5.かわいい後輩
午後のオフィスは静かで、カタカタとキーボードの音だけが規則的に響いていた。エアコンから流れてくるささやかな風と、さっき食べた昼ごはんの余韻で眠くなってくる。
「はぁ……」
そんな穏やかな昼下がりなのに、俺は心配事でつい深いため息が漏れる。
(ミサのやつ……ちゃんと起きてんのかな)
頭に浮かぶのは、10時間前から俺の部屋に居候し始めた神だ。
未だに寝てるだけならまだマシだ。気になっているのは、俺が軽い気持ちで書き置きした「昼ごはんを温めて食え」という一文だ。そう書いたのは良いけど、あの文明音痴のことだ、電子レンジなんて文明の塊を使えるわけがない。最悪、火花でも散らして部屋ごと吹っ飛ばす……なんて馬鹿げた想像すら浮かんでしまう。
「はぁ……」
事前に補償が手厚い火災保険に入っとくべきだったと、今度は後悔のため息をついた時だった、
「先輩……ため息、多くないですか?」
隣のデスクから柔らかい声が聞こえてきた。
「悩み事ですか? お昼休み終わってからすでに5回目ですよ?」
「桜田さん……数えてたの?」
桜田杏さん。彼女は入社3年目の1つ後輩で、俺が彼女の教育係だったこともあって、他の後輩たちより関わりが深い。
「今日はため息が多かったので、つい」
そう言って桜田さんはニコっと笑う。その仕草でひとつでオフィスの空気が変わる。
肩までの黒髪はきれいに整えられていて、笑うと大きな瞳が柔らかく揺れる。
小柄で華奢で、どこか守ってあげたくなる雰囲気、誰が見ても絵に描いたようなかわいい後輩だ。
「だって、ため息つくたびに幸せが逃げるって言いますよ? このペースだと定時前には先輩の幸せは無くなってしまいます」
「失礼な、俺の幸せはまだ残ってる」
「減ってることは否定しないんですね……じゃあ、これで幸せ補充してください」
桜田さんはポケットから小さなキャラメルを取り出して俺に差し出す。
悪戯っぽく笑う顔が、俺の肩の力を抜けさせた。
「勤務中に堂々とお菓子配るなよ」
「うわっ、教育係みたいなこと言わないでくださいよー。こんなの誰も気にしませんって」
本来は先輩として止めないといけないが、残業続きの体と寝不足の頭にそんな余裕はなく、俺はおとなしくキャラメルを受け取った。
「……で、何かあったんですか? 先輩がそんなに思い詰めるの珍しいじゃないですか」
「あー……まあ、大したことじゃないよ。今日は久々に定時で帰れるかなって思ってただけ」
ごまかすように俺は笑った。
本当は今すぐ帰って、ミサの様子と部屋の安否を確認したい。けれどそんなことを言えるはずもなく、仕方なく半分だけ本音を混ぜた。嘘はついてないし許して欲しい。
「最近の先輩、残業祭りですもんね」
「今すぐに後の祭りになってほしい」
そんなクソみたいな祭りは会場ごと燃やして欲しい。
「仕事できすぎるのも考えものですね……」
「あははー、今回のクライアントマジで嫌いー」
「目が笑ってないですよー」
そういう仕事だと言われれば何も言い返せないけど、特にうちみたいな小さい映像会社はクライアントの意見に対して全て頷くしかない。8時間かけて編集した箇所を3分のチェックで全て否定されることなんてざらにある。
「はは……」
それでもやるしかない。仕事だから。
「……じゃあ、先輩。今日もし定時で帰れたら、一緒に飲みに行きませんか? 先輩を励まそうの会です」
「桜田さん……」
ネガティブになった俺を気遣ってか、珍しく桜田さんが食事に誘ってくれた。こういった気遣いが出来るのも、後輩として可愛がられる理由なんだろう。
「あんまり思い詰めないでくださいね、こう見えて先輩のこと心配しているんですよ?」
「……ごめん、今日は外せない予定があるんだ」
「そう……ですか……」
「ごめん、せっかく誘ってくれたのに」
「……先輩、やっぱり何か悩み事ありますよね? 隠し事してる時の先輩分かりやすいんですよ?」
その目は笑っているようでいて、意外と鋭い。後輩らしい甘さだけじゃなくて、観察力のあるところも彼女らしい。
「まあ、誰だって悩みの一つや二つはあるだろ?」
「でもでも、それにしても先輩は弱いところを見せないから……余計に気になっちゃうといいますか」
そう言って小さく笑った桜田さんは、ほんの一瞬だけ寂しそうな顔をした。いつも明るく振る舞っているけど、きっと彼女なりに思うところがあるんだろう。
「……心配してくれてありがとな。でも、ほんとに大丈夫だから、明日にでも俺の奢りで飲みに行こう」
「言いましたね〜? すっごく高いお店連れてってもらいますからね」
「ちゃっかりしてるな」
「私のお誘いを断った天罰です」
「いつから神になったんだよ」
「えへへ〜」
桜田さんのおかげで、場の空気が少しだけ柔らかくなった。……だけど、俺の心はやっぱり落ち着かない。
……ミサはちゃんと大人しくしてるだろうか。