第8話・ようこそ、アルカディアへ
永遠に続いているように見える草原で、雪華はただただ走っていた。
大きく息を切らしながら、できる限り早く足を動かす。
走り続けていると、ポツポツと、雨が降り始める。
それでも走り続けると、小雨だったのが、いつのまにか雷を伴って降り注ぐ、嵐へと変わっていった。
それでも、雪華は走り続ける。
意識は朦朧とし、息が上手く吸えなくなっても、何かを恐れるように走り続ける。
いつのまにか、雨は止んでいた。
空からは、朧月が雪華を見下ろしていた。
それでも走り続けると、1人の人影が見える。
雪華は人影に向かって、手を伸ばしながら近付く。
「 」
人影が何かを呟く。
雲が晴れて、月光があたりを照らし始める。
「待って! お願い! 様!」
雪華が泣き叫びながら必死に腕を伸ばす。
「待——」
「——って!」
雪華が腕を伸ばすその先にあったのは、寝室の天井だった。
「……あれ? 夢?」
雪華はゆっくりと上半身を起こす。
伸ばしていた手をじーっと見つめながら、呟く。
「すごいリアルな夢……あれ、誰だったんだろ……」
少しの間、どこか遠くを見ながら考えると、最終的にこう結論づけた。
「ま、何でもいっか」
雪華はベッドから飛び降り、ぐーっと体を伸ばす。
そしてベッドの横に置いてあるスマホを手に取り、目を見開いて驚愕した。
スマホに表示されていた時間は、『11:18』だった。
「もうこんな時間……よく寝たな。昨日は10時に寝たから、13時間睡眠じゃん」
その事実に軽く笑っていると、雪華は何かを思い出した。
「あれ? そういえば、AWMがリリースされるのって……今日の9時! もう2時間経ってるじゃん!」
その事実に気付いた雪華は、「まずいっ!」と叫びながら大急ぎで朝の支度を始めたのだった。
「遅かったようだな。もう時間はとっくに……なぜそんなにボロボロなんだ?」
のんびりと紅茶を飲んでいる天使の目の前で、セレネはぐったりした様子で座り込んでいた。
その様子を見た天使は、少し引き気味である。
「はぁ……まず起きたのが11時だった」
セレネはぽつりと呟く。
「そうか……寝坊だな」
「うん。それで、急いで支度してたら……思いっ切り本棚倒した」
その言葉に天使は呆れ顔をする。
「貴女は何をしてるんだ。全く……それじゃあ今から転移の準備をするぞ」
「こっちに来い」と、天使がセレネを手招きする。
その指示に従って、セレナは近寄って天使の前にあるイスに座った。
「実はな、貴女には謝らなければならないことがある」
天使が、重そうな雰囲気でそう話し出す。
「本当はな、私と貴女が戦う前に、いくつか決めなければいけないことがあったんだ」
(えー、何忘れちゃってんの天使さーん)
「……何か言いたそうな顔してるな? 全く表情は変わってないのになんでか分かったぞ」
「ぎくっ」
「それは口に出すな」
「はーい」
雪華は心のこもってない返事をしながら、右手をだるそうに上げた。
「まぁ、忘れた私が悪いんだが……その決めなければならないことは、2つだ。1つ目は痛覚設定。2つ目は描写設定だ。まあ他は後にしよう」
天使は一度間を置いて、また話を再開する。
「まずは痛覚設定だが、これは痛覚をどれほど貴女たちの世界に近づけるかだ。貴女たちは、作り上げた肉体でこちらの世界に転移するため、肉体における痛覚を変えることができる。0パーセントでは痛みを感じず、100パーセントだと貴女たちの世界と全く同じ痛覚になる。どうする?」
天使はそうセレネに問いかける。
セレネは差し出されていた紅茶を飲み干すと、話し出した。
「う〜ん……120パーセントとか、ないの?」
「なぜそんな結論に辿り着いた……そんなものはない」
セレネは残念がって、天使に注いでもらった紅茶のおかわりに口をつける。
「じゃあ100パーセント」
「……まあ、貴女なら大丈夫なんだろうが……」
天使はそう言葉を返した後、ため息をついた。
「それで、次が描写設定だ。これは、どれだけ描写を貴女たちの世界に近付けるか。例を挙げると、血の表現とかだな。低く設定すれば、ポリゴンが欠けるだけだし、高くすれば、血が飛び散る。そんな感じだな。これは3段階になっていて——」
「3段階目で」
セレネが天使の話を遮ってそう言う。
「……最後までは待てないのか」
天使はジト目をセレネに向けながらそう呟いた。
「これで、私が忘れていたことは終わりだ。しかし、まだ他にもいくつか決めてもらうことがあるからな。そちらも進めていこう」
一瞬、セレネから目を離した天使がセレネの方に向き直り、固まった。
「ぷはっ。おかわり」
紅茶を飲み干したセレネが、天使の方にカップを押し付ける。
「…………………………はぁ」
天使は両手で顔を覆い、天を仰いだ。
〜〜設定中〜〜
「よしっと。これで設定なんかは全部終わったな。あとは初期の装備品か」
「装備?」
天使の言葉に、セレネは首を傾げた。
「ああ。貴女たちには、転移の際にはいくらかのお金と武器を渡すんだ。それに、服装も変えることが可能だ」
天使がそう言い終えると、セレネの前に、2つの画面が現れた。
そこには、多種多様な武器と服が表示されている。
「武器と服は、その中から選ぶことになる。性能自体はどれも同じだ。自分が使いやすい武器を選んで、自分が動きやすい服を選ぶんだな。それと、服については色の変更なんかも出来るからな」
「わかった」
そう言われたセレネは、すぐに画面を操作しだした。
少しして2つの画面が消えると、そこには1本の短剣と、黒色のワンピースが宙に浮かんでいた。
「やはり貴女は短剣を選ぶか。確かに、一戦交えた時に相性が良いなと思った。それじゃあ、これで決まりだ」
天使が指を鳴らすと、セレネの服装が一瞬で黒のワンピースへと変わる。
「短剣はアイテムボックスの中にある。そして、最初に与えられるお金は5000Gだ。1Gが、貴女たちの世界で大体10円ほどの価値だ。わかったな」
天使の言葉を聞いて、セレネがこくりと頷く。
「それじゃあ、これで全部だな。転移の準備は良いか?」
「もちろん」
「そうか。じゃあ始める」
天使はそういうと、目を閉じた。
突如、セレネの足元に金色の光が走り出し、魔法陣を描く。
魔法陣が完成すると、セレネの視界が揺れ始めた。
天使が一言呟く。
「ようこそ、アルカディアへ」
天使に慈愛のこもった眼差しを向けられながら、セレネの意識は落ちていった。
「この世界でどう生きるのか。楽しみにしているぞ、我が――よ」
そう呟くと、天使はその場から姿を消した。