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砂場に埋めたイチゴ

作者: 相浦アキラ

 心地よい疲れとまどろみの中で僕は目を閉じていた。

 素肌にのしかかる羽根布団の重たさと、握り合った手の柔らかさだけが、ぼんやりと意識に浮かんでいた。

 彼女の手は優しく、断続的に僕の手をそっと締め付けて来る。脈打つように。労わっているつもりなのかただの暇つぶしなのかは分からなかったが、ともかく心地よかった。そして僕は目を開く。

 彼女……「マキ」が茶褐色の瞳で僕をじっと見ていた。バスローブがはだけて胸が見えそうだった。彼女は無表情のまま、ずっと僕を見ていた。肉感のある唇を開いた。


「結構好みの顔かも」


 ゆっくりとした、湿った声に嬉しさが広がって行く。その嬉しさが僕は堪らなく怖かった。


「止めてくれよ。お世辞は」


「じゃあやめとく」


「そうしてくれ」


 彼女とは金の関係だった。カジュアル系マッチングアプリでメッセージを交わし、ホ別(ホテル代別)イチゴ(1万5千)で交渉が成立した。

 それだけの関係に過ぎなかった。

 そういう後ろめたさもあって、僕は彼女を体よく使った事への言い訳するように、彼女の手を握り続けていた。


「ねぇ」


 呼び掛けられて、また目を開いた。

 もう頭は冴えわたっていた。


「なに」


「何で私を買ったの?」


「そんな言い方ないだろ」


「じゃあ何て言えばいい? こういえばいいの? あなたが性的なサービスを購入したのはどうしてですかー?」


 僕は唇を噛んでいた。


「……駄目なんだよ。お金払わないと」


「なんで?」


「多分、怖いんだ。僕は気が小さいから」


「付き合ってた事はあるの?」


「一応ある。ホテルまで行った事も何回かあるけど……駄目だった。そのまま自然消滅だよ。お金を払ったら全く問題ないんだけどね」


「だったら、普通の風俗の方が良くない? マッチングアプリだと業者とかもいるし、美人局とかもあるかもよ」


「そういう恐れもあったけど……マッチングアプリの方が、風俗より素人度合が強いと思ってね」


 何を言っているんだろう。僕は。

 最低の事を言っている気がする。なんとか会話の方向性を変えたかったが、「マキ」は留まる事を知らなかった。


「素人ねえ。まあ言われてみれば私もプロ意識とか全然無いけど。そんなに素人がいいの?」


「練習も兼ねてるんだ。このままじゃ、恋愛も結婚もできないから」


「結婚したいの?」


「別にしたいって訳じゃないけど、『しない』のと『したくても出来ない』は違うからな」


「ふーん」


 僕は自分の言葉の一字一句の白々しさにいい加減うんざりしつつあった。自分が途方もないクズに思えて来た。早く一人になりたかった。僕は投げやりになっていた。


「それで、君は?」


「私?」


「君はどうしてマッチングアプリで割り切りなんかやっているんだ?」


「……教えてあげない」


 息を吐いて、布団をかぶり直した。

 まだ手は繋がっていた。

 目が合った。手を強く握られた。


「あー、今セロトニン出てる感じがする」


「セロトニン?」


 彼女は無表情のまま平然としていた。


「幸福ホルモンの一種だよ。要するに脳内麻薬」


「嫌な言い方をするね」


 ちょっとだけ嬉しいと思ってしまった自分が一番嫌になった。

 僕は手を離した。


「お兄さんは、なんで素人じゃ駄目なんだろうね?」


「……僕は女性に無条件の愛を求めてしまっているのかも知れない」


 彼女は初めて笑った。馬鹿にしたような鼻笑いだった。


「変なの。お金払ってるなら無条件の愛じゃないじゃん」


「先にお金を払ってしまえば、後は無条件だよ」


「意味わかんない」


「僕にも分からない」


 また微笑んだ「マキ」を眺めながら、ふと思い出した。


「そういや支払いがまだだったね」


「終わってからでいいって言ったじゃん」


「いや、やっぱり今払うよ」


「今眠いからちょっと待って。お風呂でも入っとけば?」


「そうだね」


 よろめき立ち、風呂に向かった。

 お湯は少し冷めていた。

 心地よい憂鬱に浸りながら、僕はゆっくりと湯船に浮かんでいた。


「……何やってんだろうな。僕は」


 こんな事をしていても、どうにもならないのは分かっている。

 プロでないと役に立たないのを本気でどうにかしたいなら、泌尿器科に行くなりしてちゃんと治療した方がいいんだろう。

 でも、どうしてもその気が出なかった。

 本当は治したくないのかもしれない。

 怖いんだ。人を愛するのが。愛されるのが。

 そもそも愛が何なのかもよくわからない。


 ……彼女。「マキ」はどうなんだろう。

 彼女は一体どういう女なんだろう。

 セックス依存症とかだろうか。

 いや、何を考えてるんだ僕は。


「最低だな」


 そうだ。僕の最低っぷりと言ったら、枚挙にいとまが無い。

 たった1万五千円で、僕の問題は解決してしまう。

 たった1万五千円で、人を傷付けていいと思い込んでしまえる。愛されていると思い込んでしまえる。そうやって、人に値札を付けて、自分も値札を付ける道具になって、何もかも冒涜しているんだ。

 そうだ……冒涜だ。僕は冒涜をやっている。それも図り知れない程の冒涜を僕はやっている。僕のやって来た冒涜をいくら上げていっても、冒涜の可能性の全てを考慮に入れることは出来ないだろう。気付いていないだけで、僕はもっと悍ましい冒涜のぬるま湯に浸り続けているのだ。


 こんな事はもう止めるべきだ。

 分かってはいるけど、でもどうしてもやめられない。

 それこそセロトニンだかの脳内麻薬のせいだろうか。

 セックスをしたら満たされる感覚があって、暫くはまともに生きられる。でも一か月もすると憂鬱になって、何もかもが嫌になる。だから止められない。

 それこそセックス依存症じゃないか。


「嫌だな……もう何もかも」


 熱いお湯を出して、のぼせる寸前まで浸かった。

 適当に体を拭いてバスローブを羽織った。

 早くお金を払って一人になりたかった。


「……あれ?」


 彼女の姿が……「マキ」の姿がどこにも無かった。

 ベッドの上にも、下にも、トイレにも無かった。


「おい! どこだ!?」


 窓が開いている事に気付いた。

 もしかして、窓から逃げたのだろうか?

 見下ろしてみると一階部分には室外機があり、そこを足掛かりにすれば十分に脱出できそうだった。

 僕はソファに倒れ込んでいた。

 机の上にはメモ帳の切れ端が転がっていた。


『さようなら お金はいりません』


 焦燥と恍惚に、可愛らしい丸文字が歪んでいった。


 ベッドにうつ伏せに倒れながら、「マキ」と交わした全ての行為の意味が変わっていくのを僕は思い知っていた。それは金の関係では無く、もっと別な得体の知れない何かだった。

 もしかして僕は愛されてしまったのかもしれない。もしそうだとしたら、僕は僕で無くなってしまった。

 僕は殺されたんだ。僕は、「マキ」に殺された。


 僕は窓の夜に向かっていた。

 憎悪に塗れた恍惚が頭に渦巻いていた。

 生ぬるい風を吐き出す室外機に飛び降りた。コンクリートの駐車場に降り立った。

 素足が痛かったが、とにかく走った。走らなければなからなかった。


「マキ! どこだ!? 返事しろ!」


 外はもう夜だった。

 街灯とホテル街の灯だけが光っていた。

 ドーパミンだか何だかのせいだろうか。また耐え難い幸福と焦燥が脳内に溢れて来る。

 取りつかれたように僕は走り続けた。


 バスローブ一丁の姿を誰かに通報されたら、逮捕されるかも知れない。

 そもそも闇雲に走ってマキが見つかる筈が無い。

 ホテルの人に逃げ出した事がバレたら、言い訳は効くだろうか。『金で買った女が金を受け取らずに逃げたので、追いかけました』なんてふざけた事実を言って、納得してくれるだろうか。ああ、普通に着替えてホテル代を払ってから追いかければよかったのに! どうせ僕は追いつけないんだ!


 そういった類の理性の罵りは小さな声に過ぎなかった。僕を支配していたのは、彼女を追いかけて、イチゴ(1万5千)を渡したいという、どこからともなく湧き上がって来る衝動だけだった。

 僕はただただ走り続けた。息が切れたら少し歩いて、また走り出した。


 ◇


 小さな公園のベンチに僕は座っていた。

 結局彼女は見つからなかった。

 実をいうと、僕は期待してもいた。彼女は陰で僕を監視していて、突然現れて、そこから何かが始まるのではないかと。だが、三十分近く待ってもなにも無かった。

 ……「マキ」は何故お金を受け取らず逃げ出したんだろう。

 もしかしたら、彼女にも何かの葛藤があったのかも知れない。僕と同じように何もかも嫌になって逃げだしたのかもしれない。まあ、ただ僕の事をからかいたかっただけかも知れないが。

 大きく息を吐いて、吸い込んだ。

 冷たい夜の空気で肺が膨らんで、恍惚の余波がじんわり広がって行く。


「最悪だ」


 僕は立ち上がって砂場に向かった。握りしめた皮財布を開いた。砂場にイチゴ(1万5千)を横たえて、埋葬するようにそっと砂を掛けた。

 清々しさに不愉快な幸福が少しだけ薄らいで、僕は少しだけ救われた気がした。救われた気がした事に自己嫌悪はあったが、とにかく救われた気がした。


 そして僕はホテルに向かって逃げるように駆け出した。

 砂に埋められたイチゴを想いながら、全てに言い訳するように走り続けた。

 


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