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公爵はギリッと奥歯を噛み締めて思い出す。
父が早逝し、公爵家の当主となり始めて知った積もりに積もった多額の借金の存在。そして借金の存在を信頼していた令嬢に打ち明けた時、向けられた侮蔑の籠った視線と嘲笑を含んだ言葉の数々。何年経とうが絶対に忘れられぬ屈辱の記憶を思い出した公爵は露骨に顔を歪ませて手に持っていた手紙を執務机の上に叩き付けるように置くと乱雑に前髪を掻き上げた。
「チッ……あの女のせいで嫌な事を思い出してしまったではないか……おい、そこのお前。いつものアレを淹れてこい。今すぐにだ」
「え?いつものアレ……でございますか?」
「ああ、そうだ。あの吐きそうなくらい不味いハーブティーだ。あれを淹れてこい。あれを飲めばあまりの不味さにこの胸のムカつきも消えるだろう」
「し、しかしあれは……」
「なんだ?いいからつべこべ言わずに早く淹れてこい。それとも今すぐクビにされたいのか?」
「は、はいっ!た、只今お持ちします!」
苛立ちを隠そうともしない公爵の指示を受けて執務室にいたメイドの一人が慌てて頭を下げてから逃げる様に部屋から出ていく。それを見送ったあと、公爵は深く息を吸い込んだ。しかしどれだけ深呼吸を繰り返しても胸の奥底から込み上げてくる不快感は全く消えず、むしろ時間が経過するにつれて増していく一方だった。
(クソッ、忌々しい……!!)
公爵は心の中で盛大に悪態をつき、自分の手元にあった大量の手紙をグシャリと乱雑に掴んだ。そのとき。ふいに廊下の方からドタドタと騒々しい足音と「待って下さい!」「お待ち下さい!」と何かを引き止める使用人達の声が響いてきた。
「チッ、一体何だ?騒々しい……」
野良猫か野良犬か何かが屋敷の中に迷い込んだのかと思った公爵は心底面倒臭そうに立ち上がり、一言文句を言ってやろうと執務室の扉に近付いた。瞬間。突然、勢い良く扉が開け放たれて
「エリオット!会いたかったわ!」
という聞き覚えのある声と共にドンと身体に強い衝撃が走った。その衝撃で思わずよろめきそうになるが、何とか踏ん張り倒れずに済んだ公爵は、突然の事に驚きながら己の体にしがみついている人物を見下ろし……そして、大きく目を見開いた。
「なっ!?……お、お前はエレーナ!?」
そこに居たのは、自分の求婚を「借金がある家には嫁ぎたくない」と言って断り、早々に隣国の大貴族の元へと嫁いでいったはずの伯爵令嬢エレーナだった。もう二度と会うことはないだろうと思っていた彼女の姿に公爵は腕を振り払うことも忘れて彼女をジッと凝視してしまう。と、そんな公爵に気付いたエレーナは公爵の体からパッと手を離して気恥ずかしそうに笑った。
「あら、ごめんなさい。私ったらいきなり抱きついちゃって……でも、本当に久しぶりねエリオット!元気にしていたかしら?」
まるで本当に久しぶりに会った友人のように気安く話しかけてくるエレーナに公爵は「なんだこいつ…私の求婚を断ったことを忘れているのか?」と内心苛立ちを覚える。しかし、苛立ちをぶつける前に何故隣国に嫁いだエレーナが公爵家にいるのか、問わなければならないと思った公爵はエレーナが触れた場所をわざとらしくパンパンと手で払いながら鼻を鳴らした。
「フン、お陰様でな。そんなことより隣国の大貴族に嫁いだお前がなぜここにいる?まさか隣国の大貴族と結婚して幸せになった姿を私に見せつけにきたのか?ハッ、だったら余計なお世話だ。早く私の前から消え失せろ。」
公爵の辛辣な物言いにエレーナは一瞬きょとんとした表情を浮かべるが、すぐにクスリと笑って首を横に振った。
「いいえ、違うわ。私がここにきた理由は……いいえ。貴方の元に戻ってきた理由は……エリオット。貴方と結婚するためよ。」
「……は?」
予想外の返事に公爵は惚けた顔をする。しかし、そんな公爵を気にも留めずエレーナは公爵の手をぎゅっと両手で優しく握り締めて微笑んだ。
「ねえ、エリオット。私、貴方と離れてから気が付いたの。私の運命はあんな下賤な娼婦に入れ込んでいる男じゃなくて……不器用だけどいつでも私のことを気遣って優しくしてくれた貴方なんだって……」
そう言って熱っぽい視線を自分に向けてくるエレーナに公爵は頬を引き攣らせる。
(このクソ女は何を言っているんだ……?)
自分の求婚を断っておいていまさら結婚したいと曰う、あまりにも自分勝手なエレーナの物言いに公爵は怒りを通り越して呆れてしまう。そして、相手にするのも馬鹿らしいと思った公爵は使用人を呼んでエレーナをつまみ出そうと口を開いたと同時にエレーナは衝撃的な一言を落とした。
「それに貴方の妻になった子爵家の女……ダリア家の貴公子と再婚するんでしょう?」