19 疲れ果てた先で
戸惑うソフィアに、ウィリアムはただ、問うような視線を投げかける。
だって、ソフィアはそうして生きてきた。
与えられたものを享受して、その中で真面目に生きてきたのだ。
「君は何もしなかった。そして、今も何もしていない。ただ、与えられないことを嘆いているね」
「……そんな言い方」
「このままでは、君はきっとこれからずっと、本当の意味で笑うことはできないと思う」
その言葉に、ソフィアは激情を抑えることができなかった。
カッとなった勢いのまま、席を立ちあがる。
これからもずっと、笑うことができない?
そんなの、ただの呪いの言葉ではないか。
ソフィアの気持ちを、わかりもしないくせに、みんなみんなみんな、無茶な要求ばかり!
「そんなことを言われても、私にどうしろっていうの! どうすればよかったって言うのよ!!」
「サルヴェニア子爵領はこの九年間、酷い状況だった。貴族の一族なら、当主であるサーシャを支えるために、統治を手伝うべきだったんだ。できるかどうかじゃない、やるべきだった。貴族学園に通っている暇はなかった。そして、一族全員で当主を手助けしてなお、領地を治めることが困難であるなら、子爵位返上に向けて、子爵代理である君の父を動かすべきだった」
「何それ。サーシャ姉さんを手伝う? お父様に、爵位返上を促す? そんなことをしたら、私だって、馬車馬のように働かされてしまう。そこから逃げたいと思って、何が悪いの!」
「君がサルヴェニア一族としての恩恵を受けていなかったのであれば、悪い事ではないだろうね。けれど、君は贅沢だけはしていただろう?」
「普通に生活していただけよ!」
「普通じゃない。王都の上流貴族が食べるようなものを食べ、高度な教育を受け、上流階級か、よほどの羽振りのいい下級貴族しか通うことのできない貴族学園に通っていた。普通は貴族であっても、十五歳になったら、官僚見習いや侍女見習いとして働きに出るものだ」
「でも、うちは羽振りのいい下級貴族だったわ! その普通を享受していただけなのに!」
「そうだ。だから、羽振りのいい下級貴族・サルヴェニア一族として、サルヴェニア子爵領を保つ努力を最優先する義務があった」
「――屁理屈ばかり、言わないで!」
みんながソフィアを認めない。
この男もだ。
ソフィアは悪いこともせず、与えられた環境の中で、真面目に生きてきた。
なのに、どうしてソフィアだけがこうして壁にぶつからなければならない。
「みんながそうじゃない! 私以外だってみんな、見て見ぬふりをして、そうして生きてきているわ。誰かに仕事を押し付けて、効率よく生きてる。なんで私だけ!」
結局、行き着くところはそこなのだ。
そんなに悪いことをしたというのか。
従姉が大変そうにしているのを、未成年のソフィアが見て見ぬ振りをした。
それが、これほどまでに全てを失うほどのことだと言うのか。
それはあまりにも理不尽で、辛辣で、ソフィアにばかり厳しい。
その想いが、ソフィアをずっとがんじがらめにしている。
「ソフィア。君の気持ちはわからなくはない。けれど、それは間違った理屈だ。それを盾にしても、誰も君に手を差し伸べたりはしない」
ソフィアは、怒り、恨み、嫉妬でぐちゃぐちゃのまま、手で胸を抑える。
脳裏によみがえるのは、サーシャが最後に会ったときに言っていた言葉だ。
『分不相応な生活をしてきた過去は、これからの分不相応な生活を保障するものではないわ』
(知らない。知らないわ! 私にはそんな理屈、分からない!!)
「……実際に、できるわけないじゃない」
「……」
「極端すぎるのよ! あの子爵領がおかしいの! ――あんな場所じゃなかったら、私だってサーシャ姉さんを手伝ったわよ!」
「……ソフィア」
「だって、おじい様とおばあ様も、それで亡くなってるのよ!? あなただって、サーシャ姉さんの様子を見たでしょう。あんなの、手を出したら私が死んでしまう!」
「そうか」
「私だって、悩んだわ。サーシャ姉さんを助けたいと思って、眠れなかった夜だってある。なんで私が、こんなことで悩むのかって。そうよ、私は怖くて逃げたのよ! でも、それで責められるなら、私はどうすればよかったの。たった七歳のときに、家を一人で出るべきだったとでもいうの!?」
「……だから、サーシャは君を責めなかったんだ」
髪を振り乱し、涙で濡れたソフィアは、ゆっくりと顔を上げ、信じられない思いでウィリアムを見る。
「サーシャは、君の不誠実な振る舞いは、幼い君の立場を思えば仕方のないことだと言っていたよ」
「な……」
「渦中にいた彼女だけが、君の恐怖を分かっていたみたいだ。君のやったことを許すことはしないけれども、無理のないことだと」
ソフィアは怒りと悔しさと、それとは違う感情で、前が見えなくなるような感覚を覚えた。
こんな境遇にソフィアを落として、自分はのうのうと次期辺境伯夫人をしておきながら、何を言い出すのだ。
情けをかけるようなことを言われて、ソフィアが喜ぶとでも思っているのだろうか。
サーシャが長い旅路を超えて援助を求めたソフィアの申し出を断ったせいで、こんなことになっているのに。
彼女が誰よりも、ソフィアのことを理解しているなんて。
「ソフィア。君は持っていたものを失ったかもしれない。だけど、まだこれから、なんだってできる。どんな自分にだってなれるはずだ」
「……」
「誰かの力じゃなく、自分の力で立ち上がるんだ」
「……うるさい」
「ソフィア。君はまだやり直せる」
「うるさい! うるさい、うるさい! やめてよ、説教ばかりして、偉ぶらないで!」
ソフィアは泣きながら、その個室を出た。
廊下に居る給仕が驚いた様子であることにも構わず、店を飛び出す。
(どうして。どうして、私だけが!)
ソフィアは泣きながら、ただひたすら、夜道をかけていく。
止まりたくない。
何も見たくない。
知りたくない。
醜い自分に、正しくない姿に蓋をしてきたのだ。
全ては、自分を守るためだった。
それなのに、全てを失って。
(どうしてなの)
ずっとずっと、ソフィアは嫌だった。
受け入れたくなかった。
自分の身に起こったことが、信じられなかった。
なのに、誰しもがソフィアの気持ちを否定する。
ソフィアの未来を、否定してくる。
走って走って、息が切れて走れなくなったときに、ソフィアは空を見上げた。
冷たい空気の中、そこには満月が変わらず輝いていて、その金色の輝きに、先ほどまで一緒に居た金髪の彼の笑顔を思い出す。
(なんで、あんなふうに笑っていられるの)
伯爵家の三男として、厚遇されていたはずのウィリアム=ウェルニクス。
男爵家の三男になった彼は、貴族の一族としてではなく、平民として生きる道を選んでいた。
それなのに、幸せそうな顔をして、のうのうと生きている。
『このままでは、君はきっとこれからずっと、本当の意味で笑うことはできないと思う』
「こんなの、どうやったら笑えるっていうのよ……」
輝かしい未来を諦めて、適当な仕事を見つけて、日銭を稼いで、食べて寝て、平民として過ごしていく。
そんな未来は嫌なのだ。
全然笑えない。
だって、すべてを失うなら、なんのためにソフィアは、心を折ったのだ。
ソフィアは自分のために、サーシャを見捨てて、正しいことから遠ざかった。
そうして要領よく生きていくことだけを目指したソフィアの人生に、何も残らないではないか。
「サーシャ姉さん」
脳裏に浮かんだのは、あの日、廊下で床に倒れこんでいたサーシャ。
ソフィアが見捨てた、従姉の姿だ。
「姉さん、ごめんなさい」
涙が止まらなくて、月明かりが滲んで、周りがよく見えない。
認めたら、もう戻れないとわかっていた。
だからずっと、動くことができなかった。
仕事をしなかったのも、そのせいだ。
望まない仕事に着くことは、今までの失敗を認めてしまうことと同義だったから。
「ごめんなさい。ごめんなさい……」
でもきっと、そうすることでようやく、ソフィアはサーシャに謝ることができるのだ。
突き放してしまった正しさを手に、新しい自分を作り上げていくことができる。
「ソフィア」
王都の中央広場の隅にある月明かりの当たらないベンチで、膝を抱えて泣いていたソフィアに声をかけたのは、やっぱりウィリアムだった。
息を切らしている金髪碧眼の友人は、少し離れた場所で、街灯に照らされながら、静かにソフィアを見ている。
「私、あなたが羨ましい」
ソフィアの口からこぼれ落ちた言葉に、ウィリアムは驚いたように目を見開いた。
驚いたのは、ソフィアもだ。
どうしてこんなことを言い出したのか、自分でもよくわからない。
でも、きっとこれはソフィアの本音だ。
苦しくなくて、正しくて、明るい道に立っている彼が、心の底から眩しい。
「持っていたものをなくしたことが、苦しいの」
「そう」
「諦めることが、辛い。あなたのように前を向くことは、私にとって人生最大の試練だわ」
「そうかなぁ」
「それでも、私はあなたみたいになってみたい」
目を丸くするウィリアムに、ソフィアは泣きぬれた若草色の瞳で、すがるように尋ねた。
「ウィリアム様みたいになれるかしら」
すると、彼はおかしなことを耳にしたかのように、声を上げて笑った。
「君のほうが優秀だから、僕なんてすぐに追い越すさ」
差し出された手を、ソフィアは恐る恐る握る。
なんだか、沢山の人に、この手を差し出されていたように思う。
そして、今ようやく、その手を取ることができた。
「……ありがとう」
「どういたしまして?」
そう伝えると、目の前の彼は本当に嬉しそうに微笑んだ。







