4 しがない事務官サリエラ=ライアット
サリエラ=ライアットは、その日、悩んでいた。
『サリエラ=ライアット』――彼女が存在し始めたのは、ちょうど三年前のことだ。
疲労困憊のサーシャ子爵が、なんとはなしに戸籍を作り、自分の預金の別口座を作ったことで生まれた、架空の女性である。
その時は、何か壮大な目的があって作ったものでは無かった。
収入が多いとはいえ、叔父一家が馬鹿みたいな勢いで子爵サーシャの資産を食い潰そうとするので、彼らからの目眩しのために、別人名義の口座を作ったのである。要するに、貯蓄のための別口座、というやつである。
しかし、こんなふうに、家出の役に立つとは!
サリエラは、過去の自分の功績に、満足げに頷く。
彼女は二ヶ月前、サルヴェニア子爵家を家出し、それだけでなく、サルヴェニア子爵領をも旅立った。
行く先にあては特になかった。
基本方針があるとしたら、おそらく追手がかかるだろうから、子爵領やその近隣からは離れなければならないということくらいか。
遠くとなると、国外が望ましいように思うけれども、国外は言葉や慣習が違う。サリエラは隣国語も話すことができたが、見本のような綺麗な言葉遣いしかできないので、隣国の田舎、国境付近でうろついていたら、言葉の綺麗な外国人として、おそらく目立ってしまうだろう。
行くとしたら、国の端、辺境伯領辺りか。しかし、辺境伯領と言っても、国の端にある領地は一つではないのだから、選択肢は少なくない。
はて、どうしたものか。
そんな訳で、サーシャは棒倒しに自分の命運を懸けることにした。
木の棒は、南に倒れた。
「うん。じゃあ、南に行きますか」
こうしてサリエラは、国の南端、ガードナー辺境伯領に辿り着いたのである。
一ヶ月半の旅路を乗り越えたサリエラは、冬の終わりの海辺で、子爵時代では考えられないような薄手の気軽な服で過ごした。
夏は耐え難いほど暑いというガードナー辺境伯領の海辺は、二月の今、程よく涼しく、過ごしやすい。
サリエラはそれから一ヶ月程、何もしなかった。なんだか、頭がぼんやりして、やる気が起きなかったのだ。今まであったことも、これからのことも、何も考えなかった。そうでないと、自分が壊れてしまいそうだった。
そうしてぼんやりと過ごすサリエラに、海辺の暮らしは、とても優しかった。
若く慎ましやかな彼女を、住民達は快く迎えてくれた。
辛い香辛料の効いた食べ物が多かったが、サーシャの舌には好ましく感じられたし、実家のある子爵領と違う場所にいることを確認できて、食べる度に安心できた。
そして、ある日思い立ったように、そろそろ働こうかと思い至った。
海辺の生活を維持したい。
このままここで暮らしていきたいと、そう思ったのだ。
苦しかった思い出を、頭からようやく追い出したということもある。
子爵領を出て二ヶ月、頭に霞がかかったように、昔のことを上手く思い出せないが、その方が体の調子が良かったし、特に気にならなかった。きっと、『サーシャ』と共に死んだ心が、『サリエラ』として生きようとしているための反応だと、サリエラは理解することにした。
ちなみにサリエラは、訳ありの身の上なので、結婚は諦めていた。
けれども、このまま穏やかな暮らしを続けていけたら……。
(………………。お金が、足りない……)
サリエラの懐事情は、このまま一生、自堕落な生活を続けることを許してくれなかった。
手持ちは決して少なくはなく、あと十年くらいは暮らしていけそうだが、生涯生きる分に足りるかとなると話は別だ。職を見つけなければならない。
サリエラは考えた。
細身で身長も低く非力、愛嬌がなく、髪の手入れも適当、身を飾ることに興味がないサリエラに、できる仕事……。
そう思っていた矢先に、街の掲示板に貼ってある募集が目についたのだ。
『ガードナー辺境伯領事務官募集中! 経理のできる文官を求めています!』
「文官……」
サリエラは一日、悩んだ。
経理はできる。なんなら、領地経営まで――効率は悪いかもしれないが――お手のものである。
しかし、また統治に関わる仕事をするのか。
やはり、カフェの給仕程度にするべきではないのか。
そう思い、サリエラは頭を横に振る。
旅の途中で、数日、カフェの給仕ならやってみたのだ。
しかし、「お前さんの笑顔はドスが利いているから、カフェには向かないよ。居酒屋にしな」とオーナーに言われてしまったのだ。カフェで働くのは難しそうだ。
なお、居酒屋は嫌だった。また罵声や男性の野太い声の飛び交う現場で働くのはごめんだ。
結局、サリエラは悩んだ末、文官に応募し、見事合格してしまった。
経理部の新人として勤め始め、数日で何故か先輩職員と同じ量の業務を背負わされ、しかし、子爵時代に比べたらまだまだ余裕があるので、書類の場所や慣習を習いながらも、サクサク仕事を終わらせて定時には帰る。
ある日、お昼のサンドイッチを領主城の庭園で頬張っていると、どこかの上官と思しき老人に話しかけられた。
「あなたはもしかして、経理部に入ったばかりの新人さんかな?」
「はい。サリエラ=ライアットと申します」
「そうですか。私はそうですね、ジェフリーとお呼びください」
「……とても立場が高い方でいらっしゃるようにお見受けいたします。私などがそのようにお呼びするのは……」
「ふふ。そういった機微が分かってしまわれるのですね。……いえ、私も今は休憩時間なのですよ。だから、ただのジェフリーです。そのように扱っていただけると助かります」
「……分かりました、ジェフリーさん」
「ありがとうございます」
こうして、サリエラはジェフリーとたまに、昼を共にしながら話をすることとなった。
ジェフリーの話題は、多岐に渡った。
辺境伯領の名物から、住民の傾向、流行に敏感かどうか、経済的な発展性、ほかの領地と比較したときの税率の程度。
サリエラは、何故私と、お昼時にそんな難しい話をしたいんだろうなあと不思議に思いながら、淡々と言葉を返していく。
ちなみに、経理部にいると、支出に絡めて、様々な事業の予算に関して話をすることが多い。新人のサリエラは簡単な支出処理の担当であって、予算配分を決めるのは組織中枢部のエリートの仕事だけれども、内容を見ていれば、ざっくりとだが、このガードナー辺境伯領において力を入れている事業が分かるというものだ。
そして、このジェフリーの話を聞いていると、予算の数字を見るだけで、どうにも事業の内容が頭をかすめるようになってしまった。
なんだか、嫌な予感がする。
これは多分、あれだ。サルヴェニア子爵家の家令が、九歳の私にやったやつと、同じもの。領地経営について、それとなく知識を増やさせていく、あれ。
領主城の中庭のベンチで、頭を悩ませながら、サリエラは呟く。
「うーん、そろそろ逃げるかな」
「どこへ逃げるんだ?」
「わぁ!」
サリエラが声を上げると、声を上げられた方は肩をすくめた。
彼女は慌てて、声のした方、後ろを振り向く。
声を上げたことを、謝ろうとしたのだ。
けれども、口から出てきたのは、もっと失礼な「げっ」という声だった。
「おいおい。『わぁ』はともかく『げっ』は令嬢から出ていい言葉じゃないだろ」
「そうですね、そう思います、私はその程度の女なんです。本当にすみませんでした、それでは失礼します」
「ちょっと待った。俺は今からお前と話がしたくて声をかけたんだが」
「そうでございますか。しかしながら、不敬な声を上げてしまった私は、閣下に相当不快な思いをさせてしまったことと存じ上げます。これ以上お目汚しすることはできませんので、失礼いたします」
「ふーん……なるほど、お前、俺の正体が分かっていて、そういうことを言う訳ね」
気が付くとサリエラは、中庭のベンチに座ったまま、その男に両脇に手を突かれ、なんとも逃げ出すことのできない状況に追いやられていた。男の顔は、何故かサリエラの至近距離にある。サリエラはなんだかんだ、いつも護衛に守られていたので、こんなふうに男に距離を詰められたことがない。しかも、相手は間違いなく権力者。しがない事務官のサリエラはおそらく、何をされても文句の言えない立場だ。
涙目でぶるぶる震えながら睨みつけているサリエラに、男は、獲物を見つけた狼のような顔で、にやりと笑った。
「逃げられないのは分かるだろ? ちょっと付き合え」
「嫌です」
「ああん?」
「……」
そのままサリエラは、引きずられるようにして、男の執務室まで連れていかれた。というか、必死に地面に踏ん張って抵抗していたら、本当に引きずられた。そして、それを見た男は、けらけら笑いながら、抵抗するサリエラをあっという間に横抱きにして、執務室に連れ込んだのである。
黒髪碧眼で、よく日に焼けた肌、居丈高で、歳は二十代後半ぐらい。この領主城に居て、片耳に辺境伯の文様を刻んだピアスを揺らしている男ときたら、候補は一人しかいない。
ガイアス=ガードナー。
自由奔放な、このガードナー辺境伯領の嫡子に、サリエラは目をつけられてしまったのだ。