていく。

背中に氷を当てられたかのように、寒気がする。


「純くん、可愛いね…」

ねっとりとした声でおじさんがそう言う度に、髪の毛が逆立つほど、鳥肌が立った。


気持ち悪い…


目を瞑り、痛くなるほど手を握り締めて、それに耐える。



事が終わると、おじさんは頭を撫でて顔にキスをした。

仰け反りたい気持ちをぐっと堪え、体を硬直させて、ただ、そこに立つ。


しばらくすると母が迎えに来て、母はドア越しにおじさんから封筒を受け取る。


ホテルを出て封筒の中身を見た母は目を輝かせた。

「お前、アタシより稼ぐじゃん、次もよろしく」


胸の中に黒い点を落とされてそれが広がっていく。


「嫌だ…」

回らない脳で、僕はぽろりと本音を漏らした。


すると母の平手が頰に飛んできた。

「誰のお陰で大きくなったと思ってんの、お前も少しは働け、何で私ばかり働かなきゃいけないの」

母はヒステリックを起こし、金切り声で怒鳴っている。


分かっていた、“嫌だ”とか言ったらどうなるのか、分かっていたはずなのに。

でも、少しでいいから、少しだけでも僕の気持ちに寄り添って欲しかったんだ。

そんな小さな望みさえ、叶わない。


その日のビンタは凄く痛かった。



それから定期的におじさんと会う様になり、おじさんは母には現金、僕には画材道具などのプレゼントを用意した。

複雑な気持ちでそれを受け取り、僕は自分の体を差し出す。


そして、少しづつおじさんの要求はエスカレートしてく。


ある日、僕は2人の様子に僅かな違和感を感じ取った。

母が何だかいつもより落ち着いていて、おじさんもいつもより多くプレゼントを用意していたんだ。


ベッドでうつ伏せにされ、体中を舐め回される。

目を瞑って時間が過ぎるのを待つ。


不意に足を広げられると、何かに圧迫された。

おじさんの手が僕のお尻を広げると力が加わり、痛みで目が開く。

ギュッとシーツを握りしめた。


体が引き裂かれる。


「ぐっ…ぅ…」

声が漏れる。


おじさんが腰を振ると僕の視界も揺れる。

僕は今、母親が男にされている事をされているんだと気付いた。


痛みで顔を歪ませ、目からは涙が溢れた。


僕は怯えた子犬のように喉をきゅうきゅう言わせながら「いたい…いやだ」と小さな鳴き声を上げていた。

興奮して息を荒らすおじさんが怖くて、自分がされている事が恥ずかしくて大声を出す事が出来なかった。



…痛い…


…お母さん…


気付くと頭の中で母に助けを求めていた。

恐れていた存在のはずなのに、それでも僕には母しかいないという事を思い知らされた瞬間だった。


あれほど早く終われと願った事はない。


永遠とも思える程の苦痛な時間に耐えると、おじさんは満足げに「良い子だね」と頭を撫でた。

僕はまともに歩けず、ガクガクする体を引きずりながら母に引き渡される。


母は封筒の中身を確認すると、また大喜びした。

「あんたを産んで良かったよ、さすがアタシの息子だね」


「イイコイイコ」

そう言って頭を撫でた。


ずっと欲しかった言葉だ。

嬉しいはずなのに悲しくて、僕の心の中はぐちゃぐちゃだった。


それでも僕は笑っていたように思う。



それからの日々は記憶が曖昧であまり良く覚えてないんだ。


学校も行っていた筈なんだけど、何をしていたのか断片的にしか思い出せない。


テレビの画面を見ているようだった。


全てが画面の奥の世界で起きてる事で、これは僕じゃ無い。


そんな感覚がして、僕はただの道具で、操り人形のように動いていた。





「…おじさんに、会う度に、何かを一つずつ閉めていくんです、感情の、扉のような物を閉めて、何も考えないように、閉じていくんです、怒りも、悲しみも」


「…それは、いつまでやらされていたんだ?」

眉間の皺を深くさせながら大澤さんが聞く。


「10歳か11歳の時、から、母が逮捕された13歳の時まで」

「周りに助けを求めなかったのか?」

「仕事って、働くって、そういう物だと思ってたので」

「…」

「大人になって、気付いたんです、自分がやらされていた事に」


落ち着いて話していると思ったのに、僕の声は震えていた。

それを誤魔化すようにふぅと息を吐いて笑ってみせる。

それでも大澤さんは般若のお面ような顔で僕を見ている。





あの日、自分でも開けられなかった扉が開いたんだ。

千本鳥居のように幾重にも連なっていた扉が、奥から一つずつ。


それで目の前の霧が晴れて道が開かれた、そんな気がした。


その扉が導いてくれたのかもしれない。

自分が何をすべきかを。


“美しい絵を描きたい”

漲る野心のような感覚に、僕は酔いしれていた。


復讐では無い、最高の作品を作り上げたい、ただそれだけ。


そして、僕は絵を描くために再び夜の街に出た。

僕だけの『オフィーリア』を探しに。


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