24 牢
ピチャン、と水滴の落ちる音がする。
薄暗く、湿気があり、清掃されたのはいつのことかわからない。
窓枠にも扉にも格子が嵌められている、中にいる人物を逃さないために作られたそれ。
そんな場所に押し込められた彼は、暗い目でぼんやりと床を見つめていた。
特段、何か思うところなどない。
こんなのは、今までの暮らしとさほど変わらない。
カツンカツンと靴音がして、彼は軽く目を開き、そしてそれをすぐに伏せる。
どうせ、見張りの巡回だろう。
そのように思っていたところ、靴音は彼の部屋の扉の前で止まったので、彼は動きはしないものの、聞き耳だけは立てておく。
「起きてるのか」
居丈高な声音に、彼はぴくりと体を震わせる。
警吏というものは、えてして彼のような存在に居丈高なものだ。
しかし、それだけではないような気がする。
ほのかに、苛立ちを孕んでいるような。
「お前。なんであの子を刺した」
あの子、という響きには、なんだか慈愛のようなものが含まれている気がする。
顔を上げると、そこにいるのは見知らぬ男だった。
歳の頃は二十代半ばだろうか。
黒髪に碧眼の美丈夫だ。
少し日に焼けていることを考えると、肉体労働者かもしれないが、その立ち姿と声音、着ている服の高貴さから、男がどこにでも居るような人物ではないことを指し示している。
「あの子は、立ち上がろうとしていた。お前と違って、前を向いていたんだ」
「ソフィアは、死んだか」
「……」
「なあ、ソフィアは」
「あの子は死んだよ。これで満足か、セリム=サルヴェニア」
吐き捨てるように言われたそれに、彼は――セリムは、しばらく放心した後、思わずといった様子で笑い始めた。
「ざまぁみろだ! あいつは、あいつも不幸になった! 僕と同じように!」
「何故そこまで、妹を憎む」
「あいつは、何もしなかったじゃないか!」
叫ぶセリムに、男は侮蔑の視線をよこしてくる。
それがさらにセリムを煽って、罪を重くするかもしれないと思いつつも、憤りと苛立ちを吐き出すように叫び続けてしまう。
「あいつは僕に甘えて、父さんに甘えて、何もにしなかった。サーシャを見捨てたのは、あいつも同じだ! なのに、あいつだけが幸せになるなんて、不公平だろう!」
「そうか」
「全部失えばいいんだ。あいつも、僕も。父さんも母さんも、みんな、全員だ。あとはサーシャだ。あいつも全部」
「……お前には、ソフィアが居たじゃないか」
言われた言葉が理解できず、セリムは怪訝な顔で男を見返す。
「何……」
「全部失えばいい? お前には、妹がいた。一人でも前を向いて、仲間を作って、努力している妹がいたんだ」
「何を言ってる。あいつが自分だけ幸せになる努力をすればするほど、僕は……」
「ソフィアは、お前の借金をずっと払っていた」
男はセリムに、数字の羅列された紙を、格子の隙間から投げてよこした。
セリムは思わず、床に落ちている紙に取りすがるようにして、書かれた内容を確認する。
そこには、セリムが騎士団から盗んだ金の総額が記されていた。表の上から、毎月少しずつ、その金額が目減りしていく様子が見て取れる。
「彼女は、一年前に見習い商人として働き始めて、ようやく半年前に正式に商人になったばかりの新人だ。お前が盗んだ五十万ジェリーの現金と百万ジェリー相当の金塊のうち、あの子はたった一年で八十万ジェリーを騎士団に返済した」
「なんで……」
「お前のために決まっているだろう、セリム=サルヴェニア」
男の苛立ちを孕んだ声に、ようやくセリムは、男が何に憤っているのかを知った。
けれども、それが、上手く頭に入ってこない。
「俺はこの一年以上、あの子のことをずっと聞いてきた。あの子がお前と同じように腐っていくところを。そこから、必死に這い上がろうとしている姿を」
「……なんで、だって。おかしい。そんな」
「騎士団の窓口で、三年で返しきるから分割にしてくれと何度も頭を下げていたことも知っている。この返済が終わったら、母への仕送りをしなければならないと意気込んでいたことも」
「嘘だ」
「嘘を言ってどうする。十代の若い女の子が、家賃が払えないからと最低限の家に住んで、一日二食で飢えをしのいでいる。残業代が入ってもお前の借金の返済に充ててしまう。それを見ていた俺達がどれだけ彼女に手を差し伸べたかったか、お前にわかるのか!」
「嘘だ!!」
セリムはそう叫ぶと、血の気が引いた顔で、震えながら、床に落ちている紙をゆっくりと手にとった。
そうして、その内容を改めて、穴が開くほど見つめる。
返済金は、毎月同じ日に支払われていた。きっとそれは、ソフィアの給料の振り込み日だったのだろう。
たまに、その日ではないときに、少しだけ支払いをされていることもあった。
これは、ただの数字だ。
けれども、そこにはソフィアの気持ちが見え隠れしている。
「お前は今回の罪で、しばらく牢に入れられるだろう。死刑にはならないだろうが、牢から出ても、その先はない」
「……あ……僕、は……」
「俺達が、お前を許さない。牢から出ても、父親と同じように、北の修道院行きだ。お前は父親と違って、一生そこから出ることはないだろうよ」
そこまで言うと、セリムは言葉にならない声を漏らしながら、その場で蹲っていた。
そのどうしようもない光景に、男は吐き捨てるように呟く。
「お前は望みどおり、全てを失ったよ、セリム=サルヴェニア」
男は去っていった。
セリムは、男の背を見ることはなかった。
そんなよそ事を考えている余裕はないのだ。
頭を駆け巡るのは、自分が手にかけた、妹の最後の姿。
『兄、さ……ごめ……』
あれは、命乞いではなかった。
兄を思う妹の、最後の言葉だったのだ。
そのことを理解すればするほどに、セリムの世界は崩れていく。
「あ……あぁああああ……」
セリムは、ただひたすらに声を上げて、その場で泣き叫んだ。
けれども、彼に声をかける者は誰も居なかった。




