行き交う人影
猪之助の使いだという男は、汲んだ水を丼で飲み干した。手ごろな湯呑が割れてしまっていたからだが、よくよく急いで駆けつけたらしい様子から、それくらいの方がちょうど良かっただろう。
「若旦那の言ってた通りでしたよ。あの青海屋って店、絶対に何かやってますね」
鈴の握り飯を呑み込みながら、男は興奮した様子で隆正に訴えた。冷や飯で申し訳ないけれど、と言いながら、鈴が立ち回りをどうにか生き延びた食材で握ってくれたものだ。
明日の商いもままならないであろう状況での気遣いに感謝し、かつ栄屋に面倒をかけ続けていることに申し訳なさを覚えながら、隆正は男に男に質した。
「あちらで何か起きたのか?」
「はい。親分が何人か連れて行っていて良かった」
ひとしきり飲み食いして落ち着いたのか、男は居住まいを正し、割れ物の破片を掃き清めた一角に膝を突くと隆正を見上げた。
男が語った青海屋の様子は次のようなものだった。
栄屋よりも構えの大きな青海屋だから、猪之助も初めからそれなりの人数を用意して見張りに臨んでいた。人の出入りを見る以上は、表だけでなく裏口にも目を置かなければならないからだ。
「まずは、人の入りの方ですよ。辺りが暗くなったばかりって頃に、闇に紛れるみたいにしてやって来た奴がいました」
それは、いかにも大店の隠居といった風の、身なりの良い年配の男だったという。それだけならば上客が商談に訪れたとか、青海屋の私的な客人ということも考えられるが、使いの男はその推測にきっぱりと首を振った。
「どうも、戸口のところで押し問答していたようだったんですよ。青海屋の方が困っているような様子でした。でも、結局はその爺が強引に上がり込んだ、って感じに見えました」
「ふむ……」
青海屋が何かすることは考えていても、青海屋へ他の者が現れることまでは想定していなかった。その老人も悪事に加担しているのか否か判じかねて隆正は唸る。だが、男の話はまだまだ続くようだった。
「中に入られちまえばどうしようもできないですからね、出てきたら後をつけようと思って待ってたら、次はこそこそと急いだ風で出ていく奴がいましてね……。身なりと年頃からして、番頭とか、それなりの立場だと思うんですが」
「そちらの男はどこへ向かったのだ?」
「もちろん、そっちはちゃんとつけてまして。とある旗本のお屋敷に入ったところまでは追いましたが、俺が出た時はまだ動きはなかったそうです」
「では、猪之助がお前を使わしたのは――」
「へえ、次が本題でして」
青海屋の客人が動いたのか、あるいは、また違った進展があったのか。隆正が急かすと、相手は何を思い出したのか顔を顰めた。その渋面の理由は、続けて語られたことですぐに分かる。
「また青海屋から出てきた奴がいたんですよ。今度は丁稚かな、十を幾つか過ぎたかどうか、ってガキがふたりでした」
「子供だけか? 仕打ちに耐えかねて逃げたか――夜遊びという歳でもないな。腹が減って食い物を探しに、とか?」
「いえ、どうも何か言い含められて締め出された、って感じで。可哀想に、しばらく門の前で入れてくれって頼んでるようだったんですが」
「しかし、入れてもらえなかったのだな。子供相手に哀れなことを……!」
青海屋への非難を込めて隆正が呟くと、男も大きく頷いた。寒い季節ではないとはいえ、丁稚というからには男児だろうとはいえ、人攫いや乱暴者と出くわす恐れもあるだろうに。親から預かった奉公人に対して感心できる扱いではない。
「ええ、だから親分も見張りというよりは心配で後をつけろって。行ったのは俺と、もうひとりで。もしかしたらとっ捕まえることになるかもしれませんからね。
で、そのガキどもは、歩き出したら迷う様子もなくて、真っ直ぐどこかを目指しているようでした」
暗い中を外に出されて、その子らは不安も恐怖もあったのだろう。後をつけられているのにも気付かず、彼らは早足で夜道を進んでいったという。その足取りは確かで、はっきりとした意志で目的地を目指しているようだったという。だから、何かしらの罰で店を追い出された、ということでもないようだったそうだ。そして彼らが辿り着いたのは――
「稲荷神社……?」
「青海屋からそう離れていない、小さいお社でした。それでも茂った木やらで夜は真っ暗ですよ。ガキどもも震えてたようで……抱き合うみたいな感じでしたね」
それでも子供たちは前に進んだ。そして後を追う尾行者たちの目の前で賽銭箱に手を伸ばしたところで取り押さえられたという。
「何だい、賽銭泥棒をさせてたのかい? 罰当たりな店だなあ!」
「喜平、それはさすがに違うだろう」
横で聞いていた喜平が素っ頓狂な声を上げ、隆正を苦笑させた。この男は既に青海屋への敵愾心で凝り固まっているかのようだ。だが、さすがに賽銭程度の小金のために悪事を働くということはないだろう。
「……その子らは今どうしている? 何か聞き出すことはできたのか? ……賽銭箱には、何があったのだ?」
だから、丁稚たちが稲荷神社に向かわされたのは、別の目的があってのことと見るべきだ。――例えば、何かがそこに隠されていた、とか。寂れた神社を取引場所にしておいて、相手と会わず、子供の遊びを装って回収させる手はずだった、というのもありそうだった。先ほど本題、と言った以上、猪之助を慌てさせる何かがあったはずなのだ。
隆正の視線を受けて使いの男は小さく頷き、手で四角い形を描いた。
「普通にお参りしたんじゃ見えねえところに、これくらいの木箱が、布に包まれて隠れてました。中身はいかにも高そうな茶器で――それだけでも怪しいんですが」
男はそこで声を切り、一層真剣な面持ちになった。一瞬隆正から視線を外したのは、掃除に精を出しながら、ときおりちらちらとこちらの様子を窺う鈴を見たらしい。
(鈴に聞かれたくないことなのか……?)
不安と期待が入り混じり、隆正は自身の肩に力が入るのを感じた。使いの男もぐいと身を乗り出して口を隆正の耳に寄せ、低く抑えた声で、囁く。
「捕まえたガキどもは、最寄りの自身番に連れて行きました。親分にも来てもらって、なんであんなとこにいたのか問い詰めたんですよ。店に何か言われてたんだろって。親分のことだから、そう大声で怒鳴りつけるって訳でもなかったんですが、最初は怯えて黙りこくってたんですが、親分は――」
「詳細は後でで良い。猪之助はなぜお前を遣わしたのだ?」
青海屋の様子を細かに伝えてくれるのは良いが、本題と言った癖に、それに意味ありげな物言いをした癖に男の報告には余計な情報が多すぎる。目の端で鈴が不思議そうな顔をしているのも気がかりだった。ただでさえ心労がかかっているところだろうに、余計なことを聞かせることになってはしまわないか、と。
小声で叱り促すと、男は申し訳ありませんでした、恐縮した体で頭を下げた。そして、今度こそ隆正が求めたことを端的に告げる。
「ガキのひとりが吐いたんですよ。これを持って行けば信二兄ちゃんを出してもらえると言われたってね。――そもそもお探しの奉公人、信二って名前でしたよねえ?」
「…………っ!」
口を衝きそうになった驚きの声を、隆正は奥歯を噛み締めて呑み込んだ。猪之助が慌てて使いを出したのも納得だった。丁稚の告白は、信二が青海屋に捕らえられていると言っているのとほぼ同義だったのだ。




