蝶
神崎くんとの再会はとてもドラマチックだった。
けど、最初は彼だと気付かなかったんだ。
深夜、人通りの少ない路地で彼は息を切らして立っていた。
足元には背中を丸めて地面に横たわる女性がいる。
上半身を伸縮させるも、立ち上がる気配は無く、服は乱れ靴は脱げていた。
暗闇の中、真っ黒な服を着た彼は警戒と狂気を孕んだ野生動物のような目が微かな光の中に浮かび、その姿にはゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』が浮かんだ。
その暗闇の中のサトゥルヌスは僕と目が合うと気怠そうにため息を吐いた。
横たわる女性の上を跨いぐと、僕に向かって来る。
殴られるか殺されるのかと思いながらも、体が動かず、息を止めながらその姿を見ていた。
だが意外な言葉が聞こえて、僕は拍子抜けしてしまう。
「淳?…お前、白石淳だろ?」
名前を呼ばれるのなんて、何年振りだろう。
僕は口をぽかんと開けて、僅かに色を認識できる薄明かり中に黒い穴を開けたかのような人影に目を凝らした。
「俺だよ、司、中山…じゃなくて神崎司だよ」
神崎くんはキャップを外すと僕に顔を見せた。
その頰には横切るように飛んだ形状の返り血が着いている。
人を殴った後とは思えない程の爽やかな笑顔だった。いや、殴った後だったからか。
「神崎、くん」
曖昧な子供の頃の記憶の中で、神崎くんの事は良く覚えていた。
初めて出会った僕と“同じ人間”で、彼の何気ない言葉で僕は希望を持つ事が出来たんだ。
彼の背後には静かに横たわる女性が姿を覗かせている。
彼女の物と思われるバッグからはあの電子タバコが飛び出ていた。
僕は神崎くんが何をしていたのかをすぐに理解した。
なんだかすごく嬉しくなって、気付くと僕は微笑んでいた。
僕達は街が一望できる展望丘で、夜景を見ながら近況を報告しあった。
今何をしているのか、何処に住んでいるのかなど、20年分の空白には目もくれず、2人の“今”を確認しあう。
「あいつらラリってるから痛くねぇんだよ、でも起きた時に一気に痛みが来るだろうな、そんで鏡で自分の顔を見てきっと目が覚める、薬やってた事を後悔すりゃいいんだ」
神崎くんはそう言ってオレンジ色の火種を吸い寄せると夜空に向けて煙を吐いた。
彼の言葉は他人事のようで、でもそれは冷めた現実でもある。
「僕より、残酷な思考だね」
僕がそう言うと神崎くんはふ、と笑う。
「なんだよ、じゃあお前のを聞かせろよ」
そう言われた僕は、来た、と言わんばかりに胸を弾ませた。
誰かに話すなんて思いもしていなかったから、頭の中で練っていた創作計画を打ち明けるのはとても嬉しかった。
彼なら分かってくれる、そう思っていたんだ。
しかし、神崎くんの反応はあまりいい物ではなかった。
「すぐ捕まるし、逃げきれない」
彼はそう断言した。
「逃げ切るつもりはないよ、捕まる事も覚悟の上だ、僕は一度しか無い人生で何かを残したい、こんなにもワクワクしているのに、頭の中だけに収めたくないんだ」
そう言うと彼は「…相当だな」と呟いた。
その後も僕は自分の作りたい芸術品に関しての詳細を彼に話した。
しかし神崎くんは職業で得た経験やスキルを基に、僕のやろうとしている事のリスクを突いて否定をしてくる。
でも、彼はそんなの止めろ、とは言わない。
むしろ僕に改善策や専門的な知識を教えてくれるのだ。
彼のその姿勢に、僕は賭けをしてみた。
丘を登るように設置された階段の手摺りに腰掛けていた神崎くんの前に出ると、核心に触れてみる。
「神崎くんの事、秘密にするから、少し手伝って欲しい」
「…」
彼は目を逸らし、煙草を咥える。
「…俺とお前は互いを知らない赤の他人で、薬中女を殴っていたのはお前って事にするならその取引を受ける」
僕は満面の笑みで頷いた。
だって、僕には何の損もない条件だったから。
「交渉成立だね」
そう言って僕は小指を立てると神崎くんはペチンと僕の手を平手打ちした。
そっか、もう大人だから指切りはしないのか。
自分とほぼ同体重の人間を引きずるのは、手の爪が反り剥がれてしまいそうなほど力を要した。
でも、すっと軽くなるんだ。
神崎くんが手伝ってくれると。
オフィーリアの運搬が終わると、彼は何も言わずに車に戻って行く。
服が濡れるのが嫌なんだろう。
神崎くんは僕が捕まった時の事を心配してちょっとした抜け道を教えてくれた。
“手帳持ち”だから話の通じない人間のフリをすれば刑罰を受けない可能性や、女の子の所持品などを燃やして証拠隠滅すれば、証拠不十分で弁護士が無罪を主張する可能性を教えてくれた。
「また絵が描きたいならそうしろ」
彼は、そう僕を気に掛けてくれたんだ。
それなのに、ごめんね、神崎くん。
君との約束は守れたけど、君から貰ったアドバイスは全部無駄にしちゃったよ。
でも、いいんだ、これで。
「あの、お手洗い行きたいです」
「え、あぁ、はい」
またか、って思ったんだろうね、つい10分前にも行ったばかりだから。
だってこの人の取り調べはとてもつまらないんだもの。
大澤さん以外の人との会話は退屈だ。
トイレに着き、付き添いの警官に背を向けると僕は個室に入った。
個室の小さな窓からは外の様子を伺う事が出来る。
小さな窓枠が額縁の役割を果たして青空を切り抜いて飾っているみたいだ。
ふと、蝶が姿を現す。
黄色の小さなモンシロチョウ。
額縁の右下からヒラヒラと現れ、自由に飛び回っている。
ヒラヒラというより小さく飛び跳ねながら浮遊しているように見えた。
すごく楽しそうだ。
その蝶は額の外へと姿を消す。
僕は口の中に手を入れて奥歯を1つ、抜いた。
これはお気に入りの歯なんだ。
本物そっくりのその被せ物は中が空洞になっていて、その小さな“箱”の中にはビニールでグルグルに巻いた物を詰め込んでいる。
そのビニールを解いて行くと、中には白い粉が入っている。
入手したその日に、歯の中に詰めていたんだ。
いつでも使えるように。
僕はその粉を舌先に着けて口の中へと運んだ。
味はなく、少し苦いだけだった。
女の子達が気付かない訳だ、こんなにも無味無臭なんだもの。
便座に座り、背中をタンクに預けた。
足を伸ばして肩の力を抜くと、先ほどの蝶を思い浮かべながら目を閉じる。
ふわりとそよ風が吹いて前髪を揺らす。
背中がゾクっとする冷気が流れ、僕は思わず目を開けた。
すると、目の前には青空が広がっていた。
視界の端には木々の緑も見える。
体を優しく掠める水流を感じる。
あぁ、綺麗だ、
やっと見れた。
夜の景色しか見た事なかったからずっとミレーの描いた昼の情景を見たいと思っていたんだ。
腰からゆっくりと沈んでいく。
呼吸が荒くなっていき、水に波紋を作ってしまいそうなほど心臓が激しく脈打っていた。
でも、心地いい。
僕は歌を口ずさんでみた。
オフィーリアのように。
「ゆーびきりげんまん」
僕の知っているのはこれしかない、歌でもない。
顔が沈み始め、口を閉じた。
耳の産毛に一本づつ、水が浸透していく。
体が川底へと向かっていく。
やがて全身が沈み、
水中から見た水面の光が、弱くなっていく。
こんなに穏やかで美しい最期で良いのだろうか。
ねぇ、母さん、
僕は地獄行きだと言うのにね。




