10 元婚約者ウィリアム=ウェルニクス(前編)
ウィリアム目線で少し過去に戻ります。
これが終わったら、話が進みます。
「サーシャ=サルヴェニアは、失踪したその日、一成人として子爵という爵位を国に返上し、これにより、サルヴェニア子爵とウェルニクス伯爵家の令息との間の婚約は失効いたしました。その後、我が愚息と婚姻し、現在の彼女はガードナー次期辺境伯夫人です」
ウィリアムは、その言葉で絶望に突き落とされた。
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ウィリアムは、ウェルニクス伯爵家の三男として生まれた。
父は領民からも支持され、兄二人は優秀。可愛い妹もいて、自身も何をしても要領よくこなすことができた。金髪碧眼に生まれつき、顔かたちも良い部類だと自負している。彼の人生は順風満帆だった。
ある日、父のヴェスター=ウェルニクスが、ウィリアムを呼びつけた。
「ウィリアム! お前の婚約者が決まったぞ!」
嬉しそうなヴェスターに、ウィリアムは笑顔を見せたけれども、内心は落胆していた。
(父さんがこれだけ喜ぶなら、政略結婚か。嫌だな、結婚は好きな相手とできると思っていたのに)
気楽な三男として、ウィリアムには自分の未来には自由が広がっていると思っていた。
騎士になるも、研究者になるも、官僚になるも、自分の希望次第で、妻になる女性を選ぶことも、三男である自分には当然に与えられた権利だと思っていたのだ。
「聞いて驚け。相手は、隣地の領主、サーシャ=サルヴェニア子爵だ。お前は未来のサルヴェニア子爵代理になるんだ。しかも、これは王命の婚約だぞ!」
「サルヴェニア子爵?」
「なんだお前、知らないのか。この間、隣地のサルヴェニア子爵が亡くなったことを伝えただろう? その九歳の一人娘が、子爵を継いだんだ」
サーシャ=サルヴェニア子爵。
そういえば、そんな話を、聞いたような、聞いていないような。
三男として自由奔放に育てられたウィリアムは、情勢に疎かった。
そもそも、ウェルニクス伯爵自身も、さして情勢に敏い訳ではない。その息子、しかも嫡子ではないこともあり、ウィリアムはそういった情報に興味自体が薄かった。
「うーん。聞いたことがあるような気もする」
「サルヴェニア子爵といえばな、国内の領主たちが注目する領地なんだぞ」
「でも、所詮は子爵領でしょう? 僕の気持ちを盛り立てようったって、そうはいかないよ」
「いや、本当にあそこは有名な土地なんだ。……我が伯爵家よりも、王都での覚えはいいくらいだ」
苦虫を嚙み潰したような顔をする父ヴェスターに、ウィリアムも少し興味が湧いた。
伯爵である父よりも注目を浴びる、子爵?
「その子爵領、今はどうなっているの?」
「サーシャ子爵の父であるサルヴェニア前子爵は事故で亡くなった。その妻もだ。だから、サーシャ子爵の叔父であるサイラス=サルヴェニアが子爵代理に就任した」
「ふーん。じゃあ、サーシャ子爵? が成人したら、僕がサイラス子爵代理から色々引き継げばいいんだね」
「まあな。……もしかしたら、サイラスからではなくなるかもしれないけどな」
「どういうこと?」
父ヴェスターは、あごに手を当てながら、眉根を顰める。
「サイラスは……あいつは、貴族学園でも話をしたことがあるが、大した男じゃない」
「うん?」
「国王陛下は、サルヴェニア子爵領をサイラスが治めきれなかった場合、別の子爵代理を宛がうとおっしゃっていたんだ。だから、お前に引き継ぎをする子爵代理は別人かもな」
ウィリアムは父の話を聞き、そんなものかと頷いた。ウィリアムはのびのび育った九歳だ。父の言うことを疑うなんてことは、彼の中に存在しなかった。
こうして、ウィリアムはサーシャ=サルヴェニア子爵の婚約者となった。
初めて対面したサーシャ=サルヴェニアは、そこそこに可愛らしい女の子だった。
この頃のサーシャは、子爵としての仕事全般を担っている訳ではなかったから、父母の死と、子爵領内の統治の現場を見て精神的に追い詰められてはいるものの、そこから先の九年間に比べれば、まだ体力的にも余裕があった。だから、肌つやもそこまで悪いものではなく、ウィリアムがそんな彼女を見て、(まあまあ悪くないな)と思う程度には愛らしい見た目をしていたのだ。
ウィリアムは、半年に一度、父ヴェスターに連れられて、サーシャと面会した。十二歳を超えた頃になると、一人で子爵領まで来られるようになったので、二ヶ月に一回のペースでサーシャに会いに行った。
サーシャと話をするのは、まあまあ、といったところだった。
ウィリアムは、いつも、兄二人に囲まれて暮らしていたから、ウィリアムの知識は兄達の受け売りとなることが多かった。共に勉強しているウェルニクス伯爵領の官僚候補達との話や流行だって、両親や兄達からしたら、いつも二番煎じ、三番煎じの話題として扱われていて、腹立たしく思っていた。
しかし、サーシャはそういったウィリアムの知識を、いつも新鮮なものとして受け止めてくれる。
見た目が会う度に貧相になっていくのが気になるけれども、サーシャに尊敬の目で見られるのは悪くはなかった。
そして、十五歳で、ウィリアムは貴族学園に入学した。
サーシャも入学すると思っていたが、彼女は入学してこなかった。
「何で貴族学園に来ないんだ?」
「……時間がなくて」
「領地のこと? 君は子どもなんだから、叔父さんに任せればいいのに」
「いつも言うけど、叔父さんだけじゃ執務が回らないのよ」
「ふーん?」
子どものサーシャがいれば回るというのだろうか。
胡乱な目で見ると、サーシャは「……せっかく遠くから来てくれたんだもの、この話題はやめましょうか」と愛想笑いを浮かべる。
この婚約者はいつもそうだった。
自分がこのサルヴェニア子爵領を支えている、といった雰囲気を見せてくる。
今まではまあ、それも彼女の矜持なのだろうと放っていた。
しかし、子どものサーシャにできることなど、手伝いレベルのはずなのに、嫡子であるにも関わらず、それを理由に貴族学園にも通わないだなんて、なんと不真面目なんだろうか。
「……まあいいよ。君の分まで、僕が学んでくるから」
「ありがとう」
「君のためじゃない。未来の僕のためだ。君も遅くなってもいいから、貴族学園に通うこと、考えた方がいいよ」
「……そうね」
悲しそうな笑顔が癪に障って、その日は早めに帰宅したことを覚えている。
こうして、ウィリアムは貴族学園に通い始めた。
ウィリアムは特別クラスには編入できなかったけれども、上級クラスには入ることができた。
周りは伯爵家の嫡子が多く、伯爵家の三男にすぎないウィリアムの矜持を満たすには充分な環境だった。
(長兄と同じ立場に、僕はいるんだ!)
そして何より、見目が良く、そこそこに成績優秀で、『あのサルヴェニア子爵領を将来治める男』という肩書のあるウィリアムは、女子生徒にモテたので、非常に快適な学生生活だった。
ちなみに、ウィリアムは男子生徒にも、最初はよく話しかけられた。特に、特別クラスの生徒が声をかけてくることが多かった。
しかし、彼らはウィリアムと実際に話をした後、何故か落胆して去っていく。ウィリアムは彼らのそんな態度に憤慨したが、自分は田舎の子爵領に引っ込む予定であり男子学生とのコネクションは不要なのだからと、深く考えることをやめた。そして、気の合う数人の友人同士で固まり、男子生徒間の交友関係を広げる努力をすることはなかった。
女子生徒も、特別クラスの生徒は同様に、何だか冷めた目で去っていったけれども、上級クラス以下の生徒はいつでもウィリアムのことをちやほやともてなし、デートを強請ってくる。
『あのサルヴェニアを治めるんでしょう? うちの親も、それは凄いって褒めてたのよ』『ウィリアム様は注目の的なのよ。国王陛下も一目置いているって』『あの子爵領を治める素質があるなら、官僚になっても大成功するはずなのに』と、サルヴェニア子爵領のことでばかりもてはやされるのは若干腹立たしかったけれども、悪い気はしなかった。そう、ウィリアムは何しろ、国王陛下直々にサルヴェニア子爵領を任せるべく、子爵サーシャの婚約者となったのだ。それを皆、認識し、ウィリアムを尊敬していると思うと誇らしかった。
なお、国王アダムシャールは、『サルヴェニア子爵』と『ウェルニクス伯爵家の令息』との婚約を取り付けただけで、ウィリアムを指名した事実はないのだが、そのことをウィリアムは認識していなかった。
こうして、ウィリアムは貴族学園で、奔放に生活していた。
様々な女子生徒とデートをし、浮名を流した。
学園の成績を落とすことはしなかったけれども、サルヴェニア子爵領の統治の現場を見に行くことはせず、何故周囲が『あのサルヴェニア子爵領』と口々に話すのか、その理由を確かめることもせず、ただその栄誉と恩恵だけを享受した。
子爵サーシャとは、半年に一回の帰省の際に会いに行き、年に数回、手紙を出す程度の仲だった。
ウィリアムにとって、貴族学園にいる女子生徒のように見目に気を遣うことのないサーシャとの時間は、なんだか恥ずかしいもののように感じられ、学生生活が充実していたこともあり、サーシャに時間を割くことが億劫に感じていたのだ。
そして、卒業も間近になった冬休み、ウィリアムは将来のことは特に考えず、実家に帰省していた。
「ウィリアム。お前、卒業後はどのタイミングでサルヴェニア子爵領に行くんだ?」
「え?」
「なんだ、まだ何も決めていなかったのか。他の学友たちは、進路について決めている時期だろう? お前は進路は決まっているとはいえ、時期の調整ぐらいはしなさい」
「わ、分かった……」
「なんだか心配だな。お前、この冬休みは、私のところで働いてみるか? サルヴェニア子爵領に入るにしても、他の領地のやり方も知っておいた方が、見識が広まっていいだろう」
「そうだね。うん、そうしようかな」
ウィリアムはこうして、冬休みの間、父の部下の元で、研修生として業務に携わることとなった。
父の部下たちは、ウィリアムのことを褒めちぎった。
資料にタグを張らせ、背表紙を整える作業を依頼し、「おかげで職場環境が良くなりました!」と褒めたたえた。普段は二重確認で済ませるところを、ウィリアムに三回目の確認をさせ、「これで安心です!」と褒めちぎった。簡単なグラフを作らせ、後で官僚達が手直しをしたがそのことは伏せ、「ウィリアム様の作ったグラフで、会議の進行が上手くいったんですよ」と煽てた。関係者との面談に同席させ、自分がそういった事務をしたかのような気持ちになってもらったり、特秘事項のない関係者会議に参加させ、会議の途中でウィリアムに感想を述べてもらい、アイスブレイク役として一役買ってもらい、その結果を褒めたたえた。
ウィリアムに簡単な作業をさせ、良い思い出を残してもらう。それは、官僚達にとったら当然のことだった。当主の息子であるウィリアムに、厳しく辛い業務をさせる訳にはいかない。そうでなくとも、職場体験に来た学生に対して、厳しい作業や責任のある事務をさせることはしない。それは社会人としても、当然のことであった。
けれども、ウィリアムは驕った。
(なんだ。統治の仕事なんて、簡単じゃないか)
学生の時と同じように、書面を整理し、それに加えて会議がある程度。
物事の表面しか捉えないウィリアムにとって、それはさして大変なことのようには思えなかった。
だからますます、その後のサーシャとの面会時、彼女の態度にいら立ってしまったのだ。
――それは、手伝い、だからでは?
自分は学生になることすらしなかったくせに、ウィリアムのことを、学生で世間知らずのように扱うサーシャに、無性に腹が立った。
何より、サーシャはいつだって、ウィリアムの話すことを新鮮なものとして捉え、尊敬する目を向けていたはずだ。
なのに、仕事の話になり、急に呆れたような雰囲気を出してきたことが許せなかった。
要するに、ウィリアムはサーシャのことを見下していたのである。
だから、反省させる意味も込めて、ウィリアムはその日、元々短く切り上げる予定だった面会時間を五分と経たないうちに終わらせ、実家に戻ってきてしまった。
(……少し、言い過ぎたかな? あと三カ月後には、僕は子爵領に住み始めるのに)
婿入りが迫っているというのに、肝心の未来の妻と喧嘩してしまった。
ウィリアムは、サーシャとの夫婦関係には期待しておらず、適当にいい夫のふりをしながら、今までどおりサーシャには分からないよう、外で遊べばいいと考えていた。とはいえ、家に帰るのが億劫になるような険悪な夫婦関係にすることは望んでいなかったのである。
(まあ、後で手紙でも送っておけば、機嫌も直るだろう。あ、しまった。三ヶ月後のいつ、子爵領に住み始めるのか、サイラスおじさんと話をするの、忘れてたなあ)
やるべきことをすっかり忘れていたウィリアムは、舌打ちする。
サイラスとの今後の打ち合わせは、サーシャとの面会なんかよりも、ずっと大切なことだったのに……。
(サイラスおじさんにも、手紙を送るか? もう学園に帰らないといけないし、往復している時間がなあ)
そんなふうに気楽に考えていたところで、事件が起きたのだ。
サーシャ=サルヴェニア子爵の失踪である。




