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12 元婚約者ウィリアム=ウェルニクス(後編)




 事ここに至ると、流石のウィリアムにも、自分の置かれた状況が見えてきていた。


 サーシャが、具体的に何をしていたのか、ウィリアムは殆ど知らない。けれども、細々と伝え聞く内容だけでも分かる。ウィリアムの力では、サーシャが行ったことを実現することができない。

 そして、とてもではないが、この子爵領内で、今のウィリアムが当主の代わりをすることなどできない。


 要するに、ウィリアムでは役者不足だった。


(サーシャは一体、今まで何をしていたんだろう。どういう事務をして、あんなに疲れていたんだろう)


 この時初めて、ウィリアムはサーシャがやってきたことに興味を抱いた。


 九歳の頃から、何時もボロボロの身なりだった彼女。

 ウィリアムはそのことを不満に思っていたけれども、今なら彼女の気持ちが分かる。

 何しろ、三つしか事務を担当していない新人のウィリアムであっても、二十一時よりも前に帰宅できないのだ。先輩官僚達は、いつも日付を超えて仕事をしているし、家に帰っていない者も多い。

 こんな状況で、身なりなんかに気を遣っていられるものか。

 ウィリアムは貴族なので、服は使用人たちが綺麗に洗濯し、整えてくれるが、疲労で衰えていく肌や髪などの体のケアについてはどうしようもない。

 侍女や侍従たちが美容の時間を設けようとするが、そんな暇があるなら寝かせてほしいと言い、ウィリアムは実際に、入浴後はすぐに就寝していた。そうする度に、とにかく休みたいと思う度に、サーシャはこういう気持ちだったのかと、ウィリアムは唇を噛む。


 ウィリアムが、目の下にクマを作り、へとへとになりながら仕事をしていたある日、最初はウィリアムを遠巻きに見ていた新人官僚達が、ウィリアムに声をかけてくれた。昼食を共にしようと誘ってくれたのだ。


 それは、仕事に追い詰められ、日々落胆した目で見られていたウィリアムにとって、本当に嬉しいことだった。

 ウィリアムと同時期に勤め始めた訳ではない彼らは、ウィリアムよりも実際には数ヶ月先輩だったけれども、だからこそ社会人としての最初の数ヶ月の辛さを分かってくれ、慰めてくれた。ウィリアムは彼らの優しさに、目頭を熱くする。


「この子爵領、やばいとは聞いてたけど、本当にやばいな」

「お前、語彙力無くなってる。係長に赤でチェック入れられるぞ」

「もうやめてくれよ! ……俺さ、まだ一年経ってないけど、もうここ、続けられないかも」

「サーシャ子爵が消えてから、この子爵領、本当に終わってるからな」

「自己退職して、他の領地に行こうかな。引っ越しは嫌だったけど、こんなの耐えられない」

「……サーシャ、あいつ、この子爵領内で何をしてたんですか?」


 ようやくその質問を投げることができたウィリアムに、新人達はギョッと目を剥く。


「ウィリアム、お前婚約者なのに知らないのかよ!」

「サーシャ様はな、九歳の頃から、この子爵領内の当主として事務を担ってきたんだぞ」

「恥ずかしくて他所では言えない話だけどな」

「あの人の資料を読む速度、人間技じゃなかったって聞くわよね」

「九歳の頃は俺らみたいに新人として働いてたみたいだけど、一年で先輩達を追い越して、あっという間に事実上の当主になったって話だぞ」

「天才ってどこにでもいるんだよなあ」


 食事の手が止まり、視線を下げるウィリアムに、新人官僚達は慌てる。


「いや、ウィリアム。お前は普通だよ」

「普通……」

「そうそう。俺らが期待しすぎてただけでさ、社会人になりたてってこんなもんだって」

「まあ、もうちょっと要領が良くてもいいかもな」

「おいおい、普段誰にもマウントがとれない新人がパワハラしてるぞ」

権力(パワー)なら、ウィリアムの方があるだろ?」

「違いねー」


 けらけら笑っている新人官僚達を見ながら、ウィリアムは青ざめた。


 ――要領が悪いんじゃないか。もう帰るから、僕の切り上げた時間でできた余暇で、効率性について考えるといいよ。


 顔から火が出るとは、このことだ。


(僕はどの口で、そんなことを……)


 こんな領地で、精一杯仕事をして、へとへとになっているときに、婚約者に『要領が悪い』と言われたサーシャ。

 ウィリアムはようやく、サーシャの失踪の理由が理解できた気がした。


 サルヴェニア子爵領を統べることの難しさも、なんとなく分かった。

 あくまで、『なんとなく』だ。ウィリアムにはとても、『分かった』とは言えなかった。なにしろ、ウィリアムは仕事の基礎を学ぶばかりで、仕事自体を理解すらできていない身なのだから。


 サルヴェニア子爵領を統べる未来の当主として、ウィリアムが注目を浴びていた理由。

 そんなウィリアムと話をしに来て、落胆して去っていく特別クラスの学生達。

 全てが、今までのウィリアムには理解できていなかったけれども、今のウィリアムには分かる。


 そして、そのことを、心が受け止められなかった。


(……理解できていなかったことが、悪いっていうのか!? 僕は、何か悪いことをしたか!?)


 そう思うと同時に、女子生徒達と奔放に過ごしていた学生生活が思い浮かんだ。

 こんな過酷な領内で身を削って働くサーシャを裏切り、学生として、未来のサルヴェニア子爵代理としての栄誉を享受していただけの自分……。


 ぐちゃぐちゃな思いの中で、父ヴェスターに助けを求めるべく、何度も手紙を送り、遠隔通話をかけたけれども、返事はないし、遠隔通話口にも出てもらえない。

 サイラス子爵代理に話をしようにも、彼も同じような境遇で苦しんでいるばかりで、頼りにならなかった。いやむしろ、彼が携わった事務はしっちゃかめっちゃかに混ぜ返されているらしく、官僚達の彼への愚痴が酷かった。


 そんな中、ウィリアム宛てに国王からの招集状が届いた。


 ウィリアムは、何か悪いことが起こるのだろうと思いながらも、その招集に従った。



 そこにはなんと、サーシャがいたのだ。



 彼女は国王の御前にふさわしいように着飾っており、その美しさに、ウィリアムはしばらく言葉を口にすることができなかった。

 よく考えると、ウィリアムはこのように着飾ったサーシャを見たことがない。婚約者なのだからドレスを贈るなりできたはずなのに、そういったちょっとした気遣いをしたことがなかったのだと、ここでようやく気が付いた。

 そして、美しくなった彼女の横には、日に焼けた黒髪の美丈夫がいた。

 ウィリアムは、身の内に激しい嫉妬の炎を燃やした。


(ぼ、僕の婚約者だぞ! 彼女は、僕のものなのに、近すぎるんじゃないか!?)


 そうして、ずっと彼女を見つめ、彼女の横の男を睨みつけていたところで、父ヴェスターが、ウィリアム以外をサーシャと結婚させると言い出したので、愕然とした。

 彼女にふさわしいのは自分だと言おうとして、言えない自分にもショックを受けた。

 彼女のような天才に、自分は……。


(いや、これからだ。まだこれから、頑張ればいい。ようやく、状況が分かったんだから)


 そう思って、何とか顔を上げる。


 しかし、ガードナー辺境伯の言葉が、最後の最後に、ウィリアムの心を折った。



「サーシャ=サルヴェニアは、失踪したその日、一成人として子爵という爵位を国に返上し、これにより、サルヴェニア子爵とウェルニクス伯爵家の令息との間の婚約は失効いたしました。その後、我が愚息と婚姻し、現在の彼女はガードナー次期辺境伯夫人です」 



(こ、婚姻……)


 頭が真っ白になった。


 ウィリアムとサーシャの関係は、あくまでも婚約者。

 その婚約関係が続いていたとしても、他の者と結んだ婚姻を無効とするものではない。賠償責任が生じることはあっても、彼女が次期辺境伯の妻となった事実は、最早変えられないのだ。


(いや、まだだ! こんな短期間で結婚するなんておかしい。今回の件のための偽装結婚――白い結婚なら、まだ取り返せる!)


 そう思ってサーシャを見るけれども、目の前のサーシャは次期辺境伯に腰を引き寄せられ、恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに頬を染めている。これほど近く寄りそい、仲睦まじくしている二人が、閨を共にしない白い結婚をしているとは思い難い……。


 ウィリアムが呆然としていると、父ヴェスターの声が、国王の間に響いた。


「そ、そんな、婚姻だなんて! ウィリアムという婚約者がいて、婚約無効が正当に認められる前だったのだから、それは不義です!」


 その内容に、ウィリアムはギョッとして顔を上げた。

 ヴェスターの発言に対し、宰相が諭すように説明する。


「サーシャ=サルヴェニア子爵からは、失踪時に子爵返上についての申立てが書面で上がってきています。国王陛下の認可が下り、これにより、遡及して申立て時点から、サルヴェニア家は爵位の返上をしたものと認めることとなりました」

「宰相閣下! しかし、しかしです。サーシャ嬢の婚姻時には、子爵返上について、まだ保留だったはずだ! 婚約無効が保留となっているのに他の者と婚姻するなど、婚約者ウィリアムに対する誠意を欠く行為であることは間違いありません!」


 食って掛かるヴェスターに、ウィリアムは驚く。


 こうなった以上、お金でどうこうなる問題ではないと思ったからだ。

 詳細は分からないが、サイラス子爵代理がサーシャに全てを押し付けていたのは事実だ。父ヴェスターがどこまでこのことを知っていたのか、今のウィリアムには知る由もないが、国王やガードナー辺境伯が言うのだから、きっと父ヴェスターにも責任があるのだろう。

 ここで損害賠償の主張など、ただ心象が悪くなるだけなのではなかろうか。


 困惑しているウィリアムに、ヴェスターは怒りの目を向ける。


「何をしている! お前も、サーシャが婚約関係を破綻させたことを主張しろ!」

「えっ。で、でも」

「私はこのままだと伯爵位をはく奪されかねない。それだけではなく、損害賠償請求もされるのだぞ。これからの生活を考えるなら、金が必要だ。お前は、母さんや妹を路頭に迷わせる気なのか!?」


 小声で叱咤され、ウィリアムは蒼白になる。

 事務官として新人で働く程度の給料では、今までの暮らしは維持できない。そもそも、事務官としての職すら、維持できるかどうか分からないのだ。

 ようやくそのことに思い至り、ウィリアムは手が震える。


「宰相閣下、発言の許可を」

「よろしい。ガードナー辺境伯閣下、発言を」


 頷くガードナー辺境伯は、立ち上がって笑顔で話を始めた。


「それについては、我々も危惧していたところです。行政的な意味合いで遡及的に無効になる予定であったとはいえ、それが私人間の賠償責任にまで効力を及ぼすのかどうか、疑義がありましたからね」

「そ、そのとおりだ! サーシャとウィリアムの平穏な婚約関係を、横から壊して、我々に精神的損害を与えた事実は……」

「ですから念のため、サーシャと息子の婚姻時に、そもそも維持すべき平穏な婚約関係があったのかどうかを調査いたしました。その結果がこちらです」


 配られた資料に、ウィリアムは愕然とした。

 それは、貴族学園で奔放に生活していたウィリアムの写真だった。複数の女子生徒と仲睦まじく過ごしている様子が、はっきり映し出されている。

 父ヴェスターが、「ウィリアム、お前!」と顔を赤くして叫んだ。


「このように、ウィリアム卿は元々、サーシャとの婚約関係を良しとしていなかったようですね」

「こ、こんなの、プライバシーの侵害だ!」


 ウィリアムは、もはや身の置き場がなかった。だから、叫ぶことしかできない。


「貴族学園という公共の場でのことですよ。そして、こういった状況下でサーシャは失踪し、ウィリアム卿はサーシャを探さなかった」

「えっ」

「サーシャの失踪後、サーシャの知人に話を聞きに行きましたか? 彼女の職場や、よく行く場所に足を運んだり、彼女の行きそうな場所に部下を派遣したりしましたか」

「ぶ、部下……」

「おや、未来の子爵代理であったというのに、側近候補はいないのですか。領内で見つからなければ、貴族学園で見繕うものでしょう」

「……そうしろって、言われなかったから」

「そうですか」


 冷めた目で見るガードナー辺境伯に、ウィリアムは俯く。

 思い返せば、嫡男である同級生達の周りには、仲のいい貴族の二男坊、三男坊がまとわりついていたように思う。あれは、側近候補だったのかと、ウィリアムは唇を噛んだ。ウィリアムは、気の合う二男坊、三男坊達とつるんでいたけれども、彼らの出自はウィリアムの実家やサルヴェニア子爵領からは遠く、学園を卒業したら会うのが難しくなるなと、呑気に笑い合っていた……。


「ウィリアム卿がサーシャを探さなかった理由が、能力不足によるものなのかどうかは判然としませんが、少なくとも外形的に、ウィリアム卿とサーシャの婚約関係が破綻していたことは事実です。それでも賠償請求するというなら、法廷で戦いましょう。まあ、こちらとしては、サーシャが嫁になるのであれば、多少のお金に糸目はつけないつもりで受け入れていますがね」


 ガードナー辺境伯がサーシャに向けてウィンクをし、サーシャは嬉しそうに頬を緩めている。


 そんなふうに安心した顔をしたサーシャを、ウィリアムは初めて見た。

 愕然としているウィリアムに、ガードナー辺境伯は冷たい笑みを浮かべる。


「まあ、我々としては、成人して一年も経たないウィリアム卿を責め立てたくはないので、遠慮して欲しいところですがね。今回の件について責を負うのは、親世代であるべきだ。ウィリアム卿はただ、サルヴェニア子爵の婿となるには、能力が足りず、誠意がなく、()()()()()()()。ただそれだけなのですから」


 その言葉で、ウィリアムは悟った。

 この辺境伯は、全て知っているのだ。ウィリアムがサーシャに最後に何を言ったのかという細部に至るまで、状況を把握している。


 ウィリアムは、そうか、と思った。

 目の前の男は、想像で補うのではなく、思い込みで動くのではなく、調査し、証拠を集め、その目で見てきた当事者のように話ができるところまで、状況の理解を深めてこの場に立っているのだ。そうして周到に準備するだけでなく、リスクをも理解した上で、自らの望む結論まで、推し進めようとしている。

 これが辺境伯――侯爵を担う男なのかと、そう思ったのだ。


(僕には、できない)


 知らないことが多すぎた。

 その結果、自分の置かれた状況を確認し、何が必要なのかを考え、それを成し遂げるための準備をすることをしなかった。


 教えてもらえなかったからだ。

 そう思う。


 だけど、それだけではない。

 ウィリアムには、何が必要なのか、自ら気が付く才覚がなかった。


 それに、やるべきことが分かった今ですら、それができるかというと疑問だ。

 あのサルヴェニア子爵領を背負うほどの器量が、自分にあるとはとうてい思えない。



 ウィリアムは改めて、自分がしてきた過ち、そして、自分がサルヴェニア子爵代理になるための器が足りなかったことを思い知ったのである。





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