責任の重みは、いつも後から~彼女に甘えていたら責任を取らされた~
あらすじ:
腐れ縁の直人と美穂は、言葉を交わさぬまま肉体関係を持つ事実婚状態。直人は美穂の献身に甘え、プロポーズを避けロンドン旅行を計画。一方、直人に未来の夫の責任を期待する美穂は、妊娠を確信し激怒する。正月、美穂は手錠で直人を拘束し、婚姻届と被害届の二択を突きつける。優柔不断なヘタレ男が、愛と支配の鉄槌によって強制的に責任を負わされ、大人への痛々しい一歩を踏み出す物語。
登場人物:
直人:美穂の憧れに怯える優柔不断なヘタレ男。責任回避が口癖。
美穂:勝ち気な明るさの裏に支配欲を秘めた、未来の夫を狙う女。
### 第1話:無言の婚約と、支配の口癖
生まれた時から、隣にいるのが当たり前だった。
物心ついた頃には、俺、相沢直人の手は、いつも幼馴染である坂本美穂に引かれていた。春には桜並木を、夏には蝉時雨の降り注ぐ坂道を、秋には落ち葉の絨毯を、そして冬にはかじかむ指先を温めるように。季節が巡るたびに繰り返されるその光景は、俺たちの関係そのものを象徴していたように思う。常に前を歩く美穂と、その背中を追いかける俺。二十年近い歳月は、その距離をセンチメートル単位で縮めはしたものの、関係性の本質を何一つ変えはしなかった。
都内の私立大学に通う俺のワンルームマンションで、美穂はまるで自分の部屋であるかのように寛いでいた。艶のある黒髪を揺らしながら、手際良く朝食の準備を進めている。フライパンの上でベーコンが立てる小気味良い音と、香ばしい匂い。トースターから飛び出したばかりのパンにバターを塗りながら、美穂が独り言のように呟いた。
「ねえ直人、あんたの貯金、そろそろそこそこの額になってるんじゃないの?通帳、私によこしなさいよ」
「はあ?なんでだよ」
ソファに深く身を沈め、マグカップのコーヒーをすすっていた俺は、思わず眉をひそめた。特徴のないカジュアルな服装に身を包んだ俺とは対照的に、美穂は部屋着でさえ質の良さを感じさせるものを身につけている。切れ長の瞳が、鋭い光を放ちながらこちらを射抜いた。
「決まってるでしょ?私のものは私のもの、あなたのものも私のもの。いい?私はあなたのものなんだから、何の問題もないでしょう?」
それが、美穂の口癖だった。
幼い頃、俺が買ってもらったばかりの玩具を彼女が欲しがった時から、ずっと変わらない論理。それはまるでジャイアンのようだと、口には出せないがいつも思う。しかし、その言葉が孕む絶対的な支配の響きは、不思議と俺に不快感よりも、奇妙な安堵感をもたらしていた。
この口癖は、俺たちの間に存在するあらゆる問題を覆い隠す、魔法の呪文だった。
美穂が俺の所有物であるという宣言。そして、俺もまた彼女の所有物であるという事実の確認。その論理の前では、俺たちの関係を定義するための面倒な言葉、例えば「好きだ」とか、「付き合ってほしい」といった類の一切が、その必要性を失うように思えた。二十年近い歳月が積み上げた「信頼」という名の地層は、あまりにも厚く、固すぎた。今さら、その地盤を掘り返してまで、関係の礎に眠る感情の名前を確認する必要などない。俺はそう、自分に言い聞かせてきた。
彼女の言葉は、責任を伴う明確な決断から逃げ続けたい俺にとって、この上なく都合の良い免罪符だったのだ。
美穂が俺の女であることは、自明の理。だから、言葉はいらない。
この甘えが、後に取り返しのつかない事態を招くことになるのを、この時の俺はまだ知らなかった。ただ、淹れたてのコーヒーの温かさが、手のひらに心地よく広がるのを感じているだけだった。
ほかほかの湯気が立つスクランブルエッグと、完璧な焼き加減のベーコンが乗せられた皿が、ローテーブルの上に置かれる。その隣には、こんがりと焼かれたトースト。バターの甘い香りが、部屋中に満ちていく。
「ほら、さっさと食べなさい。冷めるでしょ、このヘタレが」
美穂は俺の向かいに腰を下ろすと、自分の分のトーストを手に取った。その仕草の一つ一つが、あまりにも自然で、日常に溶け込んでいる。彼女がこの部屋に入り浸るようになって、もう二年近くが経つ。それは事実上の半同棲状態と言ってよかったが、俺たちはその事実について、一度も言葉を交わしたことがなかった。ただ、なし崩し的に、当たり前の風景として受け入れていただけだ。
俺は差し出された皿に視線を落とす。完璧な朝食。俺が何も言わなくても、美穂は俺の好みを知り尽くしている。それは、まるで長年連れ添った夫婦のような、無言の阿吽の呼吸だった。
「……うまい」
口に運んだスクランブルエッグは、絶妙な半熟具合で、バターの風味が口いっぱいに広がった。俺の掠れた称賛の言葉に、美穂は満足げに鼻を鳴らす。
「当たり前でしょ。誰が作ってると思ってるのよ」
その勝ち気な横顔を、俺は盗み見る。陽の光を浴びて、彼女の黒髪がきらきらと輝いていた。綺麗だ、と思う。昔からずっと、俺にとって美穂は眩しい存在だった。何でもできて、誰からも好かれる、憧れの対象。そんな彼女が、なぜかいつも俺の隣にいて、世話を焼いてくれる。その事実が、俺の臆病な自尊心を静かに満たしていた。
だからこそ、怖いのだ。
もし、俺が「けじめ」をつけようと踏み出した瞬間、この完璧な日常が、ガラス細工のように脆くも崩れ去ってしまったら?もし、彼女の真意を確かめようとして、「そんなつもりじゃなかった」と幻滅されたら?その恐怖が、俺の喉元に突きつけられたナイフのように、決定的な言葉を封じ込めていた。
現状維持。それが、俺が選び続けてきた、最も楽で、最も卑怯な選択肢だった。
「まあ、いいか」
俺は、責任を先延ばしにするための、もう一つの口癖を心の中で呟く。そして、目の前の完璧な朝食を味わうことに集中するふりをした。美穂の切れ長の瞳の奥に、ほんのわずかな苛立ちと、それを上回る深い愛情の色が浮かんでいることにも気づかないまま。信頼と誤解の螺旋は、もう既に、ゆっくりと回り始めていた。
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### 第2話:良家の期待と無言の圧力
俺と美穂、相沢家と坂本家は、三代にわたる付き合いだった。
祖父の代が共に興した事業は今や業界でも確固たる地位を築き、その成功の証として建てられた屋敷は、高い塀を隔てて隣り合っている。子供の頃、俺にとって坂本家の庭は自分の庭の延長であり、美穂の部屋は隠れ家の一つだった。そんな環境で育てば、互いを特別な存在だと意識するのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだったのかもしれない。
しかし、その「特別」は、いつしか「当たり前」という名の重たい鎖に姿を変えていた。
特に、俺たちが高校を卒業し、エスカレーター式に同じ大学の門をくぐった頃から、その鎖は目に見えない重みを増し始めた。親族が集まる席で交わされる会話の端々に、俺たちの未来を規定しようとする無言の圧力が、粘り気のある空気のように纏わりつくようになったのだ。
それは、伝統と家柄を重んじる一族特有の、「けじめ」という名の期待だった。
大学卒業、そして大手メーカーの子会社と優良企業への就職。人生の大きな節目を目前にした俺たちに、周囲の大人たちは、まるで熟した果実が木から落ちるのを待つかのように、静かな、しかし有無を言わせぬ視線を注いでいた。早く身を固め、大人としての自覚と責任を持つこと。彼らにとって、俺と美穂の婚約は、二十年近い腐れ縁がたどり着くべき唯一のゴールであり、両家の盤石な関係を次世代へと引き継ぐための、神聖な儀式ですらあったのだ。
年明け、雪のちらつく元旦に行われた本家での新年会。金屏風の前に一族が居並ぶ光景は、時代がかっているが相沢家では毎年恒例だった。屠蘇の香りと、上等な和服が擦れる微かな音。その厳かな雰囲気の中で、伯母が穏やかな笑みをたたえながら、俺の肩を軽く叩いた。
「直人も、春からはもう社会人なのね。あっという間だわ。これからは、しっかり美穂ちゃんを支えてあげないと」
その言葉は、祝福の形をとりながらも、鋭い楔のように俺の胸に打ち込まれた。周囲の大人たちが、そうだそうだと頷き、温かい眼差しを俺と美穂に交互に送る。その視線の集中砲火に、俺は息苦しささえ覚えた。
隣に座る美穂は、頬を微かに赤らめながら、「もう、おば様ったら、気が早いですわ」と、完璧な淑女の笑みで応じる。しかし、その切れ長の瞳の奥には、勝利を確信した女王のような、揺るぎない光が宿っていた。彼女のその態度が、俺をますます絶望的な気分にさせる。誰もが、俺たちが結ばれる未来を、一片たりとも疑っていない。その盤石な期待が、俺という一個人の意思や感情を無視して、巨大な城壁となって逃げ道を塞いでいく。
この息の詰まるような期待を、美穂がどう感じているのか。
考えるまでもなく、彼女こそが、その期待の体現者だった。彼女は周囲の圧力を苦痛と感じるどころか、むしろ自らの野望を後押しする追い風として、巧みに利用していた。彼女にとって、俺との婚姻は、単なる恋愛の成就ではない。それは、坂本家の長女として、そしていずれは相沢家の嫁として、その血統と家柄に課せられた責務を全うするための、「けじめ」という名の聖戦なのだ。
ある日の夕暮れ。講義を終えた俺の部屋に、当たり前のように美穂はいた。西日が差し込む部屋で、彼女はファッション雑誌のページを熱心にめくっている。上質な紙の匂いと、彼女から漂うフローラル系の香水の香りが混じり合い、甘く重い空気を生み出していた。
「そういえば、直人の就職先、うちの会社と同じ業界よね。先日、うちのお父様も喜んでいらしたわよ。これなら結婚してからも何かと安心だって」
その声は、あくまでも何気ない世間話のトーンだ。視線は誌面に並ぶ高級ブランドの新作バッグに注がれたまま。だが、その言葉の節々には、俺の人生という駒を、彼女が描く未来の設計図の上に、当然のように配置している響きがあった。
「ああ、まあ……偶然だよ、そんなの」
「偶然でもいいのよ。大事なのは結果。そういう巡り合わせだったってこと。……ねえ、見て。このバッグ、素敵じゃない?卒業旅行に持って行きたいわ」
「卒業旅行?」
俺は、思わず間抜けな声で聞き返した。彼女の思考は、いつも俺の想像の数歩先を行く。その軽やかで大胆な跳躍に、俺の鈍重な心は振り落とされそうになる。
「そうよ。私たち、まだまともな旅行なんてしたことないじゃない。学生最後の思い出作りよ。どこか遠くへ行きましょう。ロンドンとか、どうかしら」
ロンドン。具体的な地名が、現実味を帯びた杭となって俺の思考を縛り付ける。俺は言葉に詰まった。旅行そのものが嫌なのではない。そのイベントが持つ「意味」の重さに、足がすくむのだ。卒業旅行、婚前旅行、そして……プロポーズ。彼女の頭の中では、きっとそこまでストーリーが出来上がっているに違いない。
「……金、かかるだろ、そんなの」
ようやく絞り出した、あまりにも矮小で、情けない抵抗の言葉。それを聞いた美穂は、ぱたんと雑誌を閉じ、心底呆れ果てたというように、冷ややかな視線を俺に向けた。
「だから、昨日言ったでしょう?あんたの貯金と、私の貯金を合わせれば、十分行けるって。それはもう、私たちの『共有財産』なんだから。理解できない?」
出た。彼女の絶対的な論理だ。
俺が汗水垂らして稼いだアルバイト代も、彼女の手にかかれば、いとも容易く「私たちのもの」に変換される。その思考の根底には、両家の期待という名の強固な土台があり、もはや誰にも揺るがすことのできない真実として、彼女の中に君臨していた。俺の財産は、未来の夫の財産。その使途決定権は、未来の妻たる彼女にある。あまりにも暴力的で、あまりにも身勝手な理屈だ。
しかし、俺はそれに正面から反論することができない。なぜなら、俺の心の最も臆病な部分が、彼女のその自信に満ちた瞳の奥に、抗いがたい光を見てしまうからだ。「あなたのためを思って言っているのよ」という、歪んでいるが純粋な善意と、疑いようのない愛情の色を。
彼女の献身と支配。それは、俺が自分を大切にしている証拠なのだと、美穂は微塵も疑っていない。そして、その揺るぎない確信こそが、俺の曖昧な態度を許容し、同時に、言葉による責任表明を無限に先延ばしにさせている元凶でもあった。
「まあ、いいか……」
俺は再び、思考を放棄するための呪文を、誰に聞かせるともなく呟いた。そして、彼女が再び開いた雑誌の、ロンドンの美しい街並みの写真に、無理やり視線を固定した。ビッグ・ベンの荘厳な姿とは裏腹に、俺の心象風景には、鉛色の重い雲が垂れ込めていく。このままではいけない。そう警鐘を鳴らす理性の声は、現状維持という心地よい沼の底へと、無残にも引きずり込まれていく。
そのヘタレな精神構造が、美穂の支配欲をさらに強く、そして確実なものへと育て上げ、物語を破滅的な結末へと、刻一刻と近づけていることに、この時の俺はまだ、気づいていなかった。
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### 第3話:半同棲と事実婚の錯覚
大学二年の夏休み、じりじりとアスファルトを焼く太陽がようやく勢いを失い始めた頃だっただろうか。美穂による、俺の生活空間への侵略が始まったのは。それは当初、歯ブラシや洗顔フォーム、化粧ポーチといった、バスルームの片隅に置かれたささやかな私物という形をとっていた。俺も特に気に留めることはなかった。幼馴染が泊まりに来た翌朝の、ありふれた光景。その程度の認識だった。
しかし、その侵略は、まるでゆっくりと満ちてくる潮のように、静かに、しかし着実にその領土を広げていった。秋風が吹き始める頃には、クローゼットの半分は、彼女の季節ごとの衣類——質の良いブランドのワンピースや、肌触りの良さそうなニット——によって占拠されていた。冬を迎える頃には、俺が乱雑に漫画や教科書を詰め込んでいた本棚の一角が整然と整理され、そこには彼女好みの古典文学や、最新のベストセラー小説が上品な背表紙を並べるようになっていた。
そして決定打となったのは、年が明けてから運び込まれた、本格的な調理器具一式だった。俺が元々備え付けていた、一人暮らし用の貧弱な片手鍋やフライパンは、いつの間にかキッチンの隅へと追いやられ、代わりに、美しい輝きを放つステンレス製の鍋のセットや、切れ味の鋭そうな包丁、多機能なフードプロセッサーなどが、まるで最初からそこにあったかのように鎮座していた。俺の六畳一間のワンルームマンションは、もはや俺一人の城ではなく、完全に二人の生活空間へと変貌を遂げていたのだ。
彼女がこの部屋に、女王のように君臨するようになって、もう二年近い歳月が流れようとしていた。平日の夕方、大学の講義を終えた美穂は、駅前の高級スーパーで吟味して選んだであろう食材の詰まったエコバッグを提げ、まるで長年連れ添った妻が我が家に帰るかのように、慣れた手つきで俺の部屋のドアを開ける。
「ただいま。直人、またそんなところでゴロゴロして。少しは片付けたらどうなの」
その声には、母親のような響きと、それ以上の有無を言わせぬ支配者の響きが同居していた。俺がソファで怠惰にスマートフォンをいじっている間に、彼女は上着を脱ぎ、エプロンを身につけ、手際よく夕食の支度を始める。
キッチンから聞こえてくる、ト、ト、ト、という小気味良い包丁の音。じゅう、とフライパンの上で肉が焼ける香ばしい匂い。そして、時折、俺の好物を作る楽しさを隠しきれないかのような、微かな鼻歌。その全てが、俺の日常という名のタペストリーに、完璧な模様として織り込まれてしまっていた。
それは、世間一般で言うところの「半同棲」という言葉では生ぬるい、まさしく「事実婚」と呼んで差し支えない生活だった。にもかかわらず、俺たちは、この歪で、しかし居心地の良い関係の本質について、ただの一度たりとも真剣に言葉を交わしたことがない。なし崩し的に始まり、なし崩し的に継続しているこの奇妙な共同生活を、ただ、当たり前の風景として、無言のまま享受し続けているだけだった。
そして、認めなければならない。この生活は、俺にとって驚くほど快適だった。
朝、スマートフォンのアラームが鳴るより先に、俺はいつもキッチンから漂ってくる出汁の香りで目を覚ます。寝ぼけ眼のままリビングに行けば、そこには湯気の立つ完璧な和食の朝食が用意されているのだ。俺の好みを完璧に把握した、少し甘めの出汁巻き卵と、焼き加減が絶妙な鮭の塩焼き。ふっくらと炊き上がった白米に、具沢山の味噌汁。
夜、最終講義やアルバイトで疲れ果てて重い足取りで帰宅すれば、玄関のドアを開けた瞬間に、温かい家庭料理の匂いが俺を出迎える。栄養バランスが完璧に計算された、しかし決して手抜きではない心のこもった料理が、いつも待っている。週末にまとめて洗濯されたシャツは、皺一つなくアイロンがかけられ、綺麗に畳まれてタンスに収められている。いつの間にか散らかっているはずの部屋は、常にモデルルームのように清潔に保たれていた。
美穂の献身は、神がかっているとさえ言えた。彼女は、まるで未来の完璧な妻になるための予行演習でもしているかのように、俺の身の回りの全てを完璧に管理し、最高の生活空間を創造してくれた。その甲斐甲斐しい姿を目にするたび、俺の心は、熱い湯が張られたバスタブにゆっくりと身を沈めていくような、抗いがたい弛緩と快感に満たされていくのだった。
「なあ、美穂。今日の夕飯、なに?腹減った」
ある日の午後、ソファに寝転がり、ゼミのレポートそっちのけで漫画を読んでいた俺が、キッチンに向かって大声で尋ねた。エプロン姿の美穂が、お玉を持ったまま、心底呆れたという顔で振り返る。
「あんたは本当にそればっかりね。今日は豚の生姜焼きよ。駅前の精肉店で、タイムセールの良いお肉が手に入ったから」
「お、マジか!やったぜ、美穂様!」
俺が本心から、子供のようにはしゃいでみせると、彼女は「まったく、このヘタレが」と、いつもの憎まれ口を叩きながらも、その口元には、隠しきれない満足そうな笑みが浮かんでいた。彼女は、俺に尽くし、俺がそれに喜ぶことに、至上の喜びを感じている。そして、俺はその献身を、何の罪悪感も、何の疑問も抱くことなく、ただひたすらに享受していた。
この無言の共犯関係。それこそが、俺の優柔不断な魂を蝕む、甘い毒だった。
彼女がこれほどまでに尽くしてくれるのだ。俺が言葉にしなくても、俺の心の奥底まで全てを理解し、その上で丸ごと受け入れてくれているのだ。だったらもう、今さら「好きだ」とか「結婚しよう」とか、そんな陳腐で気恥ずかしい言葉で、俺たちの関係を確認する作業など不要ではないか。俺たちは、何も言わなくても、魂のレベルで分かり合えている特別な二人なのだ。
その確信は、日々のあまりにも快適な生活の中で、疑う余地のない絶対的な真実として、俺の精神に深く、そして抜け落ちない杭のように打ち込まれていった。
言葉による責任からの逃避。その卑劣な行為を、俺は「二十年近い信頼」という、聞こえの良い言葉に巧みにすり替え、自分自身の怠惰と臆病さを正当化し続けていたのだ。
そう、本当はただ、怖いだけなのだ。美穂という、太陽のように眩しく、決して手に入らないと諦めていた憧れの存在を、自分の不確かな言葉で縛り付けてしまうことが。そして万が一、その言葉が拒絶された時、この完璧で甘美な日常が、ガラス細工のように音を立てて砕け散ってしまうことが。
食卓に並べられた生姜焼きは、想像を絶するほど絶品だった。甘辛い特製のタレが、柔らかい豚肉とシャキシャキの玉ねぎに完璧に絡みつき、炊きたての白米を無限に胃袋へと誘う。その悪魔的な美味しさに、俺は我を忘れて箸を進めた。向かいの席で、美穂がそんな俺の姿を、まるで愛しいペットでも眺めるかのように、慈愛に満ちた、それでいてどこか見下すような瞳で眺めている。
食事が終わると、彼女は当然のように食器を片付け、キッチンのシンクで洗い物を始める。その小さな背中を見つめながら、俺は再び、ソファという名の安楽椅子に深く身を沈めた。
満腹感がもたらす心地よい気怠さと、すぐそこに彼女がいるという、揺るぎない安心感。この生ぬるい幸福が、どうか永遠に、このままの形で続きますように。俺は本気で、心の底からそう願っていた。
その利己的な願いが、いかに傲慢で、美穂の切実な期待を無残に踏みにじる行為であるかには、考えが及ばないまま。俺たちの間に横たわる、決して言葉にされることのない期待と不安の深い溝は、快適な日常という名の薄く張った氷の下で、刻一刻と、その深さと幅を増していた。そして俺は、その氷が近いうちに必ず割れる運命にあることを、まだ知る由もなかった。
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### 第4話:確認の恐怖と、自己嫌悪の沼
俺たちの奇妙な共棲関係が二年目に突入した、ある秋の夜だった。その日の夕食は、俺がリクエストしたハンバーグだった。肉汁が溢れ出す完璧な焼き加減のハンバーグに、赤ワインを煮詰めた本格的なデミグラスソース。付け合わせの野菜ですら、一つ一つ丁寧に面取りされている。まるで高級洋食店で出てくるような一皿を前に、俺はただただ感嘆し、無心で舌鼓を打った。
「本当に美味しそうに食べるわね、あんたは」
向かいの席で、美穂が頬杖をつきながら、慈しむような、それでいてどこか優越感を滲ませた瞳で俺を見ていた。その視線が、俺の自尊心を心地よく満たす。俺が彼女の料理を喜んで食べること、それが彼女にとっての幸福であり、俺たちの関係の確かさを証明する儀式であるかのように。
食後、俺がソファでテレビのバラエティ番組をぼんやりと眺めていると、洗い物を終えた美穂が、淹れたてのコーヒーを二つ、ローテーブルに置きながら隣に腰を下ろした。ふわりと、彼女の髪からシャンプーの甘い香りが漂い、俺の鼻腔をくすぐる。そのあまりにも自然な距離感と、日常に溶け込んだ親密さに、俺の心臓が不意に、とくん、と小さく跳ねた。
今だ。今なら、言えるんじゃないか。
脳裏に、そんな悪魔の囁きが響く。穏やかな夜の空気、二人きりの空間、心地よい満腹感と、すぐ隣にある彼女の温もり。これ以上ないほど、完璧な舞台設定じゃないか。何をだ。何を言うんだ。決まっている。俺たちの、この曖昧な関係に、けじめをつけるための言葉を。
「なあ、美穂……」
俺は、ほとんど無意識に、彼女の名前を呼んでいた。声が、自分でも驚くほど掠れていた。
「ん?なあに?」
美穂が、テレビ画面から俺へと視線を移す。その切れ長の瞳が、真正面から俺を捉えた。その瞬間、俺の喉は、まるで氷の塊でも飲み込んだかのように、急速に凍りついていくのを感じた。
言え。言うんだ。「俺たちって、一体どういう関係なんだろうな」と。いや、違う。もっとストレートに。「俺と、付き合ってほしい」と。それも違う。もっと、もっと踏み込んで。「卒業したら、結婚しよう」と。
言葉の弾丸は、いくつも頭の中の弾倉に装填されている。引き金を引くだけだ。たった一言、それを口にするだけで、この二十年近い曖昧な歴史に、明確な名前が与えられる。
だが、できなかった。
引き金にかけた指は、鉛のように重く、動かない。美穂の真っ直ぐな視線が、俺の心の奥底に隠された、卑小で、臆病な魂を容赦なく暴き出すようだった。
もし、もしもだ。
俺が勇気を振り絞って告げた言葉に、彼女が心底不思議そうな顔で、こう言ったらどうする?
「何言ってるの、直人?私たち、ずっと一緒にいるじゃない。今さらそんな言葉、必要ないでしょ?」
それは、ある意味では肯定だ。だが、俺が求めている答えとは、決定的に違う。それは、俺の覚悟を、決意を、取るに足らないものとして一蹴する、無慈悲な拒絶だ。
あるいは、もっと最悪のシナリオ。彼女が、軽蔑と失望の入り混じった冷たい声で、こう言ったら?
「……がっかりだわ。あんたのこと、何も言わなくても分かってくれてるって信じてたのに。そんな言葉でしか、私たちの関係を確かめられない程度の男だったのね」
その瞬間、俺が長年抱き続けてきた彼女への「憧れ」は、音を立てて崩れ落ちるだろう。俺は、彼女の隣に立つ資格のない、ただのヘタレな男として断罪されるのだ。この完璧な日常は破壊され、二度と元には戻らない。
その恐怖が、現実の可能性として、俺の全身を支配した。関係が壊れることへの恐怖。彼女に幻滅されることへの恐怖。それは、俺の矮小な自尊心が、到底耐えられるものではなかった。
現状維持。たとえそれが、偽りの平和であったとしても、壊れてしまうよりは遥かにましだ。俺の腐りきった自己防衛本能が、そう結論を下した。
「……いや、なんでもない。このコーヒー、うまいな」
俺の口から絞り出されたのは、あまりにも情けなく、あまりにも無意味な、ただの感想だった。
刹那、美穂の瞳に、ほんの一瞬だけ、期待が失望へと変わる、痛々しい色の揺らめきが見えた気がした。だが、それはすぐにいつもの勝ち気な光に覆い隠される。
「当たり前でしょ。私が淹れたんだから。……あんた、最近疲れてるんじゃないの?顔色、悪いわよ」
彼女は、俺の内心の葛藤には気づかない。いや、気づかないふりをしているのかもしれない。彼女は、俺の優柔不断さを、単なる「疲れ」という、分かりやすいカテゴリーに分類して処理しようとする。その優しさが、今はたまらなく残酷に感じられた。
「……そう、かもな。ちょっと風呂入ってくる」
俺は、その場から逃げ出すように立ち上がった。美穂の訝しげな視線を背中に感じながら、バスルームへと向かう。狭い脱衣所で服を脱ぎ捨て、シャワーの熱い湯を頭から浴びた。ざあざあと降り注ぐお湯の音だけが、俺の耳を満たす。
鏡に映った自分の姿は、あまりにも惨めだった。
決断から逃げ、責任を先延ばしにし、ただ目の前の快適な現実に甘え続ける、意志薄弱な男。自己嫌悪の黒い感情が、熱いシャワーでも洗い流せないヘドロのように、心の底から湧き上がってくる。
美穂に嫌われたくない。その一心で、俺は結局、彼女を最も深く傷つける選択をし続けているのではないか。
答えの出ない問いが、頭の中でぐるぐると回り続ける。シャワーの湯気で曇った鏡の向こうで、情けない男の顔が、ただ静かに俺を見つめ返していた。俺は、この自己嫌悪の沼から、自力で這い上がることなど到底できそうになかった。
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### 第5話:抱き枕と、許容された無防備さ
季節が秋から冬へと移り変わる、十一月のある日の深夜だった。俺は、突き刺すような寒気で目を覚ました。几帳面な美穂がセットしたであろう暖房のタイマーが切れたのか、しんと静まり返った部屋の空気は、まるで氷水のように、肌を刺すほど冷え切っている。薄い羽毛布団一枚では、その容赦のない冷気から身を守ることは到底できそうになかった。
舌打ちしながら身じろぎした俺の腕が、隣で眠る温かい生命の塊に、そっと触れた。
美穂だった。いつものように、俺のセミダブルベッドの半分を、まるで古くから所有する領地であるかのように占領し、すうすうと穏やかで、幸せそうな寝息を立てている。部屋の遮光カーテンの隙間から差し込む月明かりが、彼女の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。無防備に投げ出された、陶器のように白い腕。規則正しく上下する、華奢な肩。そして、俺のすぐ鼻先で、吐息に合わせて微かに揺れる、艶やかな黒髪。そこから漂う、清潔な石鹸と、彼女自身の甘い肌の香りが混じり合った匂いが、俺の理性を鈍らせる強力な麻薬のように、思考回路をゆっくりと麻痺させていく。
寒い。ただ、温かいものが欲しい。
その、抗いがたいほど本能的な欲求に突き動かされるように、俺はほとんど無意識のうちに、彼女の華奢な身体を自分のほうへと、そろりそろりと引き寄せていた。もし彼女が目を覚ましたら、気味悪がられるだろうか。いや、それ以前に、この行為自体が、一線を越えてしまうのではないか。一瞬、そんな理性が頭をよぎるが、肌を粟立たせる寒さが、そのか細い声を即座にかき消した。
意外なことに、抵抗は、なかった。それどころか、美穂は夢の中ですら、俺の腕の引力を受け入れるかのように、心地よさそうに「ん……」と小さな声を漏らし、こてんと身じろぎしただけだった。
俺の腕の中に、すっぽりと収まる、しなやかで、驚くほど柔らかく、そして燃えるように温かい身体。まるで、この瞬間の俺のために神が用意してくれた、最高級の羽毛で作られた抱き枕のようだった。俺は、その背中に躊躇いがちに腕を回し、自分の冷え切った胸へと、さらに強く、隙間を埋めるように引き寄せた。彼女の背中の滑らかな曲線、きゅっとくびれた腰のライン、そして、女性特有の柔らかな尻の膨らみが、薄いシルクのパジャマ越しに、あまりにも生々しく、鮮烈な感触として俺の全身に伝わってくる。彼女から伝わる熱が、まるで上質な熱源のように、俺の凍てついた身体を内側からじわじわと溶かしていく。その、罪深く、抗いがたいほどの心地よさに、俺は深く、安堵のため息を漏らした。
だが、その安堵と引き換えにするかのように、俺の心の最も暗い奥底から、黒く、ねじれた醜い感情が、毒蛇のように鎌首をもたげた。
なぜ、彼女はこれほどまでに無防備でいられるのだ?
成人した男と女が、同じベッドで、肌と肌が触れ合うほどの至近距離で眠る。それが、どれほど危険を孕み、どれほど性的に煽情的なシチュエーションであるか、彼女は本当に、心の底から理解していないというのだろうか。いや、利発で、経験豊富とは言えないまでも、決して初心ではない彼女が、それに気づかないはずがない。
だとしたら、これは。この絶対的な無防備さは、彼女なりの「許可」のサインなのではないか。
脳裏に、まるで天啓のように、彼女のあの傲慢で、しかし俺にとっては都合の良い口癖が、悪魔の福音のごとく響き渡る。
『私のものは私のもの、あなたのものも私のもの。いいこと?私はあなたのものなのだから、何の問題もないでしょう?』
そうだ。その通りだ。彼女は、俺のものなのだ。彼女自身が、常日頃からそう宣言しているではないか。だったら、俺が彼女の身体をこうして抱きしめ、温もりを求めるのも、何の問題もないはずだ。言葉など、もはや不要。この無言の許容こそが、俺たちの関係の真実を、何よりも雄弁に物語っているのだ。俺は、彼女の身体を、その温もりを、その全てを、自由に享受する権利を、彼女自身から与えられているのだ。
その、あまりにも身勝手で、歪んだロジックは、俺の臆病な心を、危険な万能感と倒錯した興奮で満たしていった。俺は、もはやただの抱き枕として彼女を抱いているだけでは、満足できなくなっていた。もっと深く、もっと密接に、彼女を感じたい。彼女の全てを、俺だけのものにしたい。その、抑えがたいほど衝動的な欲望が、腹の底から、マグマのように熱く、喉元へとせり上がってくる。俺の身体の、最も正直な一部分が、彼女の柔らかな尻の官能的な感触に激しく反応し、熱く、岩のように硬く、その存在を力強く主張し始めていた。
まずい。これ以上は、本当に、取り返しのつかないことになる。
俺の中に残っていた理性の最後の砦が、けたたましく警鐘を乱打する。だが、その悲鳴にも似た警告音は、腕の中で微かに身じろぎする美穂の体温と、俺の耳元で繰り返される甘い寝息の前では、あまりにもか弱く、虚しい残響にしか聞こえなかった。
翌朝、俺は、顔のすぐそばで聞こえる、鈴を転がすように優しく、そしてどこか楽しげな声で目を覚ました。
「……直人、朝よ。もう起きなさいな、この寝坊助」
ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには、ベッドの脇にちょこんと膝をつき、悪戯っぽく笑いながら俺の顔を覗き込んでいる美穂の姿があった。窓から差し込む柔らかな朝日を浴びて、彼女の瞳は、聖母のように穏やかな光をたたえている。その瞬間、俺は、自分が昨夜からずっと、彼女を強く抱きしめたまま眠ってしまっていたという事実に気づき、全身の血が急速に凍りついていくのを感じた。
「あ……いや、これは……その……寒くて……」
みっともない言い訳の言葉を探して、口をぱくぱくと虚しく動かす俺。軽蔑されるだろうか。気持ち悪い変態だと、罵られるだろうか。だが、美穂から返ってきた反応は、俺の卑小な予想を、あまりにも鮮やかに、そして無慈悲に裏切るものだった。
「ふふっ、本当に寒かったのね。まるで子供みたいなんだから」
彼女は、まるで悪戯をした弟を諭す、優しい姉のように、くすりと楽しそうに笑った。その表情には、怒りも、嫌悪も、警戒心も、微塵も浮かんでいない。ただ、どうしようもない男を手懐けるような、絶対的な優しさと、全てを包み込むような許容の色があるだけだった。
そして彼女は、何事もなかったかのように、すらりと立ち上がると、キッチンへと向かいながら、快活な声で言った。
「さ、早く顔を洗ってきなさい。美味しい朝食、作ってあげるから」
俺は、呆然と、その完璧な後ろ姿を見送ることしかできなかった。
許された。
俺の、一線を越えかねない身勝手な行動は、彼女によって、いとも容易く、そして完璧に許容されてしまったのだ。その事実は、俺の心に、束の間の安堵と同時に、より危険で、より根深い、致命的な勘違いを植え付けた。
やはり、俺の解釈は、何一つ間違っていなかったのだ。彼女は、俺の全てを受け入れている。俺が言葉にしない欲望も、抑えきれない甘えも、その全てを、その温かい身体で許容してくれているのだ。この絶対的な無防備さは、「私はあなたのものよ」という、何よりも雄弁なメッセージなのだ。
俺の中で、最後の理性を繋ぎとめていた細い糸が、ぷつりと、しかし明確な音を立てて切れた。もう、ためらう必要など、どこにもない。俺は、もっと先の、禁じられた領域へと進んでもいいのだ。
朝の光が燦々と満ちる部屋の中で、俺は、破滅へと一直線に続く扉の前に、確かな足取りで立っていた。その扉の向こうに広がる、絶望的な未来に、まだ気づかないまま。ただ、キッチンから漂ってくる、香ばしいベーコンエッグの匂いだけが、俺の空っぽの胃袋と、危険な万能感を優しくくすぐっていた。
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### 第6話:募る苛立ちと、支配への序曲
決定的な言葉から逃げ続ける俺の態度は、美穂の中で、静かだが確実な変化を生んでいた。俺が自己嫌悪の沼でひとり溺れている間、彼女の心には、焦燥という名の小さな火種が灯っていた。そしてそれはやがて、支配欲という名の燃え盛る炎へと姿を変えようとしていたのだ。
昼下がりの大学のラウンジは、学生たちの気怠い喧騒に満ちていた。空きコマの時間を潰すカップルたちの楽しげな笑い声や、サークルの打ち合わせをするグループの熱のこもった議論が、まるで厚いガラスを隔てた向こう側のように、やけに遠く聞こえる。俺たちの間のローテーブルには、卒業旅行のためのパンフレットが何冊も無造作に広げられていた。ロンドンの赤い二階建てバス、パリの荘厳な凱旋門、ローマの古代遺跡。そのどれもが、卒業を控えた学生が夢見る輝かしい未来を象徴しているかのように、鮮やかな色彩を紙面の上で放っていた。
「ねえ、直人。どっちがいいと思う?歴史を感じるローマも素敵だし、芸術の都パリも捨てがたいわよね」
美穂が、心から楽しそうに、しかし同時に俺の意志を鋭く試すような目で問いかけてくる。その切れ長の瞳の奥には、「さあ、今度こそあなたが決断して」という、切実な期待が込められているのが痛いほどわかった。俺は、その期待という名の重圧から逃れるように、視線をパンフレットの上で意味もなく右へ左へと彷徨わせる。写真の中の陽気な外国人観光客の笑顔が、俺の卑屈な心を嘲笑っているかのようだ。
「……うーん、どっちも良さそうだな。美穂は、どっちに行きたいんだ?」
まただ。俺は、ほとんど脊髄反射で決断を彼女に委ねてしまっていた。自分の意見を明確に表明し、その結果に責任を負うという、男としてあまりにも基本的な行為から、条件反射のように逃げてしまう。俺のその覇気のない言葉を聞いた瞬間、美穂の表情から、すっと音もなく光が消えたのを、俺は見逃さなかった。
「……そう。結局、私が決めればいいのね」
その声は、普段の快活さからは程遠い、低く、温度を感じさせない響きを帯びていた。彼女は、ゆっくりとパンフレットを閉じると、その白く美しい指先で、テーブルの表面を規則正しく、こつ、こつ、と叩き始めた。それは、彼女が心の底からの苛立ちを、必死に理性で抑え込もうとする時の、昔から変わらない癖だった。
このヘタレが。なぜ、ただ行き先を決めることすらできないの。
なぜ、「君が行きたいところなら、僕はどこへでも連れて行くよ」という、たったそれだけの簡単な一言が言えないの。
なぜ、「君との未来のためなら、どんな責任だって負う覚悟がある」と、私の目を見て、胸を張って宣言できないの。
言葉にされない彼女の心の声が、まるで鋭利な氷の針のように、俺の全身を容赦なく突き刺すようだった。
彼女の苛立ちは、徹頭徹尾、俺の「言葉のなさ」に向けられていた。彼女が本当に欲しているのは、豪華な海外旅行でも、高級ブランドのバッグでもない。ただ一つ、俺の口から発せられる、明確な意思表示と、未来への責任を固く約束する「言葉」、ただそれだけなのだ。
だが俺は、その最も重要で、最も簡単なはずのものを、彼女に与えることができない。その残酷な事実が、彼女の焦燥感を極限まで煽り、俺への愛情の形を、少しずつ、しかし確実に歪めていく。
愛している。心の底から、愛している。だからこそ、このどうしようもない男を、私が全て管理し、コントロールしなければならない。
このまま、この優柔不断なヘタレに全てを委ねていては、いつか全てが水泡に帰すかもしれない。私が二十年近く捧げてきた献身も、両家の誰もが疑わない期待も、そして、私たちの、当たり前にあるはずだった未来も。その、想像するだに恐ろしい可能性が、美穂の心の中で、支配欲という名の冷徹な怪物へと、静かに、しかし急速に成長していた。
「私のものは私のもの、あなたのものも私のもの」。
かつては愛の確認だったはずのその口癖は、もはや単なる愛情表現や、甘えの裏返しではなかった。それは、俺という存在そのものを、彼女の完全な所有物として確定させ、その人生の航路の全てを、彼女という絶対的な船長の意思の下に管理するという、冷徹な決意表明へと変貌を遂げつつあったのだ。
「まあ、いいわ。旅行のことは、また今度ゆっくり考えましょう」
美穂は、まるで能面でも貼り付けたかのように、無理やり作った明るい笑顔でそう言うと、すっと立ち上がった。だが、その切れ長の瞳の奥には、もはや隠しようのない、暗く、底なしの沼のように冷え冷えとした光が宿っていた。それは、逃げ場を失った獲物を見据える、飢えた狩人の光にも似ていた。
「そろそろ夕飯の買い出しに行かないと。今夜は、あんたの大好きなクリームシチューにしてあげるから」
その言葉は、表面的には献身的な恋人の台詞でありながら、その裏側には、飼い慣らしたペットに上等な餌を与える飼い主の、傲慢な響きが確かに帯びていた。
俺は、その恐ろしい変化の兆候に、まだ気づくことができない。ただ、彼女の機嫌がどうやら直ったらしいことに心の底から安堵し、「お、シチューか。それは楽しみだな」と、間の抜けた、そしてどこまでも呑気な返事をすることしかできなかった。
美穂は、そんな俺に最後の一瞥もくれず、ヒールの音を高く響かせながらラウンジを後にしていく。その凛とした、しかしどこか拒絶を感じさせる背中を見送りながら、俺は、自分のどうしようもない無力さと、彼女という存在の絶対的な大きさを、改めて痛感していた。彼女がいなければ、俺は食事も、洗濯も、そしておそらくは、息をすることすらままならないだろう。その完全な依存こそが、彼女の支配を、より強固で、より絶対的なものにしているという真実に、まだ思い至らないまま。
静寂が戻ったテーブルの上に、ヨーロッパの美しい風景が印刷された、色鮮やかなパンフレットだけが、取り残されていた。その上に描かれた、幸福そうな恋人たちの笑顔が、俺たちの歪で、破滅へと向かう関係を、静かに嘲笑っているように見えた。
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### 第7話:彼女の独白と、事実という名の鎖
窓の外では、都会の夜景が冷たい宝石のようにきらめいていた。車のヘッドライトが織りなす光の川が、音もなく流れ続けている。その無機質な風景を、美穂は腕を組んで、静かに見つめていた。直人の部屋は、彼女の手によって完璧に整えられている。床に埃一つなく、雑誌は背表紙を揃えて並べられ、キッチンからはクリームシチューの温かく、優しい香りが漂っていた。それは、幸福な家庭を絵に描いたような、完璧な空間だった。
だが、その完璧な空間の主であるはずの男は、まだ帰ってこない。ゼミの飲み会だと、気の抜けた声でメッセージが一件入っていただけだ。美穂は、手の中のスマートフォンを強く握りしめた。画面には、直人との、他愛もないやり取りの履歴が並んでいる。そのほとんどが、彼女からの問いかけと、それに対する彼の短い、曖昧な返事で埋め尽くされていた。
この部屋と同じだ、と美穂は思った。私が全てを整え、私が全てを準備し、私が全てを差し出す。そして、あの男は、ただそれを享受するだけ。まるで、口を開けて待つ雛鳥のように。
ことり、と鍋の蓋が鳴る。弱火で煮込まれたシチューは、丁度良い塩梅に仕上がっているだろう。直人の好きな、少し大きめに切ったじゃがいもと人参。柔らかく煮込んだ鶏肉。彼が帰ってきたら、きっと子供のように喜んで食べるに違いない。「うまい、うまい」と、語彙の少ない賛辞を繰り返しながら。その姿を想像すると、愛おしさがこみ上げてくる。心の底から、どうしようもなく、愛おしいのだ。
だが、その愛おしさと同じだけの、いや、それ以上の激しい苛立ちが、彼女の胸の内側から、黒い炎のように燃え上がってくるのを、美穂は自覚していた。
昼間のラウンジでの出来事が、何度も脳裏で再生される。卒業旅行のパンフレットを前に、ただの一言も、自分の意思を示せなかった男の情けない顔。私に決断を丸投げし、責任から逃れようとする、その卑屈な瞳。あの瞬間、美穂の心の中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。それは、彼への最後の期待を繋ぎとめていた、細く、か弱い糸だったのかもしれない。
いつから、こうなってしまったのだろう。いや、違う。彼は、昔からずっとこうだった。幼い頃、公園のブランコで、他の子供に意地悪をされて泣いていた彼の手を引いて、相手の前に立ちはだかったのは、私だった。中学の頃、どの部活に入るか決められずにいた彼の背中を押して、入部届を半ば無理やり書かせたのも、私だ。高校、大学、そして就職先。人生の全ての岐路において、私は常に彼の前に立ち、道を示し、彼がついてくるのを待っていた。
それで、よかった。これまでは。私の隣にいることが、彼の定位置であり、私が彼の「一番」であることが、疑いようのない事実だったから。言葉などなくても、行動が、その事実を雄弁に物語っていた。だから、私も待つことができた。いつか、このヘタレな男が、私に相応しい男に成長し、その口から、私を求める決定的な言葉を紡いでくれる日を。
だが、もう時間がない。卒業という、最後の猶予期間の終わりが、すぐそこまで迫っている。社会という荒波に放り出された時、この男は、本当に私の手を掴み続けてくれるのだろうか。もっと積極的で、もっと魅力的な女が現れた時、彼はその優柔不断さ故に、ふらふらと流されていってしまうのではないか。二十年近い歳月をかけて築き上げてきたこの関係が、彼の「まあ、いいか」という、たった一言の口癖と共に、砂の城のように脆くも崩れ去ってしまうのではないか。
その恐怖が、美穂の心臓を、冷たい手で鷲掴みにする。長年の献身が、水泡に帰すことへの恐怖。不確実な未来への、耐えがたいほどの不安。
待っているだけでは、駄目だ。あの男が、自らの意志で覚悟を決める日など、永遠に来ないのかもしれない。
美穂は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。そこに映っているのは、いつも快活で、自信に満ちた笑顔の女ではない。獲物を狙う狩人のように、冷たく、そして計算高い光を目に宿した、見知らぬ女の顔だった。
言葉で言えないのなら。言葉で責任を取れないというのなら。
もう、言葉などいらない。必要なのは、言葉ではない。彼が、決して逃れることのできない、絶対的な「事実」。彼の優柔不断な心を、その人生を、私の未来に永久に縛り付けるための、強固で、冷たい鎖。
その「事実」が具体的に何を指すのか、まだ美穂自身にも分かってはいなかった。だが、その必要性を、彼女は本能で、そして魂のレベルで感じ始めていた。直人が自覚を持つ前に、彼が言い訳のできない状況、選択の余地のない現実を作り出すしかない。彼のヘタレな精神が、私を強硬な手段へと傾かせているのだ。
ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー。腹減ったー」
酔っているのか、やけに間延びした直人の声が響く。
美穂は、素早く表情を切り替えた。狩人の目は、完璧な恋人のそれへと戻る。
「おかえりなさい、このヘタレ。丁度シチューができたところよ。早く手を洗ってきなさい」
いつもの憎まれ口。いつもの献身。その完璧な仮面の下で、彼女の心は、もはや後戻りのできない、冷徹な決意を固め始めていた。
これは、愛しているが故の、最後の手段。これは、私の愛を完成させるための、聖戦の始まりなのだと。
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### 第8話:衝動と誤った論理、そして罪の刻印
十一月の冷たい雨が、窓ガラスをぴちゃぴちゃと静かに叩いていた。都会の喧騒を吸い込んだ夜の空気は、湿り気を帯びて重い。部屋の中は、美穂がつけたままにしていった間接照明の、オレンジ色の温かい光で満たされていた。それはまるで、これから起こる罪を照らし出す、不吉な舞台装置のようにも見えた。その穏やかな光景とは裏腹に、俺の心は、荒れ狂う嵐の真っ只中にあった。
ベッドの上で、美穂は静かな寝息を立てていた。ここのところ、卒業論文の執筆に追われ、連日夜更かしを続けていた彼女は、俺が風呂から上がるのを待ちきれずに、深い眠りの海の底へと沈んでしまったようだった。その無防備な寝顔は、まるで無垢な少女のように、あどけなく、そしてあまりにも清らかに見える。規則正しく上下する胸元、微かに開かれた唇から漏れる、すうすうという穏やかな呼吸音。その全てが、俺の中に渦巻く邪な欲望とは、あまりにも対照的だった。
俺は、ベッドの脇に亡霊のように立ったまま、その寝顔を、まるで金縛りにでもあったかのように、ただじっと見つめていた。数時間前、寒さに震える俺が、彼女を抱き枕として求めたあの夜から、俺の中で何かが決定的に、そして致命的に変わってしまった。腕の中に感じた彼女の身体の温もり、その驚くべき柔らかさ、そして俺の身勝手な行動を「子供みたい」という一言でいとも容易く許容した、あの聖母のような絶対的な優しさ。それらが、俺の心の最も暗い奥底に、鎖で繋がれていたはずの、醜く、そして抑えがたい欲望という名の獣を、完全に解き放ってしまったのだ。
理性の声が、頭蓋骨の内側で、か細く、しかし必死に警告を発していた。やめろ、直人、と。これ以上一歩でも進めば、もう二度と、元の場所へは後戻りはできないぞ、と。だが、その悲鳴にも似た声は、俺自身の心臓が打ち鳴らす激しい鼓動と、全身の血管を灼熱の溶岩のように駆け巡る、熱い血流の轟音にかき消され、もはや俺の耳には届かなかった。
俺の脳裏に、あの身勝手で、しかし抗いがたいほど甘美な歪んだロジックが、絶対的な真理として、再び明滅する。
『私はあなたのものだから、何の問題もないでしょう?』
そうだ。彼女は、俺のものなのだ。彼女自身が、それを望んでいる。彼女のこの絶対的な無防備さは、その何より雄弁な証拠ではないか。これは、合意だ。言葉になどされていないが、魂と魂が交わす、より根源的なレベルでの、完全なる合意なのだ。
俺は、まるで意思のない操り人形のように、ゆっくりとベッドに膝をついた。シーツが、俺の体重を受けて、くぐもった音を立てる。そして、震える指先で、そっと、彼女が身にまとったシルクのパジャマの、胸元の一番上のボタンに触れた。ひんやりとした、小さな貝ボタンの硬質な感触。それが、俺という人間が、最後の、そして決定的な一線を越えるための、引き金となった。
一つ、また一つと、小さなボタンが、俺の拙い指先から解き放たれていく。その度に、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされた、彼女の陶器のように白い肌が、少しずつ、少しずつ、その禁断の姿を露わにしていく。豊かな胸が作り出す、深く、柔らかな谷間。滑らかな曲線を描いて、へそへと続く腹部のライン。そして、その下にある、まだ俺の知らない、神秘のベールに包まれた聖域。その光景は、あまりにも官能的で、あまりにも背徳的で、俺の呼吸を浅く、そして荒々しくさせた。
彼女の寝息は、変わらず穏やかなままだ。俺が今、すぐ隣で、どれほど罪深く、どれほど取り返しのつかない行為に及ぼうとしているのか、全く気づいていない。その無垢な事実が、俺の中にわずかに残っていた罪悪感を完全に麻痺させ、同時に、倒錯した興奮をさらに、さらに煽った。
俺は、彼女のパジャマの前身頃をゆっくりと左右に寛げ、その華奢な肩を、冷たい夜気に晒す。そして、まるで何百年も眠っていた秘宝に初めて触れるかのように、その滑らかな肌に、自分の乾いた唇をそっと押し当てた。彼女の肌は、驚くほどきめ細かく、そして、ミルクと蜂蜜を混ぜたような、甘い香りがした。俺は、その香りを全て吸い尽くしてしまいたいという衝動に駆られ、首筋から、浮き出た鎖骨の窪みへと、ゆっくりと、しかし執拗に唇を滑らせていく。
「ん……」
その時、美穂が、夢の中で、心地よさそうに、小さな、甘い吐息を漏らした。
その無意識の反応が、俺の心に残っていた最後の理性の防波堤を、完全に焼き切り、決壊させた。これは、拒絶ではない。これは、紛れもない、肯定だ。彼女も、その魂の奥底では、俺にこうされることを、ずっと、ずっと望んでいたのだ。
もはや、ためらいはなかった。俺は、自分自身が身につけていたスウェットを、まるで煩わしい枷であるかのように乱暴に脱ぎ捨てると、彼女の眠る身体の上に、そっと、しかし寸分の隙間もなく覆いかぶさった。彼女の、俺の手には余るほどの柔らかな胸の膨らみが、俺の硬い胸板に押し当てられる。その、あまりにも官能的な感触に、俺の全身の細胞が、歓喜に打ち震えた。
俺は、彼女の微かに開かれた唇に、自分の唇を、まるで隙間を埋めるように重ねた。夢の中の彼女は、その突然のキスを、戸惑うこともなく、赤子のように素直に受け入れた。俺は、さらに大胆に、彼女の小さな口内に、熱く濡れた舌を滑り込ませる。彼女の舌が、それに驚くように、しかし、決して拒絶することなく、恐る恐る絡みついてくる。その瞬間、俺たちの二十年近い歴史の中で、決して言葉にされることのなかった、腹の底に澱のように溜まっていた互いの欲望が、初めて、その生々しい形を成した。
衝動は、もはや誰にも止めることのできない濁流となっていた。俺は、彼女のパジャマのズボンに手をかけ、それをゆっくりと、しかし躊躇うことなく引き下げる。そして、ついに、俺の熱く滾る欲望の先端が、彼女の最も柔らかく、最も湿った秘密の場所に、そっと触れた。
「……んっ……ぁ……」
美穂の身体が、電流に打たれたかのように、ぴくりと大きく跳ねた。その明確な反応に、一瞬、俺の血流が逆流し、我に返りそうになる。だが、もう遅い。俺は、もはや引き返すことのできない、罪という名の深い川を、渡り始めてしまっていた。
俺は、ゆっくりと、しかし、確実な意思を持って、自分の全てを、彼女の狭く、熱い場所の中へと押し進めていった。初めて感じる、身体の芯を貫くような、熱く、そして締め付けるような、甘美な痛み。それは、彼女の純潔を無残に奪う痛みであると同時に、俺たちの、言葉を省略した歪な関係が、決定的に、そして絶望的に変質してしまったことを示す、消えることのない罪の刻印だった。
外では、冷たい雨がいつの間にか雪に変わっていた。しんしんと、音もなく降り積もる純白の雪が、俺たちのこのどうしようもない罪を、全て覆い隠してしまうかのように、この部屋の窓を、白く、白く染め上げていく。
俺は、腕の中で微かに震える美穂の身体を、ただ壊れ物を扱うように、強く抱きしめることしかできなかった。二十年近い信頼という名の、あまりにも尊い宝物を、俺は、たった一夜の、あまりにも身勝手で、醜い衝動によって、一方的に踏みにじり、裏切ったのだ。
その、あまりにも重く、そして取り返しのつかない事実だけが、俺の燃え尽きた脳裏に、冷たく、そしていつまでも鮮明に刻み込まれていた。
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### 第9話:絶望の朝と、選べない言葉
意識が、重く冷たい水の底からゆっくりと浮上してくるような、不快な感覚と共に朝は訪れた。最初に感じたのは、頭蓋骨の内側で鈍く脈打つ、酷い二日酔いにも似た痛みだった。昨夜、酒など一滴も飲んでいなかったはずなのに。次いで、鼻腔をくすぐったのは、昨夜の雨が残した湿ったアスファルトの匂いと、それに混じり合う、あまりにも身近で、甘く、そして今は罪の香りとしか思えない、美穂のシャンプーの香りだった。
その香りの源に、俺は恐る恐る視線を向けた。
腕の中に、美穂がいた。昨夜の俺の身勝手な欲望の残骸を晒すかのように、乱れたシーツの海の中で、彼女は天使のように穏やかな寝息を立てていた。白いシルクのパジャマは肩からはだけ、陶器のように滑らかな肌が、カーテンの隙間から差し込む、冷たく青白い朝の光を浴びて、生々しい光沢を放っている。そのあまりにも無防備で、あまりにも美しい姿が、昨夜俺が犯した罪の醜さを、容赦なく俺の眼前に突きつけていた。
瞬間、昨夜の出来事が、鮮明な映像として脳裏に蘇る。眠る彼女の身体を一方的に貪った、あの獣のような自分。歪んだ論理で自らの欲望を正当化し、二十年という歳月が積み上げた信頼関係を、たった一夜の衝動で踏みにじった、あの取り返しのつかない過ち。その記憶が、鋭利なガラスの破片となって、俺の思考回路をズタズタに引き裂いた。
絶望的な後悔と、身を焼くような罪悪感が、胃の底から熱い溶岩のようにせり上がってくる。息が詰まる。心臓が、まるで万力で締め付けられたかのように、痛いほど激しく収縮した。なんだ、これは。俺は、一体、何ということをしてしまったんだ。
隣で眠る美穂の体温が、今はまるで灼熱の鉄塊のように感じられた。彼女の穏やかな寝息の一つ一つが、俺の罪を告発する、重い鎖の軋む音のように聞こえる。このまま彼女が目を覚ましたら?俺の顔を見て、昨夜の出来事を思い出し、その美しい瞳に、軽蔑と嫌悪の色を浮かべたら?その想像は、死そのものよりも、遥かに恐ろしかった。
謝らなければ。
そう、理性の最後の残骸が、俺に命令する。男として、いや、人として、自分が犯した過ちに対して、誠心誠意、謝罪の言葉を述べなければならない。それは、当然の義務であり、最低限の責任だ。
「ご……」
喉の奥から、意味をなさない、乾いた空気を押し出すような音が漏れた。言え。言うんだ。「ごめん」と。たった三文字の、その簡単な言葉を。だが、その言葉は、まるで分厚い氷の壁に阻まれたかのように、決して俺の唇から外の世界へと形を成して出てくることはなかった。
言葉にできない。いや、言葉にしてはいけない。
もし俺が「ごめん」と口にした瞬間、それは、俺が昨夜の行為を、明確な「罪」として認めたことになる。それは、眠っている相手に一方的に欲望をぶつけた、許されざる暴行であったと、自ら断罪することに他ならない。その事実を、この俺が、憧れの対象である美穂に対して、認めることなど、できるはずがなかった。
言葉にするのが怖い。謝罪という言葉が持つ、責任の重圧に耐えられない。言葉にしてしまえば、この曖昧で、しかし心地よかった俺たちの関係は、完全に終わる。加害者と被害者という、決して覆すことのできない、絶望的な関係性へと墜落するのだ。それだけは、絶対に避けたかった。
俺の臆病な魂は、責任を伴う「言葉」から逃れるために、必死で言い訳を探し始める。そうだ、これは事故だったのだ。俺もどうかしていた。それに、彼女も、決して嫌がってはいなかったはずだ。夢の中で、甘い声を漏らしていたじゃないか。だとすれば、これは合意の上での行為だったと、そう強弁することもできるのではないか。
だが、そのあまりにも卑劣で、醜い自己正当化の思考は、美穂が「ん……」と、夢の中で小さく身じろぎしただけで、脆くも粉々に砕け散った。びくりと、心臓が喉から飛び出しそうになるほど、俺の身体は硬直する。もし、今、彼女が目を覚ましたら。全ては、終わる。
逃げなければ。
その思考が、天啓のように、俺の腐りきった脳天を貫いた。そうだ、逃げるんだ。この絶望的な状況から。彼女が目を覚まし、俺を断罪する、その恐ろしい瞬間から。謝罪も、責任も、今は考えるな。とにかく、この場から消え去るんだ。
俺は、まるで精密機械を操作するスパイのように、細心の注意を払いながら、ゆっくりと、自分の身体を美穂から引き剥がした。彼女の温もりが離れていく肌に、冬の朝の冷気が、罪の烙印のように突き刺さる。一ミリ、また一ミリと、音を立てないようにベッドから抜け出し、冷たいフローリングの床に、そっと足を下ろした。きしむなよ、と、心の中で床板に祈る。
散らばった服を、震える手で拾い集める。昨夜、獣のように乱暴に脱ぎ捨てたスウェットと下着。それらが、俺の罪の動かぬ証拠のように思えて、吐き気がした。息を殺し、壁にかかった、特徴のないカジュアルなジャケットを羽織る。財布とスマートフォンをポケットにねじ込み、俺は最後の関門である、部屋のドアへと向かった。
振り返って、もう一度だけ、ベッドで眠る美穂の姿を目に焼き付けた。その寝顔は、やはりどこまでも穏やかで、美しい。俺が今、彼女の信頼を裏切り、この部屋から逃げ出そうとしている卑劣な臆病者であることなど、知る由もなく。その無垢な姿が、鋭いナイフとなって、俺の心を抉った。
ごめん。ごめん、美穂。
心の中で、誰にも届かない謝罪の言葉を、何度も、何度も繰り返す。だが、それは決して、声にはならなかった。
俺は、ゆっくりとドアノブを回し、音を立てないように、僅かな隙間を開け、そこから、まるで追われる罪人のように、廊下へと身体を滑り込ませた。そして、彼女を起こさぬよう、そっと、しかし、二度と後戻りはしないという、固い決意を持って、ドアを閉めた。
カチャリ、という、あまりにも小さな金属音が、しんと静まり返った廊下に響き渡る。その音は、俺と彼女の二十年近い歴史が、完全に断絶されたことを告げる、無慈悲な断頭台の刃が落ちる音のようにも聞こえた。
冷たいコンクリートの階段を駆け下り、マンションの外に出る。十一月の突き刺すような冷気が、火照った俺の頬を容赦なく打ちつけた。見上げた空は、鉛色に重く濁り、今にも泣き出しそうだった。
俺は、行く当てもなく、ただ、逃げるように、歩き始めた。自分が犯した罪の重さから、そして、何よりも、責任を伴う「言葉」を発することへの、致命的な恐怖から。この逃避行が、事態をさらに絶望的な方向へと転がしていくことになるのを、この時の俺はまだ、知る由もなかった。
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### 第10話:物質の代償と、言葉のすり替え
冷たいアスファルトの上を、俺は幽鬼のように彷徨っていた。夜の間に降り積もった薄雪は、朝日を浴びる間もなく、都会の排気ガスと無数の足跡によって、汚れた灰色のシャーベットへと姿を変えている。その、無残に踏みつけられた雪の残骸が、昨夜の俺の行為によって汚されてしまった美穂の純潔と、そして俺自身の卑劣な魂を象徴しているかのようで、吐き気にも似た自己嫌悪がこみ上げてきた。
どれくらいの時間、当てもなく歩き続けたのだろうか。大学へ向かう学生たちの、まだ眠気を引きずった気怠い話し声や、けたたましく鳴り響く踏切の警報音、遠くで聞こえる救急車のサイレン。日常を構成するありふれた音の全てが、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側の世界の出来事のように、ひどく現実感を欠いて俺の鼓膜を滑っていく。俺だけが、この世界の誰からも切り離された、罪という名の透明な檻の中に閉じ込められているようだった。
ポケットの中で、スマートフォンが何度も震えた。画面を見なくても分かる。美穂からの着信だ。きっと、目を覚ました彼女は、俺がいないことに気づき、訝しんでいるのだろう。あるいは、最悪の場合、昨夜の出来事を思い出し、その上で俺の不在の意味を悟り、怒りと軽蔑に打ち震えているのかもしれない。そのどちらの可能性も、俺にとっては等しく地獄だった。俺は、その震える機械を、まるで忌まわしい呪物のごとくポケットの奥深くに押し込み、応答することを頑なに拒んだ。
どうすればいい。これから、俺は一体、どうすればいいんだ。
頭の中で、同じ問いが、壊れたレコードのように、ただぐるぐると、意味もなく回り続けていた。謝罪する?どの面を下げて、彼女の前に現れ、許しを乞うというのだ。「ごめん」というたった三文字の言葉の背後には、「俺は眠っている君を一方的に陵辱した」という、あまりにも重く、醜い事実が横たわっている。その言葉を口にした瞬間、俺は、彼女にとっての「憧れ」でも「腐れ縁の幼馴染」でもなく、ただの唾棄すべき「犯罪者」へと成り下がるのだ。そんな現実を、俺の矮小な自尊心が、到底受け入れられるはずがなかった。
かといって、このまま永遠に逃げ続けることなど、できはしない。俺たちの関係は、俺と彼女、二人だけの閉じた世界で完結しているわけではない。両家の親族、共通の友人、そして、俺たちがこれまで共に過ごしてきた二十年という、あまりにも長く、そして重い歴史。それら全てが、見えない鎖となって、俺の足首に絡みついている。俺に、逃げることなど、決して許しはしないだろう。
八方塞がりだった。進むも地獄、退くも地獄。罪悪感と恐怖で完全に麻痺した思考の中で、俺は、ただ無意味に足を動かし続けることしかできない。その時だった。ふと、目の前のショーウィンドウに飾られた、あるものが、俺の視界に、まるで強力な磁石のように吸い寄せられた。
それは、駅前の大通りに面した、老舗の宝飾店のディスプレイだった。黒いベルベットの布の上に、いくつもの指輪が、スポットライトを浴びて、冷たい、しかし蠱惑的な光を放っていた。その中で、ひときゅうわシンプルで、しかし、洗練されたデザインのプラチナのリングが、俺の目を捉えて離さなかった。その、完璧な円を描く白金の輝きが、まるで、この絶望的な状況を打開するための、唯一の希望の光であるかのように、俺には思えた。
そうだ、指輪だ。
その考えは、天啓というよりも、むしろ悪魔の囁きに近かった。それは、俺の腐りきった、責任回避の精神構造が導き出した、最も卑劣で、最も安易な、そして最も効果的だと思える、究極の解決策だった。
言葉で謝罪することができないのなら。言葉で責任を取ることが怖いというのなら。
言葉ではない、別の何かで、その代償を支払えばいい。
この指輪。この、物質的な、そして誰もがその価値を認める輝き。これを彼女に渡すのだ。プロポーズの言葉など、もはや必要ない。この指輪こそが、俺の覚悟の、そして彼女への愛情の、何よりも雄弁な証明となるはずだ。
これは、単なるプロポーズではない。これは、昨夜の俺の罪を清算するための、「償い」なのだ。この指輪という絶対的な「物質」を差し出すことで、俺は、あの忌まわしい出来事を、無かったことにはできないまでも、少なくとも、結婚という、社会的にも認められた、幸福な未来への布石へと、その意味を強引にすり替えることができる。そうすれば、彼女もきっと、納得してくれるに違いない。いや、彼女は、心の奥底では、ずっとこれを待っていたはずなのだ。
その、あまりにも身勝手な自己欺瞞は、俺の心に、一筋の、しかし力強い光を差し込ませた。俺は、まるで何かに取り憑かれたように、ほとんど無意識のうちに、宝飾店の重いガラスのドアへと、手を伸ばしていた。
カラン、という上品なドアベルの音と共に、温かい空気が俺を包む。優雅なクラシック音楽が流れる店内。ガラスケースの向こうで、品の良い初老の女性店員が、「いらっしゃいませ」と、穏やかな笑みを俺に向けた。その、あまりにも場違いな、平和で、幸福に満ちた空間に、俺は一瞬、気圧されそうになる。だが、もはや、後戻りはできなかった。
「あ、あの……指輪を、ください」
俺の口から出た声は、自分でも驚くほど、か細く、そして上ずっていた。
「はい、かしこまりました。エンゲージリングでございますね。どのようなデザインを、お探しでいらっしゃいますか?」
店員の丁寧な問いかけに、俺はまともに答えることができない。デザインなど、どうでもよかった。値段も、石の大きさも、今はどうでもいい。ただ、この罪悪感を覆い隠してくれるだけの輝きを持つ、「指輪」という形をした物体が、今すぐ、必要だった。
「……あれを。ショーウィンドウに飾ってあった、一番シンプルなやつを」
俺は、震える指で、先ほど俺をこの店へと導いた、あのプラチナのリングを指差した。
サイズを尋ねられ、俺は、美穂の左手の薬指の、驚くほど細く、しなやかな感触を思い出しながら、おそらくこれくらいだろうと、曖昧に答えた。幸いにも、それは俺の小指にぴったりと合うサイズだった。
会計を済ませ、小さな、しかしずっしりと重いベルベットの小箱を受け取る。その冷たい感触が、俺に、自分が今、どれほど取り返しのつかない、そして愚かな行為に及んでいるのかを、改めて突きつけてくるようだった。
だが、俺は、その不快な現実から、無理やり目を背けた。
これでいい。これで、全ては解決する。
俺は、自分自身にそう、強く、何度も言い聞かせた。
言葉による責任を、「指輪」という物質的な代償に置き換える。それは、俺というヘタレな男が、この絶望的な状況から逃れるために編み出した、唯一にして、最悪の逃避行だった。
店の外に出ると、鉛色の空から、再び冷たい雨が、ぽつり、ぽつりと降り始めていた。俺は、ジャケットのポケットの中で、小さな箱を、まるで最後の命綱であるかのように、強く、強く握りしめた。
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### 第11話:無言の償いと、自己正当化の夜
夜の帳が、街の輪郭を曖昧に溶かしていた。俺は、自分が住むワンルームマンションの前に、まるで地縛霊のように立ち尽くしていた。日中、罪悪感と恐怖から逃げ惑った末にたどり着いたのは、結局、全ての元凶であるこの場所だった。ここには、俺が傷つけた女神が眠っている。そして、俺がこれから演じなければならない、卑劣な芝居の舞台がある。
ポケットの中で、ベルベットの小箱が、まるで小さな心臓のように、存在を主張していた。その冷たく、硬質な感触だけが、今の俺を支える唯一の頼りだった。これは、ただの指輪ではない。俺の罪を贖うための免罪符であり、言葉という重い責任から俺を解放してくれる、魔法の道具なのだ。俺は、その小さな箱を、まるで十字架でも握りしめるかのように強く、強く握った。そして、一度だけ深く息を吸い込むと、震える足で、マンションの冷たい階段を一段、また一段と上り始めた。
自分の部屋のドアの前で、俺の足は再び縫い付けられたように止まった。この扉の向こうに、どんな現実が待ち受けているのか。軽蔑か、怒号か、あるいは、ただ冷たい沈黙か。想像するだけで、全身の血が凍りつくようだった。だが、もう逃げるわけにはいかない。俺は、意を決して、鍵穴に鍵を差し込み、ゆっくりと、音を立てないように回した。
ドアを開けると、部屋の中は、オレンジ色の間接照明の、温かい光だけで満たされていた。しんと静まり返った空気の中、俺は靴を脱ぎ、息を殺してリビングへと足を踏み入れる。そこに、美穂の姿はなかった。視線をベッドに向けると、こんもりと盛り上がった羽毛布団の中で、彼女は静かな寝息を立てていた。
ほっとした。彼女が眠っていてくれたことに、心の底から安堵する。だが、その安堵はすぐに、別の形の罪悪感へと姿を変えた。ローテーブルの上、いつも俺が座る場所に、ラップのかけられた一人の食事が、ぽつんと寂しげに置かれていたのだ。それは、俺が昨夜リクエストしたハンバーグの残りだろうか。付け合わせの野菜まで、綺麗に盛り付けられている。彼女は、きっと、俺が帰ってくるのを、ずっと待っていてくれたのだ。俺が彼女から逃げ回っている間も、ただひたすらに。その、あまりにも健気な事実に、俺の胸は、鋭い錐で抉られるように痛んだ。
俺は、その冷めきった食事から目を逸らすように、ゆっくりとベッドへと近づいた。眠る美穂の顔は、昼間の喧騒など何も知らぬげに、どこまでも穏やかだった。長い睫毛が、白い頬に静かな影を落としている。微かに開かれた唇から漏れる、すうすうという寝息だけが、この部屋で唯一の音だった。その、あまりにも無垢で、あまりにも美しい寝顔を前にして、俺は、自分がこれからしようとしている行為の、あまりの醜さに、目眩さえ覚えた。
だが、もう引き返すことはできない。俺は、ポケットから、あの小さな箱を、震える手で取り出した。ぱちり、と小さな音を立てて蓋を開ける。ベルベットの黒の上に鎮座したプラチナのリングが、間接照明の光を吸い込んで、冷たく、妖しい輝きを放った。
俺は、ベッドの脇に、そっと膝をついた。そして、まるで時限爆弾でも扱うかように、細心の注意を払いながら、美穂の左手を、布団の中からそっと引き出した。驚くほど細く、そして温かい、彼女の指。俺は、その指先に触れた瞬間、全身に電流が走るような、罪深い興奮と恐怖を感じた。
指輪を、箱から取り出す。ひんやりとしたプラチナの感触が、俺の汗ばんだ指先に、やけに生々しく伝わってきた。俺は、唾を一度飲み込むと、彼女の左手の、第四指、薬指に、その冷たい金属の輪を、ゆっくりと、滑らせていった。
彼女の指は、俺が思ったよりも、さらに華奢だった。指輪は、まるで最初からそこにあるべきだったとでもいうように、何の抵抗もなく、その白い指の根元へと、すっぽりと収まった。
その瞬間、俺の全身を縛り付けていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。俺は、まるで長い潜水から、ようやく水面に顔を出したかのように、大きく、そして深く、安堵のため息を漏らした。
終わった。これで、償いは果たした。
俺は、美穂の薬指で、静かな光を放つ指輪を、まるで神聖なものでも見るかのように、じっと見つめた。その小さな輝きが、昨夜の俺の醜い罪を、全て洗い流し、浄化してくれるかのような、倒錯した万能感に包まれる。言葉はいらない。この指輪こそが、俺の全ての感情の、そして責任の、完璧な代替物なのだ。
俺は、そっと美穂の手を布団の中に戻そうとして、その指先が、滑らかな、しかし布地ではない何かに触れたことに気が付いた。自身の肌だ。驚いて、布団の隙間から中を覗き込むと、俺は息を呑んだ。美穂は、全裸だった。いつも寝る時に必ず身につけている、あの肌触りの良いシルクのパジャマを着ていなかったのだ。視線を巡らせると、そのパジャマが、まるで脱ぎ捨てられた抜け殻のように、ベッドの脇の床に無造作に落ちているのが見えた。
脳が、沸騰したかのように熱くなる。どういうことだ?これは、一体、何を意味する?
俺の心臓が、警鐘のように激しく脈打ち始めた。これは、拒絶のサインではない。もし本当に俺の行為を怒り、軽蔑しているのなら、彼女はこんな無防備な姿で眠っているはずがない。むしろ、もっと頑なに、心を、身体を閉ざしているはずだ。
だとしたら、これは。この剥き出しの無防備さは、彼女からの、無言の、そして何よりも雄弁なメッセージなのではないか。
彼女は、怒ってなどいない。それどころか、俺がしたことを、受け入れている。いや、それ以上の、より積極的な意思表示として、その美しい身体を俺に差し出してきているとでもいうのか。
その、あまりにも都合の良い、しかし抗いがたいほど甘美な解釈が、俺の脳を完全に焼き切った。罪悪感は、一瞬にして、彼女へのどうしようもない愛おしさへと昇華され、そして、それはすぐに、腹の底から燃え盛る、抑えがたい欲望の炎へと姿を変えた。
愛おしい。愛おしくて、たまらない。この、どうしようもなく不器用で、しかし、全身全霊で俺に応えようとしてくれる、この女が。
言葉など、やはり不要だったのだ。俺たちは、身体で、魂で、誰よりも深く理解し合えている。
俺は、もはや何の躊躇いもなく、自らが着ていたジャケットとスウェットを、床に脱ぎ捨てた。冷たい部屋の空気が、火照った肌を刺す。だが、そんなことはもう、どうでもよかった。俺は、再び、眠る彼女の待つベッドへと身体を滑り込ませると、その温かく、驚くほど柔らかい裸体を、壊れ物を扱うように、しかし、寸分の隙間もなく、強く抱きしめた。
そして、先ほど俺自身が嵌めたばかりの、プラチナの指輪が冷たく光るその左手を、俺は自らの右手で優しく絡め取り、二度目の、そして、今度は償いではなく、愛の確認なのだと自分に言い聞かせながら、彼女の唇を、深く、そして激しく求めた。
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### 第12話:誤解の指輪と、先延ばしの旅行
俺が、ソファという名の硬い舟の上で、浅く、断続的な眠りから意識の岸辺へと打ち上げられたのは、カーテンの隙間から差し込む、鋭く冷たい光が瞼を刺したからだった。全身が、まるで他人のものであるかのように軋む。首の痛みと、背中に走る鈍い痺れ。だが、そんな肉体的な不快感など、これから直面するであろう現実の恐怖に比べれば、取るに足らない些事だった。
俺は、息を殺しながら、ゆっくりと上半身を起こした。視線の先、主戦場であるはずのベッドの上で、美穂が、ゆっくりと身じろぎするのが見えた。心臓が、喉元までせり上がってくるかのように、激しく、そして痛いほど脈打つ。始まる。審判の時が。
美穂は、ん……と、猫のように小さく身をよじると、長い睫毛を数回震わせ、ゆっくりと、その切れ長の瞳を開いた。その瞳は、まだ夢の残滓を宿しているかのように、ぼんやりと虚空を彷徨っていた。そして、自分の身体が、昨夜とは違う、ある種の気怠さと、微かな痛みを含んだ熱っぽさを帯びていることに、気づいたようだった。彼女の白い頬が、ほんのりと、しかし確かに赤く染まっていく。
そして、ついにその瞬間が訪れた。
何かを探すように、シーツの上を彷徨っていた彼女の左手が、ぴたりと動きを止める。彼女の視線が、そこに吸い寄せられる。薬指の根元で、俺が嵌めたプラチナのリングが、朝日を浴びて、無慈悲なほどに、冷たく、清らかな輝きを放っていた。
美穂の瞳が、信じられないものを見るかのように、大きく、大きく見開かれた。彼女は、まるでそれが自分の身体の一部ではないとでもいうように、恐る恐る、その左手を顔の前まで持ち上げる。そして、指輪の、その完璧な円環を、あらゆる角度から、何度も、何度も見つめた。その表情は、驚愕、戸惑い、疑念、そして、それら全ての感情を塗りつ潰すほどの、圧倒的な歓喜が、複雑に入り混じった、美しいモザイク模様を描いていた。
俺は、ソファの影から、その光景を、固唾を飲んで見守っていた。心臓の鼓動だけが、やけに大きく、部屋の静寂を打ち破る。頼む。頼むから、俺が意図した通りに、受け取ってくれ。
やがて、美穂は、まるでこらえきれないとでもいうように、その指輪が嵌められた左手で、自らの口元を覆った。華奢な肩が、微かに、そして次第に大きく、震え始める。嗚咽が漏れているのか、あるいは、笑いを噛み殺しているのか。俺には、判断がつかなかった。
だが、次の瞬間、俺の目に飛び込んできた光景は、俺の卑劣な魂に、絶対的な救いをもたらすものだった。
彼女の指の隙間から、大粒の、しかし、決して悲しみのものではない、きらきらと輝く涙の雫が、いくつも、いくつも、その白い頬を伝って、流れ落ちていたのだ。そして、その唇は、紛れもなく、歓喜の形に、美しく綻んでいた。
勝った。俺の賭けは、勝ったのだ。
俺は、まるで舞台に上がる役者のように、おもむろに立ち上がると、わざと少し気怠そうな、寝起きの声を装って、彼女に声をかけた。
「……よう、起きたか。おはよう、美穂」
その声に、美穂はびくりと肩を震わせ、涙に濡れた瞳で、俺を振り返った。その瞳は、俺を罵るでも、詰るでもなく、ただ、信じられないほどの愛情と、ほんの少しの、はにかんだような戸惑いの色をたたえて、俺を真っ直ぐに見つめていた。
「……直人、これ……」
彼女の声は、涙で震えて、か細く掠れていた。その左手が、まるで宝物でも示すかのように、俺に向かって、そっと差し出される。
「ああ。……まあ、そういうことだ」
俺は、これ以上ないほど曖昧に、しかし、これ以上ないほど意味深に聞こえるであろう言葉を、努めて平静を装って口にした。プロポーズの言葉も、愛の告白も、そして、何よりも、昨夜の罪に対する謝罪の言葉も、その一言ですべてを代用する。
美穂は、その俺の言葉を、彼女自身の、あまりにもポジティブな文脈で解釈したようだった。彼女は、まるで子供のように、ぱあっと、その顔を輝かせた。
「……ばか。あんたって、本当に、どうしようもないヘタレなんだから」
その声は、いつもの憎まれ口でありながら、その響きには、蜂蜜をたっぷりと溶かし込んだかのような、とろけるような甘さが含まれていた。
「なんで、ちゃんと言葉で言ってくれないのよ。……でも、あんたらしいわね。ありがとう、直人。……すごく、嬉しい」
彼女は、まるで一生の宝物でも扱うかのように、その指輪を、もう片方の手で、そっと優しく撫でた。その仕草の一つ一つが、俺の卑劣な計画が、完璧に成功したことを、何よりも雄弁に物語っていた。
そうだ。これでいいのだ。俺の臆病さを、彼女は「私にしか分からない、彼なりの愛情表現」として、完璧に受け入れてくれた。昨夜の俺の暴走すらも、この指輪によって、「言葉にできないほどの、切実な愛の衝動」へと、その意味を美しく書き換えられてしまったのだ。
罪悪感は、もはや跡形もなく消え去っていた。代わりに、俺の心を満たしていたのは、このどうしようもなく愛おしい女を、俺だけのものにしたという、絶対的な万能感と、支配欲にも似た、甘い陶酔だった。
この勢いを、逃す手はない。俺は、この流れに乗じて、最後の、そして最大の責任の先延ばし計画を、実行に移すことにした。
「なあ、美穂。改めてなんだけどさ」
俺は、ローテーブルの上に無造作に置かれていた、卒業旅行のパンフレットを手に取ると、彼女の前に、わざとらしく広げてみせた。
「卒業旅行、行こうぜ。学生最後の思い出に。……ロンドン、どうだ?」
その提案を聞いた美穂の瞳が、さらに大きく、期待の色に輝いた。彼女にとって、この提案は、もはや単なる旅行の誘いではなかった。それは、指輪という「無言のプロポーズ」に続く、正式な「婚前旅行」への、輝かしい招待状に他ならなかったのだ。この旅行のクライマックスで、今度こそ、このヘタレな男は、ビッグ・ベンの鐘の音を背に、きちんとした言葉で、私に愛を誓ってくれるに違いない。彼女の頭の中では、きっと、そんな完璧な未来予想図が、瞬時に描き出されたことだろう。
「……ええ、行くわ!絶対に行きましょう!」
美穂は、先ほどまでの涙が嘘のように、いつもの快活な、そして力強い声で、即座に同意した。その表情には、もはや、一片の曇りも、不安の色も見受けられなかった。
俺たちの計画は、ここに、完璧な形で合致した。
ただし、その目的地が、全く違う場所であることには、二人とも、まだ気づいていない。美穂が目指すのは、「責任を伴う愛の完成」という名のゴール。そして、俺が目指すのは、「責任の最終的な先延ばし」という名の、束の間の逃避行。
俺たちは、同じ船に乗り、同じ地図を広げているつもりで、実は全く違う海図を頼りに、それぞれの破滅へと、全速力で舵を切ったのだ。その、あまりにも致命的なすれ違いを祝福するかのように、窓の外の空は、嘘のように、青く、どこまでも高く晴れ渡っていた。
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### 第13話:絶対的な事実と、支配への進化
十二月の空気は澄み切ったガラスのように、街の光を鋭く反射していた。ショーウィンドウにはクリスマスツリーの電飾がまばゆく輝き、行き交う恋人たちの白い息と弾むような笑い声が溢れている。世界中が幸福という名の薄いベールに包まれる、そんな浮かれた季節。そして、何を隠そう私、坂本美穂もまたその幸福のただ中にいるはずだった。
左手の薬指に嵌められたプラチナのリングが、カフェの温かい照明を浴びて静かに、しかし確かな存在感を主張している。私はこの一ヶ月、日に何度となくこの指輪をうっとりと眺めては甘い充足感に浸っていた。二十年近い歳月をかけて追い求めてきたものが、ようやくこの手の中に収まったのだと。
直人はあの日以来どこか吹っ切れたかのように、以前にも増して私に甘えるようになった。言葉こそ相変わらず足りないが、その瞳の奥には私への絶対的な信頼と諦めにも似た安堵の色が浮かんでいる。あの夜から始まった私たちの新しい関係も、この指輪も、全ては次の段階へ進むための儀式だったのだ。私はそう信じて疑わなかった。
「なあ美穂、ロンドンのガイドブックこんなに買ってどうすんだよ」
向かいの席で直人が呆れたように言いながら、テーブルの上の旅行雑誌の山を気怠そうにめくっている。その口調は呆れているようでいて、その実まんざらでもない響きを帯びていた。彼はこの婚前旅行を学生最後の楽しい思い出として、心から楽しみにしているようだった。その無邪気さが今はたまらなく愛おしい。
「いいじゃない別に。一生に一度のことだから完璧な計画を立てないと。あんたは黙って私についてくればいいのよ、このヘタレが」
いつもの憎まれ口を叩きながら、私は熱いカフェラテのカップを口元へと運んだ。その時だった。ふわりと鼻腔をくすぐったミルクとエスプレッソの匂いが、突如として胃の奥からせり上がってくる不快な塊へと姿を変えた。
「うっ……」
思わず小さな呻きと共にカップをソーサーに戻す。胃がむかむかする。まるで乗り物酔いでもしたかのような、じわりとした不快感が身体の中心から波紋のように広がっていった。
「どうした美穂?顔色悪いぞ」
直人が心配そうに私の顔を覗き込む。その優しい視線が今はなぜか私の苛立ちを微かに煽った。
「なんでもないわよ。ちょっと疲れが溜まってるだけ」
私はそう言って無理やり笑顔を作り、何事もなかったかのように再びガイドブックへ視線を落とした。卒業論文のストレスかしら。あるいは旅行への期待で、少し興奮しすぎているのかもしれない。私は身体が発し始めた小さな、しかし決定的な警告のサインをそうやって安易に片付けてしまったのだ。
だがその日から私の身体は少しずつ、しかし確実に私の意思を裏切り始めた。朝キッチンで直人のためにベーコンを焼く香ばしい匂いが耐えがたい吐き気を催させたり、日中講義を受けている最中に突然強い眠気に襲われたり。そして何よりも決定的だったのは、あれほど正確だったはずの月のものが予定日を過ぎても一向に訪れる気配を見せなかったことだ。
最初は気のせいだと思っていた。ストレスによるよくある遅れだろうと。だが一週間が過ぎ十日が過ぎる頃には、私の心の中に無視できない冷たい疑念の染みがじわりと広がり始めていた。まさか。そんなはずはない。
ある日の午後、私は一人自室のベッドの上でカレンダーの日付を指で何度もなぞっていた。指先が氷のように冷たい。記憶の糸を必死で手繰り寄せる。最後に月のものが来たのはいつだったか。そして、直人と身体を重ねるようになったあの日付は。計算するまでもない。全てのピースがパズルの最後の欠片がはまるように、恐ろしいほどの正確さで一つの、そして唯一の可能性を指し示していた。
私の血の気がさっと引いていくのが分かった。心臓がまるで凍りついたかのようにその動きを止める。そして次の瞬間、まるで堰を切ったように激しく痛いほどに、どくどくと脈打ち始めた。
その日の夕方、私は誰にも気づかれぬよう大学の帰りに駅前のドラッグストアへ立ち寄った。化粧品やシャンプーが並ぶ棚の最も奥、その目立たない一角。そこには目的の商品が、あまりにも無機質で残酷な確実性をもって陳列されていた。妊娠検査薬。そのプラスチックの箱の冷たい感触が、震える私の指先にやけに生々しく伝わってきた。
直人の部屋のバスルームのドアに鍵をかける。冷たいタイルの床が足の裏から体温を奪っていくようだった。説明書を震える手で何度も読み返し、覚悟を決めてスティックの先端に自らの身体の証をかけた。待つ時間は永遠のようにも感じられた。判定窓に現れる結果という名の無慈悲な宣告。心臓の音が耳元でガンガンと鳴り響いている。やがて白い窓の中にゆっくりと、しかし決して覆すことのできない絶対的な事実として、二本の赤い線がはっきりと浮かび上がった。
陽性。
その二文字が脳天に巨大な鉄槌のように振り下ろされた。一瞬思考が停止し、目の前の光景がまるで他人事のように現実感を失っていく。だがすぐにその衝撃は全く別の、熱くそして恐ろしいほどの歓喜を伴った巨大な感情の波へと姿を変えた。これは、事実だ。誰にも、直人にさえも、決して覆すことのできない絶対的な「事実」。私のこの身体の中に新しい命が宿っている。直人の、そして私の、命が。
長年私を苛んできたあの漠然とした不安。直人の優柔不断さがいつか私から離れていくのではないかという底なしの恐怖。それら全てがこのたった二本の赤い線によって、跡形もなく消し飛んだ。これは、鎖だ。彼を私の元に永遠に縛り付けておくための、何よりも強く何よりも確実な神が与えてくれた聖なる鎖なのだ。
私の独占欲はこの瞬間、絶対的な支配欲へとその最終進化を遂げた。もはや直人の言葉など必要ない。ロンドンでの甘いプロポーズももはやどうでもいい。それどころかそんな悠長な計画が、彼の責任回避のための最後の悪あがきのように思えて腹の底から冷たい怒りが込み上げてきた。このヘタレ。私がどれほどの覚悟であなたとの未来を待っていたと思っているの。子供まで作ったというのにまだ学生気分の、甘い思い出作りでこの現実から目を逸らそうとするつもり?許さない。絶対に。
私の頭脳は驚くほどの速さで、そして驚くほどの冷徹さで回転を始めていた。この事実をいつ、どこで、どのようにして彼に突きつけるべきか。ただ伝えるだけでは駄目だ。あの男はきっとうろたえ悩み、そしてまた責任を先延ばしにしようとするだろう。必要なのは彼が決して逃げることのできない完璧な舞台設定。彼の優柔不断な精神構造を根底から破壊し、私の前に完全な形で屈服させるための絶対的な包囲網。
そして私の脳裏に完璧な計画が閃光のようにひらめいた。正月。両家の一族が本家に一堂に会する、あの厳かなそして何よりも「けじめ」を重んじるあの場所。あの場所で全ての事実を白日の下に晒すのだ。両家の親、親戚一同という彼が決して逆らうことのできない社会的権威の前で。
私はバスルームの鏡に映る自分の顔を見つめた。そこに映っていたのはもはや恋に恋するただの乙女ではない。その切れ長の瞳の奥に獲物を追い詰める狩人のような、冷たくそして揺るぎない決意の光を宿した冷徹な戦略家の顔だった。左手の薬指でプラチナのリングがきらりと光る。だがもはやこんなものでは不十分だ。私が手に入れたこの絶対的な事実の前では、その輝きすらあまりにも色褪せて見えた。
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### 第14話:冷徹な駒と、包囲網の構築
十二月の喧騒が街を飽和させていた。年末という名の巨大な磁場に引かれるように人々は浮き足立ち、誰もがせわしなく、そしてどこか楽しげに師走の坂道を駆け抜けていく。ショーウィンドウは競い合うように煌びやかな装飾をまとい、街路樹に灯されたイルミネーションが、まるで星屑を地上にぶちまけたかのように冷たい冬の空気をきらきらと彩っていた。世界全体が幸福と期待に満ちた巨大なスノードームの中にいるかのようだった。
だが、そんな祝福された季節の風景を私は、凍てついた湖の底から見上げるようなひどく冷え冷えとした心で眺めていた。あの二本の赤い線が私の目の前に現れてから、世界は色を失い音をなくした。私の内側で時を刻む新しい心臓の音だけが、やけに大きくそして絶対的な真実として私の思考の全てを支配していた。
私の手には今や二つの切り札がある。一つは左手の薬指でまだ慣れない重みと共に輝くプラチナのリング。そしてもう一つは、私の下腹部に静かに宿る誰にも否定することのできない絶対的な「事実」。しかしあの優柔不断な男の前では、指輪という名の甘い約束などあまりにもか弱く不確かなものに過ぎない。あの男はきっと、ロンドンへの婚前旅行という最後の猶予期間を最大限に利用し、その先にあるはずの責任という名の現実から目を逸らし続けるだろう。
そんなことは決して許さない。
私が必要としているのは彼の善意や愛情に依存した脆い約束ではない。彼が、決して逃れることも言い訳することもできない完璧な包囲網。彼のヘタレな精神を、その矮小な自尊心を、木っ端微塵に粉砕するための冷徹で計算され尽くした絶対的な罠だ。
その日、直人は大学のサークルの忘年会だと気の抜けたメッセージを一つ寄越して、朝から出かけていた。一人きりになった彼と私の生活空間。私は部屋の隅々まで完璧に掃除をし洗濯物を片付け、夕食の下準備まで全てを終えると窓際のソファに深く腰を下ろした。そしてスマートフォンを手に取りアドレス帳を開く。スクロールする指が目的の名前の上でぴたりと止まった。
『母』
そのたった一文字。それは私がこれから発動させる冷徹な計画の、最も重要でそして最も強力な駒だった。私は一度だけ短く深く息を吸い込むと、迷うことなくその発信ボタンをタップした。
数回の長い長いコールの後、受話器の向こうからいつもと変わらない、穏やかでしかしどこか芯の通った母の声が聞こえた。
「もしもし、美穂?どうしたの、こんな時間に」
「お母様、ごきげんよう。お忙しいところ申し訳ありません」
私の声は自分でも驚くほど落ち着いていて、そして礼儀正しかった。まるで他人の人生の脚本でも読み上げているかのように、そこには何の感情も乗っていなかった。
「まあ、あなたから電話だなんて珍しいわね。何かあったの?」
「ええ、少しご相談したいことがございまして。直人さんの、ことで」
私はそこで意図的に言葉を切った。沈黙という名の最も効果的なスパイスを、会話の中に一滴落とす。受話器の向こうで母が息を呑む気配がした。
「……直人くんに、何かあったの?」
母の声に微かな緊張が走る。私はこの好機を逃さない。
「いいえ、彼に何かがあったというわけではございませんの。ただ……。お母様もご存知の通り私たちは春から社会人となります。相沢家と坂本家、両家の皆様が私たちにしかるべき『けじめ』を期待していらっしゃることも重々承知しております。ですが……」
私はまるで悲劇のヒロインを演じる女優のように、その声にか細い憂いの色を滲ませた。
「直人さんはまだ、そのご覚悟が定まっていないご様子で……。先日も卒業旅行にと、ロンドンへのお誘いを受けました。もちろんそのお気持ちは大変に嬉しく有り難いのですけれど……。私としましては、そのような浮ついたことよりも先に、まず両家に対して筋を通すべきではないかと……」
「……そう。あの子はまだ、自分の立場というものが分かっていないのね」
母の声には呆れと、そして良家の女主人としての静かな怒りの色が混じり始めていた。完璧だ。全ては私の描いた脚本通りに進んでいる。
そして私はこの茶番劇を完結させるための、最後のそして最強の切り札を、静かにしかし絶大な効果を計算してテーブルの上に置いた。
「それで、お母様……。大変申し上げにくいのですが……。事が一刻を争う理由ができてしまいましたの」
私はそこで再び決定的な沈黙を置いた。受話器の向こうの母が、固唾を飲んで私の次の言葉を待っているのが痛いほど伝わってくる。
「私のこの身体に……新しい命が、おりますの。相沢家の、そして私たち坂本家の血を受け継ぐ、新しい命が」
その言葉は静かだが、核爆弾にも等しい破壊力を持って母の鼓膜を、そしてその良識を打ち砕いた。一瞬の完全な沈黙。そして次に聞こえてきた母の声は、もはや穏やかさの欠片も残っていない、鋼のように硬くそして氷のように冷たい響きを帯びていた。
「……そう。そういうことだったのね。……分かったわ美穂。全てお母様に任せなさい」
その声はもはや母のものではなく、坂本家の威信を守るためならばいかなる手段も厭わない、冷徹な将軍の声だった。
「正月、本家での新年会。あそこが決戦の場よ。お父様にも私から全て話しておくわ。あなたは何も心配することなく、ただその日に備えなさい。相沢のあのヘタレな息子には、社会のそして家と家の繋がりの重さを、骨の髄まで思い知らせてやらなければならない」
受話器の向こうで完璧な共犯関係が成立した。駒は全て盤上に揃った。あとは王手をかける、その時を待つだけだ。
「……ありがとうございます、お母様」
私は心の底から、しかし一滴の感情も込めずにそう言って静かに電話を切った。
窓の外では街のイルミネーションが、まるで勝利を祝う祝砲のように一層その輝きを増していた。私はその光の洪水を見つめながら、そっとまだ平坦なままの自分の下腹部に手を当てた。
この小さな命。それが私の二十年近い歳月をかけた恋を、完璧な形で完成させてくれる。
愛しているわ、直人。あなたのそのどうしようもない弱さも、優柔不断さも、その全てを私がこの手で完璧に管理し、支配してあげるから。
私の顔に、聖母のような、そして悪魔のようにも見える静かな笑みが浮かんでいた。
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### 第15話:計画の破綻と、仮面の剥離
年が明けた。世界が新たな始まりに浮き立つ、一月一日。俺と美穂は吐く息も白く凍るような、厳かな朝の空気の中を歩いていた。初詣のために訪れた近所の大きな神社は、年の初めの高揚感を求める人々でごった返している。晴れ着姿の女性たちが立てる衣擦れの音、子供たちのはしゃぎ声、そしてどこからか漂ってくる甘酒の湯気の甘い匂い。その全てが混じり合い新年という特別な日の、華やかでしかしどこか神聖な雰囲気を醸し出していた。
俺の心は、この上なく晴れやかだった。隣を歩く美穂の左手薬指には、あの日俺が贈った指輪が冬の弱い日差しを浴びて控えめに、しかし誇らしげに輝いている。あの日以来俺たちの関係は、目に見えて安定していた。いや正確に言えば、俺が一方的にそう思い込んでいただけなのだが、この時の俺はそんな致命的な勘違いに気づく由もなかった。
指輪という「償い」は完璧に機能し、俺の罪は清算された。そして、彼女はその無言のプロポーズを受け入れ、俺たちの未来は盤石なものとなった。俺はそう確信していた。残るは最後の仕上げだけだ。卒業旅行という名の学生生活最後のモラトリアム。そこで形式的にでもプロポーズの言葉を口にすれば、俺の責任は最小限のダメージで完璧に果たされることになる。その安易で自己中心的な未来予想図に、俺はすっかり満足しきっていたのだ。
長い行列に並び、ようやく拝殿の前までたどり着く。俺は賽銭箱に少しばかり奮発した硬貨を投げ入れると、二礼二拍手一礼という古式に則った作法で神に祈りを捧げた。どうかこのまま波風の立たない、穏やかな日常が続きますように。そして、ロンドン旅行が最高の思い出になりますように。その願いがいかに自分勝手で、隣で静かに手を合わせる美穂の切実な祈りを踏みにじるものであるかなど、考えもしなかった。
参拝を終え、おみくじを引き、人の波をかき分けるようにして賑やかな参道を下っていく。美穂は、大吉だったと子供のようにはしゃいでいた。その快活な笑顔はいつもと何も変わらない。俺はその笑顔に安堵し、いよいよ最後の計画を切り出す時が来たと判断した。
「なあ美穂。旅行のことなんだけどさ」
俺は熱い甘酒の入った紙コップを、ふうふうと冷ましながらできるだけ何気ない口調を装って言った。
「もう日にちも決めちまわないか?卒業式が終わってすぐ、三月の半ばあたりでどうだ。航空券とかホテルとか、早めに予約しないといいところ取れなくなっちまうし」
その言葉を口にした瞬間、俺は世界から音が消えるような奇妙な感覚に襲われた。あれほど賑やかだったはずの周囲の喧騒が、すうっと遠のいていく。隣を歩いていた美穂の足が、ぴたりとまるで地面に縫い付けられたかのように止まっていた。
「……美穂?」
俺が訝しげに彼女の顔を覗き込むと、そこにいたのは俺の知っている美穂ではなかった。
笑顔が、消えていた。
先ほどまで大吉を引いたと無邪気に笑っていたあの明るい表情は、まるで精巧に作られた能面のように何の感情も映さない無機質なものへと変わっていた。いや違う。その奥に何か、底なしの沼のようにどす黒くそして冷たい感情が渦巻いているのが見えた。切れ長の瞳はもはや俺を映してはいない。その視線は俺の背後にある、何か、もっと恐ろしいものを睨みつけているかのようだった。
「……旅行ですって?」
彼女の唇から漏れた声は冬の空気よりも遥かに冷たく、そして硬質だった。その声には普段の快活さの欠片も、俺への親しみの響きも一切含まれていなかった。それはまるで初めて会う赤の他人に向けるような、無機質で感情を削ぎ落とした声だった。
「お、おう……。ロンドン行きたいって言ってたじゃないか。学生最後の思い出作り、しなきゃだろ?」
俺は彼女のその豹変ぶりに、戸惑いを隠せない。本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。何かがおかしい。俺は何か、決定的にそして致命的に間違えてしまったのではないか。だが俺の愚かな頭は、その原因を全く理解することができなかった。
「思い出作り……。そう、あなたはまだそんなことを言っていられるのね」
美穂はゆっくりと、俺の方へと顔を向けた。その瞳の奥に宿る光を見て、俺は背筋を冷たい氷の刃で撫でられたかのような悪寒に襲われた。それは怒りとも悲しみとも違う、もっと根源的で絶対的な拒絶の色だった。
「この期に及んでまだ、逃げるつもりなのね。私から。そして、あなた自身の責任から」
「な、何を言って……」
「分からないの?本当に分からないというのなら、あんたは私が思っていた以上の、救いようのないただのヘタレよ」
その言葉はもはや憎まれ口ではなかった。それは絶対零度の純粋な軽蔑。俺という人間の存在そのものを、根底から否定する無慈悲な宣告だった。俺の頭は完全に混乱していた。指輪を渡したじゃないか。俺は覚悟を示したはずだ。それなのに、なぜ彼女はこんなにも怒っているんだ。いやこれは、もはや怒りという生易しい感情ではない。これは、憎悪だ。
美穂は手にしていた甘酒の紙コップを、くしゃりと何の躊躇いもなく握り潰した。温かい中身が彼女の白い手袋と、上質なウールのコートの袖を汚い染みとなって汚していく。だが彼女はそんなことには全く頓着しない。
「いい?直人。よく、聞きなさい」
彼女は一歩俺との距離を詰めた。そして俺の胸ぐらを掴むかわりに、俺が締めていたネクタイを鷲掴みにした。きゅっと絹の布地が俺の喉を締め上げる。息が詰まる。
「私たちの間に、もうそんな悠長な時間は残されていないの。あなたと、私。そして……」
彼女はそこで一度言葉を切った。そして俺の耳元に、悪魔の囁きのように、しかし決して覆すことのできない絶対的な真実としてその言葉を、吐き捨てた。
「……この子、の、ためにはね」
その瞬間、俺の世界は完全に、そして修復不可能なほどに砕け散った。
彼女の二十年近く見慣れたはずの顔が、今は全く見知らぬ冷徹な支配者の顔へと完全に変貌していた。長年の怒りが妊娠という絶対的な事実の起爆装置によって、ついに爆発したのだ。
俺はただ、その恐ろしいほどの迫力をたたえた瞳に見据えられ、声も出せずに立ち尽くすことしかできなかった。俺の甘く安易な計画は、今この瞬間に完璧な破綻を迎えた。そしてそれは、これから始まる本当の地獄のほんの序曲に過ぎなかった。
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### 第16話:最後の抵抗と、支配者の嘲笑
時間が、凍りついた。いや、俺という存在だけが流れる時間の中から弾き出されてしまったかのようだった。美穂が俺の耳元で吐き捨てた「この子」という三文字の言葉。そのあまりにも現実離れした響きは、俺の脆弱な理解力を遥かに超えていた。脳が、その言葉の意味を処理することを完全に拒絶していた。何かの間違いだ。聞き間違いか、あるいは彼女一流の悪質な冗談か何かだろう。そうに違いない。だってそうでもなければ辻褄が合わない。俺たちの、この完璧なはずだった未来の設計図が、こんなたった一言で根底から覆されてしまうなどあっていいはずがないのだ。
だが、俺の目の前に立つ女の顔は、その淡い期待を微塵の容赦もなく打ち砕いた。そこに浮かんでいるのは、冗談や悪戯を仕掛ける時のあの悪戯っぽい笑みではない。それは全ての感情を削ぎ落とした、氷のように冷たい絶対的な無表情。そしてその切れ長の瞳の奥には、もはや俺への愛情も期待も、失望すらも映ってはいなかった。ただ、邪魔な障害物を排除する前の冷徹な観察眼だけが、俺という存在の価値を値踏みするように静かに、そして無慈悲に射抜いていた。
「……何を、言って……」
俺の喉からようやく絞り出された声は、自分でも驚くほど情けなく掠れていた。その声がまるで合図だったかのように、彼女は俺のネクタイを掴むその手にぐっと力を込めた。
「ぐっ……!」
締め上げていたわけではない。だがその有無を言わせぬ力強い動きは、俺の身体の自由を完全に奪った。それはもはや男女間のじゃれ合いなどでは断じてない。飼い主が、逃げ出そうとする犬の首輪を強く引き戻す時の、あの絶対的な支配の動きだった。俺はなす術もなく、彼女の方へと一歩引き寄せられる。
「まだ分からないの?旅行?思い出作り?そんな甘ったれた言葉で、この現実から逃げられるとでも思っているのなら心底、軽蔑するわ」
その声は囁くように静かでありながら、神社の喧騒を全てかき消すほどの恐ろしいほどの圧力を伴って、俺の鼓膜を直接揺さぶった。俺は、この時初めて直視したのだ。彼女の、あの勝ち気で明るい笑顔の仮面の裏にずっと隠され続けてきた、底なしの支配欲という名の醜く、そして抗いがたいほどに強大な怪物の姿を。
恐怖。それは彼女に幻滅されるかもしれないという、これまで俺が抱いてきた生ぬるい恐怖などではなかった。それは自らの存在そのものが完全に否定され、踏み潰され、消し去られてしまうかもしれないという、もっと本能的で根源的な恐怖だった。俺は、その絶対的な力の前にただ震えることしかできない哀れな小動物だった。
だがその恐怖のどん底で、俺の中に最後の、そして最も矮小な抵抗の炎がちろりと灯った。それは理屈ではなかった。ただこのまま為されるがままに、彼女の完全な所有物へと成り下がるわけにはいかないという俺の、最後のプライドの残骸。そのヘタレな男の、最後の意地だった。何に反抗すればいい。彼女の言葉か?その態度か?いや違う。俺が今覆すべきは、彼女が俺たちの関係の根幹に据えているあの傲慢で、しかし俺がずっと甘え続けてきた絶対的な論理だ。
「……離せよ」
俺はネクタイを掴む彼女の手を、震える手で振り払おうとした。だがその手はまるで鋼鉄の万力のように、びくともしない。
「俺の金は、俺のものだ。お前のものでも俺たちの共有財産でも、なんでもない。旅行に行くかどうかも俺が、決める」
言った。言ってしまった。それは俺がこの二十数年の人生で、初めて彼女に対して真っ向から叩きつけた反逆の言葉だった。自分の財産は自分のものだというあまりにも当たり前で、しかし俺たちの歪な関係性においては決して許されることのなかった禁断の言葉。その言葉を口にした瞬間、俺の全身を恐怖とそれ以上の倒錯した高揚感が駆け巡った。
俺のそのあまりにも惨めで、しかし必死の抵抗の言葉を聞いた美穂の反応は、俺の想像を遥かに超えていた。彼女は怒らなかった。罵りもしなかった。ただ心底面白そうに、その美しい唇の片端をくっと吊り上げたのだ。それは赤ん坊が必死で握りしめた拳を振り回しているのを見るような、絶対的な強者だけが浮かべることのできる冷酷な、そして慈悲のかけらもない嘲笑だった。
「……そう。あなたのお金。それが、あなたが最後にしがみつく唯一の拠り所なのね」
その声には軽蔑すらもはや含まれてはいなかった。ただどうしようもなく愚かで、哀れな生き物に対する無機質な分析があるだけだった。
「いいわ、分かった。そんなにあなたのお金とやらが大事だというのなら、これからもっと、ずっと価値のあるものに使わせてあげる」
そう言うと彼女は、俺のネクタイを掴んでいた手をするりと離した。一瞬解放されたかのような錯覚。だがそれは、より深い絶望への序曲に過ぎなかった。
「行くわよ」
美穂はただその一言だけを、氷のように冷たい声で告げると俺に背を向け、参道の雑踏の中を何の躊躇いもなく歩き始めた。その凛とした、しかし有無を言わせぬ背中が俺に、無言でしかし絶対的な力で命令していた。ついてこい、と。
俺の最後の抵抗はこうして、赤子の手をひねるよりも容易く完璧に粉砕された。俺はもはや彼女に逆らうという、選択肢そのものを完全に奪われてしまったのだ。俺はまるで、見えない糸で引かれる操り人形のようにその恐ろしい支配者の後を、ただ呆然と力なくついていくことしかできなかった。行き先など分からない。これから何が起こるのかも、想像すらつかない。ただ一つだけ確かなことがある。俺の甘く無責任な青春は、今この瞬間に完全に、そして永遠に終わりを告げたのだ。
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### 第17話:物理的制裁と、精神の崩壊
思考が停止するというのは、こういうことを言うのだろうか。俺は、まるで分厚い氷の中に閉じ込められた蠅のように、身動き一つ、そして瞬き一つすらできずにいた。目の前で繰り広げられる光景が、あまりにも非現実的で、俺の貧弱な脳の処理能力を完全に超越していたからだ。美穂が、その上質な革のハンドバッグから取り出したもの。それは、冬の弱い日差しを鈍く反射する、冷たい光を放つ金属の塊。テレビドラマや映画の中でしか見たことのない、あの無機質で、暴力的な輪。
手錠。
その単語が、意味を伴わないただの音の羅列として、俺の思考の中を虚しく反響する。なぜ。どうして。こんなものが、彼女のバッグの中から出てくるんだ。ここは初詣で賑わう神社の参道で、俺たちはついさっきまで、甘酒をすすりながら来年の運勢について他愛のない話をしていた、ただの大学生カップルだったはずだ。それなのに、なぜ今、俺の目の前に、人の自由を物理的に奪うための、この冷酷な拘束具が存在するのか。
俺の混乱を置き去りにして、美穂は完璧な、そして恐ろしいほどに手慣れた動きで、その金属の輪を俺の右手首へと近づけてきた。ひやりとした、生命の温かみを一切感じさせない金属の感触が、俺の肌に触れる。その瞬間、俺の全身の皮膚という皮膚が、粟立つような悪寒と共に総毛立った。俺が何かを言うよりも早く、その冷酷な儀式は執り行われた。
カシャリ、という、乾いた、そしてあまりにも決定的な金属音が、俺たちの間に響き渡った。
それは、俺の自由が、完全に、そして物理的に失われたことを告げる、無慈悲な音だった。俺の右手首には、重く、冷たい鋼鉄の輪が、まるで呪いの腕輪のように、食い込んでいた。手錠のもう片方の輪は、まだ宙ぶらりんのまま、冷たい光を放っている。だが、それは問題ではなかった。俺は、もはや彼女の意志一つで、いつでもどこへでも引きずっていくことのできる、ただの所有物へと成り下がったのだ。
「いつも言っているでしょう?私のものは私のもの。あなたのものも私のもの。あなたは私のもの(男)。私はあなたのもの(女)だって。年貢の納め時よ。拘束プレーだと思ってしばらく付き合いなさい。それとも、手錠だけじゃなくて、首輪も付けた方が良かったかしら?それも、あなたの玩具箱から持ってきているけれど、使ってみる?上げ膳据え膳で私に飼われているのは、あなたでしょう?なんでこんな玩具を持っていたのか知らないけれど、あなたは使う側でなくて使われる側なのはわかっているでしょう?」
彼女の唇から紡がれた言葉は、悪魔の福音のように、俺の脳髄を直接焼き切った。俺の玩具箱。そうだ、確かにあった。好奇心から、ほんの出来心で通販で買った、誰にも見せたことのない秘密の箱。それを、彼女は知っていた。知っていて、今日この時のために、そこから得物を持ち出してきたというのか。俺が使う側ではなく、使われる側。その、倒錯した真実。俺がずっと甘え続けてきた関係性の本質を、彼女は白日の下に、最も残酷な形で暴き出したのだ。
周囲の喧騒が、嘘のように遠のいていく。代わりに、俺たちの周りだけが、まるで異次元のスポットライトでも当たっているかのように、人々の好奇と、侮蔑と、そして面白がるような視線が、無数の針となって突き刺さるのを感じた。晴れ着姿の若い女性たちが、信じられないものを見るかのように、ひそひそと囁き合っている。子供が、俺たちを指差して、母親に何かを尋ねている。その全てが、スローモーションの映像のように、俺の網膜に焼き付いていく。
屈辱。
その二文字が、熱い鉄の烙印のように、俺の額に、そして魂に、じゅうと音を立てて焼き付けられた。俺、相沢直人は、今この瞬間、公衆の面前で、一人の女によって、まるで危険な犯罪者かのように、その自由を奪われている。この二十数年の人生で経験したことのない、あまりにも強烈で、あまりにも耐え難い、絶対的な屈辱。顔から、急速に血の気が引いていくのが分かった。同時に、耳の奥で、キーンという、金属的で不快な耳鳴りが鳴り響き始めた。
俺の精神は、この瞬間に、ぷつりと、何かが切れる明確な音を立てて、崩壊した。
もう、どうでもいい。抵抗も、プライドも、未来への希望も、何もかも。この屈辱の前では、全てが無意味で、無価値だった。俺は、まるで魂を抜き取られた抜け殻のように、ただ呆然と、自分の手首に嵌められた、その醜い金属の輪を見下ろすことしかできなかった。
「さあ、行くわよ。私たちの車は、あっちだから」
美穂は、まるで何事もなかったかのように、上品で、しかし有無を言わせぬ口調でそう言うと、俺の腕を掴み、歩き始めた。手首の手錠が、じゃらりと、重く、陰鬱な音を立てる。その音が、俺が今置かれている、あまりにも絶望的な状況を、改めて俺に突きつけてきた。俺は、もはや彼女に逆らうという意志そのものを、完全に喪失していた。ただ、見えない糸で引かれる操り人形のように、その小さな、しかし絶対的な支配者の後を、力なく、引きずられるように歩いていく。
周囲からの視線が、もはや痛いと感じる感覚すら麻痺していた。俺は、地面に落ちた、誰かが踏みつけた汚れたおみくじの紙切れに、視線を落としたまま、ただ、一歩、また一歩と、足を前に進めるだけだった。賑やかな参道を抜け、玉砂利が敷き詰められた静かな駐車場へと続く小道。その、ほんの数百メートルの距離が、まるで地獄へと続く、永遠に終わらない道のように、俺には感じられた。
やがて、見慣れた、美穂の父親が買い与えたという、高級なドイツ製の白いセダンが、俺たちの前にその姿を現した。彼女は、リモコンキーで、ぴ、と電子音を鳴らしてロックを解除すると、後部座席のドアを開け、俺に顎で乗るようにと、無言で指示した。
俺は、何の抵抗もせず、まるで家畜が屠殺場へと連れて行かれるように、その冷たい革張りのシートへと、自分の身体を滑り込ませた。美穂は、俺が乗り込むのを確認すると、俺の手首に繋がったままの手錠のもう片方の輪を、助手席のヘッドレストの支柱へと、慣れた手つきで、そして寸分の躊躇いもなく、巻き付けた。
そして、再び、あの絶望的な金属音が響き渡る。
カシャリ。
これで、俺の身体は、完全に、この車という鉄の箱の中に拘束された。
美穂は、満足げにその完璧な仕事ぶりを確認すると、ぱたんと、重い音を立てて後部座席のドアを閉めた。そして、運転席へと回り込み、エンジンをかける。静かだが、力強いエンジン音が、密閉された車内に低く響き渡った。
俺は、ヘッドレストに繋がれた囚人として、ただ、窓の外を流れていく、灰色の冬の景色を、感情の抜け落ちた、虚ろな目で見つめていた。美穂の支配は、今この瞬間に、心理的なものから、完全な物理的支配へと、その形態を完成させたのだ。そして、俺の、甘く、無責任だった青春は、この冷たい革のシートの上で、誰に看取られることもなく、静かに、そして完全に、その息の根を止められた。
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### 第18話:逃げ場なき鉄槌と、絶望の回収
白い高級セダンの車内は、まるで深海のように静まり返っていた。外の世界の音は、分厚い防音ガラスによって完全に遮断され、聞こえてくるのは、低く唸るようなエンジンの作動音と、後部座席で囚われた俺自身の、浅く、不規則な呼吸音だけだった。俺の精神は、先ほどの参道での公開処刑にも等しい屈辱によって、完全にその機能を停止していた。思考は、濃い霧の中を彷徨うように輪郭を失い、感情は、凍てついた湖の底に沈んだ石のように、何の動きも見せなかった。
俺は、ただ、助手席のヘッドレストに繋がれた囚人として、窓の外を流れていく景色を、焦点の合わない虚ろな瞳で眺めていた。見慣れたはずの街並みが、まるで知らない国の、無機質で冷たい風景のように見える。右手首に食い込む手錠の、氷のような冷たさと、そのずっしりとした重みだけが、この悪夢のような状況が紛れもない現実であることを、俺に絶えず教え続けていた。
運転席の美穂は、一言も発しない。その横顔は、完璧な能面のように無表情で、その切れ長の瞳は、ただ前方の道路だけを、冷徹なまでに真っ直ぐに見据えていた。ハンドルを握るその指の動き、アクセルとブレーキを操る足の運び、その全てが、機械のように正確で、一切の迷いも、感情の揺らぎも感じさせない。彼女はもはや、俺の知っている幼馴染の美穂ではなかった。俺という獲物を完全に捕らえ、これから行われるであろう断罪の儀式へと、寸分の狂いもなく移送する、冷酷な執行官。それが、今の彼女の正体だった。
車は、やがて、見慣れない大きな建物の前で、滑るように停止した。白く、四角い、何の装飾もない、官僚的な建物。その壁には、『市役所』という、黒く、大きな文字が掲げられていた。なぜ、こんな場所に。俺の、麻痺した脳が、ようやくその程度の疑問を形にする。だが、それを口に出すだけの気力は、もはや残されていなかった。
美穂は、エンジンを止めることなく、こともなげにシートベルトを外すと、「少し、待っていなさい」と、囚人に向かって命令する看守のような、感情のこもらない声で言い放った。そして、何のためらいもなく車を降り、ヒールの音を高く響かせながら、市役所のガラス張りの自動ドアの向こうへと、その姿を消した。
俺は、鉄の箱の中に、一人取り残された。手首の手錠が、じゃらりと、俺の惨めな心境を嘲笑うかのように、虚しい音を立てる。逃げたい。今すぐ、ここから逃げ出してしまいたい。だが、俺の身体は、この車という名の檻に、物理的に、そして完全に拘束されている。ドアを開けることすら、叶わない。俺は、ただ、フロントガラスの向こう側、市役所の建物の中を、絶望的な気分で見つめることしかできなかった。
十分ほどだっただろうか。まるで永遠にも感じられた沈黙の後、自動ドアが再び開き、美穂がその姿を現した。その手には、先ほどは持っていなかったはずの、薄茶色の角形封筒が、まるで勝利の証であるかのように握られていた。彼女は、再び運転席に乗り込むと、その封筒を、助手席の上に、ぽんと、無造作に置いた。俺の方を見ることも、その封筒が何であるかを説明することもなく。
だが、俺には分かってしまった。その薄っぺらい紙の束が、俺たちの未来を、そして俺の自由を、永久に縛り付けるための、恐ろしい鎖であることを。婚姻届。その三文字が、俺の脳裏に、死刑宣告の響きを伴って、重く、そして絶望的にこだました。
車は、再び静かに走り出した。今度は、来た道を引き返すように、見慣れた住宅街へとその鼻先を向けていく。この地獄のドライブは、一体どこまで続くというのか。俺の心は、もはや恐怖を感じる段階を通り越し、完全な諦念と、虚無感に支配されていた。
やがて、車は、彼女の実家である、高い塀に囲まれた、純和風の壮麗な屋敷の前で、ゆっくりと速度を落とした。坂本家の、正門。そこには、まるでこの時を待ち構えていたかのように、二人の人物が、凍てつくような冬の空気の中に、微動だにせず立っていた。
美穂の、両親だった。
お父さんは、いつもは温和な好々爺といった風情なのに、今はまるで厳しい裁判官のように、眉間に深い皺を刻み、その鋭い目で、俺が乗るこの車を睨みつけていた。隣に立つお母さんは、上質な和服に身を包み、その表情は、能面のように固く、一切の感情を読み取ることができない。だが、その静寂は、嵐の前の静けさのように、恐ろしいほどの圧力を放っていた。
俺の全身の血が、急速に凍りついていくのを感じた。そういうことか。これは、俺と美穂、二人だけの問題では、もはやないのだ。これは、相沢家と坂本家、両家の問題として、これから裁かれようとしているのだ。美穂が年末に実家にかけた、あの意味深な電話。あれは、この完璧な包囲網を構築するための、冷徹な布石だったのだ。
美穂は、車を止めると、後部座席のドアを開けた。そして、外で待つ両親に向かって、まるで稽古を重ねた舞台女優のように、完璧な角度で、深く、そして淑やかに頭を下げた。
「お父様、お母様。お待たせいたしました。……さあ、お乗りください」
その声は、俺に向ける声とは全く違う、礼儀正しく、そしてどこまでも従順な娘の声だった。その完璧な演技が、俺をさらに深い絶望の淵へと突き落とす。
美穂のお父さんとお母さんは、一言も発することなく、まるで示し合わせたかのように、後部座席の両側のドアから、車内へとその重々しい身体を滑り込ませた。俺は、その二つの巨大な権威の塊に、左右から挟まれる形となった。右隣のお父さんから発せられる、無言の、しかし焼けるような怒りのオーラ。左隣のお母さんから漂ってくる、氷のように冷たい、絶対的な軽蔑の空気。その二つの圧力に押し潰されそうになりながら、俺は、息をすることすら、忘れかけていた。
家族ぐるみの既定路線。それはもはや、生ぬるい期待などではなかった。それは、俺という名の罪人を断罪するための、決して逃れることのできない、冷たい鉄槌と化していた。俺の逃げ場は、今この瞬間、物理的にも、社会的にも、そして精神的にも、完全に封鎖されたのだ。
美穂は、後部座席のドアが閉まるのをバックミラーで確認すると、再び、何事もなかったかのように、静かに車を発進させた。行き先は、もう考えるまでもない。この車という名の移動式断頭台が向かう先。それは、俺が生まれ育った、相沢家の、玄関だった。
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### 第19話:断罪の舞台と、社会的権威
車という名の移動式断頭台は、やがて、俺がこの世に生を受けてから二十数年間、安息の地だと信じて疑わなかった場所、相沢家の重厚な門の前で、その動きを完全に止めた。静かだが、有無を言わせぬ最終通告のように、エンジンがぷつりとその生命活動を停止させる。しんと静まり返った車内に、俺の、そして俺の隣に座る美穂の両親の、重く、凍てついた呼吸音だけが充満していた。
美穂は、バックミラーで後部座席の惨状を一瞥すると、その美しい唇に、満足とも嘲笑ともつかない、微かな笑みを浮かべた。そして、何のためらいもなく運転席のドアを開け、外に出ると、後部座席の俺側のドアを、まるで囚人に対する看守のように、ゆっくりと、しかし威圧的に開けた。
「さあ、降りなさい。あなたの、お城へ帰りましょう」
その声は、氷の破片を耳に流し込まれるように冷たく、俺の麻痺した鼓膜を鈍く刺激した。俺は、もはや自らの意志で身体を動かすことすら放棄していた。ただ、彼女に腕を掴まれ、引きずられるようにして、冷たいアスファルトの上へと、その無様な身体を降ろされる。右手首に繋がれた手錠が、じゃらりと、絶望の音色を奏でた。美穂は、その手錠の鎖を、まるで犬のリードでも扱うかのように無造作に掴むと、俺を従え、見慣れたはずの実家の玄関へと、一歩、また一歩と進んでいく。その後ろを、美穂の両親が、さながら死刑執行に立ち会う検察官のように、厳粛な面持ちで静かに続いた。
ピンポーン、という、あまりにも間抜けで、場違いなチャイムの音が鳴り響く。数秒の沈黙の後、ガチャリという鍵の開く音と共に、玄関のドアが内側から開かれた。そこに立っていたのは、正月の来客を迎えるための、少し改まったよそ行きのセーターに身を包んだ、俺の母だった。
「まあ、美穂ちゃん。それに、坂本のご夫妻まで、わざわざ新年のご挨拶に……」
母は、人の良さそうな、穏やかな笑みを浮かべていた。だが、その笑顔は、美穂の後ろに立つ、異様な姿の俺を視界に捉えた瞬間、まるで時間が凍りついたかのように、その表情筋を強張らせたまま、ぴたりと固まった。母の、大きく見開かれた瞳が、信じられないものを見るかのように、俺の顔と、そして、その手首で鈍い光を放つ手錠とを、何度も、何度も往復する。
「……なお、と……?その、手は……一体、どうしたの……?」
母の声は、震えていた。そこには、混乱と、驚愕と、そして我が子がとんでもない事件に巻き込まれたのではないかという、母親としての本能的な恐怖の色が、痛々しいほどに滲んでいた。その、狼狽しきった母の姿を前にして、俺の、凍てついていたはずの心の奥底が、ちくりと、小さな、しかし鋭い痛みを訴えた。申し訳ない。母さん、ごめん。そんな、声にならない謝罪の言葉が、喉の奥で虚しく溶けて消える。
だが、俺の隣に立つ冷徹な執行官は、そんな母親の動揺など、まるで道端の石ころでもあるかのように、全く意に介さなかった。
「お邪魔いたします、おばさま。少し、皆様でお話ししたいことがございまして」
美穂は、完璧な淑女の笑みをその顔に貼り付けたまま、しかし、その瞳は一切笑わずに、そう言い放った。そして、呆然と立ち尽くす母の脇を、何の躊躇いもなくすり抜けると、俺の腕を強く引き、有無を言わせず家の中へと上がり込んだのだ。
ひんやりとした玄関の御影石の感触。いつもと変わらない、我が家特有の、古い木材と、母が焚く白檀のお香が混じり合った、懐かしい匂い。その、あまりにも日常的な感覚が、今のこの非日常的な状況の異常さを、より一層、残酷なまでに際立たせる。俺は、まるで罪人よろしくうなだれたまま、美穂に引きずられるようにして、慣れ親しんだはずの家の、長い廊下を進んでいった。
美穂が目指す先は、分かっていた。この家の中心、そして、相沢家の権威の象徴でもある、奥の居間だ。そこにはきっと、父がいる。美穂は、その場所こそが、俺という名の罪人を断罪するための、最も相応しい舞台だと判断したのだ。
やがて、美穂の足が、その居間の、重厚な襖の前で止まった。彼女は、俺を振り返ることもなく、ただ、静かに、しかし、これから始まる神聖な儀式の幕を開ける神官のように、その襖に手をかけ、すうっと、音もなく左右に引き開けた。
その瞬間、俺の視界に飛び込んできた光景に、俺は息を呑んだ。
そこは、俺が子供の頃から、親戚一同が集まる度に、窮屈な思いをしてきた、あの厳かな和室だった。床の間には、立派な松の掛け軸が飾られ、その前には、金屏風が物々しい輝きを放っている。そして、その部屋の中央、上座に、三人の人物が、まるで俺の到着を待ち構えていたかのように、静かに、そして微動だにせず、座っていた。
一番奥に座っているのは、俺の父だった。いつもは書斎にこもりがちな、厳格な父。その顔には、既に坂本家から何らかの連絡があったのか、怒りというよりも、むしろ深い失望と、諦観の色が浮かんでいた。そして、その両脇を固めるようにして座っているのは、先ほど車に同乗してきた、美穂のお父さんと、お母さんだった。
完璧な、包囲網。
俺の逃げ場は、もはや、この地球上のどこにも残されてはいなかった。俺の、あまりにも個人的で、あまりにも優柔不断な行動は、今この瞬間、相沢家と坂本家という、二つの良家の社会的権威が睨み合う、公的な裁きの場へと、引きずり出されたのだ。
美穂は、その光景に満足したかのように、俺の背中を、どん、と無慈悲に押した。よろめきながら、部屋の中央へと進み出る俺。そして彼女は、俺の膝の裏を、そのハイヒールのつま先で、こつりと、鋭く蹴り上げた。
「ぐっ……!」
俺は、為されるがままに、その場に膝から崩れ落ちる。畳の、い草の匂いが、やけに強く鼻をついた。美穂は、俺が正座の体勢になるのを冷たく見届けると、俺の手首に繋がれた手錠の鎖を、まるで見せしめにするかのように、畳の上に、じゃらりと、わざとらしく音を立てて置いた。
俺は、手錠で繋がれたまま、両家の親という、絶対的な権威の前に、罪人として、正座させられた。四方から突き刺さる、六つの、冷たい視線。父の失望の視線。美穂の父の怒りの視線。そして、二人の母の、軽蔑の視線。その、無言の、しかしあまりにも重い視線の集中砲火に、俺の、既に崩壊しかけていた精神は、完全に、粉々に砕け散った。
部屋を支配していたのは、息が詰まるほどの、重苦しい沈黙だった。その静寂が、これから始まるであろう断罪の儀式の、恐ろしいほどの重みを、何よりも雄弁に物語っていた。
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### 第20話:悲劇の女優と、具現化する責任
息が、できない。
俺の肺は、この部屋を支配する、重く、冷たく、そして粘り気のある沈黙によって、完全にその機能を奪われていた。まるで、水深千メートルの海の底に、重りをつけられて沈められたかのように。鼓膜を圧迫する水圧にも似た静寂の中で、俺はただ、罪人として、畳の上に無様にひれ伏すことしかできなかった。
目の前には、四人の親たちが、まるで地獄の裁判官のように、微動だにせず鎮座している。父の、失望に染まった諦観の眼差し。美穂の父の、燃えるような怒りを宿した、鋭い視線。そして、俺の母と美穂の母、二人の母親の、軽蔑と戸惑いが入り混じった、氷のように冷たい眼。その六つの瞳が織りなす見えざる檻の中で、俺の精神は、もはや原形を留めないほどに、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。右手首に食い込む手錠の冷たさだけが、この悪夢が紛れもない現実であることを、俺に執拗に教え続けている。
どれくらいの時間が、その拷問のような沈黙の中で過ぎ去ったのだろうか。一分か、十分か、あるいは永遠か。やがて、その息の詰まる静寂を、最初に破ったのは、俺自身の父だった。
「……直人」
その声は、俺が今まで聞いた父の声の中で、最も低く、そして最も感情を削ぎ落とした、無機質な響きを帯びていた。それは、息子に向ける声ではなかった。自らが作り出してしまった、出来損ないの不良品を、処分する前に、その性能を確認するような、冷え冷えとした事務的な声だった。
「何か、言うことはないのか。坂本さんご一家に対して。そして、我々に対して」
言えと、言うのか。この状況で、俺に何を。謝罪か?言い訳か?それとも、潔く全ての罪を認めることか?だが、俺の喉は、まるで鉛で固められたかのように、ぴくりとも動かない。言葉が、出てこない。いや、そもそも、発すべき言葉を、俺は何一つ持ち合わせていなかった。俺の、空っぽになった頭蓋骨の内側で、ただ、意味のない、甲高い耳鳴りだけが、狂ったように鳴り響いていた。
俺が、石像のように固まったまま、何の反応も示せないでいると、俺の隣に、すっと、誰かが静かに膝をつく気配がした。美穂だった。彼女は、俺と同じように畳の上に正座すると、その背筋を、凛と、しかし、か弱さを感じさせる絶妙な角度で伸ばした。そして、絞り出すような、震える声で、その完璧な芝居の、第一声を発した。
「……お父様、お母様。そして、おじさま、おばさま。この度は、私たちの、不始末により、皆様にご心労と、ご迷惑をおかけいたしましたこと、心の底より、お詫び申し上げます。……誠に、申し訳ございません」
その声は、非の打ち所のない、完璧な謝罪の言葉だった。だが、その主語は、巧妙に、「私」ではなく、「私たち」にすり替えられていた。まるで、俺もまた、彼女と共に、この事態を深く反省している共犯者であるかのように。その、あまりにも狡猾な言葉の罠に、俺は気づくことすらできない。
美穂は、その華奢な肩を、わざとらしく、微かに震わせ始めた。そして、まるでこらえきれないとでもいうように、その美しい顔を、両手で覆った。指の隙間から、嗚咽とも、すすり泣きともつかない、か細く、痛々しい声が漏れ始める。それは、聞く者の同情を、これ以上ないほどに掻き立てる、完璧に計算され尽くした、悲劇のヒロインの慟哭だった。
やがて、彼女は、顔を覆っていた手を、ゆっくりと下ろした。その白い頬には、大粒の、しかし、決して化粧を崩すことのない、きらきらと輝く涙の筋が、二本、三本と、美しく描かれていた。涙に濡れたその切れ長の瞳は、潤んだ光をたたえ、見る者の心を締め付けるほどの、圧倒的な悲壮感を漂わせている。
そして彼女は、この舞台のクライマックスを告げる、最後の、そして最強の切り札を、震える声で、しかし、そこにいる全ての者の鼓膜を、そして魂を、確実に貫く明瞭さで、告げた。
「……申し訳、ございません。私の、このお腹の中に……相沢家の血を引く、新しい命が、おりますの」
その言葉は、まるで時を止める魔法のように、部屋の空気を、一瞬にして凍りつかせた。
妊娠。
その、あまりにも重く、そして絶対的な響きを持った四文字の単語が、俺の、完全に機能を停止していた脳天に、巨大な鉄槌のように、振り下ろされた。
嘘だ。何かの、間違いだ。
俺の思考が、最後の抵抗を試みる。だが、脳裏に、ここ最近の、彼女の不可解な行動が、パズルのピースがはまるように、次々と蘇ってきた。カフェラテの匂いに顔をしかめた、あの日のこと。やけに眠そうにしていた、講義中のこと。そして、何よりも、あれほど正確だったはずの、月のものが……。
全てのピースが、一つの、そして唯一の、絶望的な答えを指し示していた。
俺は、気づいていなかった。いや、気づこうとしていなかったのだ。目の前で起こっていた、あまりにも明白な現実の兆候から、ただひたすらに、目を逸らし続けていただけなのだ。
その瞬間、俺の中で、何かが、完全に、そして修復不可能なほどに、砕け散った。
指輪。そうだ、俺は指輪を渡した。あれで、全ては解決するはずだった。俺の罪は償われ、俺たちの未来は約束されるはずだった。だが、違った。全ては、無意味だったのだ。俺が、矮小な自己保身のために、必死で用意したあの物質的な代償など、彼女が手にした、この「生命」という、あまりにも絶対的な事実の前では、何の価値も持たない、ただのがらくたに過ぎなかった。
ロンドン旅行。そうだ、俺は旅行に逃げ込もうとしていた。学生最後の自由という名の、甘美なモラトリアム。だが、それも、全ては幻想だった。俺が、無責任な夢に浮かれている間、現実は、俺の知らないところで、決して覆すことのできない、重い、重い形となって、具現化していたのだ。
逃れようとしていた、「責任」。
その、曖昧で、実体のなかったはずの概念が、今、目の前で、涙を流す美穂と、その下腹部に宿るという、まだ見ぬ命の姿となって、俺の喉元に、その冷たい刃を、寸分の隙間もなく、突きつけていた。
絶望と、後悔。その二つの感情が、もはや区別のつかない、どす黒い巨大な塊となって、俺の身体を、内側から完全に喰い破った。俺は、もはや人間ではなかった。ただの、空っぽの、抜け殻だった。
「まあ……!美穂……!」
沈黙を破ったのは、美穂の母の、悲鳴にも似た声だった。彼女は、娘の元へと駆け寄ると、その震える肩を、強く、強く抱きしめた。
「なんてこと……。なんて、可哀想に……」
その光景が、引き金だった。
「……恥を知れッ!!」
俺の父が、生まれて初めて聞くような、獣の咆哮にも似た、低く、しかし腹の底から絞り出したような怒号を発した。その声は、空気そのものを震わせ、俺の、空っぽになった身体を、激しく揺さぶった。
そして、これまで静かに沈黙を守っていた、美穂の父が、ゆっくりと、しかし、地響きのような重みを伴って、口を開いた。その視線は、俺ではなく、俺の父へと、真っ直ぐに、そして鋭く突き刺さっていた。
「相沢さん。……これは、どう、落とし前をつけてくださる、おつもりかな」
その言葉は、もはや個人的な怒りや悲しみを通り越した、家と家との間に発生した、あまりにも重大な不祥事を、いかにして処理するのかを問う、冷徹な、ビジネスの交渉にも似た響きを帯びていた。
俺は、その、あまりにも重い言葉の応酬を、まるで遠い異国の出来事のように、ただ、呆然と聞いていることしかできなかった。俺という存在は、もはや、俺自身の意志とは何の関係もない場所で、ただ、処理されるべき「問題」として、俎上に載せられたのだ。
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### 第21話:究極の二択と、精神の降伏
時間が、死んだ。
美穂の父が発した、「どう、落とし前をつけてくださる、おつもりかな」という、地を這うような低い声。それは、この厳粛な和室の空気を、一瞬にして絶対零度まで凍てつかせた。俺の父は、そのあまりにも重い問いに、ぐっと言葉を詰まらせ、ただ悔しげに、そして情けなく、唇を噛み締めることしかできない。俺という、愚かな息子の不始末が、三代にわたって築き上げてきた相沢家の、そして父自身の誇りを、今この瞬間、完膚なきまでに踏みにじっているのだ。その、耐え難いほどの屈辱が、父の顔を、苦痛に歪ませていた。
その、息が詰まるほどの膠着状態を、まるでチェスの名手が、次の、そして決定的な一手を指すかのように、こともなげに打ち破ったのは、やはり、この茶番劇の脚本家であり、主演女優でもある、美穂だった。
彼女は、母の腕の中でか弱く泣きじゃくる悲劇のヒロインの仮面を、すっと、音もなく剥ぎ取ると、その涙に濡れた美しい顔を、ゆっくりと上げた。その切れ長の瞳には、もはや悲しみの色など、一片たりとも残ってはいない。そこにあるのは、全ての駒を完璧に配置し、王が逃げられないことを確認した、冷徹な支配者の、揺るぎない確信の光だけだった。
彼女は、おもむろに立ち上がると、俺の前に、まるで女王が、ひざまずく罪人の前に歩み寄るかのように、静かな、しかし有無を言わせぬ足取りで進んだ。そして、いつも持ち歩いている、あの上質な革のハンドバッグから、二つの、折り畳まれた紙片を、取り出した。
一つは、市役所で手に入れてきた、あの薄茶色の、忌まわしい紙。そしてもう一つは、彼女自身が用意したであろう、真っ白な便箋だった。彼女は、その二つの紙片を、俺の目の前、畳の上に、まるで裁判官が、判決文と、死刑執行命令書を並べて置くかのように、静かに、そして寸分の狂いもなく、並べた。
「おじさま、おばさま。そして、お父様、お母様。お騒がせいたしました。ですが、もう、ご心配には及びません。落とし前のつけ方は、私が、ちゃんと用意してございますから」
その声は、先ほどまでの震えるようなか細い声とは、全く別人のものだった。それは、低く、穏やかで、しかし、聞く者の背筋を凍らせるほどの、絶対的な冷たさと、有無を言わせぬ支配の響きを帯びていた。彼女は、そこにいる全ての大人たちを、もはや自分の計画を完遂させるための、ただの舞台装置としか見ていなかった。
そして、その冷たい視線は、ゆっくりと、畳の上にひれ伏す、俺という名の、抜け殻へと向けられた。
「直人。あなたには、今から、二つの道を与えてあげる。どちらを選ぶかは、あなたが、自分で決めなさい」
彼女は、畳の上に置かれた、薄茶色の紙を、白く、美しい指先で、とん、と軽く叩いた。
「一つは、この、婚姻届に、今すぐサインをすること。そうすれば、あなたは、私と、この子の父親としての責任を、夫として、全うすることができる。この度の不始末は、両家の内々の問題として、穏便に処理されるでしょう」
その言葉は、一見すると、救済の提案のようにも聞こえた。だが、その声に含まれた、侮蔑と、嘲笑の色を、俺の、完全に麻痺したはずの魂は、確かに感じ取っていた。
そして、彼女の指は、隣に置かれた、真っ白な便箋へと、ゆっくりと滑る。
「そして、もう一つ。もしあなたが、その責任から逃げるというのなら」
彼女は、その便箋を、まるで貴重な証拠品でも扱うかのように、そっと手に取ると、そこに書かれた文字が、俺にも、そして、そこにいる全ての親たちにも見えるように、ゆっくりと、広げてみせた。そこには、彼女の、流麗で、しかし、一画一画に、冷たい怒りが込められたような、見慣れた筆跡で、こう記されていた。
『被害届』
その、あまりにも暴力的な三文字が、俺の視界に、そして脳髄に、焼印のように、焼き付けられた。
「私は、今から、たった一人で、警察署へ向かいます。そして、この被害届を、提出する。……あなたは、私が眠っているのをいいことに、その欲望を一方的にぶつけた。これは、紛れもない、準強姦という、立派な犯罪行為よ。そうなれば、相沢家の御曹司であるあなたの輝かしい未来は、どうなるかしら。内定は、もちろん取り消し。良家の恥として、あなたの名前は、未来永劫、泥にまみれることになる。もちろん、前科者としてね」
それは、究極の、二択。
社会的な死か、それとも、彼女の完全な支配下での、家畜としての生か。
俺に与えられた選択肢は、そのどちらかしか、残されてはいなかった。
その、あまりにも冷酷で、あまりにも残酷な宣告を、俺は、ただ、感情の抜け落ちた、虚ろな目で聞いていた。抵抗しようという気力すら、もはや湧いてこない。彼女の計画は、完璧だった。俺の、優柔不断で、責任から逃げ続けるという、ヘタレな精神構造を、完全に読み切った上で、決して逃れることのできない、絶対的な、そして完璧な罠が、仕掛けられていたのだ。俺は、その罠に、自らの愚かさ故に、あまりにも無様に、そして完全にかかってしまった、哀れな獣だった。
「……この、人でなしがッ!!」
その時、沈黙を破って、俺の父の、獣の咆哮が、再び部屋中に轟いた。父は、その怒りを、もはや抑えきれないとでもいうように、猛然と立ち上がると、俺の元へと歩み寄り、その胸ぐらを、鷲掴みにした。そして、振り上げたその右手が、乾いた、肉の打つ音と共に、俺の左頬を、思い切り、張り飛ばした。
バシンッ、という、あまりにも生々しい破裂音。
俺の身体は、その衝撃で、畳の上に、無様に転がった。じんと、熱い痛みが、頬から、そして顎へと広がる。口の中に、鉄の味が、じわりと滲んだ。だが、不思議と、涙は出なかった。痛みよりも、屈辱よりも、ただ、全てが無になったような、絶対的な虚無感が、俺の心を支配していた。
「貴様は、この相沢家の恥だ!我が家の、末代までの恥だッ!」
父は、倒れた俺の身体に馬乗りになると、まるで狂ったように、何度も、何度も、その拳を、俺の顔に、胸に、叩きつけた。俺は、されるがままに、その暴力を、まるで他人事のように、受け止めていた。母の、悲鳴のような泣き声が、遠くで聞こえる。美穂の両親が、それを止めようともせず、ただ冷たい目で見下ろしているのが、視界の端に映った。
やがて、父の動きが、はあ、はあと、荒い息をつきながら、止まった。俺は、腫れ上がった顔で、ぼろきれのように、畳の上に転がっていた。
その、地獄のような光景を、美穂は、ただ、静かに、そして、一切の感情を浮かべない、ガラス玉のような瞳で、見下ろしていた。
そして、彼女は、ハンドバッグから、一本の、万年筆を取り出すと、それを、二枚の紙片の横に、ことり、と、静かな音を立てて置いた。
それは、俺の、精神的な死を、法的に確定させるための、最後の、そして最も重要な、儀式の道具だった。
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### 第22話:虚脱と、自由の終焉
時間は、その流れを完全に止めていた。いや、あるいは、俺という存在だけが、流れる時間という名の川から、無残に岸辺へと打ち捨てられてしまったのかもしれない。父の拳によって殴りつけられた頬が、じくじくと、熱を持った鈍い痛みを訴えている。口の中に広がる鉄の味は、切れた口の端から流れる血の味か、それとも、砕け散った俺の魂そのものの味か。もはや、判別することすら、億劫だった。
俺は、ぼろきれのように畳の上に転がったまま、ただ、焦点の合わない虚ろな目で、天井の木目をぼんやりと見上げていた。父の、荒い呼吸音。母の、息を殺して嗚咽する、か細い声。そして、この地獄の舞台を支配する、四人の大人たちの、重く、冷たい沈黙。その全てが、まるで厚いガラスを一枚隔てた、遠い世界の出来事のように、ひどく現実感を欠いて聞こえていた。
やがて、俺の視界に、影が差した。見上げなくとも分かる。美穂だ。彼女は、先ほどまで俺を冷たく見下ろしていたその場所から、一歩、また一歩と、静かな、しかし、女王のように威厳に満ちた足取りで、俺の元へと近づいてきていた。そして、俺のすぐ傍らに、音もなく、そのしなやかな身体を屈めた。
彼女の、いつもと変わらない、甘く、そして今は死の香りにも似たフローラル系の香水の匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。彼女は、畳の上に無様に転がる俺の身体を、まるで道端に落ちた汚物でも見るかのように、一瞥した。その瞳には、もはや侮蔑の色すら浮かんでいない。ただ、目的を達成するための、最後の作業をこなす前の、無機質で、感情の抜け落ちた光があるだけだった。
彼女は、俺の目の前、血で汚れた畳の上に、あの二つの紙片を、再び、静かに置いた。社会的な死を約束する『被害届』と、彼女の家畜としての生を規定する『婚姻届』。そして、その横に、まるで断頭台のスイッチであるかのように、あの万年筆を、ことり、と、冷たい音を立てて添えた。
「さあ、選びなさい、直人」
その声は、悪魔の囁きのように、甘く、そしてどこまでも残酷だった。
「もう、あなたに、抵抗する力も、権利も、残されてはいないでしょう?」
その通りだった。俺の、矮小なプライドも、最後の意地も、父の物理的な暴力と、彼女の絶対的な精神的支配によって、完全に、そして跡形もなく粉砕されてしまった。俺は、もはや、選ぶという、人間としての最も基本的な機能すら、奪われてしまっていたのだ。選択肢は、初めから、一つしか用意されていなかった。
俺は、まるで、見えない糸に引かれる操り人形のように、ゆっくりと、震える身体を起こした。殴られた頬の痛みが、再び、鋭く、現実の感覚として蘇る。だが、そんな肉体的な痛みなど、もはやどうでもよかった。俺は、虚ろな目のまま、畳の上に置かれた、万年筆へと、手を伸ばした。ひんやりとした、黒檀の軸の感触。それは、俺自身の墓標に、自らの手で名前を刻むための、最後の道具だった。
俺は、その万年筆を、まるで、自分の体重の全てを預けるかのように、重く、そして力なく握りしめた。そして、そのペン先を、薄茶色の紙片、婚姻届の上に、そっと、下ろす。
『夫となる者 署名』。
その、無機質な活字が、滲んで見える。それは、涙のせいではなかった。俺の魂が、その最後の瞬間に、この世界から完全に乖離していく、その兆候だったのかもしれない。
俺は、書いた。震える指先で、ただ、言われるがままに、そこに、自分の名前を。
相沢直人。
その、たった四文字のインクの染みが、俺という人間の、過去と、現在と、そして、これから訪れるはずだった、全ての未来を、永久に、縛り付けた。それは、署名という行為ではなかった。俺の、自由の死を、法的に証明するための、死亡届への、血判だった。
書き終えた瞬間、俺の手から、万年筆が、ことり、と力なく滑り落ちた。俺の身体を支えていた、最後の糸が、ぷつりと切れる。俺は、再び、畳の上に、前のめりに崩れ落ちた。もう、指一本、動かす気力も残っていなかった。
美穂は、その俺の無様な姿を、満足げに見下ろすと、完成されたその書類を、まるで戦利品でも確かめるかのように、そっと手に取った。そして、その隣に座る、俺の父へと、それを、静かに差し出した。
「おじさま。あとは、証人欄へのご署名を、お願いいたします」
父は、何も言わずに、まるで罪人のような顔で、その紙を受け取ると、懐から取り出した自身の印鑑で、そこに、重々しく、血のような色の印影を、押した。
婚姻は、確定した。
俺の意志など、何の関係もない場所で。俺の知らないうちに用意された舞台の上で。俺は、法的に、そして社会的に、坂本美穂の夫となり、そして、まだ見ぬ子の、父親となったのだ。
その、あまりにも重く、そして絶対的な事実が、俺の、空っぽになった頭蓋骨の内側で、ただ、虚しく、虚しく、反響していた。
虚脱感。
それは、疲労や、絶望といった、生易しい感情ではなかった。俺という存在そのものが、この世界から、完全に消滅してしまったかのような、絶対的な、無。ただ、それだけが、そこにあった。
美穂は、全ての作業が終わったことを確認すると、ハンドバッグから、小さな、銀色の鍵を取り出した。そして、俺の右手首で、その存在を主張し続けていた、冷たい鉄の輪に、その鍵を、差し込んだ。
カチャリ、という、小さな、乾いた金属音。
俺の自由を、物理的に奪っていた手錠が、その拘束を解いた。手首に残る、冷たい金属の感触と、赤黒く鬱血した、痛々しい痕。それは、俺が、彼女の所有物となったことを示す、消えることのない、奴隷の烙印だった。
自由になった。だが、それは、より巨大で、決して逃れることのできない、目に見えない檻へと、移されただけのことだった。
夫、という名の。父親、という名の。そして、責任、という名の。
俺の、甘く、無責任だった青春は、この、正月元旦の、冷え冷えとした和室の中で、誰に看取られることもなく、あまりにも惨めに、そして、完全に、その終わりを告げた。
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### 第23話:支配の完成と、愛の言語化
カチャリ、という小さな金属音が地獄のような静寂に包まれた和室に響いた。俺の自由を物理的に奪っていた手錠がその拘束を解く。手首に残された赤黒く鬱血した痛々しい痕は、俺が彼女の所有物となったことを示す消えることのない奴隷の烙印だった。
自由になった。だが、それはより巨大で決して逃れることのできない、目に見えない檻へと移されただけのことだった。夫という名の檻。父親という名の檻。そして、責任という名の檻。俺の甘く無責任だった青春は、この正月元旦の冷え冷えとした和室の中で、誰に看取られることもなく完全にその終わりを告げた。
その時だった。俺の耳に、まるで舞台の終幕を告げる最後の台詞のように静かな、しかし部屋中の空気を震わせるほどの絶対的な重みを持った声が響き渡った。
「手順を守らなかったあなたが悪い。私、ずっと待っていたし、楽しみにしていたのに。一番楽しいところをすっ飛ばして私を奪ったんだから仕方ないわよね?このヘタレ」
声の主は美穂だった。
彼女は俺の前に女王のように音もなくそのしなやかな身体を屈めていた。その切れ長の瞳はもはや涙の痕跡すら残っておらず、ただ全てを手に入れた支配者の底なしの静けさと揺るぎない確信の光をたたえていた。そして、俺のその虚ろな瞳を真っ直ぐに容赦なく射抜いていた。
その言葉が俺の機能を停止していたはずの脳髄に、灼熱の鉄の棒を突き立てられたかのように強烈な衝撃を与えた。
手順?一番楽しいところ?奪った?
何を言っているんだこの女は。俺が聞きたかったのはそんな言葉ではない。罵倒か、軽蔑か、あるいは勝利の宣言か。そのどれかならまだ理解できた。だが彼女の口から紡がれたのは、待ち望んでいたプレゼントの包装を乱暴に破られてしまった子供が拗ねてみせるような、あまりにも倒錯した甘えにも似た響きを帯びた詰問の言葉だった。
その瞬間、俺は理解してしまった。
彼女のこの二十年近い歳月をかけた壮大な計画の、その全貌を。彼女が本当に欲しかったものを。
彼女はただ俺と結婚したかったわけではない。彼女が望んでいたのは物語だ。幼馴染のヘタレな男の子がいつか自分に相応しい立派な王子様へと成長する。そして、その口から甘い愛の言葉と共にひざまずき、ガラスの靴ならぬプラチナの指輪を差し出してくるという完璧なおとぎ話を。卒業旅行という最高の舞台装置の中で、最高の演出と共に最高のプロポーズを受けること。それこそが彼女がずっと夢見て待ち望んでいた、「一番楽しいところ」だったのだ。
だが、俺はその全てを台無しにした。
俺の優柔不断と責任からの逃避。そして、罪悪感から逃れるためだけのあまりにも身勝手な衝動的な性行為と、償いという名の無言の指輪。その全てが彼女が大切に温めてきた完璧な物語の脚本を、無残にも引き裂いたのだ。
だから、彼女は怒った。そして、自らの手でその破られた脚本を最も過激で最も暴力的な形で書き換えることにした。王子様がその役目を果たせないというのなら、魔女がそのヘタレな男を鎖と呪いで縛り付け無理やり自分のものにする。その歪んだ結末こそが、彼女にとっては唯一残された愛の完成形だったのだ。
「このヘタレ」。
その最後の決定的な一言。それはもはや単なる罵倒ではなかった。
それは、愛の告白だった。
あなたのそのどうしようもない優柔不断さも、決断から逃げ続ける臆病さも、その全てを私は昔からずっと知っていた。そして、その弱さも含めて丸ごと愛していた。その弱さがあるからこそ私があなたの前に立ちあなたの手を引き、あなたを守ってあげることができたのだから。その歪んだ愛情こそが、彼女にとってはあまりにも純粋で絶対的な支配という名の愛情表現だった。
その恐ろしいほどの真実が、俺の空っぽになった魂の中に鉛のように重くそして熱く流れ込んできた。
俺はこの女から決して逃れることはできない。なぜなら彼女は俺の罪も弱さもその全てを理解した上で、それでもなお俺を自分のものとして選んだのだから。
支配と愛。その決して相容れないはずの二つの概念が完全に一体となった、重くそして抗いがたい現実。俺はその絶対的な重圧の下でただ息をすることしかできなかった。
美穂はそんな俺の姿を満足げに、そしてどこか慈しむように見つめるとすっと立ち上がった。そして部屋の隅で未だに呆然と立ち尽くす俺の両親と自分の両親に向かって、まるで全てが円満に解決したとでもいうように完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。
「皆様、ご心配をおかけいたしました。ですが、ご覧の通りこのヘタレもようやく覚悟を決めたようですので。これにて一件落着ということで、よろしゅうございますね?」
その言葉に誰も逆らうことはできなかった。
俺の人生は今この瞬間、完全に彼女の手に落ちたのだ。
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はい、承知いたしました。
すべての設定、プロット、および既存の執筆部分を完全に読み込み、把握しております。
これより、ご指示に従い物語の最終話である第24話の執筆を開始します。
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### 第24話:責任の重みと、愛の始まり
嵐が、過ぎ去った。いや、あるいは嵐は今まさに始まろうとしているのかもしれない。断罪の儀式を終えた大人たちは、まるで能の演者が舞台を去るかのように一人、また一人と静かに居間から姿を消した。残されたのは、屠殺された家畜のように畳の上に転がる俺と、その全てを冷徹に見届けた支配者である美穂。そして、凍てついたように重い沈黙だけだった。
どれくらいの時間が流れたのだろうか。虚ろな目で天井の木目を数えていた俺は、不意に、すぐ傍らで衣擦れの音がするのに気づいた。美穂が、俺の隣に音もなく正座していた。その横顔からは、先ほどまでの鋼のような冷徹さは消え去り、ただ深い疲労と、そしてどこか満ち足りたような静けさが漂っていた。
「……痛む?」
静寂を破ったのは、彼女の、驚くほど穏やかな声だった。その声が指し示すのが、父に殴られた俺の頬のことであるのはすぐに分かった。俺は、何も答えなかった。いや、答えられなかった。肉体的な痛みなど、もはや俺の意識には存在しない。俺の心は、それよりも遥かに深く、そして治癒しようのない傷によって、完全に破壊され尽くしていたからだ。
俺の沈黙を、彼女は肯定と受け取ったらしい。すっと立ち上がると、居間を出て行った。数分後、戻ってきた彼女の手には、救急箱が握られていた。彼女は再び俺の隣に座ると、慣れた手つきで消毒液を脱脂綿に含ませ、俺の腫れ上がった頬に、そっとそれを押し当てた。
ぴりりとした鋭い痛みが走り、俺の身体が思わず強張る。だが、その痛みが、麻痺していた俺の感覚を、ほんの少しだけ現実の世界へと引き戻した。彼女の、驚くほどに優しい手つき。消毒液の、ツンと鼻をつく匂い。そして、手当てをする彼女の、真剣な眼差し。それは、まるで幼い頃、俺が転んで膝を擦りむくたびに、文句を言いながらも、いつも手当てをしてくれた、昔の彼女の姿そのものだった。
なぜ。どうして、今さら、そんな優しい顔をするんだ。俺を、ここまで追い詰めたのは、お前じゃないか。
そんな、あまりにも身勝手な怒りにも似た感情が、俺の、空っぽになった心の底から、か細く湧き上がってくる。だが、その感情は、次の瞬間、彼女の指先が、俺の頬を伝う一筋の涙を、そっと拭ったことで、跡形もなく消え去った。
俺は、泣いていた。自分でも、気づかないうちに。
それは、悲しみの涙ではなかった。悔しさの涙でも、痛みに対する涙でもない。それは、俺という人間が、完全に死んだことを悼む、弔いの涙だったのかもしれない。
その涙を見て、美穂は、初めて、ほんの少しだけ、その表情を揺らがせた。
「……ごめん」
ぽつりと、彼女の唇から、あまりにも意外な言葉が、零れ落ちた。
「え……」
俺は、思わず、声にならない声を漏らした。今、この女は、謝ったのか。この、完璧な計画で俺を地獄の底に叩き落とした、この冷徹な支配者が。
「私も、やりすぎたわ。こんなやり方しか、できなかった。……だって、あんまりあなたが、ヘタレなんだもの」
その声には、いつもの憎まれ口の響きが、微かに戻っていた。だが、その奥には、これまで感じたことのない、深い、深い悲しみの色が、滲んでいるように思えた。
その時、俺の中で、何かが、変わった。
強制的に受け入れさせられた、この「責任」という名の重い鎖。それは、俺の自由を奪い、俺の青春を終わらせた、呪いの枷ではなかったのかもしれない。それは、二十年というあまりにも長い歳月をかけて、俺というどうしようもない男から、ただ一つの言葉を引き出すためだけに、彼女が、たった一人で用意しなければならなかった、最後の、そして唯一の手段だったのではないか。
言葉。
そうだ、俺は、ずっと、言葉から逃げてきた。好きだという言葉。結婚しようという言葉。そして、ごめんという、責任を伴う、全ての言葉から。その俺の卑劣な沈黙が、彼女を、ここまで追い詰めたのだ。彼女を、ただの勝ち気な幼馴染から、冷徹な魔女へと、変えてしまったのだ。
俺は、ゆっくりと、その破壊された身体を、起こした。そして、初めて、自らの意志で、彼女の、その真っ直ぐな瞳を、見つめ返した。
「……美穂」
俺の口から、声が出た。それは、自分でも驚くほど、静かで、そして、はっきりとした響きを持っていた。
「俺が、悪かった」
言えた。今まで、決して口にすることのできなかった、責任を伴う、その言葉が。
「ずっと、お前に甘えてた。何も言わなくても、お前は分かってくれるって、勝手に思い込んでた。お前が、俺の隣にいるのが当たり前だって、そう、信じて疑わなかった。……怖かったんだ。お前に、嫌われるのが。この、生ぬるい関係が、壊れるのが。だから、ずっと、一番大事な言葉から、逃げてた」
言葉が、溢れてくる。それは、誰かに強制された言葉ではない。俺自身の、心の底から湧き上がってくる、本当の言葉だった。
「お前が好きだ、美穂。昔から、ずっと。お前は、俺にとって、太陽みたいに眩しい、憧れの存在だった。そんなお前を、俺なんかが、縛っていいはずないって、ずっと思ってた。……でも、違ったんだな。俺は、お前を縛るんじゃなくて、お前と、共に生きる責任を、負うべきだったんだ」
俺は、一度、言葉を切った。そして、この物語を終わらせるための、最後の言葉を、紡ぐ。
「遅くなって、本当にごめん。……俺と、結婚してください。そして、俺を、お腹の子の、父親に、してください」
それは、プロポーズの言葉としては、あまりにも惨めで、あまりにも格好の悪い、最低の告白だった。だが、それは、俺が、生まれて初めて、自らの意志で、責任を、引き受けた瞬間だった。
俺の言葉を聞き終えた美穂の瞳から、一筋、美しい涙が、静かに流れ落ちた。だが、その唇には、俺がずっと見たかった、あの、勝ち気で、そして、どうしようもなく愛おしい、いつもの笑顔が、戻っていた。
「……当たり前でしょ、このヘタレ。二十年も、待たせたんだから。一生かけて、責任、取りなさいよ」
その言葉は、紛れもない、彼女なりの、最高の祝福だった。
俺は、その言葉を、心の底から噛み締めながら、静かに、そして深く、頷いた。
俺の青春は、終わった。
だが、それは、絶望の終わりなどではなかった。
重く、そして、どうしようもなく愛おしい、責任という名の、新しい人生の、始まりだったのだ。
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大変失礼いたしました。
最終話である第24話の執筆を命じられたと誤解し、エピローグの執筆を行いませんでした。プロの小説家として、ユーザーの指示を正確に把握できず、誠に申し訳ございません。
ご指示に従い、美穂の視点から物語を振り返るエピローグを執筆いたします。読点ルール、および物語全体のガイドラインを厳格に遵守し、細心の注意を払って生成いたします。
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### エピローグ:美穂の長い一日
入籍した翌日に急遽、知り合いの写真スタジオで両親たちと私たち夫婦だけで結婚写真を撮影しに来ていた。両家の親戚一同が集まる新年会を、私たちの披露宴にすることになって、その会場に飾るのだという。メイクをしてもらいながら、私は、夫との歩みを思い出していた。
物心ついた頃には、もう私の隣に直人がいた。
一緒に泥だらけになって遊び、一緒に机を並べて学び、どうでもいいことで喧嘩しては一緒に泣いて、そして疲れたら寄り添って一緒に眠った。恋とか友情なんていう、面倒な言葉を覚えるずっと前から、私は直人のことを「私のもの」だと思っていた。幼い私にとって、両親以外で直人といる世界が、世界のすべてだったのだ。
母が父の世話を甲斐甲斐しく焼く姿を、私はいつも見て育った。だから、私が直人の世話を焼きたがるのは、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。私が世話を焼いた分以上に、直人はいつも私を楽しませてくれたし、何より、優しかった。ただ一つだけ、寂しいことがあるとすれば、彼が私に対する気持ちを、決して言葉にしてはくれなかったことだ。
だから、私の方から宣言してあげたのだ。「私のものは私のもの。あなたのものも私のもの。あなたは私のもの。私はあなたのもの」と。直人は、それを否定しなかった。そんな我儘を言っても、彼は馬鹿にしたように笑うだけで、ずっと私の傍にいてくれた。
思春期になって、身体のラインが少しずつ変化してきた時も、直人は他の女の子ではなく、私のことを顔を赤らめながらずっと見てくれた。私が困っている時には、何も言わずにそばに来て、その不器用な手で助けてくれた。一緒にいるだけで、どうしようもなく楽しかった。
私はこの頃から、夢を見るようになった。普段は何も言ってくれない彼だけれど、いつかきっと、最高のシチュエーションで、最高のプロポーズの言葉を私に捧げてくれるのではないかと。
高校生になる頃には、私たちの関係は、もはや疑いようのない既成事実となっていた。私の両親も、直人の両親も、そして親戚中の誰もが、私たちの縁談を当たり前のこととして語っていた。直人はそれを否定しなかったし、私がからかわれて恥ずかしそうにしていると、さりげなく庇ってくれた。彼は口下手で優柔不断ではあったけれど、私への誠意と愛情だけは、その不器用な態度で、いつも示してくれていたのだ。
大学生になっても、その態度は変わらなかった。私は、だんだんと焦れてきていた。だから、私は彼のプライベートな空間を、少しずつ侵略し始めた。箸とお茶碗と歯ブラシから始まって、彼の部屋は、私の私物で少しずつ、しかし確実に埋められていった。ついには、ほぼ同棲状態になっていた。私が食事の用意をして、一緒に食事をして、寝食を共にしても、直人は私に愛を囁いてはくれなかった。私が下着姿を晒すようになっても、彼は決して私に手を出すことはなかった。でも、一緒に暮らし、一緒に学び、一緒に遊ぶその日々は、私にとってかけがえのない宝物だった。
そんな時、ついに運命の日が来た。
卒論の準備で疲れて眠っていた私が目を覚ますと、下腹部に鈍い痛みがあり、シーツが何か分からない異臭のする液体で濡れていた。そして何より、自分は全裸だった。隣にいるはずの直人の姿はない。私の目に、じわりと涙が溢れた。なんで。なんで手順を踏んで、私を口説いてくれなかったの。ちゃんと口説いてくれたら、私の身体なんて、いくらでもあなたに差し出してあげたのに。なんで、無断でこんなことをしたの。
私だって、女の子だ。初めての時を、愛する直人と、最高の形で共に過ごすことを、ずっと夢見てきたのだ。それなのに、現実はあまりにも惨めだった。彼のぬくもりはなく、身体は鈍痛を訴えている。寝床は、私が処女を失った証と、何か分からない液体でぐっしょりと汚れていた。怒りと悲しみを訴えようにも、その最愛の人は、卑怯にも逃げてしまった後だった。最悪だ。
私は、待った。部屋を片付け、汚れたシーツも綺麗にして、食事の用意をして、ただひたすらに直人を待った。彼のことを考えるだけで、他に何も手につかなかった。夜になっても、彼は帰ってこなかった。寝る時間になって、私は考えた。そして、全裸になってベッドに入った。私はあなたのもの。私の身体が欲しいなら、自由にしていい。だから、お願いだから、戻って来て。
朝になって、再び下腹部に違和感を感じると共に、私は何か温かいものに包まれていることに気づいた。直人だった。起こして問い詰めてやろうと思ったその時、左手の薬指に、見慣れないものがあるのに気がついた。指輪だった。
私の期待していた、最高のシチュエーションからは程遠い、限りなく0点に近いプロポーズ。それでも、直人はやっと、その想いを私に伝えてくれたのだ。本当に、長い、長い一日だった。私の目から、安堵の涙が、静かに流れ落ちた。
もっとも、直人がどうしようもないヘタレであることには、何一つ変わりはなかった。そして、この後、私が彼の子供を身籠ったことで、あの正月の、大掛かりな騒動へと繋がっていくことになる。あの日の私は、待ち望んだ物語とは違う結末に少しだけ残念に思いながらも、確かに、幸せだったのだ。
【完】




