11 元婚約者ウィリアム=ウェルニクス(中編)
サーシャ=サルヴェニア子爵が、失踪した。
ウィリアムは焦った。
何しろ、サーシャはウィリアムとの面会をしたその日に失踪したというのだ。
父ヴェスターからも責め立てられ、子爵代理サイラスからも状況を聞かれ、ありのままを答えたけれども、ウィリアムは苦々しく思っていた。
(よりによって、僕との面会の後に消えるなんて。なんてことをしてくれたんだ!)
それだけではない。父に叱られ、子爵代理サイラスとその娘ソフィアに取り入るため、卒業式にも出られなくなってしまった。
ウィリアムはそのことを、本当に怒っていた。いつかサーシャが戻ってきたら、サーシャのせいで卒業式に出られなかったことを、厳しく叱りつけなければならない。
(それにしても、仕事なんかのために、卒業式に出られないなんて。あんなの、誰がやっても同じ作業じゃないか)
誰がやっても同じ作業しか体験していないだけなのだが、ウィリアムはそのことに思い至らない。
こうして、ウィリアムは呑気な様子でサルヴェニア子爵領にやってきて、愕然とした。
サルヴェニア子爵領では、誰もウィリアムに優しくしてくれなかった。
「ウィリアム様。仕事ができると聞いています、事業が停滞していますので、あなたの担当分はこちらでお願いします」
「えっ!? こんな、机にファイルが山積みじゃないか。全部読むのに半年はかかるよ」
「サーシャ様なら、一日で全て目を通していましたよ。あなたがやることは、全てを読み切るだけではなく、内容を理解し、適切な指示を出すことです」
「は、はぁ?」
「とにかく、仕事始めですから、二日設けます。その間に、まずは全て読み切ってください。説明はその後です、時間がありませんから」
統治部の部長はそれだけ言うと、自室に戻っていった。
ウィリアムは、机の上に山積みになっている資料を見て、呆然とした。
(こんな分量、学生時代の試験勉強の範囲より広いんじゃないか?)
取り敢えず、資料を読み始めたウィリアムは絶句した。
内容がさっぱり分からない。
こういう事業をしたい、というおおよそは分かるのだが、それを実現するために必要なものが分からないのだ。関係者の要望を聞き、利害を調整し、予算を確保し、規則を作り、人手を雇い、場所を確保するという一連のやるべき流れが、仕事の現場経験のないウィリアムには発想できない。
しかも、資料には専門用語が使われていることが多く、読みづらいことこの上ない。学生時代に統治や経済の授業で習った用語であることは思い出せたけれども、試験のための一夜漬けで覚えた知識のため身についておらず、その正確な意味を思い出すことができないのだ。
さらに、どの事業も訴訟がいくつか起こされていて、もめごとに発展している。
裁判資料を授業で軽くしか読んだことがないウィリアムにとって、数十枚にわたる答弁書や証拠資料がどの程度の意味を成すものなのか、さっぱり分からない。
そして、各資料から、この事業が今どの段階にあり、次の作業が何で、締め切りがいつなのかを読み取ることが、ウィリアムにはできなかった。
(え? え? これが、仕事なのか? なんだ、これは……冬休みにやったのとは、全然違うじゃないか!)
しかし、未来の子爵代理としてやってきたウィリアムには、「全然分からないので、誰かつきっきりで教えてください」と言うことができなかった。矜持だけは高かったからである。
個室を与えられていたウィリアムは、二日間、訳の分からない資料と向き合い、そのせいで眠い目をこすり、珈琲を飲みながら眠気と戦い、よく分からないまま、仕事の時間が終わった定時に、子爵邸内に与えられた居室に帰った。子爵領は羽振りがいいのだろう、ウェルニクス伯爵家よりも豪勢な食事に舌鼓を打ちながら、(全然分からないけど、これでいいのだろうか?)と首をかしげ、二日間を過ごす。
そして三日目、ウィリアムは統治部の部長を絶句させた。
「全部読み切りましたね? では説明に入ります」
「え? いや、全部は無理だよ。最初から言っていただろう? 時間内に目を通すだけ通したけどさ」
「読み切れていないのに、あなたは定時に帰宅したのですか?」
「えっ。だって、定時なんだから、帰っていいんだろう?」
「やるべき仕事を終えることができないのであれば、それは上司に報告すべきです。あなたは今、私の下について働いていますから、私が上司ですね。各事業共に締め切りが近づいているのですから、想像で勝手に都合のいいように判断されては進行に支障が生じます、以後気を付けてください」
「……」
「返事は」
「わ、分かったよ」
「それで、どこまで読めたのですか?」
「このぐらいだね」
机の上に山になった資料のうち、三割程度の部分を指し示すと、統治部の部長は愕然としていた。
「これだけですか? せめて、逆ではなく?」
「いや、こんなの全部しっかり読んでいたら、半年はかかるって」
「もしかして、この三割もしっかり読めていないのですか?」
「だって、分かる訳ないだろう? 専門用語ばっかりだし、そもそも何をしたらいいのかもよく分からないし」
こうして統治部の部長を絶句させたウィリアムは、部長の下ではなく、統治部第五係の係長の下で、新人として働くこととなった。
「何で僕が新人なんだ!」
「学生の知識しかないのですから、当然のことです。私があなたの上司ですから、死に物狂いでついてきてください」
「し、死に物狂い?」
「まずは、人の話を聞くときにはメモを用意する。手帳はどこですか?」
「え? 持ってないから、買わないと」
「なるほど、社会人としての常識からですね。部長も驚くはずだ。指導担当をつけます、その後三つの簡単な事務を担当してもらいますから、それを正確に完了させることだけに注力してください」
「なんで僕が、そんな簡単なことだけを!」
「簡単に完了させることができたなら、次のステップに進みます」
こうしてウィリアムは、三つの事務を持たされることとなった。指導担当としてついたのは、年上だけれども平民出身の、勤続五年目の先輩官僚だ。
最初は文句を言っていたウィリアムだけれども、そのうちに、先輩官僚が自分よりも圧倒的に仕事ができる人であることに気が付いた。
それどころか、ウィリアムは、この子爵領内の誰よりも仕事ができないのが自分であることに、この時点でようやく気がついた。
「ウィリアム様。会議の日程が明後日とかなり近いですが、本当にこの短期間で関係者全員の会議の日程の調整はできたのですか」
「う、うん。できたと思う」
「思う、では困ります。不安なのはどの辺りですか」
「この参加者、直接の連絡が取れないんだ。遠隔通話口の人に、日程を伝えるようお願いしたから、たぶん、大丈夫だと思うけど」
「遠隔通話口に出た者の名前は?」
「……覚えてない」
「ならば今すぐ、もう一度遠隔通話して、担当者の名前も聞きだしてください。この参加者の方は自分が尊重されないと年単位で怒りをぶつけてきますし、場合によっては訴訟に発展します」
「え!? わ、分かった……」
結局、向こうの遠隔通話口で対応した者が会議参加者の日程を押さえておらず、それどころか、ウィリアムが事前連絡を怠ったのではないかとなじられ、会議は延期を余儀なくされた。
そうして会議を延期したことにより、他の参加者がごね、事業に大幅な遅れが生じた。
しかし、これはまだマシな方だった。
なにしろ、こんな調子で勝手な想像と思い込み、不確かな情報で事務を進めるウィリアムは、それでなくとも理不尽なことの多いサルヴェニア子爵領で何度も失態を犯し、その度に事業に遅れが生じたり、関係者からのクレームで上司を煩わせていたからだ。
その結果、先輩官僚がウィリアムの事務の進捗を逐一確認するようになり、そのおかげで、今回は会議が流れる程度で済んだのである。
ウィリアムは、何もかもが上手くいかないことに憤った。
「こ、こんなふうに何でもかんでも絡まれて、毎日遠隔通話、遠隔通話――日程調整なんか上手くいくはずがない!」
「その『遠隔通話』をサーシャ様が取り入れてくださったから、まだまともになったんですよ」
「え?」
「サーシャ様は、手紙と対面でのやり取りで限界だった我々のために、子爵領の莫大な税収を投じて、当時開発されたばかりだった遠隔通話機を、領内各所と各関係者の家に強制的に配置しました。これだけ遠隔通話機が普及しているのは、王都を除くと、おそらくうちの子爵領くらいです」
絶句するウィリアムに、先輩官僚は続ける。
「あの方がいたから、この九年、この子爵領はギリギリもっていたんだ。もう、終わりなんだろうな……」
その言葉を吐くとき、ウィリアムを見なかったのは、おそらく先輩官僚の優しさなのだろう。




