砂時計
夜はこの地球が宇宙と一体化したみたいで好きだ。
でも、嫌いな時もある。
孤独と不安な気持ちがドロリとした溶岩になって、僕を取り囲んで逃げ場を失う時があるから。
眠れない夜はよく散歩をしていた。
月を見たり、人を見たり。
繁華街で人を見るのは楽しかった。
それを絵に収めるのも。
お店での雰囲気をそのまま外まで引きづり出して、大きな声で笑う人達。
大声で主張をして、彼らは何を満たそうとしているんだろうか。
そんな風に考えながら鉛筆を動かしていた。
ある時、繁華街の酔っ払い達の雰囲気が変わった。
フラフラと歩いていると思ったらピタリと動きを止めて、手足を痙攣させながら地面に倒れる事もあって、それを見た僕は“ゴキゲン”になる薬をやっているんだなと思った。
僕は周囲から蔑む目を向けられている人達をスケッチするのに夢中になった。
とても人間らしいと思えたから。
大澤さんが言うように、母と被るから、と言うのもあるかもしれない。
彼らは見た事のない電子タバコを蒸すと、解放された表情になるんだ。
その表情が、昔本屋さんで見て心を奪われた『オフィーリア』を連想させるから女性ばかりを描くようになった。
そして、本物を見たいと思った。
脳内で何度もそれをシミュレーションしたんだ。
創作意欲が湧いて来る時ほど楽しいものは無い。
「ねぇ、良くこの辺にいるよね?何書いてんの?」
ある日、いつものようにスケッチしてたら声を掛けられた。
その子は近くのガールズバーの店員さんで僕の事を良く見かけるからずっと気になっていたそうで、酔った勢いで声掛けちゃった、って話していた。
彼女の話す速度に付いていけず、返事をまともに返せない僕は足元を見ていた。
「うちで、一緒に飲む?」
不意にそう言うと彼女は眉毛を上げて少し驚いた顔をする。
でも何処か嬉しそうだった。
予想外の反応に、僕も少し驚いた。
まだ準備が出来てなかったから。
でも、チャンスだと思った。
タトゥーだらけの中国人から買った“強いヤツ”を試すチャンス。
突然舞い降りた描写対象に、思わず顔が綻んだ。
市の職員がくれた骨と皮みたいな軽バンに乗って、僕達は家に向かった。
車の助手席に座る女の子は、胸の焼けるような香水とお酒の混じった匂いを漂わせながらずっと喋っている。
「小学生の時の夢が漫画家だったの」
「店に来る客はうるさい奴ばっかりだから、あなたみたいな静かなタイプは新鮮」
そんな事を話していたように思う。
家に着くと、彼女は僕の絵を見て「本当に芸術家なんだね」って言ってくれた。
それがすごく嬉しかった。
誰かに認められた事なんて無かったから。
だから一瞬お酒を飲ませるのを躊躇ったんだ。
しかも彼女はただの酔っ払いで薬物中毒者じゃない。
でも、僕の世界観を気に入っているようだし、作品の一部になるならこの子は嬉しいんじゃないだろうか、そう思えてフェンタニルを混ぜたお酒を彼女に差し出した。
自ら死を招く液体に手を伸ばし、口を付ける。
少し尖らせた唇と、瞼を下げてコップを見る仕草がなんだか艶めかしくて、僕は目を奪われてしまう。
お酒を飲んでしばらくすると座ってるのも困難なくらいフラフラし出した。
背中を限界まで曲げて、何度もテーブルに頭を打ち付けている。
その度に照れたようにはにかんだ表情を浮かべていた。
自身の体が制御出来なくなってもなお、ただのお酒では無かった事に気付いていないのだろう。
その内、ギリギリ理解出来ていた言葉もただのうめき声に変わっていく。
その様子を見ているのはとても楽しかった。
僕が彼女の体を操っているように思えたから。
それに彼女も幸せそうだ。
口から涎を垂れ流しながら気持ち良さそうにうっとりしているんだ。クリムトの描く女性のように。
テーブルに頰をつけてトロンとした目で僕の事を見つめている。
僕の瞳に映る自分の姿を見ていたのかもしれない。
僕もテーブルに頰を付けて、彼女に微笑みを向けてみた。
すると彼女は口を小さく動かす。
“たすけて”と動かしたように見える。
僕は更に口角を上げて深く笑ってみせた。
彼女は今、どんな気持ちなんだろう。
しばらくすると呼吸が浅くなっていき、瞬きをしなくなった。
彼女がまだ生きているのか確認するために、スケッチの合間に首の脈を触って確かめた。
動かなくなってもまだ人肌の温かさがあって、脈も僅かに動いている。
閉じてしまった彼女の目を開いてみる。
まだ生きているからか、黒目が微かに動いた。
少しづつ、生命活動が鈍くなっていく。
目の前で1つの命が消え掛かっている。
僕が操作している。
彼女の全てを僕が握っている。
僕は自分が興奮しているのに気が付いた。
心臓を優しく圧迫されているような、淡い興奮。
砂時計の砂が落ちるように、今、ゆっくりと消えていく命の炎を見ているんだ。
…あと少し。
そして、彼女の脈は、完全に止まる。
僕は達成感に似た感覚のため息を漏らした。
そして一つの段階を終えて余韻に浸る間もなく、この後どうしようかと考えていた。
死体の朽ちていく様子を描いた『九相図』のように彼女の今後の変化を絵に収める事も考えたが、でも家の中が臭くなるのは嫌だし、表は時々人が通るからこのままにはしておけない。
だからオフィーリアを完璧に再現出来なくても、せめて川に浮かせよう、そう思ったんだ。
彼女を車に乗せて川の上流へと向かう。
縄を脇の下に通してそれを引っ張る形で山道を進む。
力の抜けた人間を引きずりながら滑りやすい地面を歩くのは思った以上に重労働で、僕は汗だくになった。
地面を擦り潰す音と僕の踏ん張る声が、暗く静かな森の中で響いている。
しばらく歩くと、程よく深くて近くに木がある適切な場所を見つけ、縄を首に縛り直した。
縄を木に結んだ後、服を引っ張って女の子の体を川に入れる。
川の中心部まで来ると、手に掛かる負荷が途端に軽くなった。
僕は曲げていた腰を伸ばし、彼女を見下ろす。
月明かりの優しい光に照らされた彼女は、髪や服が水流によって靡く様子を浮かび上がらせ、透明感のある黒い川からは血色を失った白い顔が浮いている。
初めて味わう恍惚感が体を駆け巡る。
運動の後の鼓動とは違う、とても心地いい心臓の高鳴り。
じわじわと体温が上がり、体の中が沢山の気泡を作って沸騰していくようだった。
淡く感じていた興奮は最高潮に到達する。
全細胞が逆立つような刺激。
僕は女の子の頰に触れると顔を近づけた。
とても愛おしく思えたからだ。
夜の微かな光を反射した水面が眩しく見える。
僕の高揚した気持ちがそう見せていたのかもしれない。
そして僕は彼女のおでこに優しくキスをした。
「射精はしなかったのか?」
大澤さんが聞く。
腕を組み眉間に皺を寄せながら、まるでこの前のお返しとでも言うように僕に投げかける。
「僕は、性的興奮を覚えました、でも生理的な物ではないので、射精はしてません」
「なんだそれ、本当かよ」
「大澤さんは、女性とセックスした事、ないでしょ?」
「…だからどうした」
「僕もそうです、大澤さんは、妹さんの事が頭を過るから、でしょ?」
「…」
「僕は、母が過るからです、子供の頃に、何度も行為を見せられていたので」
僕が女性に対する感情はとても複雑だ。
花や蝶のように美の象徴と捉える事があれば、嫌悪感を抱く時もある。
少なくとも恋愛対象でも性の対象でもない。
「…2人目、3人目の犠牲者の事を聞く前に、一つ確認したい事がある」
少しの沈黙の後、大澤さんが口を開いた。
「繁華街での女性暴行事件もお前がやったのか?」
あぁ、来た、聞かれたく無い質問だ。
嫌だな、だって、女の子を殴るなんて、僕らしく無いからあまり言いたくない。
でも、“約束”だもんね。
「…はい、僕がやりました」
「きっかけは何だ?」
「きっかけ?」
「手を出すようになった、きっかけ」
そう聞かれた僕は口から息を吸い、天井を端から端まで見渡した。
机の下に隠した手の、親指の皮をカリカリと掻いて剥いでいく。
「……イイコイイコ、されたから、です」




