叫び
「…俺には妹がいた」
3つ下で、名前は恭子。
甘えん坊で幼い頃から“にぃに”と呼びながら俺にくっ付いて来て、中2になっても俺の事をにぃにと呼んでいた。
思春期真っ只中で愛想を無くしていく俺とは反対に、恭子は成長しても変わらず“素直な良い子”だった。
俺が母親に反抗して喧嘩が始まると恭子はいつも俺達の仲裁に入る。
「うちの裕子になんて事言うの?撤回しなさいよ」
そう言って俺の腹に抱きついて行く手を阻んだりして、家の空気を柔らかく変えていた。
俺達家族が金属だとしたら恭子はそれをまとめる磁石のような存在。
恭子が居るだけで、家の中が明るくなり、各々の在るべき居場所を得る事が出来た。
そんな恭子はおっとりした性格で、良く変質者を引き寄せていた。
通りすがりに卑猥な事を言われたり、露出狂に遭遇したり、電車では痴漢に狙われないように通学中は俺が背後に立って守っていた。
「もぉ、にぃには警察になって私に絡んでくる変態を捕まえてよ」
良く、口癖のように言っていた。
その度に俺は「自分の身は自分で守れ」なんて言いながらも、本当は頼られているのが嬉しかった。
ある日、恭子は7時を過ぎても帰って来なかった。
塾の帰りは迎えを呼ぶように言っても「お母さんもパートで疲れているから」と言って暗い中を歩いて帰ってくる事は良くあった。
でもこの日は携帯に電話しても反応がない。
そのうち父親が帰って来て、「ひょっこり帰って来るだろう」と言って上着を脱いで寛ぐ。
3人とも、いつものパターンである事を信じていたんだ。
飯食って風呂入っていつも通りに過ごす。
まだ、恭子は帰ってこない。
きっと寄り道してるんだ、そう言いながらも家の中の空気が少しづつ張り出し、ザワザワと毛羽立つような感覚が胸に広がっていく。
もうすぐ9時になる。
母親は色んなところに電話して恭子を探す。
父親は塾のルートを辿るため外に出た。
「俺も行って来るよ」
俺は懐中電灯片手に外へ出た。
塾までは人も車も多い大通りを通るのだが、ここは父親も通っている。
俺は1区間逸れた道を行ってみた。
工場と倉庫の並ぶ工業団地。
表に人通りは無いが、24時間稼働している工場は灯りが着いていて、尾を引く機械の音が外まで響いている。
きっと塾の友達と立ち話してるんだろう、帰ったら説教しないと。
スッキリしない気持ち悪さが込み上げるのを誤魔化すように、そんな風に考える。
だが呼吸が重くなって心臓が鈍く動いていた。
俺は道路の横に流れる、用水路のフェンスに沿って歩いた。
工場から漏れる鉄を打つ音と微かな光以外、何も無い道。
懐中電灯の明かりが、道に落ちている小さな物を照らし出す。
駆け寄って拾い上げると、それは恭子のスクールバッグに付いていたうさぎのストラップだった。
懐中電灯を左右に動かし、辺りを照らす。
フェンスの向こうに何か違和感を覚え、用水路を照らすと、人らしき物を捉える。
ゾワっと体が一気に冷え、足が一瞬感覚を失う。
下まで降りられるタラップが設置してある所まで戻り急いで川の中に入った。
気が咳き込み、懐中電灯が手から滑り落ちる。
視界の両脇にはコンクリート製の壁が立ちはだかり、夜を溶かしたような真っ黒な水が流れている。
水流に逆らい、さっき見た何かまで向かって行く。
近づくとそれは、セーラー服姿の髪を一つに束ねたうつ伏せの、誰か、だった。
視界が滲む。
手の腹で湧き上がる涙を拭う。
異様に重たく感じる水圧に、体が思うように進まない。
「…ぅこ…嫌だ…」
ほぼ無意識に言葉が漏れた。
無機質な物のように動かず、ただそこに居る“誰か”まで辿り着く。
跪いて腿まで水に浸かると、肩に手を置いて体をひっくり返す。
「き、ょ…」
顔を見た瞬間、気道が塞がり、息が止まる。
必死に冷静さを保とうとするも、震える口から出た空気と共に涙が溢れ出す。
恭子の服は引き裂かれあられも無い姿に俺は慌ててパーカーを脱いで恭子に掛けた。
「…きょう…こ、きょう、こ、起きろ、動いてくれ…」
窄まった喉が開き切らず、上手く声が出ない。
半開きの口に絡まった水草を取り除きながら何度も名前を呼んだ。
恭子の顔は所々赤黒く、殴られた跡があった。
額から流れる血が目に入りそうになり、シャツでそれを拭き取る。
うっすら開ている目は夜空を見上げているみたいで、そこに魂があるようには見えなかった。
「恭子、起きろ、恭子っ!」
冷たくて、ボロボロで、動かない、揺すってもぷらぷらするだけの、妹。
まだ人間の重みを残した恭子の体を抱きしめる。
だが、恭子の体が再び温まることはなかった。
家の中から光が消えた。
ガタンという音が定期的に聞こえるようになった。
母親が立ち上がろうとして失敗する音だ。
最初は俺も父親も駆け寄って支えていた。
でもその内、行かなくなった。
いや、行けなくなったんだ。
みんなギリギリで、息をするのが精一杯だった。
暗い中、電気も付けず、ダイニングの椅子で背中を丸めて座る母親の後ろ姿を何度も目にするようになった。
その背中は日に日に細く、小さくなっていく。
暗い室内はまるで墨汁のような夜の川に沈められているみたいだった。
暗くて冷たくて息苦しい。
恭子がいなくなって、この家に光は永遠に届かないように思えた。
程なくして逮捕された犯人は工業団地の近くに住む、歯が数本しか無いホームレスのジジイだった。
酒に酔い、目をギラつかせながら意味不明に怒鳴っては通行人に絡む鼻つまみ者。
そいつは常に獲物を探していたんだ。
恭子もきっと、目を付けられて、大きな声で怒鳴られて、萎縮して、逃げられなかったんだ。
どれほど怖い思いをした事か…。
そいつはまともに会話出来る人間では無く、刑事責任能力無しで刑罰を受けなかった。
それを聞いた俺は発狂するかと思った。
でもこれ以上親に心配掛けたく無い、これ以上苦しめたく無い、その思いでグッと堪え、表向きは平静を装った。
しかし部屋で1人になると恭子がされた事や、あのジジイがなんの罰も受けないという事実が頭を占領し、狂ったように怒りが湧き、煮え繰り返った腹わたは喉を刺激して何度も吐いた。
そして俺は枕に顔を埋めて何度も叫んだ。
「ぶっ殺してやる、って」
白石は視点を定め、真っ直ぐ俺を見ている。
だから俺も目線を逸らさず白石を見た。
静かすぎる室内は、鏡の向こうに居る人の呼吸さえ聞こえて来そうだった。
「妹さんの、死因は?」
白石が堰を切った。
「頸部圧迫による窒息死だ」
「…首?手、で?」
「そうだ」
そう返事をすると白石は目の焦点が宙を漂い、何か考えているようだった。
「どっちが、先だったんですか?」
「何が?」
「先に殺されたのか、先にレイプされたのか」
グッと奥歯を噛み、こめかみを張らせる。
「…どっちが先でも、妹の感じた恐怖は変わらない」
「死んだ後だったら、救いがあるように感じる」
「ねぇよ」
「親御さんもきっと、そう感じると、思います」
腕を力一杯握りしめて、気を散らす。
こいつのペースに飲まれては駄目だ。
「…お前に何が分かる…」
「月は、出てましたか?」
「は?、知らん、覚えてない」
「星は?」
「そんなん覚えてない」
「股から、血は流れてましたか?」
「…………は?」
「僕は、妹さんの絵を、描きたくなりました」
「きっと、素敵な絵になる」
「暗い夜に、ポツンと浮かぶ血まみれの、セーラー服の、女の子」
「僕も、見たかったな」
白石は目を細める。
脳が膨らんで
破裂しそうだ
俺は目一杯反らせた握り拳を白石に向かって思いっ切り振り下ろした。
白石は衝撃に抗う事なく椅子から転げ落ちる。
「お前に何が分かるっ!」
「ふざけんなっ!!」
ぶっ殺してやる
すぐに扉が開き、複数の手が伸びて来る。
「お前みたいな人殺し、あのジジイと変わんねぇんだよっ!」
背後から伸びてきた何本の手が体に食い込む。
その手から逃げるように、体を前のめりにさせて叫んだ。
「クソがっ!!」
「お前みたいな変態はみんな死ねっ!」
「とっとと死ねぇぇぇぇ!!!」
ぶっ殺してやる
白石は手の平に血溜まりを吐き出した。
血と一緒に出て来た歯に触れると嬉しそうに頰を上げる。
曲げた背中を上下させると白石は笑い出した。
乱れた髪の間から赤く染まった歯を見せながら満面の笑みを俺に向ける。
あの時のような気味の悪い笑い声。
怒りで膨らんだ脳が血管が全細胞が
破裂する
「ぶっ殺してやるーうあぁぁぁ!!!」
怒りが体の末端まで浸透し暴れる俺は、皆んなに抱えられながら部屋を出た。
俺の喚き声を突き抜けるように響く白石の笑い声は、廊下の空気まで振動させていた。




