夏目剛信の昔語り
振袖新造の朧と押し問答を続けるうちに、夜は明けた。その翌日、遊馬隆正は江戸市中に戻るととある碁会所を訪ねた。上役の臨時廻り同心、夏目剛信が、非番の日によく詰めている場所だと知っていたからだ。
案の定、夏目はどこぞの隠居と碁盤を囲んで呻吟しているところだった。旗色の悪い局を流す理由が欲しかったのだろうか、隆正の影を認めるなり、夏目は嬉しそうに破顔した。
「吉原帰りで寝不足顔か。とんだ色男だな」
あるいは、若輩者を揶揄うのが楽しいのかもしれなかったが。夏目の対局相手まで、尻馬に乗った含み笑いを向けてくる。
「おや、お若い旦那はお持てになるんですねえ。羨ましいことで」
「そういうことではない。――夏目殿、お時間をいただけますか」
年配の者たちの好奇と冷やかしの目に居心地の悪さを感じつつ、隆正は夏目に乞うた。同時に、対局相手の隠居にも目配せをして、席を外すようにと伝える。夏目が碁会所に入り浸るのは、単に遊興のためだけではなく、町民の噂や訴えに目と耳を配るためだ。職人町が集まる一角のこと、日本橋辺りとはまた違った賑わいを見せるこの界隈だからこそ、自然と諸々の消息が集まるものだそうだ。
「では、手前は失礼した方がよろしいようですねえ」
そうした事情を承知しているであろう隠居も心得た顔で、すぐに別の客の元へと腰を上げる。そうして隆正は、衝立で仕切られた一角で、夏目とふたりきりになることができた。
* * *
夏目が隆正に吉原行きを勧めたのは、つい昨日のことだった。彼の馬鹿正直な気性からして、すぐに勧めに従うことも、その報告のために現れることも予想の裡だったのだろう。夏目は前置きもそこそこに本題に踏み込んだ。
「薄雲に会ったんだな」
「はい」
「どうだった」
「は、それが――」
齢五十にして、夏目剛信の髪はほぼ白くなっている。日に灼けて色が褪せたゆえでもあるのだろう。黒く灼け、かつ深く皺が刻まれた頬や額と併せて、長年市中を廻り、江戸の町の平穏を守ってきた証だ。経験でも功績でも、遥かに仰ぎ見る先達と差し向いになれば、隆正の背筋は自然と伸びる。問われたことに、是か否かではっきりと答えることができないからなお更だ。
「どうにも――会ったことのない類の女性にて……ひどく頭が切れるのは、よく分かりましたが」
「煮え切らない態度だな。賢しい女は気に入らないか?」
石を除けた碁盤の向かいで、夏目は煙管を吹かせながら笑った。いぶし銀の雁首に、黒く塗った竹製の羅宇。持ち主の気性そのままの実直な誂えは、昨夜見た薄雲の、螺鈿細工のものとはまるで違う。けれどその武骨さこそが、吉原の華美に目が眩んだままのような心地の隆正を安堵させた。
「そのようなことはございません」
だから、己の心を見つめ直し、戸惑いを言葉にする余裕もできる。そうだ、最初、薄雲の整いすぎた微笑みに反発を覚えたのは事実。しかし、それがどうやら不当な感情であることに、隆正は既に気付いている。ならば、次の行動に移る前に、薄雲花魁という女への想いを今少し定めておきたい。信二の身が案じられるのはもちろんのことではあるのだが、もやもやとしたものを抱えたまま動いても良い結果になるとは思えなかった。
そうと決めてこの場に来たとはいえ、二回り以上年上の相手に、吉原の遊女との仲を尋ねるのは大層気が引けることではあったが。
「ただ――夏目殿にあのような知己がいるのが意外で。これまでにも、あの者の……助言が役立ったことがあるのでしょうか」
「そうだな。なんだ、見損なったか?」
「まさか!」
夏目があっさりと頷いたことに、そして心にもないことを問われて隆正は目を剥いた。彼が不思議なのは薄雲という女の思惑だけ、決して同心としての夏目の腕を疑うつもりなどなかったのだ。夏目の手柄は、ぱっと頭に浮かぶだけでも片手の指では足りない。そのいずれにおいても、現場での指揮ぶり、被疑者の取り押さえ方、説き伏せ方、どこをとってもこの男でなければと思わせる働きぶりだったと聞いている。事件を解き明かし、下手人を挙げる過程で幾らか手助けした者がいたとして、その功績が褪せることなどあり得ない。
(そうか、そういうことなのだな……)
次の言葉を探しながら、隆正は心が少し軽くなるのを感じていた。夏目には遠く及ばない若輩だとしても、実際に事件に当たるのは彼なのだ。確かめるのが彼の務め、と。薄雲が述べた通りだった。あの女の言葉を容れるも撥ねつけるも彼次第。何かしらの悪事があったとして、それを暴くのも、悪人を捕えるのも。結果として悪が裁かれ、罪のない者が笑えるようになるとしたら、それで良いのではないだろうか。
此度の件については、それで良い。そうすると薄雲のことがより気になってくる。同心に手柄を上げさせておいて、その代金が話を聞くだけではいかにも割に合わないではないか。
「その、あの女は身揚げしてまで同心と話をしたがるのだとか。物見高さゆえに年季明けを自ら遠ざけるなどとは不可解なこと。一方で、義侠心ばかりが理由とも見えず――」
「おや、薄雲がそんなことを明かしたか? 恩着せがましく酒を不味くするようなことを言う女ではないはずだが」
煙管を口から離して小首を傾げる夏目に対して、隆正は腹の奥が熱くなるのを感じた。昨夜飲んだ酒の熱が、今蘇ったかのよう。実のところ、彼の裡を燃やすのは己の不明を恥じる想いに他ならないのだが。
昨夜、薄雲の座敷で何をどれだけ飲み食いしたか、正直に言って隆正はあまり覚えていない。最初に干した杯は、良い酒だな、と思った記憶はあるが。話の合間に台の物を摘まむように勧められても、栄屋の温もりのある手料理に比べれば贅を凝らした皿などくだらない、と大して味わいもせずに咀嚼してしまった。身揚げの仕組みを聞いた後では、朧に見下げ果てられるのも当然の心ない態度であったと思い知っている。
「……薄雲が他の馴染みの座敷に抜けた後のことです。朧とかいう振袖新造に、姉花魁への礼節が足りぬと詰られました」
「ああ、そうか……」
隆正の声から勢いが消えたのを聞き取って、大方の事情を察したのだろう。夏目は軽く頷くと煙管の煙草を詰め替え始めた。恐らく、夏目も朧を見知っているのだろうから、何があったを想像するのも容易いはずだ。燃えた煙草を捨て、新しいのを詰めながら、老いた同心は後輩にかける言葉を探しているようにも見えた。
「姉花魁は、妹分の衣装代やらお披露目の際のもろもろの掛かりを全部被るものだ。大恩あると思えばこそ、妹分も忠義立てして言葉も思い入れも強くなる。まあ、許してやってくれ」
「子供の申すことに目くじら立てはいたしません。当然のことでもありますし」
言われるまでもないことであったから、隆正はただ粛々と頷いた。そして同時に、夏目が意外と廓の倣いに詳しいことに気付く。
「ですが、夏目殿はどうしてまた……?」
好んで廓遊びをするような者であれば、分かる。あるいは、役人の立場を笠に、接待されるのを良しとするような者であれば。だが、隆正の知る夏目剛信という男は、それらのいずれからもほど遠い。なのに、薄雲の座敷に度々通っていたのだとしたら、この男にはそぐわないような気も、今さらながらにしてくる。
「薄雲と最初に会ったのも、あいつの姉花魁が関わる騒動で、だったな――」
紫煙をふかしながら、夏目はどこか遠いものを眺める目つきをして、呟いた。若い隆正にはまだ馴染みがないが、遥かな時の彼方を見る時の目だ。迂遠な言い回しながら、彼の疑問に答えてくれるのだろうと分かった。薄雲と夏目が出会った騒動――それを知れば、昨夜から彼を惑わせる謎の幾らかでも、解けるのだろうか。